日曜日の夕方、散歩がてら街まで買い物に。多くの人が軽く厭世観を覚えながら、お茶の間で夕餉の支度を調える「サザエさんタイム」と呼ばれる時間帯である。
ゆるやかな坂道を上っていくと、前方に赤いシャツを着た中年男がいる。小ぶりなリュックをかつぎ、スニーカーでスタスタ歩いている。
男は少し先の信号で立ち止まった。左側に渡り、道路の反対側を歩くつもりなのだろう。
左側を向いて信号待ちをしている男と、距離が縮まった。40歳前後の、涼しい顔立ちのイケメンだ。
「・・・・・・が、・・・・・・で、」
何かしゃべっている。携帯で話しているのかと思いきや、両手は体の両脇にだらんと垂れ下がっている。
じゃあ誰と話しているのだろう? そうか、独り言か。
「・・・・・・空虚さが」
え?
「残酷な変化を遂げて」
ええっ?
「・・・・・・絶望に変わる」
あ、狂ってる。
外見上はどこにもほころびが見えないその男性は、脈絡のないことを1人でずっとしゃべり続けているのである。しかも、けっこう大きな声で。
私は足早にそばを通り過ぎた。
背中に張り付くように、念仏のような男の独り言が聞こえてくる。男は信号を渡るのをやめ、私のすぐ後ろをついてきているのだ。のべつ幕なしに吐き出される無意味な言葉の羅列から、忌まわしい気が放たれてくる。意識をそちらに向けないようにすればするほど、まがまがしい言葉の1つ1つが矢のように耳に突き刺さってくる。
「・・・・・・孤独な」
「・・・・・・行き場のない」
「・・・・・・ぎりぎりの崖っぷちから」
何かに憑かれているのか、それとも私に呪いを掛けているのか。聖なるものほど追いかけると逃げ、邪悪なものほど逃げると追いかけてくるのはなぜだろう?
その道は一本道だった。信号で左側の道に渡るか、後戻りするか、そのまままっすぐ進むしかない。私は歩行スピードを一気に上げた。信号を待つのも後戻りするのもいやだった。
よし、ここまで来ればだいじょうぶだろう。
しばらく歩いてから振り向いた。かなり歩調を早めたので、息切れしていた。
背後にぴったり貼り付くように、その男がいた。男と私の距離はまったく変わっていなかった。
うわあ。
なかば駆け足になった。それでも男の声が背中を追いかけてくる。ふり返るたび、赤いシャツが目に飛び込んでくる。
あの色は・・・・・・、
私はその考えを頭から振りはらった。
あの赤いシャツを着た男は普通に歩いているのに、なぜ距離が開かないのだろう? そういえばあのシャツの色は、乾いた血の色によく似ている。
恐怖が背筋を這い上った。
大きな十字路に出た。すかさず右に曲がり、人混みをかき分けるようにジグザグに歩いた。一直線に飛んでくる念をかわすには、無軌道に動くか、リズムをパッと変えて波長をずらすしかない。
おそるおそるふり返ると男は消えていた。胸をなで下ろし、そのまま街へ向かった。
日曜の夕刻は逢魔が時だ。人気の少ないその時間帯には、隠れた者がやってくる。
2010.05.17