知り合いのお通夜に参列。夏にお見舞いに行ったときには元気そうだったのに、12月の満月の夜、あっけなく逝ってしまった。
白いトルコキキョウやユリなど花いっぱいの祭壇には、屈託なく笑うその人の顔写真が飾られている。病室で見たのと同じ、人なつこい笑顔だ。
「ボクね、運がよかったんですよ」。そう言って微笑んでいた。
亡くなったことを実感できないまま会場内をあちこちながめているうち、導師が入場。読経が始まる。
無上甚深微妙法(むじょうじんじんみみょうほう)
百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう)
我今見聞得受持(がこんけんもんとくじゅじ)
願解如来真実義(がんげにょらいしんじつぎ)
何となくわかったようなわからないような経文がひたすら続く。
これ、死んだ人は理解できるのだろうか? 自分だったらきっと理解できない。
では、何のために唱えるのか?
「あなたはもう死んだのである」と死者に納得させるためではないか。
「この抑揚のない歌のようなものは、あなたのために唱えるお経である」
おりんがゴーンとおごそかに響く。
「そう言えばほおをつねっても痛くないし、坊主が読経してみんな黒服を着てむわっと線香臭い・・・・・・。そうか葬式だ、あれっ、祭壇には自分の写真!? ・・・・・・むむむ、もしかすると自分は死んだのではないか」
お通夜や葬式を目の当たりにして、死者は悟る。
読経は死者に対してだけでなく、生者にも作用する。
人はお経を聞くことで、「あの人はもう死んだのだ、生きている私はそれを認めてあきらめなくてはいけない」と認識する。お経がかもし出す波動で悲しみをいやされる人もいるだろう。
お通夜のお経とは、亡くなった人はもちろん、残された人にも「あきらめ」を促す語りかけではないか。執着を手放すことで死者は少しでもスムーズに成仏でき、生者は少しでも心おだやかに過ごすことができるようになると思う。
Yさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。合掌
2009.03.11