奥さまは神さまである

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「どうだい今夜? 帰りにちょっと一杯」
「いやあやめとくよ、山の神がうるさいから」
 山の神とは誰か。奥さんである。 

「走りは爽快だし燃費もいいしおすすめの車ですよ、いかがですか?」
「うーんいいなあ、たしかにいいけどかみさんに相談しないとなあ」
 かみさんとは誰か。奥さんである。

 山の神の語源は「どっしり動かない人」「怒らせたらこわい人」、かみさんは「上にいる人」、奥さんは「奥に控えた人」「床の間で祀られる人」。つまり一家の主婦は、その家を支える神さまなのである。
 見せかけの強弱はどうあれ、夫婦の役割分担がどうあれ、その家で最も強い影響力を家族に及ぼすのは夫よりも奥さんだ。だから奥さんのパワーが強い家は、いざというとき強い。

2012.03.09

家探しの極意

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 3月、4月は引っ越しの季節。すでに物件探しを始めている人も少なくないと思いますが、実は不動産の世界って奥が深く、ネットや店頭でチャチャッと探してチャチャッと決めるのはまず無理、それ相応の時間をかけないと、いい物件にはなかなか巡り会えません。時間をかけても巡り会えないこともままあります。
 立地を優先すれば予算が足りず、立地と予算が折り合っても建物自体が今ひとつなど帯に短したすきに長しでしまいには「もう面倒くさいから適当でいいや」と投げたり妥協しちゃうケースがほとんどと言っていいでしょう。
 悲しいかな努力しなくてもいい家に住める人はほんのわずか、ほとんどの人は「人間、辛抱だ」とか「まあ仕方ないか」「住めば都」などと自分に言い聞かせながら暮らしているのが現実です。
 でも自分を幸せにしてくれそうにない家に住み続けるのって悲しいですよね、日当たりや風通しが悪くても狭くても上下左右から音が響いても古くて陰気でも隣人がちょっとアレでも、家賃やローンは無慈悲に毎月通帳から引き落とされます。どうせ高いお金払って住むなら「あっ自分、この先どんどん幸せになれるかも」とうっすら感じられる家に住みたいものです。
 そこで、物件選びのコツをいくつかご紹介しましょう。読んでおくと、何かのときに役立つかもしれません。

1 吉方位の家を選ぶ
 方位学は理論や統計で説明できるものではなく、あくまでも経験則です。ですから風水や占いが苦手な人はもちろん気にしなくてかまいませんが、「運」とか「ツキ」という言葉に少しでもこだわりのある人は、今住んでいる家から見て吉方位の家を選ぶといいと思います。
 契約時や住んだ後にもし何かアクシデントがあっても「だいじょうぶ、ここは吉方位だからきっといいほうにころぶはず」と自分に言い聞かせ、スムーズに問題を乗り越えられやすくなるからです。気持ちが前向きになるんですね。
「方位がいいからだいじょうぶ」とか「方位が悪いからよくないことが起こる」などと思い込み、実際にそうなっていくことを「暗示」と言います。ただの砂糖を「これは風邪の特効薬だよ」と患者に飲ませた結果、本当に治ってしまうことを「プラセボ効果」と言いますが、これとよく似たようなものですね。
(ちなみに未来を予見する占いのほとんどはプラセボのようなものです。相談者が占い師の言葉を信じ、その通りの軌跡をたどりやすいのは「暗示の種」を植えつけられるからです。ですから、たとえ「当たる」と評判でも、ネガティブなことを言う占い師に近づいてはいけません。どうせ見てもらうなら、元気と勇気をくれる占い師を探すほうがおトクです。だって結局、自分の運を織り上げていくのは自分なのですから。)

 たかが思い込み、されど思い込み。実はこれ、意外にあなどれません。
「こっちへ行けばいいことがある」というプラセボは、不動産購入など人生の一大事に直面したとき、自信を支えてくれる後ろ盾になってくれます。
 吉方位にこだわらないまでも、「その年の凶方位への引っ越しは避ける」と心するだけでも、結果は違ってくるでしょう。
 ただし、転勤などで方位が選べない場合はこの限りではありません。吉方位であろうとなかろうと、あなたは行かなければならないのですから。(気になる人は神社にお参りするなど、対処法はたくさんあります。)
 その場合はこの項目を飛ばし、2以降の項目を読み進めてください。

2 周辺環境を見る
「だいたいどのあたりに住むか」がおおよそ決まったら、次はその土地の環境を調べます。これはネットで見るだけでは絶対にわかりません、実際に足を運び、あなたの目、鼻、耳、直感を駆使して、そのエリアの肌ざわりを確かめてみましょう。
 大きな公園や学校があるところなら昼は活気があっても夜は人気がなくなりますし、繁華街がそばにあるなら昼も夜もにぎやかですが治安の面で少し問題があるかもしれません。工場周辺はにおいや音が気になったり、墓場のすぐそばは少し線香くさかったり鬼太郎と目玉親父がたまに出没したり、坂の上なら体調の悪いときや疲れてるときは外出・帰宅が少しつらいかもしれません。
 どこが住み心地がいいかはあなたが若者か年輩者か、男性か女性か、サラリーマンか自営業か、朝型か夜型かなどによっても違いますから、自分の足で現地へ行ってみて、自分のライフスタイルに合うかどうか確かめてくるといいでしょう。
 平日と休日、朝と夜、雨の日と晴れの日など、条件を変えて何回でも行ってみることをおすすめします。

3 物件を見る
 エリアが特定されたら、次はいよいよ物件を見に行きます。新築のマンションを買う場合は作りものの仮想空間(モデルルーム)を見に行くしかありませんが、中古のマンションなら実際に現地へ行って確かめることができます。
 チェックポイントは①マンションの外見、②エントランス、③廊下とエレベーター(もしくは階段)、④郵便ポスト、⑤ゴミ置き場、⑥(あれば)駐車場です。
 もし「荒れて」いるなら住人の質も推して知るべし、人一倍繊細なあなたがそういうところに住むとたぶん後悔することになるでしょう。
 しかしこれら6つのポイントがすっきりして清潔感があるなら、そのマンションの管理状態と住人のレベルは「問題なし」と見ます。
 あ、自分の住む家の隣人さんの玄関前も要チェックですよ。マンションの狭い通路に自転車とか壺とかマリア像とか置いている家はないですか? ひとつ置くとふたつ、ふたつ置くと3つ・・・・・・としだいに増殖して、あなたが通る隙間が侵略される恐れがあります。見た目もあまりいいものではありませんしね。 
 管理人さんがいるなら、その人にいろいろ話を聞いてみるのもいいでしょう。感じがよくて働き者の管理人さんがいる物件なら、そこは「あたり」です。

4 部屋を見る
 さあ、それではいよいよドアを開けて部屋の中に入ってみましょう。
 あっこの不動産屋のお兄ちゃんルックスはいいけど後頭部が少しヤバイかもなんて見とれていてはいけませんよ、ドアを開けた瞬間がわりと大事なのですから。
 このときに不安やゆううつ感が頭をよぎるなら、やめといたほうが無難かもしれません。こういうのを「直感」とか「予感」とかいいますが、わりと当たります。
 また昼間なのに何となく薄暗かったり、空気がどーんと重苦しく感じられるようなら、そこに住んでもたぶんいいことは何もありません。おそらく前の住人があまり幸せでなかった可能性があり、あなたもそのあおりを受けて同じような運をたどってしまう恐れがあるからです。特に事故物件は要注意です。
 逆に「あっ、ここ空気が軽くていい感じ!」とか「明るくて気持ちのいい部屋だなあ」と素直に思えるなら、あなたとその部屋の相性はグググのグーということです。
 窓から何が見えるか、キッチンやトイレの水の流れはいいか、排水口からイヤなにおいが立ちのぼってこないか、じっとしているときに変な音が聞こえてこないか(外の騒音とかエレベーターの音とか階上・隣の騒音など)もしっかりチェックしましょう。こちらも曜日や時間帯、天気の違うときに何度でも足を運んでみることをおすすめします。

 具体的な間取りについてですが、細かいことをあまり気にしてもきりがないので、全体の輪郭がほぼ長方形ならよしとしましょう。
 凸凹が激しい間取り、三角形の間取り、台形の間取りなどは避けたほうがベターです。何より掃除が大変ですし、家具を置きにくいですし、住んでるうちに何かとストレスがたまってきます。

 マンションの場合は、上に住戸のない角部屋がおすすめです。メゾネットもいいでしょう。開放感がありますし、騒音の心配が少ないからです。
 ただし、「マンションは最上階と1階から先に埋まるのが世間の相場、最後に残るのは中住戸の中層階」ということを覚えておきましょう。人気の部屋は早い者勝ち、もし最上階の角部屋に入居したいなら、運を上げてタイミングのいい人になってください。
 天井は、高いほうが吉です。低いと運が「頭打ち」になりやすいからです。
 必要な部屋数は家族構成によっても異なりますが、1人や2人暮らしなら、ちまちました部屋が複数あるよりも、大きな部屋が1つか2つどーんとあれば充分です。そのほうが気の流れがいいですし、開放感がありますし、掃除もラクです。
 トイレ、浴室、洗面所などの水場は、できるだけ広いほうが吉です。水場には換気のため窓がほしいところですが、マンションではなかなか難しいかもしれません。窓がない場合は換気扇を常に回しておくとか、まめに掃除するとか、植物や生花を飾るなどで気の循環を促しましょう。
「何となく暗い場所」には盛り塩をして気を清めるのもいいかと思います。
「家の顔」と称される玄関ももちろん広いほうが吉。狭いより広いほうが「顔が広くなる」、つまりたくさんの人と知り合いになれます。お客さんを呼ぶときも気後れしません。
 予算の都合上どうしても猫の額くらいの玄関の家に住まなければならないなら、靴や傘はきちんとしまう、小物はあまり置かないなど、できるだけ空間をすっきり保つ工夫が必要です。
 気持ちに余裕と玄関先にスペースがあれば、季節の生花を飾っておくと厄除けになります。ただし水は毎日取り替え、枯れたら捨てるのが鉄則です。「あ、ここ、気配りのできるきちんとした人が住んでるな」と思われます。

 ややマニアックになりますが、家の中心から見た玄関の方位で、住人の気質を知ることもできます。
 北の玄関は人見知りだけど誠実、東北はちょっと気分屋な親分・姉御肌、東は働き者、東南なら人当たりのいいつきあい上手、南なら個性的、南西はかかあ天下(女性が強い)、西はおいしいもの食べたり飲んだりするのが大好き、北西はプライドを持って生きる人。わりと当たってるでしょう?

 実は、今あなたが住んでいる家は偶然手に入れたものではなく、意識する・しないにかかわらずあなた自身が「ここがいいから」「住みやすいから」と選び取ったものです。
 家というのは、あなたやあなたの家族の運をそのまま受け入れて反映する「器」です。日当たりや通気性の悪い家に住む人は運も気持ちも停滞しがちですし、明るく風通しのいい家に住む人は運も気持ちもすこやかでのびのびしています。
 そういう事実を知ると、もう「適当な家でいいや」と妥協することはできませんね。次に暮らす家は、今よりもっとあなたを幸せにしてくれる家でなくてはなりません。そのことを念頭に入れておくだけでも、いい家が見つかる確率はかなり高くなると思います。
 
2012.03.03

師走の銀座

 師走の日曜日に銀座を歩く。
 なんでこんなにたくさん人がいるの、あっちの道もこっちの道もぎゅうぎゅうじゃん、そうやっていちいち驚いていると空腹から胃がきりきり痛み出したので、あわてて目の前の喫茶店に飛び込んだ。軽く何か食べなくてはならない。
「いらっしゃいませ」
 満員だったがなんとか席が見つかる。
 やっぱり銀座の店はいいなあ、窓からのながめはきれいだしソファは革張りでふかふかだし店内もゴージャスで高級感たっぷりだ、しゃれた絵だって飾ってあるぜ。おっとお姉ちゃんありがとうクラッシュアイス入りのお冷やかい、しかし何だね店が高級だとメニュー表のしつらえも高級だね、革張りの重い表紙をどかんと開くとコーヒーとミニ茶菓であっ1500円、サンドイッチとかの軽食はうわっ単品で1500円から3000円、それにドリンクプラスすればがーんもはや最低でも2500円、下手すると4000円、これ何かの間違いですかと何度もページをめくり直すがもちろん値段が変わるわけもない。銀座一等地の喫茶店の価格設定は世界一といやが応でも認識する。
「お決まりでございますか?」
 イリュージョンで脱出する前に店員がやって来た。ふるえる人差し指でここここれください、このミニ茶菓ついてるやつと指さす。
「かしこまりました」
 ドキドキする心臓を無視してiphoneを取り出してフリックしたりタップしたりするがもしかすると銀座の3G(携帯電話回線)はパケ放題が通用せず特別価格なのではないかと阿呆な妄想をして恐ろしくなった。
「お待たせいたしました」
 オーダーしたものが運ばれてきた。ミニ茶菓はひとくちで胃袋の中、コーヒーは5分で飲み終わる。再び窓の外に目をやる。人がぞろぞろ歩いているだけなので5分で飽きる。
 このままがまんして座っていようか、いや時間がもったいない、まだ買い物が残っているからそうのんびりしてもいられないと思い伝票をつまんで席を立った。
 15分で1500円ということは1分の席料が100円かと無意味な計算をしてから、仕方ないこういう日もある、お前は銀座のど真ん中に流れる運気を15分間1500円で買ったのだと自分に言い聞かせて再び街に出る。

 薄暗くなり始めた銀座の街は徐々に人が減り始めて少し寂しい。縦横に整然と区画された街路には国内外の一流ブランドのビルが建ち並び、色とりどりのネオンを放って美しい。
 ここに流れる気は力強くて密度が濃く、キリッと筋が通ってすがすがしい、そして粋(いき)である。あまり不幸そうな人は歩いていない、若い夫婦も一人歩きの男も女も親子連れも老人もみなそれぞれの人生を楽しんでいるように見える。
 銀座という街はなぜここまで運が強いのか。
 皇居が近いからであろう。
 そこに龍が生息していなければ、江戸から現在に至る首都東京の、ひいては日本の繁栄はあり得なかったに違いない。
 400年前に家康が見つけて飼い慣らした龍は江戸城が皇居に変わっても生息し続け、鉄道や道路を通じてそのパワーを今もなお全国津々浦々へ流している。銀座は龍のお膝元、だから運が強いのだ。
 なぜ山手線は環状で、真ん中を通る中央線によって陰陽の形状を描くのか? 
 ・・・・・・龍を守るために違いない。
 龍はどうやってパワーアップするのか?
 ・・・・・・それは日本人の行動や心のあり方と深くシンクロするに違いない。
 龍の今のご機嫌は?
 ・・・・・・あまり芳しくないかもしれない、しかし龍は気分屋だから何かをきっかけにいずれ機嫌を直すだろう。
 そんなことを考えながら歩いていると、4丁目の交差点に出た。大通りに面した和光のディスプレイは白とゴールドで品よくダイナミックにまとめられている。「さすがだねえ」と感嘆したとたん「そうよ、だってあたし銀座のシンボルだもん」と言わんばかりにキーンコーン、カーンコーンと上から大きなチャイムが鳴り響いた。
 年の瀬に鐘が鳴るなり大時計
 龍も、かれこれ100年近くこのチャイムを聴いているに違いない。

2011.12.05

土踏まず

 人生にはものすごくストレスの溜まる時期というのがある。無我夢中で生きてるけど肩は凝るし頭痛はするし微熱は出るし下手するとぎっくり腰になるし何だかすべての歯車がかみ合ってない、どろどろのぬかるみに膝までつかりながら必死に走ってる感じ、これでいいかどうかわからないけどとりあえず自分の心身に蓋をして前に進むしかない、という時期である。
 そういうときにストレスをほったらかしにしてズンズン突き進むとどうなるか。足の裏が痛み出すんですね。

 私が最初にそれを経験したのは20代後半だった。仕事とプライベートの両面で過剰な負荷がかかり続けていたある日、突然右足の裏が痛み出し、歩けなくなった。別に靴が合わないわけではない、足をひねってねんざしたわけでもない、歩きすぎて疲れたのかな? と脳天気に放っておくうちどんどん痛みが増し、やがてじっとしていても激痛が走り、眠るのにも支障を来すようになった。
 右足の裏の土踏まず周辺を触ると、ガチガチに固くなっている。少し押すだけでギャッと飛び上がるほど痛い。湿布をしてもまったく効果なし。
 仕方ないので、ある晩意を決し、足の裏を自力で揉みほぐした。痛みで悶絶しそうだった。それが功を奏したのか、痛みはしばらくするとウソのように引いた。(注:みなさんは真似しないできちんと病院へ行ってくださいね。)

 2回目に経験したのは30代前半だ。自分を取り巻く情況はやっぱり暗黒で、毎日「あーあ」な気分で過ごしていたある日、突然足の裏が痛み出した。「あ、まただ」と思った。

 痛みを無視して知り合いと待ち合わせて酒を飲み、店を出ると足の裏で体重を支えることが不可能になっていた。前回と同じ右足である。仕方ないのでタクシーで帰宅し、その晩、うぎゃっとかあふぇっとか忍び泣きながら足裏を揉みほぐした。
 痛みで気を失いそうになりながら、「この状態は前とまったく同じ、そういえば前もストレスてんこ盛りのときだった、そうか、心身に溜まったストレスは足の裏から排出されるのだな」と気づいた。
 心身にむち打ってがんばり続けると、つまり「負けるものか」と無理に硬直し続けると、足の裏もギュッと硬直し、排出されるはずのストレス=厄がスムーズに出なくなって「厄詰まり」を起こすのだ。出るものが出ずに溜まり続けると猛烈に痛い。
 そのときから「足の裏が痛むときは心身が疲れている証拠」と心して、早めにケアするようにした。今でも時たま痛むことはあるが、無理をしないよう心がけているおかげで昔のようにガチガチに凝り固まるようなことはない。 
「足つぼマッサージ」とか「足裏健康法」の人気が衰えないのは、「足の裏はいつも柔らかくほぐしておかないとやっかいなことになる」と、みんなうすうす知っているからではないだろうか。

 余談だが、一日働いて帰宅して靴を脱いだときの足のにおいは、心身から排出された厄のにおいではないかと思う。冬より夏のほうがにおいがきついのは、汗に促されて厄もたっぷり流れ出るからである。
「うわっあたしの足くさい、信じられないくらいくさい」と落ち込む必要なんかない、それはあなたが一日がんばって働いたことの証なのだから。

 
2011.10.22

熊手女

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 おさななじみと1年ぶりにランチ。
 ああっみなさんいい具合に発酵していらっしゃる、年季入ってどこから見てもそれぞれがそれぞれに格好いいぜと午後の日差しのあたる店で芋天を食べながら感動する。
 金銭のからんだつきあいは水の泡のようにはかないが、長年かけて培った損得抜きの人間関係はまるで「ただいま」「おう帰ったか寒かったろう、まあこたつにでも入ってあったまんな、いま鍋とか煮てっから。しらたき多めがよかったな?」というような安堵感がある。親と疎遠だし友達の数も少ないが、そういう「実家」のような存在がいてくれる自分は幸運だったと思う。
 会話は止めども脈絡もなく延々と続く。自分のことを話すのが面倒なのでもっぱら聞き役に回る。
 グループのメンバーは全員まじめにひたむきに生きているのでみなそれなりに幸せだが、その中の1人であるNの話を聞きながら、あ、本当の強運の持ち主というのは実はこういう人なのではないかとハッとした。
 Nはおだやかで親切でいつもニコニコしている謙虚な主婦である。暇さえあれば趣味の手芸をしたり掃除をしたり家族のご飯を作っている。
 小学生のころ「大きくなったら何になるの?」と聞くと「うーん、お嫁さんかなあ」と答え、中学生の頃同じ質問をすると「うーん、お嫁さんかなあ。でももらってくれる人いるかなあ」と答えるくらい地味な人だったのである。ところがどっこい適齢期を迎えるといきなり玉の輿に乗り、2人の子宝に恵まれた。
「ううん、あたしなんて庶民だし平凡だから」「あたしなんか全然たいしたことないよー」が彼女の口癖なのだが、よくよく考えてみると「生まれてから病気らしい病気をしたことがない」「お金に困ったことがない」「恵まれた環境の家に住んでいる」「結婚以来ずっとおしどり夫婦」「誰からも好かれて敵は皆無」「子どもたちもどんどん幸せになっている」など、あまりくわしくは書けないが幸運てんこ盛りの人生を送っている。
 もちろん本人もそれなりに努力していると思うが、おかめ顔の彼女の背中には鯛やエビや打ち出の小槌などが乗っていると思う。歩く大熊手である。 

 ネットやテレビや雑誌ではよく「強運な女性」が登場するが、よくよく見ると虚勢や見栄を張っていたり、どこかで無理をしているような気がする。「こんなにいつも美しく微笑んでいたら、疲れるだろうなあ」とも思う。
 そう考えると、地味ながらも肩に力を入れず自然体でコツコツ幸せの根を大きく広げているNは質実剛健である。風水や家相や方位学とは無縁でも、「ごく自然に王道を歩ける人」はいるのだ。これは先祖の余徳か、本人の人徳か。
 いやもしかすると彼女の幸運の源泉は、Nよりさらにひとまわり強運な彼女の母親にあるようにも思える。
 彼女は一見「ニコニコしている普通のおばさん」だが、強いていえば輪郭が太い。別に太っているわけではない、ただ身体からにじみ出る気がなんとなく強いのである。この「なんとなく」が味噌のように思う。
 NとNの母親のどこがすごいかというと、まったくすごく見えないところである。
 本当にすごい人は、「私、すごいンです」という派手な看板とは無縁の場所で楽しくつつましやかに暮らしている。

2011.10.13

満月の羽田空港

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 仕事ばかりしていると心と身体がギュッと内側に凝り固まるので、機を見てほぐさなければならない。心と身体をほぐすには見晴らしがよくてふだんあまり行かないところへ行くのが一番、ちょうど今は満月だからついでに月光浴もしてやろうと羽田空港へドライブ。
 第一京浜を表示に従ってブンブン進んでいると途中からふっと街が消えて人気(ひとけ)が皆無になる。うわあなにこのモノトーンの世界、まるで人工未来都市のチューブの中を走っているみたい、このトンネルは海の下にもぐっているの、狭いところ苦手なんだけどずいぶん長いな、あれっ第1ターミナルと第2ターミナルの違いがよくわからない、まあいいかと選択肢を適当に選んでパーキングに愛車を止め、足を踏み入れたところが第2ターミナルだった。
 第1と第2の違いはどうやら航空会社の違いらしい。
 到着ロビーに出発ロビー、へええけっこう人がいるじゃん、こんな夕暮れから飛行機に乗って北海道や九州へ出かける人もいるの、うーんここは寂しさとなつかしさと哀愁に満ち満ちた空間だぞと独り言を言いながら展望デッキへ上る。
 扉を開けて外に出るとすでに真っ暗、オレンジ色のまん丸い月が空中にどかんと浮かんでいる。ああ中秋の名月。
 風はまだまだ湿気の多い夏の熱風、でも確実に秋のにおいが混じっている。
 白くて大きな飛行機が力強くうなりながら目の前の滑走路を左から右に走り抜け、月の真下でふわりと浮き上がる。あんな鉄のかたまりが浮くなんてウソみたいと思っている間にどんどん高度を増し、やがて見えなくなった。
 しばらくするとまた別の飛行機がきいいいいーんとうなりながら走ってきてはまたふわりと浮いて空の彼方に消えていく。その繰り返し。
 飛行機が飛ぶなんてここではまったく日常茶飯事、その活発な運行ぶりはまるで山手線、そうか地球は自分を放っといて勝手にガンガン回っているのだなと気づく。
 まわりを見ると2人乗りベンチを無心にこぐカップルや1人たたずむシングル女性、テーブルでパソコンを広げる男性などがあちこちに散らばっている。
 月は一段と明るさを増してこうこうとおだやかな光を放っている。丸い丸いまん丸い、しかも金色なので思わず財布を月光にさらして金運アップの願掛けをしようかと血迷ったがやめておいた。
 お金というのは自分の運と努力の末に後追いしてくるもの、月にとっては人間の勝手な願いなんか知ったこっちゃないし、一生懸命手を振っちゃってバカみたい何やってんのと冷笑されるのがオチである。それよりもう少しぼんやりしようと決め、月明かりに照らされる飛行機の群れをながめる。
 どこからかリーリーリーとスズムシの声、ああ季節は確実に移り変わっている、自分の気が張りめぐらす小さな球体の中で四肢を踏ん張ろうと踏ん張るまいと時間は勝手に前に進んでいると気づいた瞬間、心と身体がぐにゃりとほぐれた。

2011.09.05

黒い下着の救世主

 今までレディ・ガガにあまり興味はなかったのだが、来日したときの記者会見を見て「おっ」と思った。まぶたに目を描き、会見中もずっと目を閉じているのである。ものすごく大きな目をした生きアニメ。日本ではこんなことをするアーティストはいない、芸人くらいだ。
 この人、いったいどういう人なのだろうと興味が湧いてYou TubeでMTV主催のチャリティイベント(2011年6月25日@幕張メッセ)のライブを見る。
 1曲目は初音ミク、2曲目はチュンリー(ストリートファイターに出てくる香港の女ファイター)によく似た出で立ち。さすが日本文化をよく研究していらっしゃる。豊かな声量と鍛えられたダンスであっという間に場を支配し、10分で幕張メッセに独自の世界を構築。 
 さらに過去のPV(プロモーションビデオ)を見てみた。
「これでもか」と攻めてくる下品&露悪&過剰なファッションセンスは別ベクトルのVOGUEの世界。手っ取り早く言えばゲイワールドだ。
 特に「Born This Way」のPVで繰り広げられるのはキッチュで悪趣味なドラァグクイーンの夢を体現した耽美なディズニーランド。「Born」と「Bone」をかけているのか後半で骸骨のカップルが登場してくる。
 生殖のないゲイの恋にはどうしても死の香りがつきまとう。骨まで愛してしゃぶりつくしたら後は土に還るだけ、だからこそ彼らが表現するアートは刹那的でドラマティックなのだ。
 本人が同性愛者かどうかの真偽はともかく、ゲイ文化に馬乗りしたガガは後先を考えないラジカルさを体現して観客を脅かす。「Born This Way」のジャケ写の顔なんて鬼婆じゃないですか。夜中にあの顔が空中に浮いてたら失神しますよ。
 その一方でピアノを弾きながら「私はいじめられっ子だった。でも夢をあきらめなかったおかげでここまで来られたの。だからあなたたちも夢を捨てないで」と涙ながらに語る。
 お、過激だけどやっぱり根はまともなんじゃんと観客は安心してガガに同期し、憧れて後を追う。こういうアメとムチの使い分けはスターの方法論としてとても正しい。

 ところでガガは3月28日生まれだそうだが、もしそれが本当ならバリバリの牡羊座である。牡羊座は鋭いインスピレーションと直感力、そして並外れた行動力を持ったチャレンジャーとされている。「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」の世界ですね(by 高村光太郎「道程」)。
 たぶん彼女の頭の中は常に沸騰したポットのごとく新しいアイデアが湧き続けているのだろう。そしてそれを具体的な形に出来るすぐれたスタッフ(たぶんゲイ)がついているのではないか。
 自分だけにしか表現し得ないオリジナルの個性をアピールして多くの人に認められることが小さい頃からの彼女の唯一の喜びであり、またそれが天職だと思っているに違いない。
「変わっている」と驚かれることはガガにとって何よりのほめ言葉だ。しかし素の彼女はたぶんそれほどセクシーでも攻撃的でもストレンジな人でもないだろう。素直で思いきりのいい努力家だ。

 銃とドラッグと貧困がどろどろに混じり合う黒い海であっぷあっぷとおぼれかけるアメリカの若者たちは、ガラスの摩天楼で微笑むガガに必死で手を伸ばす。
 ガガが好んで着る衣装はビスを打った黒い下着だ。それはセックスと暴力を意味する。
 ガガの前にはマドンナというよく似た姿の救世主がいた。残念ながらアメリカにもうキリストはいないのだ。
 はたして彼らは救われるだろうか?
「だいじょうぶよ。みんな愛しているわ」
 そういってガガが手をさしのべても、海面から摩天楼の最上階まではあまりにも距離がありすぎる。やがて白や黒や黄色など色とりどりの手は寒さに震えながら力尽きて沈んでいく。
 摩天楼の中でにっこり微笑むガガは、まるでピエール&ジルが描く美しい絵のようだ。それはまぶたに描いた目のようにはかなくてまったく実体がない。

2011.07.08

 

くるくる頭

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 生まれつきの天パーで放置するとゴーゴンのように髪がうねってくるため、ここ数年、縮毛矯正(髪を強制的にまっすぐにするパーマ)をかけていた。
 これをすると、あこがれのサラサラ直毛が手に入る。入るけれども施術にけっこうな時間と費用がかかるうえ、1カ月もたたないうちに根もとの毛がうねうね伸びてくるので、わりとすぐに髪全体のまとまりが悪くなるのが難点である。
 で、耐えられなくなって3カ月後にまたかけ直す。
 ・・・・・・この繰り返しで私の髪はどんどん傷み、枝毛や切れ毛が増え、キューティクルが失われてツヤがなくなった。

 夢のサラサラ直毛は確かに捨てがたい、しかしこのままでは費用もバカにならないし髪も枯れていくしとジレンマに悩みながら、ある日「さてどうする? またかけ直すのか?」と自問自答して「もうやめよう」と結論を出した。
 金と時間と髪の健康が損なわれる懸念もあったが、実は最大の理由は「常に違和感がつきまとっていたから」である。痛いとかかゆいとかではない。
 意識の奥底で強制的に自分をねじ曲げている感じ。
 どこかから抑えつけられて、自分が自分でない感じ。
 私はたしかに私だけれども、この私は本当の私ではないという意識が絶えずつきまとい、まるで自我が薄いフィルムでラミネートパックされているような気分だったのである。 
 それで、矯正のかかっていた部分を思い切りバッサリ切った。傷んだ髪をリセットしたかったのと、自分の頭は放っておくといったいどんな形状になるのか再確認してみたかったのだ。
 耳が出るほどのツンツンのベリーショートからモンチッチへと少しずつ伸ばし、現在はやっと耳の下までのボブになったが、いやあ巻く巻く。鳴門(なると)のうずしおにも負けないほどくるくるうずを巻いて目が回りそうだ。
 だが面倒なブロウもカーラーもコテも一切無用、洗いっぱの髪に適当に手ぐしを入れるだけでボサボサではあっても何となくそれなりにまとまってくれるので便利である。
 湿気の多い日にはビッグバン現象が起きるが、それはそれでいい。かまわない。強制的に髪質を変えていたときより、はるかに自由で開放的な気分でいられるからだ。色々な意味で楽ちんだから、もうずっとこれでいくつもりだ。
 
 思うに、髪とは体内に湧き出る自我が物体化し、身体のてっぺんに噴出したものではないか。まっすぐな髪質の人は性格もまっすぐストレートであり、クセ毛の人は性格にもどこかクセがあり、我も強い。硬い髪の持ち主はどんなときも自分の考えをきちっと貫き、柔らかい髪の持ち主は周囲の情況を見ながら柔軟に立ちふるまう。
 髪を長く伸ばし続ける人は「自分を守りたい」「現状を維持したい」「積み重ねてきたものを壊したくない」、思い切って短く切る人は「脱皮したい」「チャレンジしたい」「目の前のことに集中したい」などの願望があるのではないか。
 パーマをかけたり、黒髪を染めるのは「違う自分になりたい」という変身願望であり、失恋した女性が髪をばっさり切るのは過去をスパッと切り離そうとする決意のあらわれだ。前髪で額を隠すのは自分をあからさまに出したくないからで、出すのは自分に自信があるから。
 かつらやウィッグではげを隠すのは人に弱みを見せたくないから、堂々とさらすのは「この自分でよし!」と自分を認めているから。
 ・・・・・・などなど、髪の毛ひとつとってもいろいろ分析できる。
   
 パーマに限らず最近ではジェルネイルなどのつけ爪やカラーコンタクト、まつげパーマ、アートメイク、プチ整形、ダイエットなどによって外見を変化させる人が少なくない。
 おしゃれにチャレンジするのはもちろんいいことだが、過剰な変身願望は危険である。それは時に自我を圧迫したり、場合によっては封印しようとする行為になりやすいからだ。自我は決して死なないから、不毛な闘いとなる。
 もしかするとマイケル・ジャクソンは表層の自分と深奥の自分が24時間闘い続け、片時も心の安まる暇がなかったのではないか。
 気の毒だが、スターの宿命か。
 スターでない人は、「自然でいること」が最もロスのない生き方ではないかと思う。

2011.05.12

がんばりすぎの悲劇

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 ナタリー・ポートマン主演の「ブラック・スワン」は見ごたえのあるホラー映画である。
 ダーレン・アロノフスキー監督はこの作品の前にミッキー・ローク主演の「レスラー」でとことん自分の肉体を痛めつけるレスラーの映画を撮ったが、今回はとことん自分を追い詰めるバレリーナの話。監督自身が「この2作品は姉妹」と語っているように、いずれもベースは人間の極限状態の描写である。
「レスラー」も「ブラック・スワン」も傷を持つ心にフォーカスした味わい深い作品だが、特に後者は人間なら誰しもが持つ二面性をアーティスティックに表現した秀作だ。

 この映画はのっけから密度の濃いシークエンスがバンバンバンとテンポよく積み重ねられていくが、後半からさらに激しく狂気を帯びてくる。
 主役に抜擢されたがゆえに自分を追い詰めていく主人公のバレリーナ、ニナは、現実と妄想の狭間をさまよい歩く。限界ぎりぎりの彼女の目に映るのはまわりの嘲笑と執拗にからんでくるライバルの悪意、そして鬼のように追いかけてくる母親の執念だ。
 悪夢のような映像が、ニナの荒い呼吸音に伴って幾重にもフラッシュバックする。そういえば「2001年宇宙の旅」で船長のデビッド・ボーマンが狂った人工知能・ハルの息の根を止めるときも、聞こえてくるのは彼自身の呼吸音だけだった。緊張して意識が内側に向かうと、人間は自身の発する鼓動と呼吸音しか耳に入らなくなるのだ。
 パニック症の患者が発作を起こすときも、自身の鼓動や呼吸音を意識することが多い。これは気持ちが内向している証拠であり、そのまま耳を澄ませていると発作が起きやすい。
 余談になるが、不安の予兆を感じたら無理して呼吸を整えようとか深呼吸して平常心を保とうなどと思わずに、好きな音楽を聴いたり軽く体操したり水を飲むなどして意識のスイッチを外側に切り換えると、その場をしのぐことができる。それでも治まらない場合は医師から軽い精神安定剤を処方してもらって常備し、頓服すれば楽になる。
 パニック症はまじめで一途な努力家がなりやすい。治療法は簡単、がんばるのをやめればいいだけだ。
   
 話を戻そう。
 最終的にニナは「敵」に取り囲まれる。まわりにいるすべての人間が自分をあざ笑い、陥れ、傷つけるように見えたり、壁一面にびっしり飾られた母親の自画像が一斉に泣いたり怒ったりして自分を威嚇するように錯覚するシーンは、統合失調症患者が体験する世界に非常によく似ているのではないかと思う。
 統合失調症とは誤作動した脳が生み出す妄想や幻覚・幻聴にとらわれて心のバランスを崩していく病気である。適切な処置や治療を施さずに放っておくと、患者の心はやがて逃げ場のない恐怖にとらわれてしまう。

 今の時代は、心に過度なストレスが溜まる機会がとても多い。それらのストレスが自分の中に眠る神経症や精神病を目覚めさせる可能性が「絶対にない」とは誰にも言い切れない。みな、危ういところで何とか折り合いをつけながら生きているのだ。

 ニナはパーフェクトな踊りを究めようと自分を厳しく追求するあまり、表と裏の人格が統合できなくなってしまった。
 人一倍ナイーブできまじめな努力家が、ストレスを押し殺してがんばりすぎるのは危険である。どこかで気を抜かないと、意識がどんどん内側に向かってしまうからだ。それはたとえて言うなら心の洞窟の奥深くに分け入るようなもので、下手をすると迷って出口を見失ってしまう。
 迷路の中は不安と恐怖に満ちた闇であり、自分の呼吸音しか聞こえない孤独な世界だ。

2011.05.06

嵐の予感

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 ゴールデンウィーク前の平日に郊外の動物園へ。そこは動物たちと比較的自由にふれあえるうえ園内がだだっ広く閑散としているので気に入っている。
 駐車場から車を出すとすごい風。一抹の不安を感じるが今さらドライブを止めるのも何なので強行する。
 大きな道路の交差点で信号待ちする間、車がグラグラ揺れる。すわ大地震かとあせって外を見ると、通り沿いに並んだ大木の枝が吹き流しのように同じ方向になびいている。
 この強風ぶりは普通じゃない、下手すると車が吹き飛びそうだ、相撲取りを2人呼んで重し代わりに後部座席に座ってもらいたいと本気で願う。しかし平日のビジネス街に相撲取りは1人も歩いていない。
 信号がぼわんと青に変わる。
 目の前に大きな川をまたいで橋が架かっている。橋は天高くアーチしている。これ横から突風が吹いたらいとも簡単に川の中に飛ばされてどぼんだわとあせりつつ橋を渡る。
 しばらく進むとまたアーチ橋。
 冷や汗をかいて越えるとまたまたアーチ橋。
 いったい何度渡れば許してくれるのかとイヤになりかけると梨畑。行けども行けども梨畑、看板を見てものすごく梨を食べたくなるが季節が違うのでもちろん一個も売ってない。 

 車のまばらなだだっ広い専用駐車場で車を降りた。
 周囲の竹林がものすごい勢いでゆがんでは元に戻る。風はどんどん強くなる。空はどんより薄暗い。
 自販機でチケットを買って園に入り、坂を少し上るとミニホースが放牧場にいた。呼びかけても反応なし、ただ目を伏せてじっと立っている。
 その向こうには白黒まだらのウシがいる。近づいて手をたたくがそっぽを向いたまま反応なし、遠い目をしてじっとしている。
 ブタやヤギやヒツジは尻をポンポンとたたいても頭をなでても興味なさそうに寝ているだけ、あるいはうるさそうに向こうへ行ってしまう。
 ハムスターを膝に乗せるとだらんとしたまま動かない。
 そうか人間があの手この手で気を引いたり気持ちを通わせようとしても彼らには一切興味がないのだなと悟る。これらの動物が持ち合わせているのは他者とすり合わせる感情ではなく、生きるか死ぬか、安全か危険か、居心地がいいか悪いかを感じ取る本能だけだ。
 ああ何だかつまらないなあと鳥小屋へ行く。
 黄色いとさかを持つ白いオウム、キバタンが大きなケージの中にいる。手を伸ばすと爪を絡みつかせてつかまろうとする。
 ああ人なつこくてかわいいと10分ほど頭をなでてからその場を離れようとすると、いきなり「コンニチハ」としゃべって体を上下に大きく揺すった。
 そうか寂しいのか他に誰もいないもんなあとしばらく相手をしてから去ろうとするとまた「コンニチハ」。
 それを5回ほど繰り返してごめんねきりがないからさと離れると「コンニチハ、コンニチハ」と連呼して体を大きく揺すり、さらに「ウワアアアアアーン!」と子どもが泣くように大声で鳴き始めた。
 うわあたまらん人間と一緒じゃん、また来るよきっと来るからねと心を鬼にして両手で両耳を塞ぎながらパタパタ走り去った。

 ブタは眠そうな目でぼんやりしている、ロバは柵の中をぐるぐる回っている、高齢のキツネは体を丸めて眠っている。動物には動物の時間が流れている、彼らが見聞きしている世界は人間の私とはまったく別のものだと妙な孤独感を感じながら放牧場の脇を通って出口へ向かった。
 風がひゅううううと木の枝を大きくしならせて低くうなる。じわりと雨のにおいが立ち上る。嵐の予感。ミニホースは相変わらず哀しく澄んだ目をしてただじっと立っている。

2011.04.20