とげ抜きエンジェル

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 巣鴨のとげぬき地蔵通りを散策。懐かしい雰囲気の洋品店やふくろもの屋、漢方薬局などが建ち並ぶ。大福やすあまを売っている和菓子屋の奥をひょいとのぞくと、食堂になっている。ほぼ満席状態だ。迷わず入店。
 店内には20代の親子連れから中年女性のグループ、80代のばあさん、英語でしゃべっている白人のサラリーマンなどいろいろな人が麺をすすったり丼をかきこんだりいなり寿司をつまんだりしている。60代〜70代のベテランのお姉さんが数人、お盆を運んでいる。みな忙しそうだが、決して急がない。忙しいのと急ぐのとは違うのだ。
 70代と思われるふっくら福相のお姉さんが、温かいお茶を銀盆に載せて細長い通路をこちらに向かってゆるゆる歩いてくる。「別にあくせく働かなくたっていいじゃんかー」と言わんばかりのマイペースぶりにいやされる。
「あ、食券買ってないの? 入り口で」
 席に着いてから注文するのかと思っていた。あわてて席を立とうとすると、「いいよいいよ、あたしが買ってきてあげる」。
「じゃあ、タンメンお願いします」とお金を渡すと、入り口のレジまで行って食券を買い、「はいよ」とおつりとともに渡してくれた。
「おまちどうさま」
 目の前にタンメンが置かれる。
「あのう、お冷やもいただけますでしょうか」
 お姉さん頭(がしら)だろうか、骨格のはっきりした威厳のある顔立ちと風格のあるお姉さんに向かい、意を決して私は言った。
「OKよ-、今日はあたしノッてるから、なんでも頼んでちょうだいね-」
 柔和なスマイルでこちらの気分をやんわりほぐし、ユーモアのあるひとことで親愛の情を抱かせ、仕事ぶりはていねいでそつがない。一見の客を瞬時に魅了するのは、さすが年の功である。地蔵通りのお姉さんたちは、まことに高度なスキルを持ったプロ軍団なのである。
 タンメンは薄味で野菜たっぷり、素朴な味がした。 
 機会があったらまた来ようと思いつつ店頭でおみやげの塩大福を買い求め、帰宅後にさっそく試食。
 温かくてやさしい味。店の魂は小さな大福にも宿っていた。

2009.11.02

ふるさと

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 小学校4年から高校2年まで、 私はM市の共同アパートに住んでいた。当時、アパートの前には米軍の駐屯地があり、広大な敷地には住居棟が要塞のように建ち並んでいた。敷地内にはアメリカ人の子どもが遊ぶ芝生の公園や教会やスーパーマーケットもあった。
 駐屯地はそれ自体がひとつの街として機能していたため、中で暮らす住人が歩いて外に出てくることはあまりなかったが、たまに柔道着に黒帯を締めた黒人がゲートから出てきて素足で道をのし歩いたり、黒人男性と白人女性のカップルが体をぴったりくっつけて近隣を散歩したりしていた。
 夕方になると国旗がするすると降ろされてアメリカ国歌が流れ、建国記念日などにはロックやジャズの生演奏が風に乗って聞こえてきた。
 こちらから見ると鉄条網で隔離された異世界だったが、そこは妙に豊かで明るくてさばさばした雰囲気が漂っており、そのころ暗黒の人生を送っていた私は、まるで光を求める蛾のようにいつも窓から巨大な要塞を憧れの目でながめながら暮らしていた。救いようのない窮屈な環境に身を置きながら、「この世に存在する世界はたったひとつではない」と無意識のうちに教わっていたような気がする。

 家の都合で高2のときにそこを離れて南西の丘陵地に移動したが、何年か前、思い立ってM市のそのアパートを訪ねた。すでに廃墟になっていた。
 立ち入り禁止のロープがかかっていなかったので、思い切って自分の住んでいた棟の階段を上ってみた。捨てるに忍びなかったのか、階段の途中に枯れた鉢植えが数個置いてあり、小バエがその回りを飛んでいた。
 3階の305号室のドアノブを回す。
 開かない。
 ドア中央部にしつらえられた新聞受けのフラップを押し開けるが、中は真っ暗で何も見えない。
 仕方なく3階の階段から外をながめると、米軍の敷地内にあった要塞は跡形もなく取り壊され、だだっ広い開放公園になっていた。アメリカ人の姿は消え、かわりに芝生に座ってのんびりくつろぐ日本人がいた。私が慣れ親しんでいた世界は完全に消失していた。 

 あとで幼なじみにアパートのことを聞くと、「あそこはじきに取り壊され、民間の低層マンションが新しく建つのだ」と教えてくれた。
 後日、再びそこを訪れてみると、すでにまったく新しい建物が建ち並んでいた。当時の風景の面影などもうどこにもなかった。どこか別の街に迷い込んだような気がした。
 形あるものはすべて消え失せる。青春時代を過ごした「ふるさと」はもう私の記憶の中にしかない。

2009.10.30

念力

わ
 小さいころ、近所の子供会に参加したことがある。忘年会だったか新年会だったか忘れたが、最後のイベントはじゃんけん大会だった。

「これが3等の賞品、これが2等の賞品」
 ゲームが始まる前に、賞品が紹介された。
「これが1等の賞品だよ」
 裏に孫悟空が描かれた、オレンジ色のつやつやしたトランプが差し出された。私はそれを見た瞬間、何の邪念もなく「ほしい」と思った。 
「じゃんけん、ぽん!」
「あいこでしょっ!」
 よくわからないうちに、あっけなく勝ち抜いてしまった。トランプは私の手にあった。
 じゃんけんを出す手に念力を込めたわけではないし、「勝ち抜いた自分」を頭に思い浮かべたわけでもない。もちろん、呪文を唱えて相手にパーやグーばかり出させたわけでもない。ただ単純に「ほしい」と思っただけである。
「自分はじゃんけんが弱いから勝てないだろう」とか「ライバルが多すぎるからきっと他の子の手に渡ってしまうだろう」などとよけいなことを考えず、無心にじゃんけんをしたら、ほしいものが手の中に飛び込んできた。それだけだ。 

 不安や恐れで思う力の勢いを弱めない限り、そしてそれが他人に害を及ぼすものでない限り、思う力=念力はすべてのものを通過してまっすぐに飛ぶことをそのとき知った。

2009.10.01

秋のお彼岸

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 秋のお彼岸入りの深夜、ふと目が覚めた。
 東北方位から、ごうごうと強い風が吹きつけている。まるで大きな鬼が怒りながら泣いているような、ものすごい音だ。
 そうか、鬼門が開くのだなと気づく
 秋分の日を中日として、前後3日間は秋のお彼岸だ。あちらの世界からこちらの世界を懐かしむ霊たちが、「フリーパスだからどんどん行こうじゃん!」と、わらわらこの世に押し寄せてくるボーナスウィークである。
 目には見えないが、この期間、こちらの人口(霊口)密度は非常に高くなっていると思う。公園のベンチはぎっちぎち、ディズニーランドは満員御礼、風光明媚な温泉は芋洗い状態に違いない。
「やっぱりシャバはいいよなあ」
「生き返りますねえ」
 打たせ湯を肩や背中に当てながらぼんやり大自然をながめる死霊やゾンビのつぶやきが聞こえるようだ。 
 あちらからこちらに自由に行き来できるなら、こちらからあちらへ行くのもたやすいはずだ。うっかりしていると迷い込む。丹田に力を込め、気を引き締めてこの1週間を過ごしたいと思う。

2009.09.20

秋祭り

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 日曜日の夜、少し足を伸ばして隣町まで買い物へ。帰りに道路を練り歩く御輿に遭遇。秋祭りである。どうりで風が涼しいはずだ。
 通行止めされた道路のど真ん中では盆踊り大会が繰り広げられ、その脇を御輿がわっせ、わっせと練り歩く。その通りにそんなにたくさん人がいるのを見たのは初めてだった。
 今夜はいいじゃん! とばかりに嬌声を上げて夜の道路で遊びまくる子どもたち、大声で笑いながら仲間と世間話に興じる若者たち、寝てしまった小さな子どもを抱いて歩く父親や母親。
 元気な彼らをよそに、御輿を静かに見つめているのは老人だ。缶焼酎を手にした小柄な70歳くらいの男性は、足を引きずりながらずっと御輿について歩いている。太った老婦人は杖で体を支えながら、懐かしそうな目でじっと御輿を見つめている。露店を出している初老の女性は縁石に座り、ビールを飲みながら何も言わずに御輿をながめている。どの顔にも貫禄がある。
 彼らの横顔や後ろ姿を見ながら、この人たちはきっとたくさんつらいことを経験してきたのだろうなと思う。意にそぐわないことや理不尽なこと、悲しいこと、こわいこと、頭に来ること、そしてたまに幸せなことをそれぞれ何十年も経験して、何事もなかった顔をして祭りに参加しているのだ。
 オレンジ色の街灯が、夜の祭りを温かく照らす。
 多かれ少なかれどの人も同じだ、人生はそれほど捨てたもんじゃない、何があっても、どんな人でも、祭りの日はみんな同じ光に包まれる。

2009.09.13

愛と夢の国

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 涼しくなったので東京ディズニーランドへ。園内は最後の夏休みをそこで過ごそうという家族連れで大にぎわいだ。
 人垣の間から「ジュビレーション」を鑑賞。だだっ広い敷地の向こうから、異質なものたちが練り歩いてくる。
 殺風景な舞浜の空き地にわらわらと出現する、原色のキャラクターと人工的な造形物。パレードの手前の広場には、真っ白い彼岸花が一面に咲いている。
 
 日が落ちかけるころ、ウエスタンリバー鉄道に乗る。走れども走れども薄暗い裏山だ。
 茂みの間をかき分けてしばらく進むと、インディアンの母娘が列車に向かって手を振っていた。もう何年も何年も、あの母娘はうっすらとほほえみを浮かべながら手を振っているのだろう。深夜、誰もいなくなっても。
 
 ディズニーランドの夜は暗い。エレクトリカルパレードは最大の見せものだ。闇に光る巨大なイルミネーションは見る者を圧倒するが、その人工的な光はうたかたの夢のごとく、目の前をあっという間に通り過ぎる。
「きみも、友達だよ!」
「いっしょに、行こうよ!」

 ディズニーランドは愛と夢を売っている。つかの間の、数千円で買える愛と夢。
 ずっと昔、ここでかりそめの幸せを味わったあと、この世からフェイドアウトした家族のことが新聞に載っていた。「せめてここでは楽しく過ごそう」という最後の悲願は、はたしてかなえられたのだろうか? 
 空には白い月がぷかりと浮かんでいる。入園者が群れをなして一斉に出て行ったあと、しんと静まりかえった巨大なホテルを仰ぎながら、はかなく消えてしまった彼らのことを少しだけ想う。

2009.09.02

占い

 見てもらう価値のある占いと、そうでない占いを見分けるのは簡単。
 前者には希望があり、後者には希望がない。

2009.08.25

びっくり味噌カツ

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 名古屋のMホテルで朝食ビュッフェ。
 フレンチトーストにホットケーキ、ママレードを塗った黒糖パンのトースト、ボリュームたっぷりのオムレツ(その場で焼いてくれる)、ウインナー、ブルーチーズをたっぷり乗せたグリーンサラダ、ブルーベリーヨーグルト、バナナ(まるごと1本)、すいか、グレープフルーツ、プルーン(特大3個)、オレンジジュース、そして締めにマフィンとホットコーヒー。
 高貴な味に大満足し、ホテルを出る。
 足取りは重い。当然である。おなかがはちきれそうだからである。
 そのまま近鉄特急に乗る。
 通路をはさんだ左隣に、頭の薄くなりかけたサラリーマンがいる。やおら袋をガサガサやっていたかと思うと、中から弁当を取り出した。
「びっくり味噌カツ」
 蓋を開けると同時に、濃厚すぎる味噌カツのにおいが車内にぷうんと立ちこめた。
 カツと言えば、つい先日、私はカツ重で生き地獄を味わったばかりである。
 男性は特大のカツをゆっくり箸でちぎり、少しずつ愛しむように食べている。私は物思いにふけるふりをして肘掛けに肘を乗せ、そっと手のひらで鼻の穴を抑えた。
 カツの呪いは恐ろしい。どのくらい恐ろしいかというと、Mホテルの宿泊料金より恐ろしい。

2009.08.09

カツ重

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 土用の丑の日、太陽が最も熱烈に燃え盛る時間帯に、「カツ重を食べに行こう」と思い立ち、家を出た。
 太陽の熱気でアスファルトが溶け出し、水平線に蜃気楼のような黒い影が気味悪くゆらゆらと揺れている。10分も歩かないうち、身体はすでにしおしおのパーである。 
 初めて入るトンカツ屋の店先でしばらくためらったのち、意を決して引き戸をガラガラと開けた。
「いらっしゃいッ!」
 カウンターだけのこじんまりした店内は明るく清潔感があり、活気に満ちている。すでに数名の客がトンカツをほおばっている。店主の顔つきは悪くない。隣に立っているのはおかみさんか。OK、ここならよさそうだ。
 メニューをしばらく吟味してから、ソースカツ重を注文する。
 後から入ってきたOL3人組が自分の隣に並んで座った。
「カツ丼!」
「私もカツ丼!」
「じゃあ私もカツ丼!」
 カツ丼三重奏か。仲がよくてよろしい。 

「お待ちどおさまッ!」
 白いご飯の上に千切りキャベツがたっぷり、その上にたっぷりソースのかかったトンカツ。
 あからさまに視線は向けないが、店主がこちらの反応をうかがっているのがわかる。どうだい、なのか。
 重箱向かって左端のカツを一切れ箸にはさみ、ほおばる。
 脂身。
 いきなりカウンターパンチだ。私は脂身が苦手である。
 二切れ目をほおばる。また脂身。今度はピンク色の肉が混じっている。
 私は半生の豚肉が苦手である。
 ダブルパンチを食らった私は、とりあえずカツ重から意識をはずし、お新香や豚汁に逃げてダメージを修復しようと試みた。
「うわあ、おいしい!」
「私たち、評判聞いてちょっと遠くから来たんですよお」
「おやじさん、何となくフランス人みたい!」
 見えるわけないだろう普通のトンカツ屋のおっさんじゃんかと心の中でつっこみながらひとりカツ重と格闘する。

 ・・・・・・ダメである。カツの香りがプーンと鼻についてのどが拒否反応を起こす。3分の1も食べていないが、気分はすでにごちそうさまである。食欲に一度終止符が打たれると、もう何をしてもダメなんである。
 おかみがチラチラこちらを見る。米を一粒ずつ口に運んでいる客を、今まで見たことがないのだろう。 

「ごちそうさま!」
 OL3人組の丼はきれいにカラになっている。よく食べきったなお前たち。
 私はネズミがほんのちょっとかじったようなカツ重を残し、どさくさにまぎれてあわててお金を払い、店を出た。
 地平線に黒い蜃気楼が見える。
 胃を両手で抑えながら家にたどり着いた。めまいがする。胃が重い。
 胃薬を飲んで横たわるうち、いつの間にかうとうとする。夢の中でも胃が重い。
「ああっ、ダメだこりゃ!」と感極まったところで目が覚める。
 夏土用の真っ昼間のカツ重は恐ろしい。どのくらい恐ろしいかというと、お盆のオバケより恐ろしい。

2009.08.02

生き霊

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 夢枕に立つのは死んだ人間ばかりでなく、ときに生きている人間も出てくることがある。
 いわゆる「生き霊」というやつである。
 私はこの経験をしたことがある。
 かりに、名前をAさんとしておこう。
 彼女はけっこう恵まれた環境にいる人なのだが、変に人をうらやむ癖があった。たぶん自分に自信がなかったのだと思う。
 面倒なのでなるべく距離を置くようにしていたのだが、何かのはずみで私に興味を持ってしまったらしい。
 ある日の明け方、眉間のあたりに映像がフッと浮かんだ。
 白い壁から右半身だけ出して、Aさんが私の家の中をじっとのぞき込んでいるのである。
 目が覚めて、「これは夢ではない」とわかった。
 その数日後、また同じ映像を見せられた。
 前回と同じように白い壁から右半身だけ出して、こちらをのぞき込んでいる。
「うらやましい」というどんよりした感情が伝わってくる。
(私はAさんからうらやましがられる覚えは何もない。)
 やがて、その感情が「うらめしい」に変わってこちらに伝わってきた。
 前回より投影の時間が長い。
「しつこいやつだな」と思い、猛烈に腹が立った。以後、その相手と関わるのは一切やめた。幸いにも私の存在を忘れてくれたのか、それ以降、彼女が夢に出てくることはない。

 死者は夢に何かしらの意思を伝えに来るが、生き霊にはそれがない。
こちらにはどうしようもない感情を自分勝手にぶつけてくるだけである。
 そこに愛はない。

2009.07.27