小枝の実

 名古屋から近鉄電車に乗ったときの話である。
 スカスカの車両の一番端に座り、iPhoneでいくつかメールを打ち終え、パッと目の前を見ると、小柄な初老の男性がちんまり座っている。大きな黒いボストンバッグを膝に乗せ、バッグの上に新聞を置き、その新聞に顔を置いて読んでいる。
 ずいぶん目の悪い人だなと思ってよく見ると、新聞紙の上に置いた顔がじっとこちらを向いている。ビン底の分厚いメガネ。ぼさぼさに立った髪。くたびれたウディ・アレンというところだ。
 彼はなぜ自分をずっと見ているのかと一瞬あせるが、よく見ると目が閉じている。寝ているのである。おっさんはボストンバッグの上に広げた新聞紙にあごを載せ、まっすぐこちらを向いたまま寝ているのである。眉をハの字に広げたその顔は、無防備であどけない。 
 
 メールが来た。再びiPhoneに目をやる。
 読み終えて前を向くと、おっさんは「小枝の実」という小さな袋菓子を開け、中に指を突っ込んでは口に運んでポリポリ食べている。いつの間に起きたのか。眉は相変わらずハの字である。ポリポリ。ポリポリ。ビン底メガネのおっさんが、リスのように小枝の実を食べている。
 やがて、おなかの底からむずむずと笑いがこみ上げてきた。携帯に目を落とし、気分をそらそうとするがダメである。山本リンダではないがどうにも止まらない。マグマのようにあとからあとから笑いが口からこぼれ出し、下を向いたままクスクス笑ってしまう。
 次におっさんは緑茶のペットボトルをおいしそうに飲み、それから週刊文春を広げて読み始めた(新聞紙はいつの間にかなくなっている)。

 携帯を見ながらクスクス、車内広告を見ながらクスクス、外の風景を見ながらクスクス。気をそらそうとするほど笑いが止まらない。 
 笑いと格闘し続けること20分。
 さあ降りようと立ち上がると、不思議そうな顔でこちらを見ている若い娘と目が合った。知らんぷりしてホームに降り立つ。
 娘、お前もこのおっさんの真正面に座ってみい。
 ピリピリピーと笛が鳴った後、週刊文春を読んでいるおっさんの薄い後頭部がスーッと目の前を通り過ぎていった。

2009.07.14