路傍の石

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 今の家に住んでから、たまに「あちらの人」を見るようになった。見るのは昼間ではなく寅の刻、つまり明け方の3〜5時、眠っているときだ。
 この時間帯を方位に置き換えると東北、つまり鬼門。「鬼がわらわら出てくるから鬼門と呼ぶ」という説もあるが、偶然にも、寝室は家の中心から見て鬼門方位にあり、自分は北枕で寝ている。
 具体的に何をどう見るのかというと、別に貞子やフレディやチャッキーが目の前に来ていないいないばあするわけではなく、寝ている自分の側を人が通り過ぎていくだけだ。別に具合が悪そうには見えないし、ケガをしているわけでもなく、ただ普通の人が普通に歩いているのだが、夢うつつに「この人は死んだのだ」とピンとくるのが不思議である。
 なぜだろう、出てくる人たちは知り合いでも何でもないし、自分に何か伝えたいことがあるわけでもなさそうだしとあれこれ考えるうちに「もしかすると」とひらめいた。
 確かめるために、寝室の窓を開けて外を見る。
 やっぱり。
 寝室の真北に寺があった。
 念のため、近辺の地図を広げてみる。
 寺はひとつではなく複数あった。
 そうか、ここは通り道になっているのだなと納得。もちろんさまざまな通り道があるだろうが、日本を含む北半球では磁石の針はすべて北に引っ張られるし、それに何より肉体を脱ぎ捨てた魂は東や東南、南など明るい陽の方位へ向かうより、西や北西、北など陰の方位へ向かうほうが落ち着くのではないかと思う。西は西方浄土、北西は神仏を祀る方位、北は最も深い陰の方位であり、肉体と心を安らかに横たえる安らぎの方位なのだ。
 ではなぜ、死んだ人は寺を目指すのか。

「神社は生きている人の願いを叶えるための祈願装置」と前に書いたが、寺は死んだ人を集めてあの世へ送り出す「吸引装置」なのではないか。線香の香りや灯明の光、太鼓、読経の声などで「こっち、こっちですよ」と故人を呼び寄せ、僧侶や参列者が「どうぞ安らかに」「ご冥福をお祈りします」と鎮魂と祈りの念を捧げてあちらの世界へ送り出す。
 死んだ人は「そうか、自分は死んだのだな」と認識し、この世を離れる心の準備をする。何気なく上を見ると誰かが自分に手をさしのべている、この「誰か」は大好きだったおばあちゃんであったりかわいがっていた弟であったり愛しいネコやイヌであったりあるいは金色に輝く観音さまであるなど人によってさまざまと思う。
 今まで生きていた世界に未練や後悔が残っている場合はお迎えの手を無視してもう少しふらふらするかもしれないが、素直な子どもや一人でがんばって生きてきた女性ややりたいことをやって心残りがない人はわりとすんなり悟ってスムーズにあちらへ旅立つのではないだろうか。

 寝ている自分の側を通り過ぎていった人たちは性別も年齢もさまざまで、置かれていた立場も亡くなり方も多種多様だったと推測されるが、向かう方向はみな同じだった。小さくても年を取っていても、誰かと一緒に歩いている人はいなかった。財布や旅行カバンを持っている人もいなかった。やはり死ぬときは身ひとつなのだ。
 その後たぶん寺に吸い込まれ、次のステップに向かってそれぞれの旅立ちをしたのだろう。

 見るのは「たまに」だし、寝室を換えるのも間取り的に無理だし、勝手に引き出しを開けるとかいきなり枕をひっくり返すなどの悪さをするわけではないのでこのまま路傍の石として寝っ転がっていようと思うが、寝室の隅によっこらしょっと座り込んだり、顔を通常サイズの100倍くらいに増大させていきなり人の寝顔をのぞき込んだりするのだけはやめていただきたいと切に願う。

2012.05.08