ズンドコ節

 私はなぜか子どものころからよく虫歯になる。きちんとみがいているつもりでも、いつの間にか必ず虫歯大魔王の手が忍び寄ってくる。緊張性で小心者のため歯医者に行くたびイヤというほど恐怖体験を味わうのだが、このたび3年ぶりに再発生。ことの起こりは検診だ。
「あ、ありますね虫歯。けっこう深いな。じゃ、また来週来てください」
 5月のとある午後、とほほとため息をつきつつ、歯科医院を再度訪問。
 独特の薬の香りと空間に漂う緊張感に一瞬ひるむ。しかしもう後には引けない、虫歯は放っておいては絶対に治らないのだ。
「だいじょうぶ、30分後には私は治療費を払い、ホッとした気分で病院を後にしているだろう」と自分に言い聞かせる。

 殺風景な待合室には誰もいない。ここは予約制で、私が午後一番の患者なのだ。ラジオからピンク・レディの「UFO」がうっすら流れている。軽快なメロディに集中しようとするほど、心臓のドキドキ音が大きくなる。そばに誰かがいたら、「うわっ大きな音!」と驚くだろう。
 で、こういうときに限ってなかなか先生が昼休みから帰ってこないのである。時間より早く来てんのにどうしてこんなに待たせるのかな緊張が体の中で爆発しそうだよ、いっそ診察券置いたまま逃げようかなと逡巡(しゅんじゅん)する矢先、先生が登場。
「はい、やりましょう」
 絶望的な気持ちになる。 

「チクッとしますよ」 
 麻酔の注射針が歯茎に押し込まれる。
 ああっ、これがイヤ。ものすごくイヤ。心臓麻痺起こして死んだらどうしようここは暑いな鼻が詰まって息が苦しい変な味がするからツバ飲み込めないじゃん。
 2本目の注射を打ってしばらくたつと、唇の感覚がなくなってきた。
「はい、口あけて」
 キュウグイーンガリガリガリガリと猛烈なドリル責め。麻酔がかかっているので先生は安心して容赦なくけずる、けずる、そしてまたけずる。頭蓋骨に重低音と衝撃が響きまくる。
 そんなに振動させたら脳味噌が豆腐のように崩れるのではないかと不安になるが、いやひょっとすると活性化されて逆に頭がよくなるのではないかとも思う。「ズンドコ節」を歌い踊る氷川きよしが脳内にあらわれては消える。
 ああやっと終わったと思ったら先生はうれしそうに刃を替えてまたけずり出す。
 永遠にも等しい30分が過ぎた。
「はいうがいしてください。また来週」
 頭に熱が充満した状態でよたーんとしたままフラフラ立ち上がり、上の空で会計を済ませ、外に出る。受付のお姉さんに何か言って大笑いしたような気もするが、よく覚えていない。

 外は初夏を思わせるさわやかな午後だ。自分でもよくわからない気分のまま、停留所でバスを待つ。ホッとしたわけでもない、うれしいわけでもない、かといって落ち込んでいるわけでもない、しかし決してスッキリはしていない。
 バスが来た。空いている席に座る。ああやっと終わった、おなかがすいたからどこかでお茶でも飲んで帰ろうかなと考えるうち、徐々に気が遠くなってくる。過度の緊張による脳貧血と思われる。
 このままま揺られているとたぶん気分が悪くなるだろうと予知し、2つ先の停留所で降り、夢遊病者のようにふらふら歩く。
 駅に向かう坂道にはたくさんの人がせかせかと歩いている。
 私は坂道をゆっくり降りた。体内時計がいつもの3倍のスローペースで時を刻んでいる。ときおり、視界がぐらつくので立ち止まる。
 コンビニのショーウインドウに顔を写すと、唇の右半分がだらんと垂れ下がっている。十分に笑える顔だが、歯がズキズキうずいているので笑えない。ブルドッグのような唇のまま、電車に乗って帰宅。

 夜、布団に入ってからやっと唇の感覚が戻った。削った歯は相変わらずズキズキうずいている。
 どうか今日の試練によって私の脳に奇跡が起こり、明日の朝になったらものすごく頭がよくなって素晴らしいひらめきが次々に浮かびますように、と神さまに祈りながらさみしく眠りについた。
 残念ながらその願いは叶えられず、翌日もそのまた翌日も同じような日々が過ぎてゆくだけだった。

2010.05.30

逢魔が時

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 日曜日の夕方、散歩がてら街まで買い物に。多くの人が軽く厭世観を覚えながら、お茶の間で夕餉の支度を調える「サザエさんタイム」と呼ばれる時間帯である。
 ゆるやかな坂道を上っていくと、前方に赤いシャツを着た中年男がいる。小ぶりなリュックをかつぎ、スニーカーでスタスタ歩いている。
 男は少し先の信号で立ち止まった。左側に渡り、道路の反対側を歩くつもりなのだろう。
 左側を向いて信号待ちをしている男と、距離が縮まった。40歳前後の、涼しい顔立ちのイケメンだ。
「・・・・・・が、・・・・・・で、」
 何かしゃべっている。携帯で話しているのかと思いきや、両手は体の両脇にだらんと垂れ下がっている。
 じゃあ誰と話しているのだろう? そうか、独り言か。
「・・・・・・空虚さが」
 え?
「残酷な変化を遂げて」
 ええっ?
「・・・・・・絶望に変わる」
 あ、狂ってる。
 外見上はどこにもほころびが見えないその男性は、脈絡のないことを1人でずっとしゃべり続けているのである。しかも、けっこう大きな声で。
 私は足早にそばを通り過ぎた。

 背中に張り付くように、念仏のような男の独り言が聞こえてくる。男は信号を渡るのをやめ、私のすぐ後ろをついてきているのだ。のべつ幕なしに吐き出される無意味な言葉の羅列から、忌まわしい気が放たれてくる。意識をそちらに向けないようにすればするほど、まがまがしい言葉の1つ1つが矢のように耳に突き刺さってくる。
「・・・・・・孤独な」
「・・・・・・行き場のない」
「・・・・・・ぎりぎりの崖っぷちから」
 何かに憑かれているのか、それとも私に呪いを掛けているのか。聖なるものほど追いかけると逃げ、邪悪なものほど逃げると追いかけてくるのはなぜだろう?
 その道は一本道だった。信号で左側の道に渡るか、後戻りするか、そのまままっすぐ進むしかない。私は歩行スピードを一気に上げた。信号を待つのも後戻りするのもいやだった。

 よし、ここまで来ればだいじょうぶだろう。
 しばらく歩いてから振り向いた。かなり歩調を早めたので、息切れしていた。
 背後にぴったり貼り付くように、その男がいた。男と私の距離はまったく変わっていなかった。
 うわあ。
 なかば駆け足になった。それでも男の声が背中を追いかけてくる。ふり返るたび、赤いシャツが目に飛び込んでくる。
 あの色は・・・・・・、
 私はその考えを頭から振りはらった。
 あの赤いシャツを着た男は普通に歩いているのに、なぜ距離が開かないのだろう? そういえばあのシャツの色は、乾いた血の色によく似ている。
 恐怖が背筋を這い上った。

 大きな十字路に出た。すかさず右に曲がり、人混みをかき分けるようにジグザグに歩いた。一直線に飛んでくる念をかわすには、無軌道に動くか、リズムをパッと変えて波長をずらすしかない。
 おそるおそるふり返ると男は消えていた。胸をなで下ろし、そのまま街へ向かった。
 日曜の夕刻は逢魔が時だ。人気の少ないその時間帯には、隠れた者がやってくる。

2010.05.17

人外大魔境・養老渓谷

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 養老渓谷そばの秘湯の宿に1泊。川に面した部屋に案内されて窓を開けると、耳を洗うような川のせせらぎの音。
 宿に着いたのが夕方過ぎだったので渓谷散策はその日はあきらめ、露天風呂に入って夕食をいただく。シカ肉のソテーやしし鍋、鮎の塩焼き、タケノコの炭火焼きなど、ご当地ならではのご馳走が並ぶ。どれもほどよい分量で好感が持てる。
 夕食後、もう一度露天風呂に入ってから床についた。
 ・・・・・・あれ? 眠れない。疲れているからすぐ眠れるはずなのに、奇妙な映像が次から次に頭に浮かんで意識が半覚醒したままだ。
 日本昔話の幻灯絵巻をフラッシュバックで延々と見せられている感じ、ああもう面倒くさい、早く寝たいのになあと何度も寝返りを打つが、意識がなくなる寸前にすかさず映像がパパパッと挿入されてくるので、なかなか意識を失うことができない。
 いったい誰が邪魔してる? そういえば部屋のすぐ外につがいのシカのはく製が飾ってあった、でもあれはそんなに力が強くないからたぶん悪さはしないだろう、じゃあ誰だ。
 しばらく考えてから気がついた。そうか、滝だ! 窓のすぐ下には渓谷が広がっているのだっけ。水場にはさまざまなものが集まるからなあ、カバンにお守り入ってるのに効かないじゃん、やっぱり枕元に置かないとダメだな、あ、雨だ、雨の音が聞こえる、かなり降ってきた。
 うつらうつらするうちに夜が明けた。

 翌朝、朝食を済ませてから渓谷へ降りた。「滝めぐりコース」として川沿いに設置された遊歩道は全長4キロ、約80分の道のりだ。
 雨は小降りでときおりぱらぱら降る程度、傘なしでもいけそうだ。それにしても寒い。
 重く垂れ込めた雲の下、私はコートの襟をかき合わせて遊歩道を歩き始めた。見渡す限り、ほぼ手つかずの大自然。眼下には渓流、その両脇に天高くそびえ立つ岸壁。頭上には生い茂る新緑の木々。ところどころ、うす紫色の藤の花が咲いている。
 平日の朝のせいか、あたりには誰もいない。聞こえるのは水の流れる音だけ。
 川の中は神秘的だ。水が走る岩盤の上に横たわったり、深い青緑色の水の中に沈み込みたいと本気で思う。
 滝をふたつほど通過したあたりで、雨が勢いを増してくる。道の向こうには同じような景色が果てしなく続いている。
 仕方ない、引き返すとするか。これ以上濡れたら風邪を引く。
 いさぎよくUターンする。内心、ホッとしていた。陰気な雨が降る暗い遊歩道をそのまま進み続けるのは少し気が重かった。いや、実を言うとこわかった。神隠しにあってもおかしくない雰囲気だったからである。 

 帰宅後、渓谷の写真をパソコン画面で見ると、そのうちの1枚に大きな紫色のオーブ(丸い光の玉)がくっきり写っていた。拡大すると、刀の鍔(つば)の中にエイリアンもしくは観音さまの顔がきちんと収まっているような感じ。
 歩いている最中、背中がゾクゾクしたのは気温が低いからだけではなかったのだ。無人の大魔境に踏み込んだ「よそ者」は、水辺に棲む者にずっと後をつけられ、監視されていたに違いない。

 2010.05.13

神さま酔い

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 千代田区の祭礼で宮御輿が町内を巡幸。
 活きのいい担ぎ手が御輿を揺らすたび、界隈の空気が清まる。清まった空気は気持ちがいいから、御輿のまわりにだんだん人が集まってくる。みな笑顔である。
 やがてゴールの神社が近くなると気の高ぶった担ぎ手はトランス状態に。ついて歩く人々も軽くトランス状態。
 御輿が無事に神社に戻って一本締め、やれやれ楽しかったと後楽園遊園地(東京ドームシティ)へ足を伸ばす。

 ドームホテルを左に見ながらラクーアに向かってクリスタルアベニューを直進し始めたときから異空間がスタート。目の前に現れるものすべてがヘンである。
 通常の4、5倍はあろうかと思われるボリューミーな体型の女性が道のど真ん中でソフトクリームを食べ、海底でゆらゆら揺らめくワカメのように体がしなるお母さんが同じようにゆらゆらする子どもを連れて歩き、劇画からそのまま出てきたようなゴルゴ13似の濃い顔のおっさんがいきなり目の前にどーんと登場し、ホームレスの人が花壇で1人静かに口を開けたまま瞑想。
 パラシュートやジェットコースターなどのアトラクションは満員、ステージでは目的のよくわからないイベントが開かれていてこれも満員、飲食店も満員。カーネル・サンダースは張り切って武者コスプレ。園内には見渡す限り魑魅魍魎(ちみもうりょう)の群れ。
 疲れて椅子に座り、コーヒーを飲みながらチョコ餅(ココアの粉をたっぷりまぶした餅の中にチョコクリームが入っているぶよんぶよんした菓子)を食べていると、「ここ、いいですか?」と20歳くらいのかわゆい婦女子が2人やってきて、同じテーブルを囲む。「どうぞ」とニッコリ微笑む私の唇はきっとココアの粉で真っ茶色に染まっていたに違いない。
 どこか時代遅れの服を着た婦女子はおいしそうにソフトクリームをなめ、食べ終わると風のように立ち上がり、そのままスーッと薄くなって上空に消えた。昭和何年代からタイムスリップして来たのだろうと考えていると、早くも夜の風が「ねえーん、ほほほほ」とほおをなでる。たくさんの親子連れを乗せたメリーゴーラウンドが回り始めた。メリーゴーラウンドはいつ見ても哀しい。
 ごう音とともに龍が空を駆け抜けていく。龍に乗せられた若者たちは「祇園精舎の鐘の声」を金切り声で大合唱。ああ無常。
 風が殺気をはらんできたので、園を後にする。

 駅に続く地下道を歩くうち、脳内ライトがオレンジ色の電球から昼白色の蛍光灯に切り替わった。宮御輿の酔いが覚めたのだなと思った。

2010.05.05

インド綿のブラウス

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 気温が上がって寝苦しくなってきたので、パジャマを衣替えしようと思い立った。
 クローゼットの奥から夏用の寝間着を取り出し、まとめてガーッと洗濯、日光に当てて一気干し。オレンジ色やピンク色の服が並ぶなか、白地に青い小花柄のインド綿のブラウスがはたはたとひらめく。
 
 ちょうど1年前の今ごろ、私は死んだようにベッドに横たわっていた。飲み過ぎである。グループで飲みに行き、調子に乗ってワインを何本か空けたと思う(どのくらい飲んだか、途中から覚えていない)。
 安物のワインをがぶ飲みした後遺症はそれまでに経験したことがないほどひどく、飲んでから丸3日間、ひどい吐き気と頭痛と倦怠感に襲われて体がまったく動かなかった。そのとき着ていたのが、そのインド綿のブラウスだった。
 本来なら、捨てるべきだった。しかしあまり回数を着ていなかったこと、着心地がよかったこと、柄が美しかったことから、私はそれを捨てずにクローゼットの奥にしまい込んでいた。

 洗濯した夜、私はそれを再び身につけ、眠りに落ちた。
 女に馬乗りになり、両手に渾身の力を込めてその女の頭の骨をにぎりつぶそうとする夢を見た。女はなかなか死なない。されるがまま横たわりながら、私に罵詈雑言を浴びせかけて笑っている。(夢の中で、顔こそ違うが彼女は私の母親であることがうっすらわかっている。)
 はっと目が覚めた。重い気分のまま、丑三つ時の暗い世界をたゆたう。
 このブラウス、着るんじゃなかった。
 はっとそう気づいた。
 ひどい思いを味わったときに身につけていた衣服の繊維には、よくない気が染みつく。その気は洗濯しても日に干しても蒸発せず、再び悪さを働く。目に見える汚れより、見えない汚れのほうがたちが悪いのだ。

 やっぱり、もう捨てるしかない。
 翌朝、私はそのブラウスをゴミ箱に放り込んだ。はかなげなインド香が一瞬鼻をかすめ、しばらくしてからぷつんと消えた。

2010.05.05