セミの妖精

DSC00976
 都心の森の脇を車で通ると、窓から「カナカナカナカナ」と寂しく鳴くヒグラシの声が聞こえる。ああもう夏も終わりだなとせつない気持ちになる。そのまま青山通りをまっすぐ走ってデパートへ向かう。

 駐車場に車を止めてデパ地下へ。
 食品街入り口の扉を入ったすぐ向こうに見えるのはジェラート屋だ。そこはフレーバーの種類が豊富でどれを食べてもおいしいので人気がある。
 入り口扉の手前でふと店内を見てギョッとした。ジェラート屋の前にそびえる太い円柱を囲むように立ち食いイートインコーナーが設けられているのだが、そこにジェラートを手にした女子が大量にひしめいているのである。いつもの3倍強はいる。その日は久々に暑さがぶり返した真夏日だったし、時間は会社が引けて1時間以内ということもあったかもしれない。
 円柱を囲む女子の群れが、まるで大木にたかるセミの群れに見えた。
 カナカナカナカナ。
 先ほど聞いたヒグラシの鳴き声が脳を斜め横断していく。ここに集う太った女子・痩せた女子・中肉中背の女子たちはもしや、甘い樹液を吸おうとするセミの妖精ではあるまいか。そういえばみな魂が抜けたようなうつろな目をしている。
 一心にアイスをなめるセミの一群の脇を通り過ぎ、焼き鳥弁当と秋の味覚のケーキ(マスカットが乗っているスポンジケーキ)と明朝食べるパンを買い、そそくさとデパ地下を後にした。

 翌日は水戸街道を車で一直線に走った。特に用事はない、ただ走りたかっただけである。
 小腹が減ったので途中の葛飾区でファミリーレストランに入る。
「ホットケーキとドリンクバーのセットお願いします」
 注文をし終えてうはっまだまだ暑いぜとおしぼりで手を拭いてひと息つくと、背後でけたたましい笑い声が聞こえる。
 振り向くと70代、80代の老女の群れ。8名ほどの老女が一心不乱にクリーム白玉あんみつやクリームわらび餅、クリームコーヒーゼリーなどをスプーンですくいながら何かのひとことをきっかけにどっと笑っているのである。
 カナカナカナカナ。
 前日に聞いたヒグラシの鳴き声が脳内に響き渡る。「若いもんにあたしらの苦労がわかってたまるかい」と言わんばかりの老獪な目つきをした彼女たちはもしかするとやっぱりセミの妖精なのか。
 年寄りゼミの笑い声は30代40代50代の頭のてっぺんから漏れ出てくるおほほほほほではなく腹の底から出てくる地声のわははははである。それがいい、とてもいい。聞いているこちらまで楽しくなってくる。
 同い年の男が100人束になってもきっとかなわない、そんな一筋縄ではいかないような婆さんたちの屈託のない笑い声は1カ所ではなくあちらからもこちらからも響いてやがて店内で共鳴し、ひとつの大きなヴァイブレーションを作り上げる。まるでベートーベンの交響曲第九番第四楽章「歓喜の歌」を聞いているようだ。

 にぎやかなファミリーレストランの隅っこでひとりホットケーキとカプチーノを味わっているうちに窓の外が薄暗くなってきた。
 最近は夕方6時を過ぎるともう暗くなる、そろそろ店を出なければと思うが、さざめくようなカナカナカナカナの大合唱を聞いているうちに何となく立てなくなり、仕方なく3杯目のコーヒーを飲みながら紫色に染まっていく水戸街道をぼんやりながめていた。 

春のお彼岸のココちゃん

img_1123
 春のお彼岸に突入してからナマ傷が絶えなかった。
 まず初っぱなに親指を勢いよく壁にぶつけて爪が紫色のマニキュアを塗ったようになった。
 お彼岸だし部屋を清めとくかと初日の朝から張り切って雑巾を握り、あちこちの壁を拭いていたとき、まったく意図していないのに不意に右腕が野球のボールを投げるような動きをした。大きく振りかぶった先は壁である。もちろん自分の意思ではない、まるで誰かに腕を持ち上げられて力任せにぶつけられたような感じだった。
 自分はなぜ親指の爪を自ら壁に激突させるような真似をしたのかとショックのあまり呆然としていたら、間もなくじんじん痛み出し、熱を帯び、平たいはずの爪が亀の甲羅のようにぷっくりふくれあがった。
 その日の午後、今度は右足の親指を机の脇に置いてあるキャスター付きの引き出しの角に思いっきりぶつけた。もちろんぶつけたくてぶつけたわけではない、何かのはずみでぶつけてしまったのである。しかし何のはずみだったのかさっぱり思い出せない。
 手の爪も痛いが足の爪はもっと痛い。見ると、こちらも紫色に変色していた。

 翌日の夜、風呂に入るためパンツ(下着ではなくアウターのパンツ。ズボン。)を脱いだら、右脚のふくらはぎに20センチほどの真っ赤なみみず腫れができていた。ほぼ一直線で、ところどころうっすら血がにじんでいる。浴槽に浸かるとひりひり痛んだ。
 風呂から上がってからパンツを裏返して念入りに調べたが、とがった金具などは出ていないし針やトゲが生地に突き刺さっているわけでもない。もしやこのみみず腫れは何かの聖痕かと背筋がゾッとして身体が一気に冷えた。

 次の日、新品の靴をおろして外出した。「バカの大足」と揶揄されながら育った自分にはまるで夢みたいなゆとりのある安心サイズで、デザインも好みだったので喜び勇んで色違いを二足買ったうちの一足だ。
 しかし歩き始めて10分もたたないうちに右くるぶしの下が痛くて痛くてたまらなくなり、道ばたで靴を脱いで靴下をめくってみると皮膚がむけて出血していた。仕方ないので人混みの中で立ち止まり、カバンから応急絆創膏を取り出してくるぶしの下に貼り付けた。
 新品の靴だから革が固いのはやむを得ない、しかしEEEの幅広サイズなのになぜこうなる、と割り切れない思いだった。

 ああなんかお彼岸に入ってから満身創痍、「気を引きしめい」とご先祖が戒めているのか、あるいは娑婆帰りしている悪霊のいたずらか。
 お彼岸は昼夜の時間がほぼ同じ、また寒くもなければ暑くもない。こういう陰陽のバランスが取れたニュートラルな時期は、自分の生き方や運を顧みる絶好の機会と言われている。何ともないならそれでOKだが、どこかにトラブルが出たら運が落ちている証拠なので気をつけたほうがいいとされている。
 春分の日を中日としてその前後3日間を春のお彼岸と呼ぶが、その1週間に身体に何かしらのトラブルが出た場合、左半身なら先祖の警告、右半身なら自分のせいという説もある。
 それじゃ右半身ばかりケガしてる自分はおっちょこちょいなのか。臍下丹田に気を込めてもっとどっしり生きなくてはいけないのかなどとぼんやり考えながら、例年より10日ほど早く咲いた桜並木をとぼとぼ歩く。

 お彼岸の最終日。
 ちょっと遠出をしようと愛車で高速道路に入り、途中でSAに立ち寄った。土曜日の昼だけあって非常に混んでいる。犬連れも多い。
 売店でも覗いていこうと施設の入り口に向かうと、通路の途中にいたプードルがつぶらな瞳でじっとこちらを見つめている。
 プードルは人間の気持ちを理解するひときわ賢い犬種と聞く、ああプードルちゃんかわいいなあやっぱり犬には犬好きがわかるんだねえお利口ちゃんだぞうと笑顔でアイコンタクトを取り、その犬の脇を通り過ぎようとしたとき、「バウンッ!!」と敵意むき出し、犬歯もむき出しで威嚇された。
「だめよぉココちゃん」
 身体のラインに沿うワンピースを着たフェロモンたっぷりな飼い主が、長い髪をかき上げながら犬に向かってやさしく微笑む。
 だめよぉココちゃんの前に驚かしてすみませんとあやまるのがスジだろうかき上げ女、お前らまとめて浦見魔太郎におしおきしてもらおうかええっどうだぁと誰にも聞こえないようにつぶやきながらそのまま何もなかったふりをして施設内に入り、売店を物色する。桜の季節だが心の中には秋風が吹いている。
 SAの売店をひととおり見て回ると、とあるコーナーに地元で取れた農産物が並んでいた。
 あっこのぬか漬けおいしそう、よし買ってやる、ビニール袋で念入りに包装されてるからだいじょうぶだろうと2パックレジに持って行き、ついでにリンゴも6個ばかりかごに入れているうちバカプードルのことなどすっかり忘れ、ウキウキと駐車場に戻って車のトランクに買い物袋を放り投げてからぶうううんと再び高速に参入した。

 帰宅すると、すでに夜10時を回っていた。
 さあ遅めの夕食だ、おかずは何もないけどもう遅いからぬか漬けと温かいご飯で充分と鼻歌を歌いつつほどよくつかったキュウリとにんじんと大根を適当な大きさに切った。
「いただきます!」
 ぬか漬け久しぶり、うれしいなあ、今回のお彼岸はいろいろあったけれど最後は口福(こうふく)で締めてやれ、終わりよければすべてよしだ。
 パリッ。
 いい音がする。鼻孔をふんわり軽やかに腐敗臭が通り抜ける。
 心にそよりと秋風が吹いた。
 これ、傷んでるじゃん。
 ぬか漬けを容赦なく捨てると、心の中で暴風雨がどうどうと吹き荒れた。
 せめてもの口直しにとリンゴをむく。
 シャクッ。
 まったくの無味無臭、甘くも酸っぱくも何ともなかった。

 以上が春のお彼岸の顛末である。わが人生に幸あれと祈る。

2013.03.26

うな重

DSC00186
 秋の気配が抜き足差し足で忍び寄る8月下旬の夕刻、夏バテ回復大作戦の一環としてうなぎを食べに行った。
 昭和の面影が残る一軒家の引き戸をガラガラと開けるといい具合に枯れかけたお姉さんが出てきて好きなところへどうぞと言う。もちろん奥の小上がりがいいに決まっている。そそくさと靴を脱ぎ、畳を横切ってクーラーの前の座卓に座り、体内に溜まった熱気をフーッとはき出す。
「何にします?」
「瓶ビールと卵焼きと焼き鳥とうな重」
 お姉さんの白目が食べるねえお客さんと独り言を言っている、しかしそこは客商売、風のようにくるりとひるがえってリズミカルな声で調理場にオーダーする。
 いいのさお姉さん、自分はこのところ食欲がなくてそうめんやパンや梅干ししか食べていなかった、今日は思いっきり食べて起死回生するつもりなのさ。
 薄暗い店内にはリカちゃんトリオじゃなかった初老の男性トリオがすでに日本酒に突入している。ぼそぼそと会話しているが品がいいので何を言っているのかわからない。にしてもこの店はなぜこんなに暗いのだろうと不思議に思うがそのほうが涼しいし落ち着いて大人な感じがするからいいやと納得する。

「はいお待たせしましたー」
 ほかほかの湯気を放つ卵焼きが登場、付け合わせの大根おろしを乗せてひとくち大に箸でちぎってぱくんと口に放り込むと絶妙に甘い。これだこの味だよ卵焼きはこうでなくっちゃいけないよと舌が大絶賛する。死ぬ前に一瞬だけ元気になって何でも好きなものを食べていいと言われたら迷わずここの卵焼きを注文するよと思うほどのうまさである。ビールをコクッと飲む。
「はいお待たせしましたー」
 クシを抜いた焼き鳥とししとうとネギが皿に盛ってある。もちろんみりん醤油だれである。七色唐辛子を振りかけてぱくんと食べるとジュワッとジューシー、アーノルドジュワジュワネッガーなどと絶対に誰にもウケないダジャレをつぶやき、もしや自分は天才ではないかと錯覚しながらビールをコクッと飲む。
 そうやってコクッコクッと飲んでいたら大瓶が空いてしまった。仕方ないのでお冷やをもらう。
「はいお待たせしましたー」
 真っ赤な重箱のふたを開け、山椒をぱらぱらと降る。うなぎうまい、油のっててうまい、やっぱり夏はこれだよなあとたれのしみたご飯と一緒に口に運ぶ。また運ぶ。そしてまた運ぶ。
 重箱の世界を俯瞰すると広大である、子どもがはははははと大声で駆け回る神社の境内くらいある、今のところ4分の1クリアということは残り4分の3ということか。そのとたん、すでに腹がいっぱいになりかけていることに気づく。
 例えばうな重が4000円とすると今の時点で1000円分クリア、未消化分3000円、よし勝負はこれからだとうなぎを水で流し込む。しまったビールと卵焼きと焼き鳥と水で胃がすでにたっぽんたっぽんになっているぞと気づいた時点で神社の境内は残り4分の2。つまり半分である。
 どうすんのこれもったいないじゃんと自分を責めながら境内に箸を突っ込むが一度ストップした食欲は何をどうやってもびくともしない。重箱の中はどんどん日が暮れて今はもう誰もいない、ひからびたうなぎが冷えたご飯の上にアンニュイに横たわっているだけだ。
 ここで、私はカツ重の悲劇を思い出す。そう、あのときもこんな暑い夏だった。

 夏の外食は恐ろしい。どのくらい恐ろしいかというと、生きているうちにあと何回夏を迎えられるかなとふと考えてえっそれだけ? と気づいたときくらい恐ろしい。

2012.08.23

北海道開運旅行

rimg0111.jpg
 さあてちょっと気合い入れて開運するかと北海道へ。
 北の果てはさぞや寒かろうと身を案じ、上半身は肌着2枚重ね+タートルセーター+ダウンベスト、下半身はタイツ+厚手のズボン、厚手の靴下。以上を基本装備とし、外を歩くときは重量のあるダウンコート+毛糸の帽子+ダウン手袋、そしてムートンブーツを履いた。そもそも寒いのがものすごく苦手なので、貼るカイロの予備をコートのポケットに8枚しのばせておいた。
 その格好で飛行機に乗り込むと何だかものすごく暑く感じたが、気にせず方位磁石をサパッと取り出し、東北方向に飛んでいるのを確認して、「よし、自分は間違った飛行機には乗っていない」と安心する。
 狭いとこきらい、この飛行機とってもコンパクト、まるでかまくらみたいと夢見心地でうとうとするうち北海道に到着。気持ちのよい晴天である。

 空港から電車に乗って温泉の湧き出る山奥へ移動。あたりには何もない、ほったらかしの大自然だ。
 宿に着いて荷を降ろし、ひと息入れてから散歩に出る。
「行ってらっしゃい、どちらへ?」
 宿のおじさんが温かい笑顔を差し向けてくれる。
「まあ適当に、気の向くままぶらついてきます」と答える。
 氷点下の世界をサクサク歩いていると途中に神社があったので参拝し、境内に降り積もったパウダースノーの上にいきなり仰向けのままドサッと倒れてみる。ひんやり冷たい。起き上がって見てみるとバンザイをした人の形にくっきりへこんでいる。おもしろいのでもう1回別の場所で倒れてみる。・・・・・・飽きたので神社をあとにした。
 東北方位へ出かけたときの開運行動のひとつは「雪山をうろつく」。東北の象意(しょうい=気学的なシンボル)は山、いまひとつの運を打破して新しい運を呼び込みたいときは、東北の吉方位で山肌にふれるといいとされている。

 ふと見やると前方に真白い雪に覆われた山、ああこりゃあちょうどいいわと喜び勇んで山を目指すことにする。
 山麓は人気のハイキングコースになっているらしく、遊歩道が整備され、あちこちに丸太を半分に割ったベンチが設けられている。しかしそれは夏場の話、今は冬、雪の降り積もったベンチに腰掛けようものならたちまち尻が凍るであろう。
 冬の平日の昼間にそこを歩いている人間は皆無、雪上に残された何日か前の誰かの足跡をたどりながら適当に進むのみである。
 スッと天高く伸びるエゾマツや白樺の林を通り過ぎると、あたり一面、白い雪を背負って低くうなだれたハイマツの大群生となる。文字通り地面を這うようにして生えているハイマツの高さは1〜2m、ちょうど人間の身長ほどだ。冬期は観光客が途絶えるせいか好き放題に枝を伸ばし、あちこちで行く手をさえぎっている。
 それを乗り越えたりくぐったりして進むうち、「クマ」という2文字が頭の中に唐突に浮かんだ。
 いやもう冬眠してるだろう、しかし十分なエサを取れなかったクマは冬眠せずに山野をうろつくというしな。・・・・・・そういえばハイキングコース入り口付近でクマに関する注意書きポスターを目にしたような気がするぞ、ええと、大事なのはクマに遭ったときどうするかではなく、まずクマに遭わないようにすることです。
 ええっ!
 背筋がゾッとしておそるおそる周囲を見渡すと自分の周囲360度には茫漠たる白い原野が広がっている。マツの茂みからいきなりクマが出てきてもちっともおかしくないシチュエーションだ。
 あっこれ大声出しても誰も来ないし自分はクマを遠ざける鈴も武器も持ってない、クマの気をそらすドングリやハチミツももちろんない、仕方ないからもし出たらポケットにしのばせたホカホカカイロをシールをはがしてから投げつけてやろうか、たぶん確実にノーダメージかむしろ温かくて喜ぶ、こりゃあ出会ったら最後、食われ損、いざとなったらシラカバによじ登って逃げるしかない、しかしいったい何分間あの細くまっすぐな幹にしがみついていられるかなと絶望的な気分になる。
 動物園で檻越しに見るクマはかわいいが檻なしでこんにちはするクマはかわいくも何ともなく、200%気の荒いデストロイヤーに決まっている。
 背中の神経をギュッと張り詰め、耳を澄ませながら歩くが何の気配もない。早くも西の方角に傾きかけた太陽が一面の雪をただまぶしく照らしている。
 しーん。
 あっ山の入り口にレストハウスが見える、あそこまで行けばとりあえず安心だと歩き出すと、いきなりハイマツが通せんぼ。狭い遊歩道に大きな枝をバーンと何重にも広げているため、乗り越えることもくぐることもできない。
 遊歩道以外の道を探すがハイマツがびっしり群生しているので無理、下手にバリバリかき分けて進むと近辺でぼんやりしているクマを目覚めさせてしまうかもと思い、「慣れぬ旅先で無理は禁物」という座右の銘に従って引き返すことにした。
 うわっこの広大な原野を引き返すんですか、今までよく無事でしたね自分、行きはよいよい帰りはこわいってまったく通りゃんせじゃないですかとクマに聞こえるように大声でつぶやきながら、雪道に深々とついた自分の足跡をたどって戻る。

「あ、お帰りなさい。お散歩いかがでした?」
 宿のお姉さんに笑顔で迎えられたのでがんばって笑顔をつくり、おそるおそる聞いてみた。
「楽しかったです、ところでこの辺、クマ出ます?」
「出ませんよ」
 なあんだやっぱり気の回し過ぎだよ心配して損したなあ、ずるんと脱力。
「あ、でも」
 え?
「先週、山のふもとに1頭出たって言ってたっけ、今年はドングリが少なかったですからねえ」

 東北の別名は「鬼門」、よくも悪くも運が大逆転する方位とされている。「不動の山を動かす方位」とささやかれるように、そのちゃぶ台返しぶりは他のどの方位よりも激烈であり、いにしえの戦国武将などは強行突破や起死回生を願う際、いちかばちかの命がけで東北方位を用いたとされている。
 もちろん現代でも、東北のパワーを取るときは万全の注意を払わなければならない。凶方位は言わずもがな、たとえ吉方位でも、運が好転する際にどんな強烈な毒出しがあるかわからないからだ。
「お夕食は6時からですからねー」
 宿のお姉さんは忙しそうに去っていく。
 うはぁっと口から出かけた魂をあわてて飲み込み、何事もなかった顔をして部屋に戻り、どんまいどんまい吉方位だもの、そのうちきっといいことあるってばとわが身をさすりながらつぶやいているうちに夜がすとんと更け、南の空にとてつもなく大きな満月がにょっこりあらわれた。北海道の夜は寒い。

2011.11.17

まさかの夏風邪

DSC00867
 病気でも何でもなく雑用で病院へ行った。
 老人が待合室にわんさか座っている。
 何なんだこの混雑は、この夏は街で老人の姿を見かけなくなったと思ったらこんなところに集っていたのか。
 ポカリのペットを持ったお兄ちゃんがフラフラ入ってきて看護婦から体温計を渡されそれを脇の下に当ててさっきからじっと私の隣に座っている。
 このお兄ちゃんかわいそうに、おなかこわして発熱してるのかな、今年は暑いから食べものにでもあたったかと待合室のテレビを見ながらのんびり思う。
 お兄ちゃんは名前を呼ばれてボウフラのように頼りない足取りで診察室へ入っていった。何度あったのかなあ熱、とのんきに思う。

 翌日、くしゃみ3連発。
 翌々日、くしゃみ5連発&ツーッと鼻水。
 あれ花粉症の季節にはまだ早いんじゃないのかななんて脳天気に考えていたら発熱。しかも37度弱の微熱。
 このくらいの微妙な体温が一番やっかいだ、妙に熱っぽくてだるいが横になるほどではない。
 翌朝起きると鼻が完全に詰まっており、あっあのお兄ちゃんにうつされた、こりゃあ完全に夏風邪じゃないのと気づいたときには鼻がまったくきかず咳も出て呼吸が少し苦しくなっていた。
 胸にサロンパスを張り、ショウガ紅茶を飲み、市販の風邪薬を1日に3回飲んで1週間経過してもちっとも治らない。台風が近づくにつれて不安がつのってきたので近所の町医者へ行った。
 待合室で脇の下に体温計を当てて熱を測っている間、壁に貼られたポスターを夢うつつにながめる。
「シミ取りクリーム!」
「アンチエイジングサプリメント!」
 ピピピピピ、36度8分ですか、もっとあると思ったのになあ。
 1人しかいないのですぐに呼ばれる。
「あっ風邪風邪、風邪ですね」
 せっかく病院に来たのに風邪薬だけもらって帰るんじゃおもしろくないなあとさっき見たポスターの商品についていろいろたずねると懇切丁寧に教えてくれる。
「じゃあこれも、それからそれもついでにもらっていこうかなあ」と枯れてドスのきいた声でつぶやくように医者に告げ、大量の薬の束を抱えて家に戻った。
 
 風呂に入ってからおじやを食べ、食後にさあ薬飲むぞ! と戦闘態勢でアンチエイジングのサプリや美白関係の内服薬を数粒一気に飲み干す。風邪薬の袋はテーブルの片隅に追いやられており、1錠も手をつけていない。
 お前バカじゃないの、風邪薬どうして飲まないの、さっき何のために病院へ行ったの、今のその苦しい鼻づまりや微熱で頭がぼんやりしている状態においてお前は風邪治療よりも美白を選ぶのかと自問自答するがどうしても風邪薬を飲む気になれない。
 だってクスリを逆さまから読むとリスクじゃん、そんなもの飲むより自分の免疫力を信じてきちんと発熱して白血球部隊を増やしてウイルスと真っ向から勝負するほうがいさぎよいし体にいいに決まってるもん、それにいきなり見ず知らずの薬をたくさん飲んで気持ち悪くなったらイヤだもん。
 つまるところ、自分は風邪を治すより色白になりたいのであった。バカじゃないのか。

2011.08.22

暗剣殺に愛されて

DSC00555
 仕事で出張。事前に地図で方位を確認する。
 あれ? 南の移動だと思ったけどわずかな差で南西じゃん、しかも方位の境界線のすぐ近くだ。やばい8月の南西は暗剣殺だ、だけど「南」と見立てて全意識を南へ面舵いっぱい向ければいいだろう、そんな甘い考えで家を朝7時に出たのだった。
 お盆の週なのに電車は予想以上に大混雑、みんな朝からよく働くなあ車内殺気立ってるじゃん、ああ荷物がかさばって肩に食い込む、この年になると真夏の仕事は命がけだぜと電車のリズムに合わせてゆらゆら揺れていると突然腰にものすごい衝撃。
 ん? 誰かの荷物が当たった?
 そしてものすごい圧力。
 んっ? 超満員でもないのになぜそんなに押す?
 見るとメガネをかけた女子小学生。肩からぶら下げたバカでかいショルダーをこちらにぶつけて方向転換、そして力任せにぐいぐい押してくる。
 あ、次で降りるのね。でもそんなに押さなくてもいいじゃないのさ。
 小学生とは思えない馬鹿力、はずみでこちらの体が大きくふらつく。だんだんムカムカしてきてそいつが降りたあともはらわたの煮えくりかえりは収まらず、浦見魔太郎か黒井ミサか喪黒福造か妖怪人間ベム・ベラ・ベロに「復讐お願いいたします」の書状を送ってやろうかあええコルァと 脳内でエンドレスにののしるがもちろんまったく無意味なことである。 

 仕事そのものは順調に進んだが最後に奥さんが出してくれたアップルティーをはずみでうっかりカップごとカバンの中に落としてしまう。
「これすごくおいしいですね、あっ」
 ローマは1日にしてならずだが悲劇は一瞬にして起こる。その日に限ってなぜか持参したものすごく高価な黒皮の名刺入れ、財布、新品のノートとボールペン、その他もろもろがすべてアップルティーの甘い洗礼を受けた。
 ものを取り出したあとのカバンを流しに持って行って逆さまにすると、まるで滝のようにアップルティーが流れ落ちた。
「カバン、お前はのどが渇いていたのか」と問いかけるが答えはない。
 ふと窓ガラスの外を見ると天に真っ黒い雲が立ち込め、雷が鳴っている。
 パラパラ降っていた雨がざあっと勢いよく降り出した。
「あっ雨ですね、ではこれで失礼いたします」と外に出て突風&豪雨の中を小さくてきゃしゃな折りたたみ傘をさしながら歩いていると、携帯から地震警報のチャイムがけたたましく流れ出した。
「注意! あんたは30秒以内に震度4以上に襲われる可能性あるよ」
 何度も何度もしつこく鳴る。
 おいおいちょっと待ちなさいよすぐそこ海じゃん太平洋じゃん、今大地震来たら確実に津波に飲まれるじゃん。
 あせって高台の駅へ歩こうとするが向かい風&向かい雨でなかなか進まない。あっそういえばここって正確に言うとうちから暗剣殺、後ろからいきなり闇討ちされる大凶の方位だったよなあと今さらながら気づく。
 南方位だぞと自分に無理やり言い聞かせて来たけどやっぱりダメじゃん、方位の境界線でも暗剣殺は暗剣殺、しかも裏鬼門の上に表鬼門が乗っている最悪の暗剣殺、自分勝手な「見立て」なんかクソの役にも立たないなあと痛感しながら遠い道のりを雨風に逆らってとぼとぼ歩く。
 あれっ、駅ってどこ? どこだっけ?
 頭の中でさっきからずっと研ナオコが「あきらめの夏」を唄っている。

2011.08.14

婆さん姉妹とマリアさま

img_1479
 あれっ1日が2時間くらいしかないじゃんどうしてこんなに早く過ぎていくの、ああそうか今忙しいんだな、それはそうと腹がすごく減ったので戦(いくさ)なんか全然できない、というわけで気分転換を兼ねてデパ地下へ夕飯を買いに出かけた。

 デパートに着いて時計を見ると午後8時10分前。
 やべえデパートがもうすぐ閉まっちまう迷っているヒマはねえ、そうだ中華だ中華にすべえ、閉店間際だからタイムセールやってるはずだ
中華総菜屋まで忍者走りで行くと自分と同じこと考えている客がすでにショウケースの前にわんさかたかっている。
「困っているときの中華頼み」と古来ささやかれるように、人は切羽詰まったときには中華を選択するものだ(注:筆者の勝手な決めつけ)。ボリュームあるし野菜と肉のバランスがいいしバカ高くないしそこそこハズレがないからである。
「200gが3パックで1000円! どれでもお好きなの3パックで1000円!」
 もはや投げ売りである。下手に残しても仕方ないからである。
 時計を見る。閉店まであと5分。
 ショウケース前の客の間に緊張感が走る。
 誰もお行儀よく並びやしない、ショウケースの前でブーイング寸前の神経戦を伴う陣取り合戦だ。
 婆さんが2人、強引に店員をつかまえた。どうやら姉妹のようである。
 50数年前はきっとお嬢さん姉妹でありそれからずっとかたくなに自称お嬢さん姉妹を通してきたと思われる、世間離れした世間知らずの雰囲気。
「ええっと・・・・・・あたしは青椒牛肉絲(チンジャオロースー)とね・・・・・・」
 婆さん姉妹の姉と思われるほうは声がやたらにデカい。
「あたしは・・・・・・」
 もう1人はおとなしい。妹だろう。
「○○ちゃんボケッとしてんじゃないわよ、あそこにあんたの好きな麻婆豆腐があるじゃないのよ」
「麻婆豆腐なら家にあるわよ」
「あらそう、じゃあ他のにしなさいよ。あたしあと2つ何にしようかしら・・・・・・」
 イライラしているのは店員だけではない。ショウケースの前は山のような人だかりである。「早くしなさいよ」「迷ってられると迷惑なのよ」「いい加減にしてよ」と声なき怒声が飛び交う。「閉店間際のタイムサービスで迷いは御法度」がデパ地下の暗黙の掟なのである。
 そんな中、タイミングよく自分の番が来たので鶏肉のカシューナッツ炒めと麻婆豆腐と酢豚を注文する。店員がすばやくショウケースから取り出してカウンターに積み上げる。
「あら、酢豚もおいしそうじゃない」
 向こうにいたはずの婆さん姉妹がいつの間にか自分の背後に忍び寄り、蜘蛛のように曲がった長い指でカウンター上の酢豚のパックをむんずとつかみ取る。
 私は怒った犬のようにうなり、奪い返してカウンターに置く。
「あら、あなたのだったの? ごめんなさーい」
 こいつらちょっと変だぞ、一般的な老人は人が買ったものに手を出さない。
 心の中で空襲警報が鳴った。
 婆さん姉妹はその後も店員を待たせてキャンキャン嬌声を上げながら白い顔であちこち移動して総菜を選んでいる。
 いったいどこから来たんだこの姉妹、お盆まで待てなくて出てきたのか。
 店員が気を効かせて別の酢豚のパックと取り替えて包んでくれた。
 やれやれ、どうにか夕飯をゲットできたわいと哀愁を帯びた蛍の光が流れ始めるなか、出口へ向かった。婆さん姉妹はふらふらショウケースのまわりを歩き回っている。まだ迷っているのだ。もしかすると一生迷い続けるのか。
 店員はとっくに彼女たちを放っといて他の客の相手をしている。
  
 家に帰るためバスに乗る。けっこう込んでいるが2人掛けの窓際に座れた。
 至近距離に立っているおっさんがさっきから何だか落ち着かない。
 変な人だなあ何でチラチラこっち見るのかな、やめてくれないかなあ疲れるから。
 声を出さずに抗議するが聞こえるわけがないので無視して仕方なく携帯をいじる。
 やがておっさんを含む乗客が真っ暗な停留所でバラバラ降り、今度は妊婦が私の隣に座った。手に持ったブランド服の大きな紙袋がぼかんと私の膝に当たる。
 妊婦はずっと携帯をいじっている。
 あーあ今日はこんなのばっかり勘弁してほしいなあ、やっぱりこれ全部自分の心が引き寄せてるのかね。
 少しうんざりしていると次は自分の降りる停留所。
 妊婦さん立たせるの悪いなあ、でも立ってくれないと自分が降りられないからなあと仕方なく「すみません」と会釈すると、ニコッと微笑んで「降りますのね」と大きなおなかを持ち上げて立ち上がった。
 あっすごい美人。
 すがすがしく清楚で品のある顔立ち、透明に光り輝くクリスタル色のオーラが全身を取り巻いている。
 うわああなたさまは確実に徳の高いお方、知性と理性とやさしさが三位一体となって周囲の人々の心を根底から癒やしてくださる本物の貴婦人。そのおなかに宿られた幸運な御子は男の子ですわ、将来はきっとあなたさまの自慢の息子に成長することでしょう。
 バスを降り、家に帰って酢豚と鶏のカシューナッツ炒めと麻婆豆腐を食べた後もしばらく陶酔が続いた。
 自分を取り巻く世界には婆さん姉妹もいるがマリアさまもいる、ま、それほど捨てたもんでもないかなあと満足し、その晩はぐっすり眠った。

2011.08.06

真夏の憂鬱

DSC00163
 ものすごく日差しが強かったので、太陽が西の空に移動するのを待って散歩。
 夏真っ盛りだが吹く風にどことなく哀愁がある、気の早い秋がすでに吹いてきているのだなあと眠い目をこすりながら駅ビルに入ると、小学生くらいの女の子が「夕飯食べたくない! 絶対に食べたくない!」と母親に大声で怒鳴っている。
 暑いからね、その気持ちわかるわかる、実は私も食欲があまりないんだよお嬢ちゃんと心の中でテレパシーを送りつつ総菜売り場でおかずを買い、ついでに大好物のシュークリームとチョコレートも買って店を出る。本当に食欲ないのか。

 しおしおのパーになりかけながらとぼとぼ歩いていると、道ばたにキジトラのネコが寝そべってじっとこちらを見ている。若い、たぶん1歳未満だ。お前、遊んでほしいんだねネコだいすきーフリスキー♪と歌いながら手を出して小一時間ほど草むらでたわむれる。
 やがてネコはこちらをナメはじめ、手首に噛みついたり後ろ脚で腕を蹴ったりあげくの果ては狂気に満ちた目つきになり鋭い爪を立てて乱暴狼藉の数々で手をいたぶりまくる。案の定、皮膚が裂けて流血。今日はもうおしまいだよ子ネコちゃんと平静を保ちつつその場を離れ、帰宅。
 家に着いてから猛烈に腕や脚がかゆくなり、見るとぷっくり赤く腫れている。草むらにしゃがんでいるとき、蚊に刺されたのである。
 かゆい、かゆすぎると手足数カ所にかゆみ止めを塗るがいっこうに治まらない。
 いいもん、生クリームがうずまき状にこんもり盛り上がったシュークリームがあるもん、ふわっと盛り上がったシューの中に注入された黄色いカスタードクリームと白い生クリームをスプーンで微妙に調合してハーモニーを楽しむんだもんねと箱を開けると逆さにひっくり返って中のクリームが紙箱の内側に飛び散っていた。
 ええい土用だから仕方ない、自然界の気のバランスが乱れている時期だから何があってもおかしくないのだなどとわかったようなわからないような言いわけをむりやり自分にして、清水の舞台から飛び降りて購入した高価なひんやりマットにごろんと横たわって行き場のない怒りとかゆみを鎮めようと試みた。
 しかし何分たっても体はいっこうにひんやりせず、それどころか蓄熱してどんどんぬるくなってきた。なぜなのか。夏土用だからなのか。

2010.08.02

黄金虫

rimg0096.jpg
 銀行に行った帰り道、アスファルトの地面を黄金虫がもそもそ歩いていたので拾って帰る。本来、虫は苦手なのだが、黄金色に光り輝く甲羅についつい魅せられ、人差し指に乗せて持ち帰ったのである。コガちゃんと名づける。
 蓋付きの小箱にきりで穴をぶすぶす開け、新聞紙を細かくちぎって敷き、小皿の上に輪切りのなすを乗せてやる。食べない。固いのか。じゃスイカの切れ端。パッと吸い付いた。
 スイカによじ登っている姿をよく見ると、黒い6本の脚それぞれにトゲトゲが生えている。これ、どこかで見たことあるなと不吉な気分になる。
 あ、ゴキブリじゃんと気づいてゾッとするが、「いいえこれはスカラベ、古代エジプトでは太陽神の化身とあがめられた聖なる虫」とどこかでエコーのかかった声が聞こえて気を取り直す。 

「暑いなあ、早く夏が終わらないかなあ」と思いながら本を読んでいると、頭上でバタバタバタバタといやあな音がする。ハッと見上げると大きな黒い物が天井をぶうううんとうなりながら飛び回っている。
 いやああああっ! 
 楳図かずおのマンガに出てくる女の子のような顔をして部屋を飛び出す。大きな黒いそれは窓ガラスにバン! と大きな音を立ててぶつかった。
 あああやっぱり虫はいや、大きらい、飛んでる姿なんかまんまゴキブリじゃんとうんざりしながらコガちゃん、どこいったのコガちゃんと呼ぶが返事なんかするわけがない。もしやと思って窓ガラスの下のさんを見ると細いすきまにはまってじっとしている。バカなやつ。指先で拾い上げてスイカに貼りつけてやる。

 翌日、友人宅で打ち上げ花火を鑑賞。ラスト5分は天空に大輪のラメの花が「どうでえこれでもかっ、ええいこれでもかあっ」と咲き乱れた。日本人の美意識と花火師の心意気を感じる。圧巻。
 友人が用意してくれたグリーンタイカレーやポテトサラダや生ハムメロンも圧巻。
 満員電車に揺られ少々ぐったりして帰宅、すぐにコガちゃん箱のふたを開けて中をのぞく。金色のコガちゃんは1人スイカ山に登ってじっとしている。どうすんのこれ、気持ち悪いけどかわいいけど気持ち悪いけどかわいいけどが頭の中で花火のようにバンバン打ち上がる。|

2010.08.01

わんぱくフリッパー

rimg0154.jpg
 何年か前、とある海辺の水族館へ一人で出かけた。どんより曇った午後だったと記憶している。平日のせいか入場者は少なく、広い園内は閑散としていた。
 大きなウミガメに触ったり、いきなり現れた巨大なデンキウナギにびっくりしたり、ピラニアの歯を見てうわあ破壊力あるうと思ったり、ふわふわ漂うクラゲをぼんやりながめたりしてから、少し離れた「イルカのプール」まで足を伸ばした。
 そこは2階建て構造になっており、上からはプールの水面からイルカを見下ろすことができ、階段を下るとぶ厚いガラス越しに泳ぐイルカがながめられるつくりになっていた。
 まずは上階でイルカが顔を出してくれるのを待つ。
 来ない。手をたたいても「おーい」と呼んでも来ない。
 潮風のさみしい香りが園内をさまよう。
 鼻水をすすり、背中を丸め、コートのポケットに両手を突っ込んでじっと待つ。
 やっぱり来ない。
 首を伸ばして下をのぞき込むと、黒っぽい大きなイルカが3頭ほどプールの底をゆっくり回遊している。なあんだ下にいるんじゃんと階段を下り、ぶ厚いガラスに顔をへばりつけて「イルカさーんこっちこっちー、こっちおいでよぅー」と両手をひらひら振った。
 ああイルカと仲良しになりたい癒やされたい、早くこっちにいらしゃいとガラスの水槽をパンパンたたいていたら、3頭がくるりと方向転換して一斉にこちらに泳いできた。
 君たちさみしかったろう、今日はお客さんが少ないもんね、私と一緒に遊びましょう。
 イルカの泳ぐスピードが尋常ではない。ものすごい勢いでグングンこちらに突進し、ガラスにぶつかる直前で彼らは体をくの字に曲げ、上半身を激しく前後に振り始めた。顔を見ると、目がつり上がっている。口元が般若のように裂けている。どう見ても威嚇である。これは人なつこくてさみしがりやのイルカさんが親愛の情を示しているのでは決してなく、私という侵入者に対して敵意をむき出しにしているのだと気づいた。
 イルカになぜここまできらわれなければいけないのかと呆然としていると、蛍の光が流れ始めた。薄暗い園内にはもう誰もいない。
 肩を落として出口へ向かった。おそるおそるプールを振り返ると、イルカはまだ上半身を激しく降り続けている。
「帰れ!」
「ボケ!」
「もう来るな!」
 彼らの発する超音波を翻訳したら、きっとそんな内容になったと思う。
 イルカと聞くとかわいくて賢い「わんぱくフリッパー」を連想する人は少なくないと思うが、それはあくまでも彼らの表向きの顔に過ぎない。裏の顔も知りたい人は、寒い曇り空の夕刻、人気のない水族館へ行くことをおすすめする。運がよければ、あなたも特別なおもてなしを受けるだろう。

2010.11.23