繁華街にある大きな書店をじっくりひと巡りしたのち疲れてぼんやりした頭で電車に乗って帰宅、駅前のスーパーで牛乳やオレンジジュースや日本酒や塩など重量のあるものをこれでもかと買いまくり、ああ重いこんなの持っててくてく歩いて家に帰るのかね本屋で本3冊買ったうえにさらに重いもの買ってバカじゃねえのと自分で自分にうんざりしながら袋詰めしていると、「ステキね」と唐突に声がした。
前後左右&天地をきょろきょろ見回すが他に誰もいない。怪訝な顔でふと正面を見ると見知らぬ奥さんが自分を見てニコニコしている。向こう三軒両隣どこにでもいるような、ごく一般的な品のいい中年の奥さんである。
えっもしかすると自分のことですか、えええ奥さん正気ですかとじっと相手の目を見る。
「帽子とお洋服の色の組み合わせがとってもステキ」
その日は紺色の帽子に紺色の麻シャツに真っ赤なパンツを履いていた。
そうか、この奥さんは赤×紺のパッキリしたコンビネーションに目を奪われたのだなと気づき、あああありがとうございますこの帽子は自分にとって天パーのボサボサ頭をカムフラージュするためになくてはならない必須アイテムであり、これがないと私は巨大なモンチッチになるのでありますと説明する。
「そのお帽子とても似合うわ、ほほほじゃあねえ」
長年生きているがスーパーで見知らぬ他人さまから褒められるのは生まれて初めての体験だ。そうかあ自分イケてるんかあとうれしくなり、マリオが空中ブロックをドカコンとどつくようにひゃっほうと天高くジャンプしてからスーパーを出た。
地球を持ち上げるくらい重かった荷物がこんなに軽い、あの奥さんの方術すごい、いやあありがたいねえと感謝するうち「無財の七施」という言葉を思い出した。
それは人に慈悲を施しましょうという仏教の教えで、1.眼施(がんせ)・・・やさしいまなざしを向ける 2.和顔施(わがんせ)・・・にこやかな顔で接する 3.言施(ごんせ)・・・温かい言葉をかける 4.身施(しんせ)・・・助ける 5.心施(しんせ)・・・思いやる 6.床座施(しょうざせ)・・・席を譲る 7.房舎施(ぼうしゃせ)・・・もてなす、の7項目がある。
あの奥さんがぐったりしていた自分にしてくれたことは実に3番目の「言施」ではなかったかとハッとする。
言った本人は「無財の七施」とか「慈悲の実践」など小難しいことはまったく考えていなかったと思う。たぶん目について感じたことを素直に口にしただけだろう。しかし不意討ちのように放たれた「ステキね」の言葉はずどんと私の心に深く突き刺さり、身体の隅々に重苦しく張り巡らされていた疲労感を粉々に打ち砕いた。恐るべし、言施の威力。
金と徳は天下の回りものだ。だから私はあの奥さんから受け取ったプレゼントをいずれ誰かに手渡したいと思う。
もしあなたがいつかどこかで帽子をかぶった変なやつから何かモニョモニョ言われることがあったら、ああ、あのブログの筆者だな仕方ねえなあと、どうかいやがらずに言施を受け取っていただきたいと切に願う。