春のお彼岸のココちゃん

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 春のお彼岸に突入してからナマ傷が絶えなかった。
 まず初っぱなに親指を勢いよく壁にぶつけて爪が紫色のマニキュアを塗ったようになった。
 お彼岸だし部屋を清めとくかと初日の朝から張り切って雑巾を握り、あちこちの壁を拭いていたとき、まったく意図していないのに不意に右腕が野球のボールを投げるような動きをした。大きく振りかぶった先は壁である。もちろん自分の意思ではない、まるで誰かに腕を持ち上げられて力任せにぶつけられたような感じだった。
 自分はなぜ親指の爪を自ら壁に激突させるような真似をしたのかとショックのあまり呆然としていたら、間もなくじんじん痛み出し、熱を帯び、平たいはずの爪が亀の甲羅のようにぷっくりふくれあがった。
 その日の午後、今度は右足の親指を机の脇に置いてあるキャスター付きの引き出しの角に思いっきりぶつけた。もちろんぶつけたくてぶつけたわけではない、何かのはずみでぶつけてしまったのである。しかし何のはずみだったのかさっぱり思い出せない。
 手の爪も痛いが足の爪はもっと痛い。見ると、こちらも紫色に変色していた。

 翌日の夜、風呂に入るためパンツ(下着ではなくアウターのパンツ。ズボン。)を脱いだら、右脚のふくらはぎに20センチほどの真っ赤なみみず腫れができていた。ほぼ一直線で、ところどころうっすら血がにじんでいる。浴槽に浸かるとひりひり痛んだ。
 風呂から上がってからパンツを裏返して念入りに調べたが、とがった金具などは出ていないし針やトゲが生地に突き刺さっているわけでもない。もしやこのみみず腫れは何かの聖痕かと背筋がゾッとして身体が一気に冷えた。

 次の日、新品の靴をおろして外出した。「バカの大足」と揶揄されながら育った自分にはまるで夢みたいなゆとりのある安心サイズで、デザインも好みだったので喜び勇んで色違いを二足買ったうちの一足だ。
 しかし歩き始めて10分もたたないうちに右くるぶしの下が痛くて痛くてたまらなくなり、道ばたで靴を脱いで靴下をめくってみると皮膚がむけて出血していた。仕方ないので人混みの中で立ち止まり、カバンから応急絆創膏を取り出してくるぶしの下に貼り付けた。
 新品の靴だから革が固いのはやむを得ない、しかしEEEの幅広サイズなのになぜこうなる、と割り切れない思いだった。

 ああなんかお彼岸に入ってから満身創痍、「気を引きしめい」とご先祖が戒めているのか、あるいは娑婆帰りしている悪霊のいたずらか。
 お彼岸は昼夜の時間がほぼ同じ、また寒くもなければ暑くもない。こういう陰陽のバランスが取れたニュートラルな時期は、自分の生き方や運を顧みる絶好の機会と言われている。何ともないならそれでOKだが、どこかにトラブルが出たら運が落ちている証拠なので気をつけたほうがいいとされている。
 春分の日を中日としてその前後3日間を春のお彼岸と呼ぶが、その1週間に身体に何かしらのトラブルが出た場合、左半身なら先祖の警告、右半身なら自分のせいという説もある。
 それじゃ右半身ばかりケガしてる自分はおっちょこちょいなのか。臍下丹田に気を込めてもっとどっしり生きなくてはいけないのかなどとぼんやり考えながら、例年より10日ほど早く咲いた桜並木をとぼとぼ歩く。

 お彼岸の最終日。
 ちょっと遠出をしようと愛車で高速道路に入り、途中でSAに立ち寄った。土曜日の昼だけあって非常に混んでいる。犬連れも多い。
 売店でも覗いていこうと施設の入り口に向かうと、通路の途中にいたプードルがつぶらな瞳でじっとこちらを見つめている。
 プードルは人間の気持ちを理解するひときわ賢い犬種と聞く、ああプードルちゃんかわいいなあやっぱり犬には犬好きがわかるんだねえお利口ちゃんだぞうと笑顔でアイコンタクトを取り、その犬の脇を通り過ぎようとしたとき、「バウンッ!!」と敵意むき出し、犬歯もむき出しで威嚇された。
「だめよぉココちゃん」
 身体のラインに沿うワンピースを着たフェロモンたっぷりな飼い主が、長い髪をかき上げながら犬に向かってやさしく微笑む。
 だめよぉココちゃんの前に驚かしてすみませんとあやまるのがスジだろうかき上げ女、お前らまとめて浦見魔太郎におしおきしてもらおうかええっどうだぁと誰にも聞こえないようにつぶやきながらそのまま何もなかったふりをして施設内に入り、売店を物色する。桜の季節だが心の中には秋風が吹いている。
 SAの売店をひととおり見て回ると、とあるコーナーに地元で取れた農産物が並んでいた。
 あっこのぬか漬けおいしそう、よし買ってやる、ビニール袋で念入りに包装されてるからだいじょうぶだろうと2パックレジに持って行き、ついでにリンゴも6個ばかりかごに入れているうちバカプードルのことなどすっかり忘れ、ウキウキと駐車場に戻って車のトランクに買い物袋を放り投げてからぶうううんと再び高速に参入した。

 帰宅すると、すでに夜10時を回っていた。
 さあ遅めの夕食だ、おかずは何もないけどもう遅いからぬか漬けと温かいご飯で充分と鼻歌を歌いつつほどよくつかったキュウリとにんじんと大根を適当な大きさに切った。
「いただきます!」
 ぬか漬け久しぶり、うれしいなあ、今回のお彼岸はいろいろあったけれど最後は口福(こうふく)で締めてやれ、終わりよければすべてよしだ。
 パリッ。
 いい音がする。鼻孔をふんわり軽やかに腐敗臭が通り抜ける。
 心にそよりと秋風が吹いた。
 これ、傷んでるじゃん。
 ぬか漬けを容赦なく捨てると、心の中で暴風雨がどうどうと吹き荒れた。
 せめてもの口直しにとリンゴをむく。
 シャクッ。
 まったくの無味無臭、甘くも酸っぱくも何ともなかった。

 以上が春のお彼岸の顛末である。わが人生に幸あれと祈る。

2013.03.26