小学校4年から高校2年まで、 私はM市の共同アパートに住んでいた。当時、アパートの前には米軍の駐屯地があり、広大な敷地には住居棟が要塞のように建ち並んでいた。敷地内にはアメリカ人の子どもが遊ぶ芝生の公園や教会やスーパーマーケットもあった。
駐屯地はそれ自体がひとつの街として機能していたため、中で暮らす住人が歩いて外に出てくることはあまりなかったが、たまに柔道着に黒帯を締めた黒人がゲートから出てきて素足で道をのし歩いたり、黒人男性と白人女性のカップルが体をぴったりくっつけて近隣を散歩したりしていた。
夕方になると国旗がするすると降ろされてアメリカ国歌が流れ、建国記念日などにはロックやジャズの生演奏が風に乗って聞こえてきた。
こちらから見ると鉄条網で隔離された異世界だったが、そこは妙に豊かで明るくてさばさばした雰囲気が漂っており、そのころ暗黒の人生を送っていた私は、まるで光を求める蛾のようにいつも窓から巨大な要塞を憧れの目でながめながら暮らしていた。救いようのない窮屈な環境に身を置きながら、「この世に存在する世界はたったひとつではない」と無意識のうちに教わっていたような気がする。
家の都合で高2のときにそこを離れて南西の丘陵地に移動したが、何年か前、思い立ってM市のそのアパートを訪ねた。すでに廃墟になっていた。
立ち入り禁止のロープがかかっていなかったので、思い切って自分の住んでいた棟の階段を上ってみた。捨てるに忍びなかったのか、階段の途中に枯れた鉢植えが数個置いてあり、小バエがその回りを飛んでいた。
3階の305号室のドアノブを回す。
開かない。
ドア中央部にしつらえられた新聞受けのフラップを押し開けるが、中は真っ暗で何も見えない。
仕方なく3階の階段から外をながめると、米軍の敷地内にあった要塞は跡形もなく取り壊され、だだっ広い開放公園になっていた。アメリカ人の姿は消え、かわりに芝生に座ってのんびりくつろぐ日本人がいた。私が慣れ親しんでいた世界は完全に消失していた。
あとで幼なじみにアパートのことを聞くと、「あそこはじきに取り壊され、民間の低層マンションが新しく建つのだ」と教えてくれた。
後日、再びそこを訪れてみると、すでにまったく新しい建物が建ち並んでいた。当時の風景の面影などもうどこにもなかった。どこか別の街に迷い込んだような気がした。
形あるものはすべて消え失せる。青春時代を過ごした「ふるさと」はもう私の記憶の中にしかない。
2009.10.30