赤ん坊

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 仕事で訪ねた家に、生まれたばかりの赤ん坊が白いガーゼの肌着をまとって静かに横たわっている。「生きているの」と聞くと「もちろん生きてます」と言う。
 見ると、ときどきひょっと腕を動かしたり、ひょっと脚を動かしたりする。うっすら開いた眼は視点が定まらず、ゆっくり閉じたり開いたりしている。
「まだね、見えていないかもしれませんね」
 眼をのぞき込むとガラス玉のように青く澄んでいる。生まれたばかりの人間はあちらの世界に限りなく近いところにいるのでまだ瞳が透明、澄んだ瞳はその身体の中に汚れのない新品の魂が宿っている証拠だ。
「あ、起きた」
 声を上げ始めた赤ん坊を母親が抱き起こす。
 ムンクの叫ぶ人、タコ、エイリアン、神さま、仏さまと、表情が次々に変化していく。細胞分裂なのか、それとも魂が座り位置をくるくる変えていることのあらわれなのか。
「すみません、すぐに戻ってきますので少しだっこしていてもらえます?」
 ネコやイヌの子なら抱いたことはあるが、人間の新生児を抱くのは実に生まれてはじめての体験、まだ首の据わらないぐにゃりとしたものをおそるおそる腕にかかえる。

 泣くかと思ったが、赤ん坊は手を伸ばしておとなしく抱かれたままである。ものすごく小さな膝がときおりゆらゆら揺れる。
 坊や、たぶん私が、君をだっこする初めての赤の他人だよ。
 赤ん坊の目が薄く開き、一瞬こちらを見てからまた静かに目を閉じる。透明な瞳の奥に清らかなものが宿っている。神様に近い聖なる魂の存在を感じて胸を打たれる。どうかこの子が幸せな人生を歩みますようにと思わず心の中で手を合わせる。赤ん坊に腕力はないが、人の心に愛を呼び起こす特殊な力は持っている。
「すみません、泣きませんでした?」
 母親の手にゆっくり赤ん坊を戻す。

 どんな人間でも生まれたときは全員ああなのかと思うと心底から人を憎めなくなる、生まれたてはみな無垢であり、育てられる環境によってどんどん枝分かれしていくだけだ。色のついた瞳は、死ぬ間際にまた透明に戻るだろうか?
 そんなことを考えながら疲れたのでその晩は9時前に床につき、何の夢も見ないで翌朝はいつも通りの時間に起きた。
 9月に入ったとはいえまだまだ残暑は続く、しかし暑さ寒さも彼岸まで、秋は音もなく忍び寄り、自分を含む全員の時間もまた静かに前に進んでいく。

2012.09.10