寺あたり

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 ある晩秋に、仕事で寺巡りをすることになった。
「あなたこういうの好きでしょう、ふふふお任せしましたよ」とクライアントから言われたので喜んで引き受けたのだが、当時は1日に48 時間働いても足りないほど超多忙、引き受けたはいいけれどさていったいどうやって取材の時間を捻出すればいいのかと頭を抱えた。
 行き先をリストアップすると20 件あまりある。これ普通にちまちま回ってたら他の仕事に支障来すじゃん、ええい2日で何とかしてやれと腹をくくって1日10 件回ることにした。いまから思えばあんたそら無謀だろうと肩を揺すりたくなる無茶ぶりだが、当時はそれが当たり前、あの頃は自分を取り巻く時間のスピードが今の10倍速だった。 

 気力さえあれば身体は何とかついてくる。早朝から暗くなるまで有名無名の寺を気合いで巡り、坊さんの話をふんふんああそうですか、で結局神さま仏さまというのはいったいどのようなものでどこにおわしますのでしょうと尋ねるが、結局どこへ行っても回答は得られない。やはり形のないものは群盲象を評すで最終的には自分の感性でとらえ自分の脳内で像を結ぶしかないのだとそのときわかった。

 勢いに任せて1日目終了、帰宅後入浴中にこっくりこっくり湯船に顔を浸しては起き浸しては起き、いかん自分は水飲み鳥かとあわてて風呂場を飛び出しそのまま布団の上にバタンと倒れて爆睡した。

 2日目早朝、眠いよつらいよと駄々こねる身体を引きずりながら布団を離れ、前日と同じように寺から寺へとさまよい歩く。
 夕刻、バツ印で真っ黒になったスケジュール表をながめながらやればできるじゃん、じゃあ次はこのお寺だねと顔を上げると周辺に何となく白いもやが立ち込めている。あれ? 今の今まですっきり晴れてたはずなんだけどと首をひねりつつ広い境内に足を踏み入れ、恐山を思わせる人気のない丘をひとめぐり。あちこちに立つお地蔵さんの顔がやけに生々しいのは気のせいか。
 ふもとに降り、真っ黒い池のふちをたどって寺を目指す。家屋を兼ねた古い寺務所(じむしょ)の引き戸をがらりと開け、「あのう失礼します」と声をかけるとしばらくしてから「はあい」と小さな声がして、玄関からまっすぐ伸びた薄暗い廊下の奥から小柄な初老の女性が出てきた。
 いわゆる腺病質というのか、とてもやせている。全身から力が抜けたような、やる気のない感じ。この人、体調があまりよくないのかなと案じつつ「先日お電話差し上げた者ですが」と訪れた旨を話すと、「住職を呼んできますので少しお待ちください」と言い置いて再び廊下の奥に引っ込んだ。
 しーん。
 玄関から見て左側には廊下が、右側には階段がある。階段の途中に広めの踊り場があり、その上部に四角いガラス窓がはまっていて、そこから西日がぼんやり射している。薄暗い踊り場に黄色い光が細長く差し込み、光の筋と筋の間をほこりが静かに浮遊している。
 ただそれだけの風景が、こわくてこわくてたまらなかった。踊り場から誰かにじっと見られているような気がしたのである。何がいるのだろうと目を凝らしても、逆光でよく見えない。しかし気配だけは強く感じられる。
 いやだなああそこ絶対に何かいる、うっかりあの階段上っちゃったらどんなこわい目に遭うんだろう、どうして家族の人は平気なのかなとドキドキしていると「お待たせしました」と住職の声がした。
 背後に視線を感じつつ、階段と反対側の廊下を住職の後について本堂へ向かう。
 寺の由来を丁寧に語ってくれる住職はとても和やかな人で、なぜそういう人がそんなこわい家に住んでいるのか最後までわからなかった。

 2日目の取材も無事に終わり、やれやれと家に戻って資料を整理し始めたときのことである。何気なく腕をまくると、見慣れぬ赤い斑点が腕の内側一面に広がっていた。念のため反対側もまくるとまったく同じ。
 あれっ何このまだら模様、蛇女みたい、何か悪いものでも食べたっけ? とその日に食べたものを思い出してあれこれ推察するが胃も腸も別に何ともない、あ、そういえば頭痛がする、さては風邪でも引いたかねと熱を測ると38 度近くあった。しかし寒けものどの痛みもまったくない、にしてもこの気味の悪い斑点は何だと胸に手を当てて考えるうち、これは食あたりならぬ寺あたりであると気がついた。無防備に2日間で20カ所も回ったので、おみやげを持たされたのだと。
 いったいどこの寺でもらってきたのか、そういえばあの寺は薄暗くてじめっとしてヤバかった、いやあの寺も気味が悪かったぞ、あの寺では変な木に触っちゃったしなあなどと煩悶するが、結局原因は特定できなかった。
 ああどうしようこれどこから見ても奇病じゃん、自分はこのままやがて蛇かカエルに変態するのかと本気で不安になった。
 あっそういえば! とあわててカバンをひっくり返す。
 あった。仏さまの御影シート。
 親指の爪くらいの仏さまがずらりと印刷された切手シートのような紙を手に取り、あわてて1個切り離してコップ1杯の水でゴクンと飲み干した。ついでに「山伏も愛用!」と銘打たれた真っ黒い丸薬も取り出し、「胃もたれに」と書いてあったが寺あたりにも効くだろうと勝手に思い込んで数粒飲み込んだ。御影シートも丸薬も取材先で興味本位に買い求めたものだが、まさか本当に出番が来るとは思わなかった。
 翌朝、おそるおそる腕を見ると斑点がきれいに消えていた。
 ホッ。
 というわけで私は未だに人間をやっている。

 あのね、「パワースポット」と称されるところにむやみやたらに行かないほうがいいですよ、巣窟になってる可能性ありますから。昔の人はいいこと言いました、「仏ほっとけ、神かまうな」ってね。

2011.10.24

人はなぜパワースポットに行くのか

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 神社仏閣やパワースポット(聖地)をめぐることがちょっとしたブームになっているようだが、これは日本に限ったことではなく、かつ今に始まったことでもなく、ずっと昔からあらゆる場所で連綿と続いている行為だろう。
 なぜなら人生に行きづまったときや不安なとき、心配事があるとき、人間はより大きな存在にすがりつきたくなるからだ。
「神さま、助けてください」
「正しい道をお示しください」
「どうか力をお貸しください」
 そうやって神さまの前で真摯に祈れば、願いはきっと聞き届けられると私たちは信じている。
 では、実際はどうなのか。
 神さまに祈ったすべてのことが叶えられたら、世の中はぐじゃぐじゃになってしまう。たとえば同じ男性を好きなA子さんとB子さんがそれぞれ「神さま、どうかあの人が私のものになりますように」と祈り、それが叶えられてしまったらどうなるか。相手の男性は身が持たないであろう。
 だから、世の中には「叶えられる願いごと」と「叶えられない願いごと」が存在する。「叶えられない願いごと」とは、次のようなものではないか。
◆それが叶うと明らかに本人にとっても周囲にとってもプラスにならないこと(「Xさんが妻子と別れて私のものになりますように」「憎いZさんがひどい目に遭いますように」など。祈っている当の本人にはそれがまっとうな望みでないことを認識できていないことが多い)
◆本人の資質と実力をはるかに超えた高望み(「明日目がさめたらロックスターになっていますように」「アイドルのK君と結婚できますように」など)
◆適当に願ったこと(「とりあえず金持ちになりたい! でいいや」)

 それが叶えば本人はもちろん、周囲にとっても大きなメリットがある願いごとなら、そして本人がハードルを乗り越えるべく必死に努力するなら、さらにその夢がかなうことを本人が心の底から真剣に願うなら、多少時間がかかっても、少々力が足りなくても、少しばかり邪魔が入っても、必ず現実化するのではないか。
 では、同じような「叶えられるべき願いごと」を持つ、同じような条件下のA子さんとB子さんがいたら、神さまはどちらの祈りを先に聞き届けるだろうか。
 神さまの立場になって考えれば、答えは簡単である。
「A子はいつも私のところにやってきて、けなげに手を合わせて頭を下げる。しかしB子は一度も私のところに来たことがない」
 どちらがかわいいか。もちろん、自分を慕ってくるほうである。で、「顔見知り」であるA子の言うことを先に聞いてやるわけである。
 古今東西・老若男女を問わず、多くの人が神社仏閣、パワースポットにせっせと足を運ぶのは、神さまに顔を覚えてもらいたいからだろう。
 人々の願いを親身に聞いてくれる神さまは、人間的な情をお持ちのはずだ。ならば御前にわざわざ足を運ぶことは、あながち無駄ではないように思う。

2010.09.18 

さわらぬ神にたたりなし

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 10年ほど前、あちこちの神社をめぐり歩いたことがある。今のように「パワースポット」が流行するはるか以前のことだ。
 当時の私は悩みを抱えていて、今から思えば「少しでも運が上がっていい方向に向かいますように」とわらにでもすがる気持ちだったのだと思う。移動や散歩途中で神社仏閣を見かけては、いそいそとお参りしていた。

 その日も、自宅から小一時間ほど歩いてとある町まで散歩した。
 にぎやかな駅前の繁華街に向かう坂の途中に、大きな寺があった。何度もそばを通ってはいたが、何となく「一見さんお断り」のような雰囲気があったため、そこに入ったことはなかった。しかしその日に限ってなぜか入ってみようと思った。
 夏の終わりの夕方で、自分の影が妙に細長く伸びていたのを覚えている。
 境内には誰もいなかった。本堂を見て庭園をひとまわりしたが、だだっ広いだけで神気を感じなかった。その寺は妙にあっけらかんとして、「空洞」という印象だった。
 少々がっかりして門に向かうと、巨大な老木が立っていた。よくみると根もとのほうに大きなうろ、つまり空洞がある。その中に木彫りの一寸法師が収まっていた。なかなか精悍な顔つきである。
 スクナヒコナを祀っているのかな? と思い、手を合わせた。ちなみにスクナヒコナは大国主命(オオクニヌシノミコト)と力を合わせて日本を作った神さまであり、医療の神さまでもある。
 一寸法師に祈っていると、木の根もとからなまぐさいにおいがふわりと立ち上ってきた。気のせいだと思った。 

 寺の外に歩き出してから、あれ? と違和感を覚えた。背中がずしりと重く、胃がムカムカして非常に気分が悪いのである。
 ガマンして、そのまま歩いて帰る。
 帰宅して塩風呂に入ったあとも、何とも言えないいやな感じが続いた。まるで背中に子どもがべったりのしかかっているような重苦しさなのである。
 自問自答するうち、あの一寸法師のせいだと確信。こちらが無防備に手を合わせたので、すかさず憑依してきたのだろう。
 その晩、目に見えない邪気、それもかなりたちの悪いやつと無言の攻防戦を繰り広げることになった。「押されたら押し戻す」を続けてぐったり気疲れしながら、下手に見知らぬ寺に入るもんじゃない、縁起ものだからといって何でもかんでも手を合わせるとひどい目に遭う、これは神頼みで問題を解決したいというさもしい欲得の罰が当たったのだと深く反省した。
 
 人間にもいい人と悪い人がいるように、神さまにもいい神霊と悪い神霊がいる。
 プロや経験値の高い人ならひと目見て「これはありがたい神さま」とか「近づかないほうがいい神さま」などとわかるだろうが、素人にはほとんど見分けがつかない。
 昨今はパワースポットブームでたくさんの人が神社仏閣を訪れるが、「助けてください」の欲得の心は時として魔を呼び寄せる。
 
有名な場所でも、直感で「あ、ここヤバそうかも」「ちょっと違うかも」と感じたら、そのままUターンするか素通りすることをおすすめする。わけのわからないものにうっかり関わると、ろくなことにならないからである。

2010.06.16

パワースポット

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 大みそかの午後、とある神社へ行こうと思い立った。1年間無事だったことに対するお礼参りと、広い境内を散歩したかったのだ。
 愛車に乗り込むと道路はガラガラ、駐車場もガラガラ、境内もガラガラ。大みそかはこんなにすいているのに一夜明ければオセロを裏返したように過剰に人が押し寄せる、神社ほど陰陽の逆転しやすい場所もないのではないかと思いながら広大な境内を散策。
 本殿に向かう途中、「パワースポット」とちまたでもてはやされている一角の入り口を発見、興味がないのでそのまま通り過ぎたが、「まてよ」と思い直して引き返した。いつもは長い行列をつくっているけれど今日なら確実にすいている、じゃあせっかくだからどんなものか見てみようと思ったのだ。

 入り口で料金を支払って中に入ると、よく整備された庭園が広がっている。春になれば美しい花が咲き乱れるミニハイキングコースになるのだろうが今は冬のど真ん中、草木が枯れて寂しい風情だ。
 順路の矢印に沿って小道を歩くと、やがて広大な池が出現した。日が射さないせいか、表面に薄く氷が張っている。地獄のように真っ黒い池、この中に落ちたら心臓が一瞬で凍るだろうなとおそるおそるのぞき込むと、水面下に灰色の鯉が何匹もゆらゆら泳いでいる。冬の池はやっぱり陰気くさいなあとその場を後にする。
 園内を歩いているのは若い女性やカップルが多い。しばらく行くと行列の最後尾が見えてきた。湧水の井戸を見るために並んでいるのだ。先頭へ続く道はなだらかな下り坂になっていて、行き着く先に丸い井戸が見えた。
 井戸からあふれた水は小さな川をつくり、そのままあの黒い池に流れ込んでいるようだ。川の中には飛び石がしつらえられえていて、参拝者はその上を渡って井戸を拝む。
 1人あたりの所要時間が長いせいか、自分が来たときは15人ほどの行列だったのに、しばらくして振り返るとどんどん長い列が伸びていた。
 あともう少しで自分の番というとき、小バエの群れがバスケットボールくらいの大きさの球を描いて頭の上を飛んでいるのに気づいた。
 あ、ここやばい。
 しかしせっかくここまで来たのだからと自分に言い聞かせ、がまんしてやり過ごす。
 さあ次はいよいよ自分という段になり、川の手前の階段を下りようと足もとをふと見ると、今度は大ミミズが1匹のたくっていた。
 あ、これはもう完全にまずいと思ったが今さらここで引き返すわけにはいかない、ええいと大ミミズを飛び越え、石を渡って井戸をのぞき込んだ。
 こんこんと湧き出す水は何の曇りもなく清らかに澄んでいる。しかしその周囲に陰の気が幾重にも重なって取り囲み、実に奇妙な空間になっていた。重苦しいのですぐ井戸を後にした。

 パワースポットを出てしばらく歩き、午後の光がさんさんと当たる本殿の前に立った。
 八方位の気を一身に浴びることのできるそこは、いつ行っても心身が洗われるようで気持ちがいい。神木が織りなす森に周囲360度をがっちりガードされた太極の空間だからだろう。
 しばらくすると体内から陰の気が抜けて肩が軽くなったので、境内の地図を取り出してながめてみる。本殿の南西方向にあの井戸があった。なるほど、裏鬼門だったのか。
 鬼門は新しい気が勢いよく噴き上げる活火山のようなものであり、「鬼が出入りする門」と言われるように、よくも悪くも激しい現象が起こりやすい神聖な方位といわれている。あの井戸は、名実ともにまぎれもない「パワースポット」だったのだ。

 活火山から勢いよく噴出するマグマのごとく、純粋なパワーがこんこんと湧き出る井戸に人が集まるのは当然のこと、しかしそこに人間の欲が集まると周辺の気がケガレ、小バエやミミズが湧く。もちろん井戸そのものがケガレているわけではない、それを取り囲む一部の人間の思念がケガレているだけだ。有名になりすぎたパワースポットの悲劇である。
 ではどうすればいいのかというと、 
◆なるべく朝一番で行く 
◆体調の悪いときはなるべく行かない
◆自分の願いごとに必要以上に時間をかけない(後ろの人のイライラした気を受けて損をする)
◆敏感な人はあらかじめ塩やお守りを持参する
◆ブームが去ったときに行く
 などが挙げられる。
 これらを心がければ、少しでも清く正しい状態のパワースポットを拝めるのではないか。
 ・・・・・・しかし神さまの立場からすると、「こうしてほしい」「ああしてほしい」と勝手に願い倒す人間ばかり押し寄せてきたらどう思うだろうか。「ほんにうざいのう」と向こうに寝返り打ってせんべいでもかじりながらテレビ見始めるのではないか。
 たまにチラリと振り向くときがあるとすれば、「いつもありがとうございます、神さまに認めていただけるよう一所懸命がんばります」と手を合わせる清らかな人間が来たときだけではないかと思う。

 2012.01.06