鼻天国

 遠い昔、もしかすると自分は犬だったのではないかと確信するくらい嗅覚が敏感な私は、鼻地獄を味わうことが少なくない。
「鼻地獄」とは、
◆満員電車で真ん前に立つ人のきついシャンプーや整髪料、コロンのにおい
◆隣で立ち読みする人のちょっと困ったにおい(「何日お風呂に入ってないか当ててごらんよ」と挑発してくるようなにおい。なぜか「精神世界」のコーナーでよく遭遇)
◆レストランで近くの席に座った人の甘い香水の香り
◆朝の新幹線で隣に座った人の二日酔いのにおい
◆雨の日の地下鉄のにおい(ケモノくさい)
 などのことである。
 目や耳なら何とかふさげても、鼻だけはごまかせないのでやっかいだ。だから映画やコンサートや食事に出かけたり、長距離電車に乗るときは「どうか何事もありませんように」と胸で十字を切っている。 

 地獄があるなら、極楽もある。
 先日、近所の神社へ散歩に出かけた。平日の午後のせいか、町を歩く人は少ない。何も考えずに歩いていると、突然、鼻腔内の細胞がぴくりと反応。
 あっ、これは・・・・・・!
 ジンチョウゲの香りである。
 そうか、もう3月か。
「ねえねえ、春ですよ。私、咲いてるんですよ」
 道路沿いにぽつぽつ植わったジンチョウゲはどれもまだつぼみが固く閉じていたが、なぜか目の前の1本だけ、赤い花がいっせいにぷわっと咲いていた。がんばって、けなげに春を知らせているのだ。
 私は胸いっぱいにその香りを吸う。体内をめぐる血液に、春が溶け込む。これぞ鼻天国。

2010.03.04

カメ

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 葛西臨海公園へドライブ。
 日当たりのいいオープンカフェでのんびりコーヒーを飲んでから、東京湾に浮かぶガラスドームの水族館へ向かう。
 エスカレーターを深く下ると、薄暗い空間が広がっていた。通路のところどころに水槽が設けられ、天井にはライトが吊され、その下でさまざまな魚が泳いでいる。サメ、ウツボ、マグロ、キンメダイ・・・・・・。ここは海の中につくられた水族園なのだ。
 不思議な空間だなあと思いつつ、ぶらぶら見物。

 銀色のマグロの群れが泳ぐ大水槽の前で、しばし足を止める。
 マグロの体の向きはみな一緒、同じようなスピードで同じようにぐるぐる円を描いて泳いでいる。
 みるで人間みたいである。
 泳いでいる最中、強そうな魚が弱そうな魚をどついたり、たまにどつかれ返されたりしている。まんま、人間社会である。

 別の大水槽には、ブルーの体に黄色の背びれと尾びれが美しいウメイロモドキ(スズキ目タカサゴ科)の群れ。この中に、ぽつんとカメがいた。
 カメは、ウメイロモドキの描く軌道とはまったく無関係に泳ぐ。カメが行くところ、ブルーの魚の隊列がちりぢりに乱れる。カメはそんなのにかまわずいきなり急降下したかと思うと、今度は水面近くでふわあんと浮いている。

 好きだなあ、カメ。
 どの世界にも「群れ」と「流れ」はあるが、そんなもんに関係なく「個」として好き勝手に動き回るやつは見ていておもしろいし、かっこいい。
 がんばれカメ! 群れを蹴散らせ! 好きなように生きろ!
 ぶ厚いアクリルガラスに手を当て、私は夢中でエールを送る。もちろんカメはそんなの知ったこっちゃない、ただ自分の好きなように進んでいる。

2010.02.24

 

マンション選びの極意

「ここも手狭になってきたし、そろそろ買おうか、家」
 春先にそう考えて、「今年こそは」と物件探しを始める人も少なくないのではなかろうか。新聞やテレビで「不況」「不景気」と騒がれようと、人は買うときは買うのである。で、マンションの物件探しのコツをいくつか。 

◆中古か新築か
 そりゃもう、古いより新しいほうがいいに決まっている。家は消耗品だからだ。住めば住むほどあちこち傷んでくる。
 また中古は前の住人の痕跡があちこちに残っているが、新築はすべてが無垢の状態なので、よけいな思念やストレスを感じることなくイチからスタートできる。
「でも、中古のほうが安いじゃん」
 そのとおり。住みたいエリアに住みたい建物がすでにあって、築年数もまあ許せる範囲で、管理状態がいいなら、もちろん中古もありだ。しかし仲介手数料やリフォーム代などを加算すると、「結局あんまり差がないじゃん」ということもあるので注意されたい。

◆1階か最上階か
「小さな子どもがいる」「地に足をつけて生活したい」「庭でガーデニングを楽しみたい」「エレベーターがきらい」という人は1階、それ以外の人は最上階がおすすめだ。周囲を高い建物に囲われていなければ最上階はその建物内で最も見晴らしがいいうえ、日当たり、風通しも期待できる。また上階に人が住んでいないため、物音や足音などにわずらわされる恐れもない。絶対ではないが防犯面でも下の階よりは安心できる。
 だからこそ、最上階の物件はなかなか手に入らない。新築なら「もう売れちゃいました」、中古なら「めったに出ません」「お値段お高めですけどいいですか」と言われるのが普通である。
 もし最上階が無理なら、上階に住戸のない部屋を選ぶといいと思う。 

◆角部屋か中住戸か
 電車の座席で最初に埋まるのは端の席。両端があいてない場合、乗客は仕方なく中間に座る。つまり、人は人と距離を置きたい動物なのである。
 家も同じ。両隣を他人にはさまれた中住戸より、角部屋のほうが開放感があって住みやすい。窓が多い分、風通しがよくなって邪気を祓いやすいというメリットもある。 

◆東南向きか南西向きか
「東南向きの部屋がいい」とよく言われるが、日照時間は南西向きの部屋のほうが長い。つまり東南向きの家は冬寒く、洗濯物も乾きにくいということ。南西向きなら冬温かいうえ、上層階なら夕方になっても家の中が明るい。つまり1日が長くなる。
 朝早く出て夜遅く返ってくる人なら東南向きでいいと思うが、家にいる時間が長い人は南西向きのほうが楽しい。  

◆奇抜なデザインかオーソドックスな外観か
「いまふうで格好いい!」と派手な色づかいや形状のデザイナーズマンションにあこがれる人もいるが、買う前に20年後、30年後を想定してみたほうがいい。そのマンションはもしかすると色が褪せ、デザインが風化し、時代遅れになってしまうかもしれない。
 私は昔、「何年か前に○○デザイン賞を取った」という家を訪問したことがある。コンクリート打ちっ放しの無機質なつくりで、部屋の中央に螺旋階段があった。実際に室内を歩いてみて「寒々しいし、掃除しにくそうだし、住みにくいだろうなあ」と感じた記憶がある。
 流行とは「流れて行く」と書く。つまり、はかないのだ。
 ならば、シンプルでベーシックなマンションのほうがいい。変なひねりがないぶん、飽きが来ないからだ。特に将来、売る可能性があるなら、万人受けするオーソドックスなマンションがいい。
 また「類は友を呼ぶ」の法則通り、奇抜な外観のマンションには変わった人、オーソドックスなマンションには普通の人が住む傾向がある。「変わった人たちに囲まれて暮らしたい」という人以外は、普通のマンションに暮らすほうが無難と思う。 

◆四角形の間取りか変形の間取りか
 家相の本には「張りや欠けのない四角い間取りが吉」とよく書いてあるが、あながちそうとも言い切れない。
 私は以前、四角い間取りの家に住んでいたことがある。きれいな長方形で、張りも欠けもなかった。家相は悪くなかったが、実際に住んでみて「味も素っ気もない、つまらない家だなあ」と思った。空間が四角四面にきちんと収まりすぎて、逆に居心地が悪かったのである。
 私はそのとき、世間一般で言われる「大吉の家相」が万人に当てはまるわけではないことを知った。人の個性は十人十色だから、たとえ吉相でも合う・合わないがあるのである。
 現在は変形の間取りの家に住んでいるが、前よりずっと住み心地がいい。つまり家相の教科書では満点が取れなくても、自分が「別にいいじゃん」と思えばそれでOKなのだ。
 ただし「ゆがんだ部屋」「三角形の部屋」だけはすすめない。家具がしっくり収まらないし、デッドスペースができるから掃除が大変だし、何より圧迫感があって精神的にストレスがたまるからだ。 

 いろいろポイントをあげてみたが、「100%理想にかなう家」というのは存在しない。「ステキ!」と思う家はたいてい予算を大幅に超えているし、「相場より安いじゃん」と値段に釣られて見に行くと、「こんなとこに住んだら気が滅入るだろうなあ」とがっかりするものだ。がっかりが続くと「結局、買えませんでした」になるか、妥協してつまらない物件をつかむことになる。
 だから、「これだけは譲れない!」という最低条件を最初にしぼっておくといいと思う。
「女1人で住むから10階以上!」「料理が好きだからキッチンの広いとこ!」「愛犬と楽しく暮らせるとこ!」「子どもがいるから公園のそば!」「残業が多いから駅から徒歩10分以内!」などなど、自分なりのキャッチフレーズをつくっておけばたぶんブレない。 
 で、やっと決断して買ったマンションがもし「ダメだ、こりゃ」とか「住んでてちっともおもしろくない」などという場合、どうするか。
「大金払ったから」とガマンして住み続ける必要なんかない。話は簡単、売って別の家に住めばいいのである。
 ただし売るためには、「売れる部屋」であることが必要だ。今まで述べてきたポイントにかなっている家なら、売れる確率は高いと思う。

2010.02.17

ラッキーナンバー

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「ツキのある数字」というのがある。これは人によって異なるが、以下に当てはまるなら、それはあなたにとって「運のいい数字」だ。

◆好きな数字
「理由はわからないけど、なんか5と8って好き」なら5と8。

◆自分の誕生日の数字
 たとえば1月28日生まれなら、1、2、8。もしくは12、18、81、812など、それらを組み合わせた数字。

◆昔から自分に縁のある数字
「受験番号24で難関を突破した」というなら24、42、「引っ越しても引っ越しても902号室」というなら902、209、90、20、92、9、0、2など。

「これだけは負けられない!」という勝負の際に使う番号が偶然にも自分のラッキーナンバーなら、天が味方についたと考えていい。リラックスして臨めば、勝率は高い。
 何気なくつくったカード(スーパーやドラッグストアのポイントカードなど)の番号や買った商品の製造番号が自分のラッキーナンバーだった場合、それらはあなたのラッキーアイテムとなる。銀行でさり気なくつくった口座の番号が「いい数字」なら、あなたの金運はその銀行とつき合うことでどんどん上がるだろう。 
 車に乗っていて、パッと眼にした他車のナンバーがいい数字だったときも、ツイている証拠だ。走行中、続けざまにラッキーナンバーの車がわきを通り過ぎたり、四方をラッキーナンバーの車に囲まれたら、「あんた、だいじょうぶ。みんなで見守ってるから安心して」という天の啓示と思っていい。実際、そういう日は何かしらラッキーなことがあり、気分よく過ごせるものだ。

 たかが数字、されど数字。縁のある数字を大切にしていると、チャンスをうまくつかめるようになる。ラッキーナンバーとはいわば天のGOサインのようなものだ。

2010.02.10

引っ越しの極意

 春と言えば引っ越しである。
「ああ面倒くさい、お金はかかるしいろいろな手続きも必要だしイヤになっちゃう」と深くため息をつく人も多いと思うが、実は引っ越しというのは運気を変えるイベントであり、負け続けている人にとっては起死回生のチャンスともなるので、前向きに対処されたい。
 で、新しい家を見つけるときのポイントをいくつか。 

★明るくて風通しがよく、日当たりのいい家を選ぶ
 風は邪気を追い払い、日光は邪気を蒸発させる。家の中にきれいな気が満ちれば、住人が前向きな気持ちになる。
 日当たりの悪い暗い家に住むと、身体の弱い人は身体に、心の弱い人は心にダメージが出やすいので注意。 

★前の住人の状態をチェック
「前の方? そりゃもう悲惨な生活をしてらっしゃいましたよ」とか「お気の毒な事件に巻き込まれましてねえ」とかいう家は避けたほうがいい。家には前の住人の気がしみ込むので、自分もその影響を受けてしまう恐れがある。
 どうせ住むなら、「前の女性、みごとに玉の輿に乗ったんですよ」とか「あの方、ボーッとしてたのにいきなり大出世されましてねえ」とか「ご主人も奥さんもお子さんもいつもニコニコして楽しそうでしたよ」とかいう家がいい。 

★なるべく凶方位は避ける
 ものすごく運のいい人は何も考えなくても勝手に吉方位へ動くが、ほとんどの人は放っておくと自分から凶方位へ行く。
 つまり凡人が行き当たりばったりに行動して幸せになれるほど、世の中は甘くないということである。「苦労、ウェルカム!」という人ならいいが、「なるべくなら苦労知らずで幸せに生きたい」という人は、凶方位を避けることをおすすめする。
 ちなみに2010年は、すべての人にとって東北と南西が凶方位。今の自宅から見て東北方位や南西方位に引っ越すと、「不動産でもめる」「家族間の信頼関係がこわれる」「突発事故が起こる」「精神的なストレスがじわじわたまる」など、うれしくない凶作用が起こるおそれがある。 
「転勤や入学でやむを得ず凶方位に移転しなければならない」という場合は、あまり深刻にならず、神社で方位除けをしてもらうとか、家をせっせときれいに保つとか、陰徳を積む(他人にやさしくする)と、凶作用をはずせる。
 方位にこだわりすぎると人生の自由度が低くなるが、まったく無知でいるのも損をする。昔から伝わる「迷信」や「縁起」は、あながち「デタラメ」ではないのだ。 

★自分の直感を信じる
 玄関に足を乗せた瞬間「ここ、気持ちいい!」「空気が軽い!」と感じる家はおすすめだ。その家とあなたは相性がいい。たぶんそこに住めば、あなたは順調に運をつかむだろう。
 逆に「何となく気が滅入る」「その家での楽しい生活を想像できない」「イヤなにおいがする」、あるいは「その家の下見に行く途中、イヤな出来事に遭遇した」などというなら、その家に住まないほうがベターである。そこに住んでも、幸せになれる確率は低いからだ。
 直感は正直。だから家を探すときは、直感が冴えているとき(体調がいいとき、鼻歌が出るようなとき、ツイているとき)がいい。
 間取り(家相)とか九星別の吉凶方位とか他にも細かいポイントはいろいろあるが、以上のことさえ心得ていれば、それほど大きな失敗はないと思う。

 家は住人の心と魂と身体を守りはぐくむ大切な空間だ。幸せに向かってあなたをそっと後押ししてくれる、やさしくて安らかで力強い家が見つかりますように。

2010.02.04

みんな夢の中

 蓮の花が咲く池のほとりをのんびり歩いていたあなたはある日突然、神さまからトントンと背中をたたかれ、こう言われる。
「これからあなたは長い夢を見る」
「えっ! 」
「ま、そういやがらずに。なに、100年もかからないよ。あっちの生活は、迫力満点の精巧なホログラフィーテレビを見るようなもの。番組は無限にあるから、どれでも好きなのを見るといい。番組に飽きたら、いつでもチャンネルを変えなさい。心をそっちに向ければ、一瞬のうちに切り替わるから」
「えっ! いきなりそんなこと言われても」
「番組の主役は、いつでもあなただよ。あっちの世界はこっちにいるよりずっとスリリングで刺激的だと思うよ。じゃ、楽しんでおいで!」
 神さまからウインクされた瞬間、あなたは青い惑星にヒュッと放り落とされる。そして、新しい人生がスタートする。

「選ばれた者」として日々の雑事に追われるうち、やがてあなたは「流れには逆らえない」とか「現実を変えるのは非常に困難だ」などと思い込み始める。で、見たくもない番組を延々と見続けることになる。つまらない番組に縛られる必要などひとつもないにも関わらず。
 そもそも、私たちが見ている番組は流れる雲のようなもので、本人の気分に応じて絶えずふわふわとあらすじを変えている。実体がないのだ。
 実体がないものに必要以上にとらわれると、どんどん萎縮してしまう。ひどくなると、受像機としての自分が壊れてしまうこともある。だから「もうこの番組は見たくない」と思ったら、その場で周波数を変えてチャンネルを切り換えればいいと思う。
 で、チャンネルの変え方。やりかたは簡単。「もっと楽しくておもしろい番組を見よう」と意識するだけ。

 その昔、こういう歌があった。
「喜びも悲しみも みんな夢の中」
 どうせ見るなら、楽しい夢を。

2010.01.31

メガの国

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 年明けに人生初のコストコ体験。
 入り口でメンバーズカードをつくり、いくつかの店内ルールを教えられ、倉庫のだだっ広さに圧倒されながら巨大カートを押して店の中へ入る。
 カジュアル服、電化製品、調理器具、洗剤、文房具、日用雑貨、酒、お菓子、薬品、その他もろもろ、ほとんど脈絡なく陳列される商品の群れ。
 高い天井を見上げると、商品の入ったコンテナが山積みになっている。「物流」という言葉が頭の中でぐるぐる回り出す。
 卸売りスーパーであるコストコと他の小売店との最大の違いは、商品ひとつあたりのボリュームだ。さり気なく手に取ったキッチンラップは手首がぐにゃりとしなるほど重いし、トイレットペーパーはワンパック36ロールである。
 すごいのはデリコーナーだ。売り場には巨大サイズのパエリアやピザ、6本ワンパックのチキンレッグ、50貫入りの寿司がずらり。テーブルパンは36個でワンパック、サイズ大きめのベーグルやマフィン、ドーナツは12個でワンパック。ブルーやパープルなど日本では絶対お目にかからないカラフルなクリームが盛られた特大ケーキは3キロを越えている。そういうのが普通に並んでいる。
 日常ではあり得ないメガぶりに興奮し、「うわぁッ」「ひえぇッ」と小さく叫びながらベーグルやインドカレーセット(カレー3種、ナン3枚、タンドリーチキンのセット)を次々にカートに入れていく。
「・・・○○円です」
 どはぁッ。お値段もメガである。単価は割安でも、カートが巨大なのでついつい買い過ぎてしまうのだ。
 精算後、疲れてフードコートでひと休み。甘いものが食べたいと注文したベリーベリーサンデー(ソフトクリームに赤いベリーソースがかかったもの)はゆうに2人分はあるだろう。
 がんばって食べるも、なかなか減らない。完食をあきらめ、しばし放心状態に。

 戦後の日本人が見たら腰をぬかすであろう体験に軽くカルチャーショックを覚えつつ帰宅。
 おそるおそる口にしたデリはまあまあイケる味、これならリピーターもつくだろうと納得。
 翌日、性懲りもなくまたコストコ探検に繰り出した。

 コストコは楽しい。不思議の国に迷い込んで身長が縮んでしまったアリスのような、へんてこな気分になれるからである。

2010.01.05

太陽の慈悲

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 太陽は毎朝、東の地平線から顔を出し、南中して西の空に沈む。雨の日も風の日も同様だ。
「今日はしんどいから昇るのやめた」ということは一切なく、それこそ気の遠くなるような長い間、ひたすら同じ営みを繰り返している。考えてみれば、これはすごいことである。
  太陽は高いところから地球を照らす。だから町や国、陸や海を問わずすべての場所に平等に光が当たるし、すべての生きとし生けるものに平等にエネルギーが降り注がれる。その温かいエネルギーを体に浴びるだけで、私たちは生きる力が自然に湧いて前向きな気持ちになれる。 

「すべてに平等」
「無償の愛を惜しみなく与える」
「うそいつわりがない」
「まぶしくて直視できない」
 それって神さまじゃないのか。つまり太陽とは、一日も休むことなく慈悲の光を放つ神さまなのではないか。

2009.12.21

とげ抜きエンジェル

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 巣鴨のとげぬき地蔵通りを散策。懐かしい雰囲気の洋品店やふくろもの屋、漢方薬局などが建ち並ぶ。大福やすあまを売っている和菓子屋の奥をひょいとのぞくと、食堂になっている。ほぼ満席状態だ。迷わず入店。
 店内には20代の親子連れから中年女性のグループ、80代のばあさん、英語でしゃべっている白人のサラリーマンなどいろいろな人が麺をすすったり丼をかきこんだりいなり寿司をつまんだりしている。60代〜70代のベテランのお姉さんが数人、お盆を運んでいる。みな忙しそうだが、決して急がない。忙しいのと急ぐのとは違うのだ。
 70代と思われるふっくら福相のお姉さんが、温かいお茶を銀盆に載せて細長い通路をこちらに向かってゆるゆる歩いてくる。「別にあくせく働かなくたっていいじゃんかー」と言わんばかりのマイペースぶりにいやされる。
「あ、食券買ってないの? 入り口で」
 席に着いてから注文するのかと思っていた。あわてて席を立とうとすると、「いいよいいよ、あたしが買ってきてあげる」。
「じゃあ、タンメンお願いします」とお金を渡すと、入り口のレジまで行って食券を買い、「はいよ」とおつりとともに渡してくれた。
「おまちどうさま」
 目の前にタンメンが置かれる。
「あのう、お冷やもいただけますでしょうか」
 お姉さん頭(がしら)だろうか、骨格のはっきりした威厳のある顔立ちと風格のあるお姉さんに向かい、意を決して私は言った。
「OKよ-、今日はあたしノッてるから、なんでも頼んでちょうだいね-」
 柔和なスマイルでこちらの気分をやんわりほぐし、ユーモアのあるひとことで親愛の情を抱かせ、仕事ぶりはていねいでそつがない。一見の客を瞬時に魅了するのは、さすが年の功である。地蔵通りのお姉さんたちは、まことに高度なスキルを持ったプロ軍団なのである。
 タンメンは薄味で野菜たっぷり、素朴な味がした。 
 機会があったらまた来ようと思いつつ店頭でおみやげの塩大福を買い求め、帰宅後にさっそく試食。
 温かくてやさしい味。店の魂は小さな大福にも宿っていた。

2009.11.02

ふるさと

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 小学校4年から高校2年まで、 私はM市の共同アパートに住んでいた。当時、アパートの前には米軍の駐屯地があり、広大な敷地には住居棟が要塞のように建ち並んでいた。敷地内にはアメリカ人の子どもが遊ぶ芝生の公園や教会やスーパーマーケットもあった。
 駐屯地はそれ自体がひとつの街として機能していたため、中で暮らす住人が歩いて外に出てくることはあまりなかったが、たまに柔道着に黒帯を締めた黒人がゲートから出てきて素足で道をのし歩いたり、黒人男性と白人女性のカップルが体をぴったりくっつけて近隣を散歩したりしていた。
 夕方になると国旗がするすると降ろされてアメリカ国歌が流れ、建国記念日などにはロックやジャズの生演奏が風に乗って聞こえてきた。
 こちらから見ると鉄条網で隔離された異世界だったが、そこは妙に豊かで明るくてさばさばした雰囲気が漂っており、そのころ暗黒の人生を送っていた私は、まるで光を求める蛾のようにいつも窓から巨大な要塞を憧れの目でながめながら暮らしていた。救いようのない窮屈な環境に身を置きながら、「この世に存在する世界はたったひとつではない」と無意識のうちに教わっていたような気がする。

 家の都合で高2のときにそこを離れて南西の丘陵地に移動したが、何年か前、思い立ってM市のそのアパートを訪ねた。すでに廃墟になっていた。
 立ち入り禁止のロープがかかっていなかったので、思い切って自分の住んでいた棟の階段を上ってみた。捨てるに忍びなかったのか、階段の途中に枯れた鉢植えが数個置いてあり、小バエがその回りを飛んでいた。
 3階の305号室のドアノブを回す。
 開かない。
 ドア中央部にしつらえられた新聞受けのフラップを押し開けるが、中は真っ暗で何も見えない。
 仕方なく3階の階段から外をながめると、米軍の敷地内にあった要塞は跡形もなく取り壊され、だだっ広い開放公園になっていた。アメリカ人の姿は消え、かわりに芝生に座ってのんびりくつろぐ日本人がいた。私が慣れ親しんでいた世界は完全に消失していた。 

 あとで幼なじみにアパートのことを聞くと、「あそこはじきに取り壊され、民間の低層マンションが新しく建つのだ」と教えてくれた。
 後日、再びそこを訪れてみると、すでにまったく新しい建物が建ち並んでいた。当時の風景の面影などもうどこにもなかった。どこか別の街に迷い込んだような気がした。
 形あるものはすべて消え失せる。青春時代を過ごした「ふるさと」はもう私の記憶の中にしかない。

2009.10.30