10年ほど前、あちこちの神社をめぐり歩いたことがある。今のように「パワースポット」が流行するはるか以前のことだ。
当時の私は悩みを抱えていて、今から思えば「少しでも運が上がっていい方向に向かいますように」とわらにでもすがる気持ちだったのだと思う。移動や散歩途中で神社仏閣を見かけては、いそいそとお参りしていた。
その日も、自宅から小一時間ほど歩いてとある町まで散歩した。
にぎやかな駅前の繁華街に向かう坂の途中に、大きな寺があった。何度もそばを通ってはいたが、何となく「一見さんお断り」のような雰囲気があったため、そこに入ったことはなかった。しかしその日に限ってなぜか入ってみようと思った。
夏の終わりの夕方で、自分の影が妙に細長く伸びていたのを覚えている。
境内には誰もいなかった。本堂を見て庭園をひとまわりしたが、だだっ広いだけで神気を感じなかった。その寺は妙にあっけらかんとして、「空洞」という印象だった。
少々がっかりして門に向かうと、巨大な老木が立っていた。よくみると根もとのほうに大きなうろ、つまり空洞がある。その中に木彫りの一寸法師が収まっていた。なかなか精悍な顔つきである。
スクナヒコナを祀っているのかな? と思い、手を合わせた。ちなみにスクナヒコナは大国主命(オオクニヌシノミコト)と力を合わせて日本を作った神さまであり、医療の神さまでもある。
一寸法師に祈っていると、木の根もとからなまぐさいにおいがふわりと立ち上ってきた。気のせいだと思った。
寺の外に歩き出してから、あれ? と違和感を覚えた。背中がずしりと重く、胃がムカムカして非常に気分が悪いのである。
ガマンして、そのまま歩いて帰る。
帰宅して塩風呂に入ったあとも、何とも言えないいやな感じが続いた。まるで背中に子どもがべったりのしかかっているような重苦しさなのである。
自問自答するうち、あの一寸法師のせいだと確信。こちらが無防備に手を合わせたので、すかさず憑依してきたのだろう。
その晩、目に見えない邪気、それもかなりたちの悪いやつと無言の攻防戦を繰り広げることになった。「押されたら押し戻す」を続けてぐったり気疲れしながら、下手に見知らぬ寺に入るもんじゃない、縁起ものだからといって何でもかんでも手を合わせるとひどい目に遭う、これは神頼みで問題を解決したいというさもしい欲得の罰が当たったのだと深く反省した。
人間にもいい人と悪い人がいるように、神さまにもいい神霊と悪い神霊がいる。
プロや経験値の高い人ならひと目見て「これはありがたい神さま」とか「近づかないほうがいい神さま」などとわかるだろうが、素人にはほとんど見分けがつかない。
昨今はパワースポットブームでたくさんの人が神社仏閣を訪れるが、「助けてください」の欲得の心は時として魔を呼び寄せる。
有名な場所でも、直感で「あ、ここヤバそうかも」「ちょっと違うかも」と感じたら、そのままUターンするか素通りすることをおすすめする。わけのわからないものにうっかり関わると、ろくなことにならないからである。
2010.06.16