神だのみ

DSC00357
 方位のパワーを取りに、約1週間の旅に出た。大吉方位への移動なので気分はハイ、苦手な飛行機も余裕で乗り倒した。私の趣味は開運だ。
 吉方位旅行のいいところは、旅の最中や事後にたとえゲッと思うようなことが起こっても、「これは開運に必要不可欠な毒出しである」「この出来事は過去の悪行を清算するため必然的に生じている」「これを越えれば幸せをつかむことができる」などと気持ちをポジティブに切り替えられるところであろう。ただ単に旅行してイヤな目に遭ってしょんぼりして帰ってくるより、よほど生産的なのである。吉方位旅行が古来すたれない理由のひとつは、そこにもあると思う。 
 ラッキーなことに初日はゲッなことも特に起こらず「ああ楽しい、ああうれしい」だらけで過ぎ、やがて夜が来た。上げ膳据え膳のホテルのベッドで横になり、800キロ近い移動の疲れもあってすぐに眠りに落ちた。

 ・・・・・・窓際の白いカーテンに、誰かがみの虫のようにくるまっている。やがて、ぺろんと布をめくって姿を現した。死んだ知り合いだ。
 この知り合いは夢を通して棺桶の中に一緒に入ろうと誘ってきたり、黄泉(よみ)の国に続く地中の狭いトンネルにむりやりご招待してくれようとするのでちっともありがたくない。たぶん他に頼る人がいないのだろう。
 またお前かしつこいな、人を巻き込もうとするのはムリだっちゅうのがまだわからんか。
 ・・・・・・やっぱりだめかなあ。
 私が拒否すると、そいつはぼそっとつぶやいた。
 生者と死者では存在する次元がまったく違うのは当然の理、それでも境界を飛び越えてコンタクトしてくるのは、よほど依存心が強いかよほど辛いのだろう。

 正規のステップを無視して無理やり肉体を脱ぎ捨てると、時間の流れから外れて「しばらく」さまようことになる。年を取るのはイヤだとみんな思うが時間に支配されるからこそ救いがあるのだ。神様の時間概念は悠久で人間の何倍も長いから、この「しばらく」は永遠に近い。苦しい瞬間のまま永遠を過ごすのはまさに地獄のような苦しみではないかと想像する。
 いつ生まれ落ちるか自分で決められないように、人間はいつ死ぬかを安易な理由で自分勝手に決めてはいけないのだ。「そんなの個人の自由じゃん」と不自然なことをすると、ベルトコンベアーからはずされてしばらく放って置かれることになる。

 いやな気分で目が覚めて、窓の外を見ると暗闇だ。時計を見ると3時過ぎ。まだ早い、寝ようと思って目を閉じた。

 私はバスに乗っている。バスの中はがらがらだ。
 両肩が妙にずしっと重い。
 あれ、何でこんなに肩が重いのと手で左肩を触ってみると、半分ひからびた誰かの手が乗っている。右肩も同じである。
 思わず後ろを振り向くと、丸い黒眼鏡をかけたやせた爺さんが両腕を伸ばし、私の両肩に両手を乗せている。
 うわっ。
 思わず手で払いのけ、立ち上がった。

 そこで目が覚めた。すでに明るい。時計を見ると6時を回っている。
 タモリ、もしくは冷血のトカゲにも似たあの無表情な黒眼鏡の爺さんはいったい誰だと考えを巡らせるがまったく心当たりがない。
 勝手に人の肩に手を乗せやがってずうずうしいと無性に腹が立ったが、すでに見終わってしまった夢なのでどうにもならない。
 飛行機の中で何か憑けてきたか、ホテルの部屋にもともといるものなのか、あるいは死んだ知り合いに関わる何かなのか。いずれにしてもたちが悪い、あの爺さんの黒眼鏡は正体をカムフラージュするためのもの、たぶん本体はものすごくケガレたものに違いないと想像する。
 旅先ではどうしても無防備にならざるを得ない、だから初めての部屋ではいろいろなものが襲ってくる確率がけっこう高い。

 萎えた気持ちを抱えたまま、朝いちの露天風呂に行く。
 誰もいない風呂の中で頭に白いタオルを乗せて「旅行の初日に悪夢2連発」の意味を考える。
 これは毒出しなのか? いや違う、隙を狙われたのだ。
 目の前は本州最西端のターコイズブルーの海、潮騒の音を聞きながら涼しい海風にただ身をさらすのみ。
 何にもなくて、いいところだなあ。
 あっそうか神社だ、どこか力のありそうな神社へ行って守ってもらえばいいのだとピンと来て、その日の移動途中に神社参拝の予定を組んだ。その神社の御祭神はストイックな武士として知られる。
 うん、あそこへ行こう。

 日の落ちる前に、神社に到着。
 凛と引き締まった空気が境内に漂い、正殿に向かうと自然に背筋が伸びた。一点の曇りもなくすがすがしい雰囲気、さすが後世に誉れ高い武士を祀った神社だけあると感心。
 二礼二拍手一礼してから、お守りを入手。おみくじを引くと大吉。
「争いごと 勝つ」
 やったあ。

 その夜、枕の下にお守りを忍ばせて横になる。またあいつが出てきたらもう本気で怒るぞ、しかし本気で怒ってもどうにもならなかったら面倒だなあといろいろなことを考えながらうとうとしていると、いきなり「この馬鹿者がぁぁぁぁっ!!!!」と大声で怒鳴る声が頭に響いた。
 えっバカ? 自分やっぱりバカですか? と一瞬思うがすぐにあっそれ違う、誰かものすごく大きくて強い人が誰かを恫喝(どうかつ)したのだと気づく。
 たぶん参拝した神様、もしくはその方の門下生が「馬鹿者」を追い払ってくれたのだ。やっぱりあのお方、頼もしいなあ。

 翌日以降の旅はほとんど何の問題もなく快適に過ぎ、無事に帰宅して今ここでこうしてブログ記事を書いている。道中いろいろなことを見たり聞いたり考えさせられたりしたが、おおむね楽しかった。
 現在、身体の中に方位のパワーがたっぷんたっぷんに詰まっているのを感じている。食べ過ぎか。いやそうじゃなくて。
 このパワーが具体的にどう具象化していくのか、これから興味深く見守っていこうと思っている。

2012.10.17

不意の来客

ん
 土曜の昼、わが家に2人の客が来た。
 まずはビールで乾杯、「どうですか、最近」「ぼちぼちですわ」の会話から入り、「んじゃ、ワインでも」。
 納戸から2年前のボジョレーを持ってくる。
 コルクをシュポンと抜くと酢の香りがかすかに立ち上るものの、飲んでみるとまだまだイケる。
「おいしいね」
「ビラージュはやっぱり飲みやすいね」
「この年は当たり年だったらしい、しかし毎年そう言われているような気もする」
 たちまち1本空になる。たいした会話をしているわけではないが、別にいいのである。2本目をまた持ってくる。

 ワインを飲みながらあれやこれや話しているうち日が南西方向に傾く。
 まぶしいのでブラインドを下ろそうとすると「あれ?」とびっくりした声でメンバーAが言う。
 どうしたんだ、天からすごい啓示でも降りてきたのかと問おうとするとAはあらぬ方を向いて目をごしごしこすっている。
「今さあ」
「うん」(メンバーBと自分)
「あそこのトイレからさあ」
「うん」(メンバーBと自分)
「ものすごく背の高い金髪の男が出てきてそのまま廊下の奥の寝室のドアを開けて入っていったけど、この家、自分たちのほかに誰かいる?」
 自分とBは顔を見合わせた。
「そういえば、さっき寝室のほうでバタンと音がしたね」とB。
「どんな顔だった?」
「いや、後ろ姿しか見えなかった」
「A、その男、どんな感じだった?」
「なんだか楽しそうだった、トイレを出てから廊下で何かにけつまずいてつんのめってた」
 ものすごく背の高い金髪の男などうちにはいない、A、念のため聞くが、あなたの酔っ払い度は100点満点中何点かと問うと、「60点くらいかなあ」と答える。
 2本目のワインの瓶はもうすぐ空になる。自分が1、Bが2、Aが3の割合、つまり一番飲んでいるのはAである。
 酒に酔ったうえでの幻覚か、それとも本当に見えたのか。

 西日がきついのでブラインドを下ろす。部屋がスッと暗くなる。
 あのさあもしかするとこの家霊道通ってるかもしれないんだよねとか言ったらいやがるだろうなあと思いつつワインを飲んでいると、まったくなんの脈絡もなくAが「ちょっとおなかすいたなあ」と言い出す。
 キッチンに立ち、用意していたカレーを温めた。まあいいや酔いが覚めればたぶん忘れるだろう、そのまま放っておこうと決め、カレーてんこ盛りの皿を2つテーブルに出す。不意の来客のぶんも出してやろうかと思ったがそこまでする義理もなかろうとやめておく。
「あ、すごいうまい」
「チーズかけるとさらにうまい」
 怒濤の勢いでカレーが目に見える世界から目に見えない世界へと消えていく。
 ブラインドの隙間から空を見ると雲間にオレンジ色の玉が沈みかけている。この先はつるべ落としでいきなり暗くなるだろう。
「じゃ、そろそろ帰る」
 まだいいじゃんちょっと気味が悪いからもう少しいてくれないかなあとこっそり願うが先方にも先方の都合があるので無理に引き留めるわけにいかず、「またどうぞ」とにっこり笑って送り出した。寝室の扉の奥で誰かが聞き耳を立てているような気がしたが、気のせいだと打ち消して、キッチンでひとり山のような洗い物と格闘し始めた。

2012.05.14

路傍の石

DSC00589
 今の家に住んでから、たまに「あちらの人」を見るようになった。見るのは昼間ではなく寅の刻、つまり明け方の3〜5時、眠っているときだ。
 この時間帯を方位に置き換えると東北、つまり鬼門。「鬼がわらわら出てくるから鬼門と呼ぶ」という説もあるが、偶然にも、寝室は家の中心から見て鬼門方位にあり、自分は北枕で寝ている。
 具体的に何をどう見るのかというと、別に貞子やフレディやチャッキーが目の前に来ていないいないばあするわけではなく、寝ている自分の側を人が通り過ぎていくだけだ。別に具合が悪そうには見えないし、ケガをしているわけでもなく、ただ普通の人が普通に歩いているのだが、夢うつつに「この人は死んだのだ」とピンとくるのが不思議である。
 なぜだろう、出てくる人たちは知り合いでも何でもないし、自分に何か伝えたいことがあるわけでもなさそうだしとあれこれ考えるうちに「もしかすると」とひらめいた。
 確かめるために、寝室の窓を開けて外を見る。
 やっぱり。
 寝室の真北に寺があった。
 念のため、近辺の地図を広げてみる。
 寺はひとつではなく複数あった。
 そうか、ここは通り道になっているのだなと納得。もちろんさまざまな通り道があるだろうが、日本を含む北半球では磁石の針はすべて北に引っ張られるし、それに何より肉体を脱ぎ捨てた魂は東や東南、南など明るい陽の方位へ向かうより、西や北西、北など陰の方位へ向かうほうが落ち着くのではないかと思う。西は西方浄土、北西は神仏を祀る方位、北は最も深い陰の方位であり、肉体と心を安らかに横たえる安らぎの方位なのだ。
 ではなぜ、死んだ人は寺を目指すのか。

「神社は生きている人の願いを叶えるための祈願装置」と前に書いたが、寺は死んだ人を集めてあの世へ送り出す「吸引装置」なのではないか。線香の香りや灯明の光、太鼓、読経の声などで「こっち、こっちですよ」と故人を呼び寄せ、僧侶や参列者が「どうぞ安らかに」「ご冥福をお祈りします」と鎮魂と祈りの念を捧げてあちらの世界へ送り出す。
 死んだ人は「そうか、自分は死んだのだな」と認識し、この世を離れる心の準備をする。何気なく上を見ると誰かが自分に手をさしのべている、この「誰か」は大好きだったおばあちゃんであったりかわいがっていた弟であったり愛しいネコやイヌであったりあるいは金色に輝く観音さまであるなど人によってさまざまと思う。
 今まで生きていた世界に未練や後悔が残っている場合はお迎えの手を無視してもう少しふらふらするかもしれないが、素直な子どもや一人でがんばって生きてきた女性ややりたいことをやって心残りがない人はわりとすんなり悟ってスムーズにあちらへ旅立つのではないだろうか。

 寝ている自分の側を通り過ぎていった人たちは性別も年齢もさまざまで、置かれていた立場も亡くなり方も多種多様だったと推測されるが、向かう方向はみな同じだった。小さくても年を取っていても、誰かと一緒に歩いている人はいなかった。財布や旅行カバンを持っている人もいなかった。やはり死ぬときは身ひとつなのだ。
 その後たぶん寺に吸い込まれ、次のステップに向かってそれぞれの旅立ちをしたのだろう。

 見るのは「たまに」だし、寝室を換えるのも間取り的に無理だし、勝手に引き出しを開けるとかいきなり枕をひっくり返すなどの悪さをするわけではないのでこのまま路傍の石として寝っ転がっていようと思うが、寝室の隅によっこらしょっと座り込んだり、顔を通常サイズの100倍くらいに増大させていきなり人の寝顔をのぞき込んだりするのだけはやめていただきたいと切に願う。

2012.05.08