奥さんの方術

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 繁華街にある大きな書店をじっくりひと巡りしたのち疲れてぼんやりした頭で電車に乗って帰宅、駅前のスーパーで牛乳やオレンジジュースや日本酒や塩など重量のあるものをこれでもかと買いまくり、ああ重いこんなの持っててくてく歩いて家に帰るのかね本屋で本3冊買ったうえにさらに重いもの買ってバカじゃねえのと自分で自分にうんざりしながら袋詰めしていると、「ステキね」と唐突に声がした。
 前後左右&天地をきょろきょろ見回すが他に誰もいない。怪訝な顔でふと正面を見ると見知らぬ奥さんが自分を見てニコニコしている。向こう三軒両隣どこにでもいるような、ごく一般的な品のいい中年の奥さんである。
 えっもしかすると自分のことですか、えええ奥さん正気ですかとじっと相手の目を見る。
「帽子とお洋服の色の組み合わせがとってもステキ」
 その日は紺色の帽子に紺色の麻シャツに真っ赤なパンツを履いていた。
 そうか、この奥さんは赤×紺のパッキリしたコンビネーションに目を奪われたのだなと気づき、あああありがとうございますこの帽子は自分にとって天パーのボサボサ頭をカムフラージュするためになくてはならない必須アイテムであり、これがないと私は巨大なモンチッチになるのでありますと説明する。
「そのお帽子とても似合うわ、ほほほじゃあねえ」
 長年生きているがスーパーで見知らぬ他人さまから褒められるのは生まれて初めての体験だ。そうかあ自分イケてるんかあとうれしくなり、マリオが空中ブロックをドカコンとどつくようにひゃっほうと天高くジャンプしてからスーパーを出た。

 地球を持ち上げるくらい重かった荷物がこんなに軽い、あの奥さんの方術すごい、いやあありがたいねえと感謝するうち「無財の七施」という言葉を思い出した。
 それは人に慈悲を施しましょうという仏教の教えで、1.眼施(がんせ)・・・やさしいまなざしを向ける 2.和顔施(わがんせ)・・・にこやかな顔で接する 3.言施(ごんせ)・・・温かい言葉をかける 4.身施(しんせ)・・・助ける 5.心施(しんせ)・・・思いやる 6.床座施(しょうざせ)・・・席を譲る 7.房舎施(ぼうしゃせ)・・・もてなす、の7項目がある。
 あの奥さんがぐったりしていた自分にしてくれたことは実に3番目の「言施」ではなかったかとハッとする。

 言った本人は「無財の七施」とか「慈悲の実践」など小難しいことはまったく考えていなかったと思う。たぶん目について感じたことを素直に口にしただけだろう。しかし不意討ちのように放たれた「ステキね」の言葉はずどんと私の心に深く突き刺さり、身体の隅々に重苦しく張り巡らされていた疲労感を粉々に打ち砕いた。恐るべし、言施の威力。

 金と徳は天下の回りものだ。だから私はあの奥さんから受け取ったプレゼントをいずれ誰かに手渡したいと思う。
 もしあなたがいつかどこかで帽子をかぶった変なやつから何かモニョモニョ言われることがあったら、ああ、あのブログの筆者だな仕方ねえなあと、どうかいやがらずに言施を受け取っていただきたいと切に願う。

骨密度

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 3月中旬のある晴れた朝、散歩がてら骨密度を測定しに行く。
 道路沿いはマンションやビルの建設工事でわさわさとにぎやか、おまけにゴミの日なので収集車が集積所に来ては停まり、そのうえバスまであとからあとから来ては停まりするので全体的にアップテンポな春の大交響曲といったおもむきである。
 グリーンのフェルトのつば広帽に季節外れの毛皮のショートコートをまとった若い女性が精神病院の前にじっとたたずんでいる、これから行くのか出てきたのか。そこだけ時間が停止していたが、しばらくしてその女性が顔の向きをひょっと変えた瞬間にまた時間が流れ出した。
 そのようなばらばらの音符が飛び交う世界、印象としては淡いピンク色の陰と陽が交錯するうららかな2013年春の世界を、ひとり縫うように目的地へ向かった。

「おはようございます」を合図に検診が始まる。検診そのものは1分で済み、あとは椅子に腰掛けて結果と解説を待つだけだ。
 平日の午前中というのに次から次へと人がやって来る、男女比は3対7程度、年齢層はばらばら、たぶん職業もばらばら、それぞれの表情もばらばらである。
 ひまに任せていろいろな顔をながめるうち、幸せそうな顔をしている人とそうでない顔の人がいることに気づく。
 前者は背筋をスッと伸ばし顔色が明るく声のトーンが高くはつらつとしゃべり親しみやすい感じ、後者は猫背で顔色が沈み声のトーンが低くぼそぼそとぶっきらぼうな話し方で人を寄せつけない感じがする。これは着ている服や履いている靴や持っている物にはあまり関係ない。内面の光の質や輝き方が外側ににじみ出ているのだ。

「あなたは成人したときと骨密度がほぼ変わっていませんね。問題ないですよ」
 いやあよかったじゃん自分、じゃあこれからもがんばれるなと晴れ晴れした気持ちで建物の外に出ると太陽の光が道路に強く当たっている。風呂屋の煙突のように天高く伸びる真っ赤なクレーンを横目に見ながら、温かい道をウキウキと歩く。
 
 幸せな人もそうでない人も「人間である」というくくりではまったく同じ、何が違うかというと生きている環境と本人の心のあり方だけだ。100%言うことなしの素晴らしい環境に生きている人は皆無、むしろ人は何も考えずにほっとくと徐々によくないほうへ沈んでいくのが普通だから、幸せな人というのは重力に反して何かしらの努力をしていることになる。
 つらい、実につらいけどこのつらさをこのまま外にさらしたら周囲にもこのつらさが移ってしまうだろうとか、このまま堂々めぐりしてイヤなことを考え続けていてもちっともいいことなんかないからもうちょっと楽しいことを考えてみようとか、自分がされていやなことを人にするのはやめておこうとか、不安や心配で気持ちは下がってるけどせめて唇の両端だけは上げておこうとか、そういうちょっとした、しかしわりと力のいる作業ができるかできないかでその人の骨密度いや幸せ度は決まっていくのではないかと思う。
 
「骨密度は放っておくと自然に減っていきます、だからバランスの取れた食生活と適度な運動が大切なんですよ」
 過剰なダイエットがなぜ危険かというと、身を削るだけでなく骨も削るからだそうだ。骨が細くなると年を取ってから骨が折れやすくなる、寝たきりは実に骨が折れるので納豆や豆腐やめざしをたべて骨太をめざしましょうというわけだ。
 身も心も幸せになるためにはやはりカルシウムの意識的な摂取が必要だなと「骨まで愛して」を口ずさみながら再認識。
「やせなくちゃ」と無理にダイエットしなくても、年とりゃ食欲なくなってイヤでもやせますよお嬢さん。「痩せればモテる」「何とかなる」は女子の幻想、既製服の9号がすんなり入れば幸せになれるのかといったらそんなこと全然ないんだぜ。女の幸せは服のサイズでは決まらない、骨太かどうかで決まるのだ。

2013.03.12

チョコレート最終決戦

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 バレンタインデーを間近に控え、デパートの特設会場はどこも百花繚乱のチョコ祭り。一粒600円以上もする超高級トリュフ(一粒ですよ一粒)や色とりどりの美しい宝石のようなチョコ、フルーツのチョコがけ、ビーンズチョコ、動物モチーフのチョコ、和チョコなどが所狭しと並べられている様子は、まさに「チョコ万博」と言っても過言ではありません。
 チョコ好きの自分はすでに3カ所ほど回りましたが、どこへ行っても会場を訪れる客の99%が女子、1%が男子で、チョコレートとは女子の嗜好品であることがよくわかりました。たぶん購入されたチョコレートの約8割は、最終的に女子の胃袋に収まるのではないでしょうか。
 ということでバレンタインデーを狙って恋活をもくろむ人のためのゴールデンルール5つ。よろしければご参考に。

1 高すぎるチョコを渡さない
 ほとんど接点のない相手にいきなり1万円クラスのチョコを渡すとどうなるか。はい、気味悪がられます。「どんな野望や魂胆があるのか」と恐れられ、手編みのセーターを渡されたときのような顔でドン引きされるでしょう。相手に対する期待値を価格に置き換えてはいけないのですね。
「ああ高そうなチョコをありがとう、妻が好きなんだよね」と言われたとき殺意を覚えないためにも、2000円、せいぜい3000円クラスにとどめておくほうが無難です。そもそも1000円のチョコと3000円のチョコの味の違いがわかる男なんてほとんどいませんから、「そこそこの価格で見栄えのするもの」を選ぶのが得策です。余ったお金は将来のために貯金しておく、もしくは自分のために好きなチョコを買いましょう。

2 かといってカジュアルすぎるチョコでもダメ
 いくらおいしくても、本命の相手にキオスクやドラッグストアに並んでいるようなカジュアルなチョコを渡すのは避けたほうがいいでしょう。お徳用の袋入りもNGです。ひと目見た瞬間に「義理だな」「特売だな」「ついでに買ったな」とガッカリされます。

3 あっためない
 買ったチョコを暖房の当たる場所にずっと置いといたり、熱く高鳴る胸に抱きしめて寝たりすると溶けてしまいます。高級なチョコほど溶け率が高いです。開封したときに「なんじゃこりゃ」「いやがらせでは?」などとこちらの人格を疑われないためにも、ひんやりしたところに保管しておきましょう。

4 メッセージを添える
 バレンタインデーの本当の主役はチョコレートではなく、メッセージを書いたミニカードです。
 しかしこのカードにいきなり「すっごく好きです!」とか「去年の夏、社内運動会の障害物競争で網くぐりの網にからまってドン臭くもがいていたあなたをお見かけして以来、心の底から愛してしまいました」とか「ふふふ・・・・・・私は誰でしょう。ヒント:資材部の部屋の中心から見て東北方位の窓ぎわ、ちょうど鬼門ライン上のデスクに座ってまーす (^^)」などと書かれていたら、気の弱い男はそれを読んだとたん一目散に逃げ出すでしょう。
 メッセージカードには「好き」とか「愛してます」とか「つきあってください」とか力強く毛筆で書くんじゃなくて、「チョコレートの味はいかがですか? 感想はこちらまで→○○○○@○○○○.ne.jp」とボールペンで軽くメモするくらいがちょうどいいと思います。ただし相手の人となりがまだよくわからない場合は、いつでも捨てられる無料のフリーメールアドレスにしておきましょう。

5 見返りをすぐに期待しない
 人には人それぞれ抱えている事情があります。あなたがどんなに恋しくても、相手がすぐに返事を返してくれるとは限りません。
 その理由として「そもそもあなたのことが眼中にない」「女に興味がない」「すでに恋人もしくは妻子がいる」「体調が悪い」「仕事とかプライベートでトラブルを抱えていて今それどころじゃない」「チョコレートアレルギー」「根性がねじ曲がっている」などが考えられます。

「うまく運ばないことをゴリ押しすると、見舞われなくていい災厄に見舞われる」「最初からタイミングの合わない相手は、最後までタイミングが合わない」と運命学では申します。「チョコどうだった?」「メッセージの返事は?」などとこちらからカマをかけるのは控え、しばらく静観してみましょう。ホワイトデーを過ぎても無反応だった場合は「脈がない」「縁がない」「誠意がない」のどれかですから、すみやかに気持ちをリセットしましょう。
 どうしてもあきらめきれない場合は、ネクストプランとして相手の誕生日を狙います。この場合も、主役はプレゼントではなくメッセージカードです。「いつもありがとうございます、感謝の気持ちを込めて」とか「お誕生日おめでとう! 今度よろしければランチでもいかがですか?」あたりがいいでしょう。
 それでも無反応だった場合は、残念ですがその個体はあきらめて別の個体を探すほうがいいと思います。
 
 ・・・・・・はい、こんな感じです。あなたの恋がすんなり成就しますように。

2013.02.12

リボンの騎士

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 ドライブの途中、空腹を感じたのでファミレスへ。
 ランチタイムをかなり過ぎた中途半端な時間なのにほぼ満員なのは休日のせいか。
「このランチセットにデザートをつけてどかんといきたいと思います、ああもちろん飲み物もつけたく思います」
 オーダーしてからサラダバーへ。レタスやらトマトやらキュウリやらがそれぞれのボールにてんこ盛り、マカロニやポテトサラダもたっぷり、ああどれにしようこんなんでお腹いっぱいにしたらメインの料理入らないぞとちょびっとずつちまちま取っていると背後にものすごく大きな人間がやってきた。1畳くらいある、もしや力士なのかとパッと見ると巨男である。
 うわあでかい、縦170センチ×横150センチ×奥行き100センチくらい、しかし妙に顔の造作がデリケートな男だなとよく見ると女であった。
「太め」とか「ぽっちゃり」とか「ふっくら」などというひかえめな形容詞をバズーカ砲で木っ端みじんに吹き飛ばし、かわりに「メガ」とか「超ド級(死語)」「ひと盛り3千万円」などと行書体でつづった旗を背中の鞘(さや)にクロス刺ししてどすんどすんと地響きを立てて歩いてくる一枚岩のようなイメージ、軽く見積もっても120、130キロはいっている。
 その一枚岩が自分の真横にずがんと停止して大皿に野菜やマカロニやポテトサラダを思いっきりわしづかみ、いやもちろん箸で、ごめんなさいこれ以上盛れませんと皿が悲鳴を上げるくらい盛りまくっている。
 脂肪のつきすぎたボディの上にちょこんと乗った顔は意外にも凛としていてリボンの騎士by手塚治虫に雰囲気が似ている。美しいアーチを描いた眉はキリッと濃く、大きな黒目はほんの少し愁(うれ)いをたたえている。20代後半と思われる。
 標準体重2倍越えの肥満体はたいていメンタルで何かしら問題を抱えている、お嬢さんあんた大きな不安か不満を抱えているね、その体重をせめて2分の1落とせば申し分のない美人になるし身も心も軽くなり人生が今より楽しくなるはず、いったい何があんたをそうさせたと心の中でよけいなお世話を焼く。

「お待たせしましたー」
 テーブルの上においしそうなハンバーグが運ばれてくる。ナイフで切れ目を入れると熱い肉汁がジュワッと飛び出す。すかさず口に運ぶ。
 んんん、んまい。
 巨体のリボンの騎士が両手に山盛りのサラダを携え、ゆっさゆっさと私のテーブルの脇を通り過ぎ、斜め前方の、白髪交じりの女性が座るテーブルに皿を置き、その対面にドカッと座った。そうか、母娘なのだな。
 母親は自分に背を向けているので顔は見えないが、寂しく折れ曲がった背中が「わたしはけっこう苦労してるンです」と無言で語っている。
 母親も娘も無言で黙々と料理を口に運んでいる。母親は食器に顔を向けっぱなし、娘は無表情で箸を上下するのみ。
 せっかくの休日の午後なのだから「今日は寒いねお母さん」「何言ってんだよお前、立冬過ぎたんだから当たり前だろ」くらいのフレンドリーな会話があってもいいのではないかと思ったがいやこの母娘はこの状態がデフォ(=デフォルト、「普通」とか「通常の状態」の意)なのだろうと思い直す。
 注文したハンバーグは予想外にボリューミーで食べても食べてもなくならない、まるで魔法のハンバーグだ。これ最後まで食べたら腹のふくれたカエルのようになる、もったいないがもうここでやめておこうと箸を置く。
 リボンの騎士がおもむろに立ち上がり、空の皿を携えてゆっさゆっさと自分の脇を通り過ぎていく。あの山のような野菜とマカロニとポテサラをもう平らげたのか。
 あそこに座っている母親は自分の娘があそこまでふくらんでしまったことをどう思っているのだろう? 
「たぶん何とも思っていない」という答えを直感的に得て暗い気持ちになる。

 娘の体重が標準枠を大幅に飛び越えて巨大化するもしくはガリガリにやせ細るのは母親の影響が大きい。過食や拒食は自分を支配する存在に対しての逃避や拒否を意味する。これは10代、20代に限らず母娘関係が改善しない限りいくつになっても続く。
 やさしくて繊細で小心なあまり「いやだ」と面と向かって言えない娘はやがてその気持ちが自分自身の身体に向かい、過剰に食べることもしくは極端に食べないことで現実逃避&現実拒否するようになる。
 日々の食事は生に直結しているので、それを放置するとやがて生命そのものが危険にさらされる。しかし母娘関係のゆがみが第三者に知られる機会はあまりないし、母親はもとより、当事者である娘本人もストレスの原因に気付いていないことが多い。

 ハンバーグの残った皿を下げてもらうと、ロールケーキが運ばれてきた。サラダバーに隣接するドリンクバーに行き、カプチーノをカップに注ぎ入れた。リボンの騎士が空の皿を引っさげてまたゆっさゆっさとこちらに向かってくる。 
 目を覚ませリボンの騎士、あんたはたぶんそれおいしいと思って食べてないしその行為にはきりがない、そんなものいくら食べても悩みは解決しないよ。
 湯気の立つカップにシナモンを振り入れる。
 逃げろ全速力で逃げろリボンの騎士、クモの巣が張り巡らされたその暗い城から一刻も早く逃げ出して、心から安心できる場所を見つけて本当の姿に戻れ。
 このカプチーノの香りが高い塔から垂らされたラプンツェルの長い髪となりますようにと願いながらテレパシーを送るがそんなもの通じるわけがない、リボンの騎士は重たい皿を両手に携えてゆっさゆっさとあきらめたような足取りで魔女の待つ城へ向かっていく。

2012.11.21

赤ん坊

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 仕事で訪ねた家に、生まれたばかりの赤ん坊が白いガーゼの肌着をまとって静かに横たわっている。「生きているの」と聞くと「もちろん生きてます」と言う。
 見ると、ときどきひょっと腕を動かしたり、ひょっと脚を動かしたりする。うっすら開いた眼は視点が定まらず、ゆっくり閉じたり開いたりしている。
「まだね、見えていないかもしれませんね」
 眼をのぞき込むとガラス玉のように青く澄んでいる。生まれたばかりの人間はあちらの世界に限りなく近いところにいるのでまだ瞳が透明、澄んだ瞳はその身体の中に汚れのない新品の魂が宿っている証拠だ。
「あ、起きた」
 声を上げ始めた赤ん坊を母親が抱き起こす。
 ムンクの叫ぶ人、タコ、エイリアン、神さま、仏さまと、表情が次々に変化していく。細胞分裂なのか、それとも魂が座り位置をくるくる変えていることのあらわれなのか。
「すみません、すぐに戻ってきますので少しだっこしていてもらえます?」
 ネコやイヌの子なら抱いたことはあるが、人間の新生児を抱くのは実に生まれてはじめての体験、まだ首の据わらないぐにゃりとしたものをおそるおそる腕にかかえる。

 泣くかと思ったが、赤ん坊は手を伸ばしておとなしく抱かれたままである。ものすごく小さな膝がときおりゆらゆら揺れる。
 坊や、たぶん私が、君をだっこする初めての赤の他人だよ。
 赤ん坊の目が薄く開き、一瞬こちらを見てからまた静かに目を閉じる。透明な瞳の奥に清らかなものが宿っている。神様に近い聖なる魂の存在を感じて胸を打たれる。どうかこの子が幸せな人生を歩みますようにと思わず心の中で手を合わせる。赤ん坊に腕力はないが、人の心に愛を呼び起こす特殊な力は持っている。
「すみません、泣きませんでした?」
 母親の手にゆっくり赤ん坊を戻す。

 どんな人間でも生まれたときは全員ああなのかと思うと心底から人を憎めなくなる、生まれたてはみな無垢であり、育てられる環境によってどんどん枝分かれしていくだけだ。色のついた瞳は、死ぬ間際にまた透明に戻るだろうか?
 そんなことを考えながら疲れたのでその晩は9時前に床につき、何の夢も見ないで翌朝はいつも通りの時間に起きた。
 9月に入ったとはいえまだまだ残暑は続く、しかし暑さ寒さも彼岸まで、秋は音もなく忍び寄り、自分を含む全員の時間もまた静かに前に進んでいく。

2012.09.10

夏風邪治療

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 夏風邪を引き、ああこりゃいかん早く直さねばと病院へ行って抗生物質をもらって安直に飲んだのがまずかった。
 3日飲めば1週間は効果が持続するという強力な抗生物質のおかげで免疫力が低下して舌は真っ白、上がるに上がれず下がるに下がれない約37度の微熱とのどから気管支にかけての不快感と全身の倦怠感とがすでに1週間以上続いている。
 あとで調べてみたら抗生物質は細菌には効くが風邪のウイルスには効かないとのこと、効く人には効くかもしれないが自分の場合は無駄に免疫力を低下させただけ、ばかだなあばかだなあ薬なんかに頼らず自力でウイルスをやっつけていれば今ごろすっきり回復して風邪耐性もついたのになああ今日もむだにだるいだけえええと演歌調に歌ってみるがもちろんそれで治るわけはない。抗生物質の効きの終焉を待って自力で体内環境を立て直し、再戦闘に臨むしかない。
 とりあえず今具体的にできることは①栄養のあるものを食べる、②よく眠る、③無駄に動いて体力を消耗させないの3つだけである。
 それ以外になんかできないのかと考えてみた。
 
 風邪を治すには体内のマクロファージをはじめとする免疫細胞を活性化させ、ウイルスをどんどん破壊してもらうしかない。「悪いウイルスをひとつずつ取り囲んでやっつけて食べてしまう」というマクロファージや好中球、NK(ナチュラルキラー)細胞はどの方位に属する物質か? と考えた末、「南西」という答えが出た。
 二黒土星の定位置である南西には「地道に努力する」「粘り強い」「ひとつずつコツコツ片付けていく」などの意味があり、さらにここは「ものごとをいつの間にか反転させる」「生きるものをじわじわ死に至らしめ、またその逆もある」という裏鬼門でもあるからだ。
 体内の免疫細胞の60%は腸に生息すると言われる。風邪を引くと下痢もしくは便秘をしやすくなるのは、腸が過度に働きすぎるもしくは働きすぎて疲れ、動く力が衰えるせいだろう。
 胃腸をつかさどる方位は南西である。免疫力に大きな影響を及ぼすのはやはり南西といっていいだろう。
 
 もうひとつ、免疫力を高めるには納豆や味噌、チーズ、ヨーグルトなどの発酵食品が効くと言われている。発酵食品は腸内の善玉菌を増やしていい腸内環境をつくるからだ。
「発酵」という営みは「中央方位」がつかさどる。中央は五黄土星の定位置であり、破壊(腐敗)と再生の方位なのだ。
 五黄には「排泄物」の象意もあるので、中央は南西と同じく腸をつかさどる方位と考えられる。
 以上のことから、「風邪の治癒には南西と中央のパワーを強化すればいい」と結論を出した。

 まず家の中心から見て南西に盛り塩、中心に盛り塩、ついでに東北の表鬼門にも盛り塩をして、自分を取り巻く環境の気を清める。
 東北と南西は超能力持ちの二卵性双生児のようなもの、風邪の治癒に限らず「いざ」というときに同時に清めておくと「兄弟!」と双方でガッと手を取り合って合体&ウルトラマンのようにぐんぐんパワーアップし、家の底力を立て直してくれるはずだ。
 表鬼門・裏鬼門に清らかでまっすぐな空気が漂う家はあまりイヤな目に遭わないし、逆に汚れた空気が漂う家は住人にグチや不満や苦労が多くなるとされている。

 南西は母なる大地の方位なのでフルーツや植物の実など「実りのもの」と相性がいい。大地の営みとして蜂が集めるハチミツもいいと思う。
 体内に南西パワーを注ぎ込むにはフルーツや木の実、田畑で収穫する穀類や豆類、いも、ごぼう、にんじん、大根、かぼちゃなどの根菜類を食べるといいのだ。
 南西は「庶民的な手作り」「田舎風」「煮込み料理」と相性がいいので、外食より家庭で作った「あつあつ」が効く。
 体内に中央のパワーを注ぎ入れるには納豆や味噌汁、ぬか漬けなどの発酵食品を採る。
 書いているうちに気づいたのだが、風邪を引いた子どもに母親がおかゆやおじや、煮込みうどん、温野菜、フルーツ、ヨーグルトのハチミツがけなどを一般的によく与えるのは、体内に南西と中央のパワーを注入するという意味で実に理にかなっているのではないか。(今ほどフルーツが豊富でなかった昔は、子どもの発熱時に桃缶やみかん缶などフルーツの缶詰をよく与えたものである。ちなみに外気を遮断した缶詰は中央のパワーを持っている。)
 というわけで、私はもつ煮込みうどん(牛の大腸を食すことによって自己の大腸をパワーアップさせようという試み)と納豆とバナナ&黒豆混ぜカスピ海ヨーグルトを食卓に並べてマクロファージの復活と権力奪回を計ろうと思うが、想像するとゲーである。これ、平常時でもいっぺんには無理だろう。

2012.07.07

新大久保

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 大久保から新大久保に向かって大久保通りを歩く。平日の夕方というのにやたら人が多いのは各種専門学校やコリアンタウンが近いせいか。
 向かって右側に皆中(かいちゅう)稲荷神社、宝くじやギャンブルが当たるようになると評判の神社だが、通りの喧噪とは裏腹にひっそり静かで誰もいない。
 新大久保駅の手前で大久保通りを左に渡って細長い路地に何となくふらり入ってみるとそこは異世界、マツキヨから韓国料理店から牛丼屋から八百屋からコンビニから何でもありのアイデンティティめちゃくちゃな空間にエスニックな香辛料の香りが充満している。
 においの出所を探すと、すぐそばにドネルケバブの店(ドネルケバブ・・・立てた串に薄切り肉を刺して何層にも積み重ねたもの。外側からあぶり、焼けたところからナイフで削ぎ落としてパンなどに挟んで食べる)。トルコ人(たぶん)の店主が大きなナイフで焼けた部分を削ぎながら、友人とおぼしき中東系の男たちと何か大声で話している。
 あまりじっと見つめていると「買ってく?」とか言われそうなのでゆっくりスルーすると、その先に今度はアラビア語のような言語がのたくる看板を掲げた輸入食材店。カルディコーヒーファームをもっと古くさく田舎くさく仕立てた感じで、デビッド・リンチの映画に出てきそうなミステリアスな雰囲気だ。
 店の奥はもしや異界に通じているのではと一瞬吸い込まれそうになるが、色が黒くて目が異常に大きい濃い顔立ちの店主が店の前に仁王立ちしているので中に入れず、ここもスルーする。
 目だけを出した真っ黒いブルカやニカブ(顔を覆うかぶりもの)をかぶったおばあさんやおばさんがいきなり目の前に出てきたらこわい、とてもこわいと恐れつつ道を突き進むと、細い道路がクロスする交差点に出た。渡った向こうはしんと静かな住宅街で、目に見えない境界線があからさまに敷かれている。
 Uターンして新大久保駅まで引き返し、大久保通りを今度は東新宿に向かって歩く。

 そこはいわゆるコリアンストリートと呼ばれる道で、韓国レストランや韓流スターのブロマイド屋やCD屋や化粧品屋や正体不明の店が乱雑にひしめきあっている。
 新しめのきれいなスーパーを見つけたので中に入ってみた。
 ごま油を塗った太巻きやトッポッキ(一口大の細長い餅を甘辛く炒めたもの)、チヂミ(韓国風お好み焼き)を実演販売しているそばで、店員が大声で何かしゃべりながら冷蔵ケースの中にキムチをせっせと補充している。
 キムチとひと口に言っても白菜キムチから大根キムチ、キュウリキムチ,水キムチ、イカキムチなどいろいろあり、すべて試食できるようになっている。試食している客の間を縫って奥に進むとインスタントラーメンやお菓子、韓国味噌、酒などが棚に整然と陳列されている。
 以前行ったソウルのみやげ物屋とそっくりだ、そうかここは新大久保という名の韓国なのだなと思う。「韓国風」ではなく純粋に韓国、コストコへ行くとアメリカのにおいがするがここは韓国のにおいがする、どちらも日本であって日本ではない。
 ふと気づくと身長180センチはあろうかと思われるお姉さんが自分のすぐ隣で韓国海苔を物色している。いいにおいがするのでたぶんシャンプーしたばかりだと思う。素足にサンダルを履いたお姉さんは背が高いだけでなく横幅もある。胸がラクダのこぶのように突き出している。
 あまりのダイナマイトボディぶりに顔を見やると男のお姉さんである。すっぴんだから仕事前か、お姉さん好き嫌い激しそうだねと話しかけてみたくなるがよけいなお世話なのでやめておく。
 
 韓国語や中国語や日本語が入り乱れて飛び交う大久保通りを、涼しげな目のきれいな女の子がさっそうと通り過ぎていく。だがよく見ると加工率200%の整形顔、カラコンと縁囲みアイメイク&目頭真っ白、激しく色を抜いた髪、限界ダイエットの末たぶん30キロ台までやせ細り足はガリガリ君の棒のよう、まるで3次元アニメのようにペラペラだ。
 激しい思い込みを身に課した人間や過剰なタトゥーやピアスを入れた人間を見ると気持ちが沈むのはなぜだろう、松井冬子の展覧会を見に行ったときも同じ気分になった、たぶん死の香りがするからだろう。彼らの心は誰も手の届かない闇の中にある。

 横断歩道の信号待ちで隣に立ったおばさんは町内会のチラシの束のようなものを手にしている、この人はたぶん日本人だろうと確信していたらいきなり「アンニョンハセヨー」と大声で知人らしき男性に挨拶、勢いよくハングル語で話し始めたので驚いた。アジア人の顔は本当によく似ている、黙っていたら国籍はまったくわからない。
「食べて!」「飲んで!」「味見して!」と威勢よく飛び交う呼び込みの中を泳ぎまわっていると明治通りの交差点、明治通りから向こうはハングルの喧噪がぷっつり途切れた別世界だ。

 東京都新宿区の韓国は百人町と大久保の中にすっぽり収まり、ダイナミックで粗野で奇妙な錬金術を日々繰り返しているように見える。そのカオスぶりは横浜中華街を濃縮還元してマッコリで煮詰めクミンをちょっぴり振りかけてキムチであえたのちテコンドーに熟達したおばさんたちが「ハッ!」「ハッ!」と勢いよく四方八方に蹴り上げているようなイメージがある。ささいなことがなんだかもうどうでもよくなるような力強さとアバウトさとゴリ押し感に満ちたバビロンの街だ。

2012.06.13

祈願装置

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 神前にはなぜ丸い鏡が祀られているのだろう?
 神棚を見上げるたび、疑問に思っていた。
 鏡には神さまの前に立つ自分の姿が映る。これで姿勢を正し身なりを整え真顔に戻ってから神さまに向かえということか。
 いや違う。それもあるかもしれないがたぶんそれが本当の目的じゃない。

 鏡は雲の形の台に乗っているからきっと太陽の象徴だ、太陽といえば天照大神(あまてらすおおみかみ)、つまり神道の最高神である太陽神の象徴を祀っているということか。
 神棚はふつう北に設置して南を向ける、もしくは西に設置して東を向けるから、鏡には上ってくる太陽の光や南中する太陽の光が集まって吸収される。吸収された光のパワーはそのままお社(やしろ)内部に広がり、そこから境内もしくは家じゅうにふわりと広がって気を清めるというわけか。うーん、なるほど。
 でも、もっと現実に即した意味があるのではないか。

 その答えを出すためには、まず「神さまって何か」を考えなくてはならない。私たちが神前で頭を下げるとき、いったい誰に向かって頭を下げているのか。
 一般的な作法としてはまず鈴を鳴らし、2回お辞儀して、2回柏手を打ち、最後にもう1回頭を下げる。このときうっすら目を開けて鏡を見ると、さあ誰が映っているでしょう? そう、自分である。私たちは自分に向かって2礼2拍手1礼しているのである。
 ・・・・・・ということはつまり、神前で「どうぞ夢が叶いますように」とお願いしている相手は、自分自身ということになる。

「宇宙に夢をオーダーすると叶う」という考え方がある。漠然と夢を思い浮かべながら、「それが叶ったらどんなにうれしいか」「どんなに楽しい気分になるか」を想像しながらぼんやりイメージしていると、やがて現実化するという考え方である。
 この方法は何かの媒体を必要とするわけではないし、お金も手間もかからないのでいつでもどこでもできるが、やり方に何の制約もないがゆえに「気が散りやすい」「ある程度の集中力が必要」「どうせ無理だろうと否定に傾きやすい」などの難点がある。
 しかし、日常から非日常に意識が切り替わる空間でならやりやすい。そう、神前で。

 鳥居をくぐると、そこは祓い清められたすがすがしい空間だ。参道を歩くうち、心から雑念、邪念が取り払われてすっきりしていく。
 神鏡の前に背筋を伸ばして立ち、「こうなりますように」と手を合わせて祈る。手と手を合わせると体内の気がどこにも逃げずにぐるぐる循環するので気持ちが集中しやすい。祈りはまっすぐ鏡に飛び、ぶつかってそのまま自分にはね返ってくる。
 ・・・・・・たぶんこの行為で、願望が潜在意識にすり込まれるのではないか。すり込まれた情報は無意識の分厚い層に潜り込み、その人を願望達成のための行動に向かわせる。つまりサブリミナルである。(だから、願いごとはシンプルなほうがいい。そのほうがストレートに飛んで深く潜り込むからだ。)
 そう考えて、やっと気づいた。
 神棚は、私たちの願いを叶える祈願装置なのだ。だからこそ、何千年もの間ずっと受け継がれている。

 近くに神社がない人、家に神棚を祀っていない人は、願望達成に丸い鏡を利用するといいのではないか。
 白雪姫に登場する意地悪な王妃のように「鏡よ鏡よ鏡さん、世界で一番美しいのはだあれ?」と夜な夜な問いかけるのは恐ろしいが、「幸せになるぞ!」とか「もっともっときれいになれ!」と語りかけるのはいいと思う。

2012.04.20

花まつり

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 花見をかねて川崎大師へ。
 日曜日とあって参道はにぎやか、トントコトントコとたんきり飴を切る乾いた音があたりに鳴り響いている。
 ここ下町っぽくて好きだなあと門をくぐると正面からドンドコドンドコ大太鼓を打ち鳴らす音、あっお護摩始まっちゃったよと血が騒ぎ、急いで本堂に上がった。
 鮮やかなパープルやグリーンの法衣を身につけた僧侶が一斉に読経するなか、護摩壇から金色の炎が勢いよく立ち上がる。ああっお不動さま、どうか私にまつわる災厄や煩悩をその強力な炎で一気に焼き払ってください、のうまくさあまんだーと手を合わせて祈る。
 無常に形の変わる炎を見つめ、リズミカルな太鼓の音を全身で聞くうち軽くトランス状態に入るかと思ったがそんなことは全然なく、ふと前を見ると母親におんぶされた赤子がこちらをじっと見ている。うわあかわいい頭髪がほとんどなくてお坊さんみたい、君の前世はもしかするとお坊さんだったのか、また娑婆に戻ってきて大変だのうと無言で問いかけるが返事はない。ただ澄んだ瞳でぽわんとこちらを見ているだけである。
 そういえばその日は花まつり、つまりお釈迦様の誕生日であった。

 読経が終わり外に出ると桜色の着物姿のきれいなお姉さんから甘茶のもてなし、ありがたくいただくとほんのり甘くてとてもおいしい。
 美しい花が飾られた花御堂(はなみどう)の中央にいらっしゃる幼いお釈迦様の像に甘茶を注いでいるとわれもわれもと子どもが寄ってくる。子どもはなぜ大人を真似るのが好きなのか。

 門前のそば屋で鴨なんばんをすすってから界隈を散歩するとあちこちに桜が咲いている。いわゆる桜の名所ではないところで「咲くときが来たので咲きました」と静かに咲いている桜は飾り気がなくスレておらず純朴な風情があって信用できる。「おみごとですね」とほめても「ああそうですか」と無関心、ただ太陽の光を受けて自分の営みをせっせと続けている。

 桜は満開に向かうときももちろんきれいだが散りぎわはもっと美しい、風に乗って一気に花びらを散らすときの潔さは壮絶で凄みすらある。
 花が散っても死ぬわけではない、きっかり1年後にはまた同じ花をつけて同じことを繰り返す桜は再生の象徴であり、希望の象徴でもある。
 桜満開の4月8日にお釈迦様が生まれたのはたぶん偶然ではないだろう、あっそういえば奇しくも今日はイースター(キリストの復活祭)でもある、それっていったいどういうことなのと少し驚いたのは、帰宅して竹の子の煮物を食べているときだった。

2012.04.10

女の背中

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 土曜日の夕方に自宅を出て愛車に乗り込みレッツドライブ片道2時間コースのはずが、途中で大渋滞に巻き込まれて片道4時間コースとなった。目的地である巨大ショッピングセンターに到着するとなんと閉店3分前、ぎりぎりセーフとあわてて中に入ると皆さんゆったりお買い物をお楽しみ中だ。
 必要な物を何とか買い終えて車に積み込み、まだ渋滞しているかないやたぶんもう大丈夫でしょう大丈夫になっといてくださいよと祈りつつ右よし左よしも一回右よしはい出発進行〜とJRの車掌になったつもりでエア指さし確認してから発進。
 道路は来たときよりだいぶ流れている、よし土曜日の夜としてこれくらいなら許容範囲であるとアクセルを踏みブレーキを踏みしているうちに非常に空腹であることに気づく。時計を見ると夜10時近い。元気に活動するためにはエネルギーを適宜補給しなければならぬと国道沿いのファミレスに車を止めた。

 入店率80%の店内を窓際の4人掛け禁煙席に案内され、豚肉ソテー定食を注文する。ついでにイチゴパフェもと思ったが時間も時間だしとやめておく。
 うーんちょっと塩辛いですね外食だから仕方ないかとはむはむしていると目の前の4人席に親子連れが案内されてきた。母親と就学前の男の子2人。3人は自分に背を向けて並んで座った。
 夜10時過ぎに幼い児童がまだ起きていて、しかもこれからここで夕飯なのかと思うが人ごとなので目の前の食べ物に集中する。
「・・・・・・タンメンお願いします」
 消え入りそうな母親の声。おっタンメンは私も好きだぞ野菜が多いから消化もいい、ナイスチョイスだ奥さんと心の中で突っ込みを入れる。 
 しーん。
 男児というものは通常わんぱくであり2名群れればわんばく2乗でカオスが形成されるはずなのに眼前の3人はまるで通夜の席のようにしめやかである。
「タンメンお待たせいたしました〜」と店員が向こうのテーブルに丼を乗せた。
 奥さんは箸を割り、食べ始めた。
 軽く肉のついた母親の背中は少し丸まっている。ガラス窓にもたれかかりながら食べている後ろ姿を見ているうちに、あ、この女性はあまり幸せではないなと思った。タンメンをすすっている後ろ姿がむせび泣いているように見えたのだ。
 女の背中は幸運のバロメーターのようなもので、現状に満足しているときは堂々と伸びているが、そうでないときは不安げにくねっている、もしくは光の当たらない植物のようにしゅんとしなびている。いずれにしても鏡に映らない部分なのでたいてい本人は無自覚である。
 男児2人は相変わらず静か、さっき聞こえなかったけど君たち何注文したのと心の中で問いかけるがもちろん返事はない。そのうちに小さい方が飽きたのかくるっとこちらを振り返って所在なさげに私のテーブルを眺めた。3歳くらいだろうか、邪気のない顔だ。
 私はこのとき自分がマジシャンでないことを残念に思った。手のひらからバラの花やトランプを次々に出せたら、空中からおもちゃをパッとつかみ出せたら、この子の顔にはきっと笑顔が浮かんだだろう。
 ごめんねボク私は引田天功じゃないんだよ、土曜日の夜10時すぎにファミレスでひとりぼっちでタンメン食べてる母ちゃんのそばで静かに過ごすしかないボクたちはこれから少しばかり苦労するかもしれないけどがんばりな、そのうち母ちゃんの背中がまっすぐに伸びるといいね。
 こちらを向いた男児に向かって、そんな内容のテレパシーを送った。
 それからおもむろにレシートをつかみ、じゃあなと手を振って、きょとんとした顔の彼を後にしてレジに向かった。

2012.03.11