念力

わ
 小さいころ、近所の子供会に参加したことがある。忘年会だったか新年会だったか忘れたが、最後のイベントはじゃんけん大会だった。

「これが3等の賞品、これが2等の賞品」
 ゲームが始まる前に、賞品が紹介された。
「これが1等の賞品だよ」
 裏に孫悟空が描かれた、オレンジ色のつやつやしたトランプが差し出された。私はそれを見た瞬間、何の邪念もなく「ほしい」と思った。 
「じゃんけん、ぽん!」
「あいこでしょっ!」
 よくわからないうちに、あっけなく勝ち抜いてしまった。トランプは私の手にあった。
 じゃんけんを出す手に念力を込めたわけではないし、「勝ち抜いた自分」を頭に思い浮かべたわけでもない。もちろん、呪文を唱えて相手にパーやグーばかり出させたわけでもない。ただ単純に「ほしい」と思っただけである。
「自分はじゃんけんが弱いから勝てないだろう」とか「ライバルが多すぎるからきっと他の子の手に渡ってしまうだろう」などとよけいなことを考えず、無心にじゃんけんをしたら、ほしいものが手の中に飛び込んできた。それだけだ。 

 不安や恐れで思う力の勢いを弱めない限り、そしてそれが他人に害を及ぼすものでない限り、思う力=念力はすべてのものを通過してまっすぐに飛ぶことをそのとき知った。

2009.10.01

秋のお彼岸

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 秋のお彼岸入りの深夜、ふと目が覚めた。
 東北方位から、ごうごうと強い風が吹きつけている。まるで大きな鬼が怒りながら泣いているような、ものすごい音だ。
 そうか、鬼門が開くのだなと気づく
 秋分の日を中日として、前後3日間は秋のお彼岸だ。あちらの世界からこちらの世界を懐かしむ霊たちが、「フリーパスだからどんどん行こうじゃん!」と、わらわらこの世に押し寄せてくるボーナスウィークである。
 目には見えないが、この期間、こちらの人口(霊口)密度は非常に高くなっていると思う。公園のベンチはぎっちぎち、ディズニーランドは満員御礼、風光明媚な温泉は芋洗い状態に違いない。
「やっぱりシャバはいいよなあ」
「生き返りますねえ」
 打たせ湯を肩や背中に当てながらぼんやり大自然をながめる死霊やゾンビのつぶやきが聞こえるようだ。 
 あちらからこちらに自由に行き来できるなら、こちらからあちらへ行くのもたやすいはずだ。うっかりしていると迷い込む。丹田に力を込め、気を引き締めてこの1週間を過ごしたいと思う。

2009.09.20

秋祭り

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 日曜日の夜、少し足を伸ばして隣町まで買い物へ。帰りに道路を練り歩く御輿に遭遇。秋祭りである。どうりで風が涼しいはずだ。
 通行止めされた道路のど真ん中では盆踊り大会が繰り広げられ、その脇を御輿がわっせ、わっせと練り歩く。その通りにそんなにたくさん人がいるのを見たのは初めてだった。
 今夜はいいじゃん! とばかりに嬌声を上げて夜の道路で遊びまくる子どもたち、大声で笑いながら仲間と世間話に興じる若者たち、寝てしまった小さな子どもを抱いて歩く父親や母親。
 元気な彼らをよそに、御輿を静かに見つめているのは老人だ。缶焼酎を手にした小柄な70歳くらいの男性は、足を引きずりながらずっと御輿について歩いている。太った老婦人は杖で体を支えながら、懐かしそうな目でじっと御輿を見つめている。露店を出している初老の女性は縁石に座り、ビールを飲みながら何も言わずに御輿をながめている。どの顔にも貫禄がある。
 彼らの横顔や後ろ姿を見ながら、この人たちはきっとたくさんつらいことを経験してきたのだろうなと思う。意にそぐわないことや理不尽なこと、悲しいこと、こわいこと、頭に来ること、そしてたまに幸せなことをそれぞれ何十年も経験して、何事もなかった顔をして祭りに参加しているのだ。
 オレンジ色の街灯が、夜の祭りを温かく照らす。
 多かれ少なかれどの人も同じだ、人生はそれほど捨てたもんじゃない、何があっても、どんな人でも、祭りの日はみんな同じ光に包まれる。

2009.09.13

愛と夢の国

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 涼しくなったので東京ディズニーランドへ。園内は最後の夏休みをそこで過ごそうという家族連れで大にぎわいだ。
 人垣の間から「ジュビレーション」を鑑賞。だだっ広い敷地の向こうから、異質なものたちが練り歩いてくる。
 殺風景な舞浜の空き地にわらわらと出現する、原色のキャラクターと人工的な造形物。パレードの手前の広場には、真っ白い彼岸花が一面に咲いている。
 
 日が落ちかけるころ、ウエスタンリバー鉄道に乗る。走れども走れども薄暗い裏山だ。
 茂みの間をかき分けてしばらく進むと、インディアンの母娘が列車に向かって手を振っていた。もう何年も何年も、あの母娘はうっすらとほほえみを浮かべながら手を振っているのだろう。深夜、誰もいなくなっても。
 
 ディズニーランドの夜は暗い。エレクトリカルパレードは最大の見せものだ。闇に光る巨大なイルミネーションは見る者を圧倒するが、その人工的な光はうたかたの夢のごとく、目の前をあっという間に通り過ぎる。
「きみも、友達だよ!」
「いっしょに、行こうよ!」

 ディズニーランドは愛と夢を売っている。つかの間の、数千円で買える愛と夢。
 ずっと昔、ここでかりそめの幸せを味わったあと、この世からフェイドアウトした家族のことが新聞に載っていた。「せめてここでは楽しく過ごそう」という最後の悲願は、はたしてかなえられたのだろうか? 
 空には白い月がぷかりと浮かんでいる。入園者が群れをなして一斉に出て行ったあと、しんと静まりかえった巨大なホテルを仰ぎながら、はかなく消えてしまった彼らのことを少しだけ想う。

2009.09.02

占い

 見てもらう価値のある占いと、そうでない占いを見分けるのは簡単。
 前者には希望があり、後者には希望がない。

2009.08.25

びっくり味噌カツ

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 名古屋のMホテルで朝食ビュッフェ。
 フレンチトーストにホットケーキ、ママレードを塗った黒糖パンのトースト、ボリュームたっぷりのオムレツ(その場で焼いてくれる)、ウインナー、ブルーチーズをたっぷり乗せたグリーンサラダ、ブルーベリーヨーグルト、バナナ(まるごと1本)、すいか、グレープフルーツ、プルーン(特大3個)、オレンジジュース、そして締めにマフィンとホットコーヒー。
 高貴な味に大満足し、ホテルを出る。
 足取りは重い。当然である。おなかがはちきれそうだからである。
 そのまま近鉄特急に乗る。
 通路をはさんだ左隣に、頭の薄くなりかけたサラリーマンがいる。やおら袋をガサガサやっていたかと思うと、中から弁当を取り出した。
「びっくり味噌カツ」
 蓋を開けると同時に、濃厚すぎる味噌カツのにおいが車内にぷうんと立ちこめた。
 カツと言えば、つい先日、私はカツ重で生き地獄を味わったばかりである。
 男性は特大のカツをゆっくり箸でちぎり、少しずつ愛しむように食べている。私は物思いにふけるふりをして肘掛けに肘を乗せ、そっと手のひらで鼻の穴を抑えた。
 カツの呪いは恐ろしい。どのくらい恐ろしいかというと、Mホテルの宿泊料金より恐ろしい。

2009.08.09

カツ重

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 土用の丑の日、太陽が最も熱烈に燃え盛る時間帯に、「カツ重を食べに行こう」と思い立ち、家を出た。
 太陽の熱気でアスファルトが溶け出し、水平線に蜃気楼のような黒い影が気味悪くゆらゆらと揺れている。10分も歩かないうち、身体はすでにしおしおのパーである。 
 初めて入るトンカツ屋の店先でしばらくためらったのち、意を決して引き戸をガラガラと開けた。
「いらっしゃいッ!」
 カウンターだけのこじんまりした店内は明るく清潔感があり、活気に満ちている。すでに数名の客がトンカツをほおばっている。店主の顔つきは悪くない。隣に立っているのはおかみさんか。OK、ここならよさそうだ。
 メニューをしばらく吟味してから、ソースカツ重を注文する。
 後から入ってきたOL3人組が自分の隣に並んで座った。
「カツ丼!」
「私もカツ丼!」
「じゃあ私もカツ丼!」
 カツ丼三重奏か。仲がよくてよろしい。 

「お待ちどおさまッ!」
 白いご飯の上に千切りキャベツがたっぷり、その上にたっぷりソースのかかったトンカツ。
 あからさまに視線は向けないが、店主がこちらの反応をうかがっているのがわかる。どうだい、なのか。
 重箱向かって左端のカツを一切れ箸にはさみ、ほおばる。
 脂身。
 いきなりカウンターパンチだ。私は脂身が苦手である。
 二切れ目をほおばる。また脂身。今度はピンク色の肉が混じっている。
 私は半生の豚肉が苦手である。
 ダブルパンチを食らった私は、とりあえずカツ重から意識をはずし、お新香や豚汁に逃げてダメージを修復しようと試みた。
「うわあ、おいしい!」
「私たち、評判聞いてちょっと遠くから来たんですよお」
「おやじさん、何となくフランス人みたい!」
 見えるわけないだろう普通のトンカツ屋のおっさんじゃんかと心の中でつっこみながらひとりカツ重と格闘する。

 ・・・・・・ダメである。カツの香りがプーンと鼻についてのどが拒否反応を起こす。3分の1も食べていないが、気分はすでにごちそうさまである。食欲に一度終止符が打たれると、もう何をしてもダメなんである。
 おかみがチラチラこちらを見る。米を一粒ずつ口に運んでいる客を、今まで見たことがないのだろう。 

「ごちそうさま!」
 OL3人組の丼はきれいにカラになっている。よく食べきったなお前たち。
 私はネズミがほんのちょっとかじったようなカツ重を残し、どさくさにまぎれてあわててお金を払い、店を出た。
 地平線に黒い蜃気楼が見える。
 胃を両手で抑えながら家にたどり着いた。めまいがする。胃が重い。
 胃薬を飲んで横たわるうち、いつの間にかうとうとする。夢の中でも胃が重い。
「ああっ、ダメだこりゃ!」と感極まったところで目が覚める。
 夏土用の真っ昼間のカツ重は恐ろしい。どのくらい恐ろしいかというと、お盆のオバケより恐ろしい。

2009.08.02

生き霊

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 夢枕に立つのは死んだ人間ばかりでなく、ときに生きている人間も出てくることがある。
 いわゆる「生き霊」というやつである。
 私はこの経験をしたことがある。
 かりに、名前をAさんとしておこう。
 彼女はけっこう恵まれた環境にいる人なのだが、変に人をうらやむ癖があった。たぶん自分に自信がなかったのだと思う。
 面倒なのでなるべく距離を置くようにしていたのだが、何かのはずみで私に興味を持ってしまったらしい。
 ある日の明け方、眉間のあたりに映像がフッと浮かんだ。
 白い壁から右半身だけ出して、Aさんが私の家の中をじっとのぞき込んでいるのである。
 目が覚めて、「これは夢ではない」とわかった。
 その数日後、また同じ映像を見せられた。
 前回と同じように白い壁から右半身だけ出して、こちらをのぞき込んでいる。
「うらやましい」というどんよりした感情が伝わってくる。
(私はAさんからうらやましがられる覚えは何もない。)
 やがて、その感情が「うらめしい」に変わってこちらに伝わってきた。
 前回より投影の時間が長い。
「しつこいやつだな」と思い、猛烈に腹が立った。以後、その相手と関わるのは一切やめた。幸いにも私の存在を忘れてくれたのか、それ以降、彼女が夢に出てくることはない。

 死者は夢に何かしらの意思を伝えに来るが、生き霊にはそれがない。
こちらにはどうしようもない感情を自分勝手にぶつけてくるだけである。
 そこに愛はない。

2009.07.27

小枝の実

 名古屋から近鉄電車に乗ったときの話である。
 スカスカの車両の一番端に座り、iPhoneでいくつかメールを打ち終え、パッと目の前を見ると、小柄な初老の男性がちんまり座っている。大きな黒いボストンバッグを膝に乗せ、バッグの上に新聞を置き、その新聞に顔を置いて読んでいる。
 ずいぶん目の悪い人だなと思ってよく見ると、新聞紙の上に置いた顔がじっとこちらを向いている。ビン底の分厚いメガネ。ぼさぼさに立った髪。くたびれたウディ・アレンというところだ。
 彼はなぜ自分をずっと見ているのかと一瞬あせるが、よく見ると目が閉じている。寝ているのである。おっさんはボストンバッグの上に広げた新聞紙にあごを載せ、まっすぐこちらを向いたまま寝ているのである。眉をハの字に広げたその顔は、無防備であどけない。 
 
 メールが来た。再びiPhoneに目をやる。
 読み終えて前を向くと、おっさんは「小枝の実」という小さな袋菓子を開け、中に指を突っ込んでは口に運んでポリポリ食べている。いつの間に起きたのか。眉は相変わらずハの字である。ポリポリ。ポリポリ。ビン底メガネのおっさんが、リスのように小枝の実を食べている。
 やがて、おなかの底からむずむずと笑いがこみ上げてきた。携帯に目を落とし、気分をそらそうとするがダメである。山本リンダではないがどうにも止まらない。マグマのようにあとからあとから笑いが口からこぼれ出し、下を向いたままクスクス笑ってしまう。
 次におっさんは緑茶のペットボトルをおいしそうに飲み、それから週刊文春を広げて読み始めた(新聞紙はいつの間にかなくなっている)。

 携帯を見ながらクスクス、車内広告を見ながらクスクス、外の風景を見ながらクスクス。気をそらそうとするほど笑いが止まらない。 
 笑いと格闘し続けること20分。
 さあ降りようと立ち上がると、不思議そうな顔でこちらを見ている若い娘と目が合った。知らんぷりしてホームに降り立つ。
 娘、お前もこのおっさんの真正面に座ってみい。
 ピリピリピーと笛が鳴った後、週刊文春を読んでいるおっさんの薄い後頭部がスーッと目の前を通り過ぎていった。

2009.07.14

カタコンベ

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 手術を受けて入院したという知人を見舞いに、某病院へ。
 大病院なのでアクセスに迷うことはなかったが、到着してからが大変だった。入り口がどこにもないのである。日曜日だというのに入り口という入り口はすべて閉鎖され、「こちらではなく、あちらの入り口へお回りください」と貼り紙にある。
 しかし、「あちらの入り口」がどうしても見つからないのだ。院内のだだっ広い敷地をぐるぐる歩いて探すが、目印はどこにもない。
「これは、中に入るなということか」
 逡巡しつつ歩いていると、いきなり初老の女性から声を掛けられる。
「あのう、入り口はどちらでしょう」
 彼女もまた、中に入れず迷っているらしい。
 しばらく探し回ってから、「ここはあり得ないだろう」としか思えない狭苦しいところで入口を発見。

 中に入る。誰もいない。かなり大きな病院なのに、建物内を歩いている人間は自分だけだ。看護師もいない。何ひとつ音がしない。
 西日の当たる長い長い廊下をひたすら歩く。 
 めざす病室にいた知人は、大手術のあとにもかかわらず元気だった。しかし、隣のカーテンで仕切られた奥はしんと静まりかえった闇だ。
 沈みかけた夕陽が、病室の風景を黄金色に染め上げる。まるで西方浄土だ。
 手みやげを渡し、しばし世間話をしてから病室をあとにする。

 別フロアの誰もいない食堂に立ち寄って階下の景色を見下ろす。眼下に人気のない広い公園、その脇を真っ黒い川が流れている。ここは人の住む土地ではないと理解する。
 この場所に陽の気は存在しない、陰の気だけが渦巻いている。マイナスのエネルギーが支配する砂漠に、プラスのエネルギーを持つ生き物が足を踏み入れるとどうなるか。徐々にパワーを吸収され、やがて蒸発してしまうだろう。
 私は長い廊下を早足で通り過ぎた。曲がり角の飾り棚に、骨壺が置いてある。よく見るとただの丸い壺だった。
 
 私は場の影響を受けやすい。重い気分は帰路途中もずっと続き、帰宅して塩風呂に入ったあとも抜けなかった。まるで大量の血を抜かれたかのようにまったく何もする気が起こらず、ただ横たわるしかなかった。

2009.07.13