春のお彼岸 2009

春分の日を中日(なかび)として、その前後3日間が春のお彼岸。

◆お彼岸の初日に見た夢
 周囲360度、見渡す限り水面。自分は水の中にいる。途方に暮れていると助けがやってくる。
「遅くなってごめんね」
 よかった、助かった。そこで目が冷めた。

◆春分の日に起こったこと
 バスで帰宅時、老婆が隣に座る。
「あたしお墓参りに行ってきたんだけどさ・・・」
 しきりに話しかけられる。
「お伊勢の森って知ってる? あたし、そこに自分の墓をつくったんだよ」
 途中つじつまの合わない話も出てくるが、人なつこくておもしろいのでイヤホンをはずして話し相手になる。
「あたし、自分の墓石は黒みかげにしたよ。戒名に大姉ってつけたらさ、坊主にうんとお金取られちゃったよ」
 そう言って地下鉄そばの停留所で降りていった。
 この1週間、ずっと強風が吹いている。風が強くないとこの世とあの世の間を行き来できないのだなと思う。

2009.03.23

お経

 知り合いのお通夜に参列。夏にお見舞いに行ったときには元気そうだったのに、12月の満月の夜、あっけなく逝ってしまった。
 白いトルコキキョウやユリなど花いっぱいの祭壇には、屈託なく笑うその人の顔写真が飾られている。病室で見たのと同じ、人なつこい笑顔だ。
「ボクね、運がよかったんですよ」。そう言って微笑んでいた。

 亡くなったことを実感できないまま会場内をあちこちながめているうち、導師が入場。読経が始まる。

 無上甚深微妙法(むじょうじんじんみみょうほう)
 百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう)
 我今見聞得受持(がこんけんもんとくじゅじ)
 願解如来真実義(がんげにょらいしんじつぎ)

 何となくわかったようなわからないような経文がひたすら続く。
 これ、死んだ人は理解できるのだろうか? 自分だったらきっと理解できない。
 では、何のために唱えるのか?
「あなたはもう死んだのである」と死者に納得させるためではないか。
「この抑揚のない歌のようなものは、あなたのために唱えるお経である」
 おりんがゴーンとおごそかに響く。
「そう言えばほおをつねっても痛くないし、坊主が読経してみんな黒服を着てむわっと線香臭い・・・・・・。そうか葬式だ、あれっ、祭壇には自分の写真!? ・・・・・・むむむ、もしかすると自分は死んだのではないか」
 お通夜や葬式を目の当たりにして、死者は悟る。

 読経は死者に対してだけでなく、生者にも作用する。 
 人はお経を聞くことで、「あの人はもう死んだのだ、生きている私はそれを認めてあきらめなくてはいけない」と認識する。お経がかもし出す波動で悲しみをいやされる人もいるだろう。

 お通夜のお経とは、亡くなった人はもちろん、残された人にも「あきらめ」を促す語りかけではないか。執着を手放すことで死者は少しでもスムーズに成仏でき、生者は少しでも心おだやかに過ごすことができるようになると思う。

 Yさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。合掌

2009.03.11

携帯電話の死

iPhoneを買ったので、長年使っていたdocomoを手放すことにした。
「じゃあ、こちらで処分します」と係員が携帯を閉じた瞬間、ブルーのイルミネーションがけなげに点滅してそれから静かに消えた。
あ、命が消えるのだなと思った。
それから係員は万力のようなものを取り出し、携帯のプッシュボタンにぐさりと穴を開けた。3カ所。
「ほら、こことこことここをつぶすと、もう二度と電源が入らないのですよ」
息の根を止められた携帯電話は動物の亡きがらのようだ。
たとえ携帯でも、安楽死させるのはあまり気分のいいものではない。なにせ毎日手にとって使うのだから、自分の気が浸みている。

少しぐったりして帰宅。
死ぬ寸前の携帯と、4年前に22歳で逝った愛猫の姿がかぶってせつない気持ちになる。

2009.03.10