植物の幽霊

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 買った当初はどんなに美しい観用植物も、1年もたてば背が伸びて葉がぼさぼさになる。余分な枝をカットしても、美しい鉢に入れ替えても、悲しいかな容姿が衰えてくるのである。観用植物がお金を払ってでも手に入れたいほど美しいのは、店頭に飾られているときだけだ。
 ちょうど去年の今ごろ、私は枝ぶりのいいエバーフレッシュやコンシンネを購入した。どれもひとめぼれである。みずみずしいグリーンが白い壁に美しく映え、室内にフレッシュな気が放たれた。やはり緑があると落ち着くと思った。
 だが、至福はそう長く続かない。時間がたつにつれ輝くようなグリーンは光を失い、葉は不揃いに伸び始め、それを置いている周辺の空気がずしりと重くなった。そばを通るたびにゆううつになった。植物の幽霊がたたずんでいるように見えたのである。
 ある日、水やりのためすべての鉢をベランダに出した。部屋の中がすっきりして、すがすがしい印象になった。そのまま1週間ほど放置。
 そして今日、見てみたら。力を失った手のように葉が垂れ下がり、葉は茶色に変色して、枯れていた。室外の環境が合わなかったのかもしれないが、実は、飼い主の思いを感じ取って自分から枯れたのではないかとも思う。

2009.05.03

窮屈な記憶

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 私は過去の出来事をすぐ忘れてしまうたちなので、「去年の今ごろ、何をしていましたか」と人から聞かれてもすぐには思い出せなかったり、記憶そのものが消失していることが多い。しかし不思議なことに、生まれて間もないときのことは鮮明に覚えている。
 
 私は全身を何かでぐるぐる巻きにされて、とても窮屈だった。手足を自由に伸ばしたいのに、まったく動かせない。そして「ああ、またか」と絶望的な気分に襲われた。 

 全身に布をきつく巻き付けられたロシアの赤ん坊が何人もベッドに寝かされている映像を、以前見たことがある。

 不快な記憶がよみがえり、鳥肌が立った。 
 窮屈な衣服を身につけること、波長の合わない他人と一緒にいること、いやいや集団に属することは、「束縛される」という意味ですべて同じだ。自分の意思に反して束縛されるほどいやなことはない。

 ピュアな魂は、ただでさえ肉体に押し込められて窮屈な思いをしている。だから赤ん坊はよく泣くし、敏感な人間はしばしばゆううつになる。これは、何回生まれ変わってもたぶん変わらないだろう。

2009.04.29

人気(ひとけ)のない神社

 ゴールデンウィーク前日に観光地の神社へ。
 シャッターの降りた人気のない商店街を10分ほど歩くと、巨大な鳥居が出現。神殿に向かって一直線に参道が延び、空を覆う緑が美しい。
 参道の左右に広がる池には赤や白の鯉がけだるそうに泳ぎ、岩山に登ったカメが集団で甲羅干し。たまにちゃぷんと水の中にすべり込むものもいる。日に当たってぼんやりするのに飽きたのだろう。
 そういえば3、4年ほど前もここに来て、池をながめていたなと思い出す。そのときは友人が一緒だった。住んでいる土地や家の環境も、いまとは違っていた。
 今の環境は当時とまったく異なっているが、この神社とは相変わらず縁がつながっている。よく考えてみると、ちゃんと願いがかなっている。

 ふと気づくと、あたりには誰もいない。よく来たねでもなく、お前なんか知らないよでもなく、境内の空気は私を静かに包み込む。ありがとうございますとひとことお礼を言ってから鳥居をくぐり抜ける。 

 その晩見た夢。蓋つきの青いプラスチックのゴミ箱が目の前にある。なぜこんなものがここにあるのだろうと目を凝らしてよく見ると、ゴミ箱ではなく青い蓋をかぶった男の子である。
 大きくてはっきりした目。小さくてふっくらした身体。人間ではない。
 目が合うと、「あ、見つかっちゃった」というようないたずらっぽい目をした。
 はるばるここまでついてきたのか。いったい何しに来たのかとあれこれ考えながらまどろむうち、朝になった。

2009.04.29

星、それは希望

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 久しぶりにタロットをめくってみた。
 死神、魔術師、力、運命の輪、そしてストイックなカード・・・・・・隠者、法王、女教皇がたてつづけに3枚。最後に星。
 最初の4枚は力づくで人生の流れを変えたことをあらわし、後半の4枚は新しい価値観の創出をあらわす。
 そういえばここ1年、いままで「大事」と思っていたことが徐々に大事ではなくなった。一途に信じ込んでいたことに、実はそれほどの価値はなかったのだと気づいた瞬間、私はものすごく自由になった。たぶん何かがはがれ落ちたのだと思う。

 最後の星のカードは「希望」を意味する。「不用なものを捨てると、新しいものがやってくる」ということだ。
 新鮮な水を汲むためには、水がめの古い水をいったん捨てなければならない。
 古い水より、新しい水のほうがおいしいに決まっている。

2009.04.19

怒りの浮上

 恵比寿の写真美術館でやなぎみわ展。雨なのに盛況。
「50年後、どんなおばあさんになりたいか」を表現した作品群は、毒のあるおとぎ話の世界。
 同じおとぎ話なら、「fairy tale」シリーズのほうがすごみがあって好きだなあと思いつつ、帰りに美術館のショップで「ゆるす言葉」(ダライ・ラマ)を購入。「怒りは力ではなく、弱さのしるし」という表紙の言葉が気になったのだ。 
 人にはそれぞれ「原点の感情」が存在すると思う。物事を受け止めるときの感情のクセ、あるいは幼いころから慣れ親しんでいる感情の種類。これは、育ってきた環境によって異なる。
 私の原点は怒りだ。憤りに満ちた幼少期を過ごしたおかげで、現在に至ってもちょっとしたことで怒りを感じたり(怒りのアンテナが敏感になっているせいだと思う)、過去の怒りが突発的に浮上してくる。これらの怒りをどう沈めればいいのか、どうすれば消せるのか、ものごころついてからずっと考えているが答えは見つからない。
 ダライ・ラマの本には「相手をゆるして、怒りから自分を解放してあげなさい」とある。しかし、自分を怒らせた相手をゆるすほどの大きな愛と慈悲心は私にはない。無理にゆるすと、自分にウソをつくことになる。
 で、こう考えることにした。浮上してくる怒りは、無理に抑えつけない。頭に浮かぶままにさせる。そして浮かんだものは留めずに、左から右へ流していく。
 脳に刻まれた記憶は消しゴムで消すことはできないが、記憶の残像に取り憑かれないよう気をそらせることならできる。

2009.04.19

流れるということ

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 目黒川に桜吹雪を見に行く。
 散った花びらが川面に乗ってごうごうと流れていく。水の勢いにあらがえる花びらはただの1枚もない。みな静かに同じ方向に流れていく。
 人も同じ。私たちはみな、時の流れに乗って一定方向に進むだけだ。不平等なことは何もない。

2009.04.12

埋め立て地の果て

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平日の埋め立て地には誰もいない。
船の博物館の奥を進むと、海の見える公園が広がっている。
ベンチに座り、西日を浴びながら黒い海をながめる。光が乱反射してまぶしい。
海の向こうには、悠然と立つ大キリン。
キリンの背中に乗り、風に吹かれながらぼんやり海を見つめる自分を夢想する。
私はいつも、「ここ」ではない場所にあこがれる。

2009.04.12

春のお彼岸 2009

春分の日を中日(なかび)として、その前後3日間が春のお彼岸。

◆お彼岸の初日に見た夢
 周囲360度、見渡す限り水面。自分は水の中にいる。途方に暮れていると助けがやってくる。
「遅くなってごめんね」
 よかった、助かった。そこで目が冷めた。

◆春分の日に起こったこと
 バスで帰宅時、老婆が隣に座る。
「あたしお墓参りに行ってきたんだけどさ・・・」
 しきりに話しかけられる。
「お伊勢の森って知ってる? あたし、そこに自分の墓をつくったんだよ」
 途中つじつまの合わない話も出てくるが、人なつこくておもしろいのでイヤホンをはずして話し相手になる。
「あたし、自分の墓石は黒みかげにしたよ。戒名に大姉ってつけたらさ、坊主にうんとお金取られちゃったよ」
 そう言って地下鉄そばの停留所で降りていった。
 この1週間、ずっと強風が吹いている。風が強くないとこの世とあの世の間を行き来できないのだなと思う。

2009.03.23

お経

 知り合いのお通夜に参列。夏にお見舞いに行ったときには元気そうだったのに、12月の満月の夜、あっけなく逝ってしまった。
 白いトルコキキョウやユリなど花いっぱいの祭壇には、屈託なく笑うその人の顔写真が飾られている。病室で見たのと同じ、人なつこい笑顔だ。
「ボクね、運がよかったんですよ」。そう言って微笑んでいた。

 亡くなったことを実感できないまま会場内をあちこちながめているうち、導師が入場。読経が始まる。

 無上甚深微妙法(むじょうじんじんみみょうほう)
 百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう)
 我今見聞得受持(がこんけんもんとくじゅじ)
 願解如来真実義(がんげにょらいしんじつぎ)

 何となくわかったようなわからないような経文がひたすら続く。
 これ、死んだ人は理解できるのだろうか? 自分だったらきっと理解できない。
 では、何のために唱えるのか?
「あなたはもう死んだのである」と死者に納得させるためではないか。
「この抑揚のない歌のようなものは、あなたのために唱えるお経である」
 おりんがゴーンとおごそかに響く。
「そう言えばほおをつねっても痛くないし、坊主が読経してみんな黒服を着てむわっと線香臭い・・・・・・。そうか葬式だ、あれっ、祭壇には自分の写真!? ・・・・・・むむむ、もしかすると自分は死んだのではないか」
 お通夜や葬式を目の当たりにして、死者は悟る。

 読経は死者に対してだけでなく、生者にも作用する。 
 人はお経を聞くことで、「あの人はもう死んだのだ、生きている私はそれを認めてあきらめなくてはいけない」と認識する。お経がかもし出す波動で悲しみをいやされる人もいるだろう。

 お通夜のお経とは、亡くなった人はもちろん、残された人にも「あきらめ」を促す語りかけではないか。執着を手放すことで死者は少しでもスムーズに成仏でき、生者は少しでも心おだやかに過ごすことができるようになると思う。

 Yさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。合掌

2009.03.11

携帯電話の死

iPhoneを買ったので、長年使っていたdocomoを手放すことにした。
「じゃあ、こちらで処分します」と係員が携帯を閉じた瞬間、ブルーのイルミネーションがけなげに点滅してそれから静かに消えた。
あ、命が消えるのだなと思った。
それから係員は万力のようなものを取り出し、携帯のプッシュボタンにぐさりと穴を開けた。3カ所。
「ほら、こことこことここをつぶすと、もう二度と電源が入らないのですよ」
息の根を止められた携帯電話は動物の亡きがらのようだ。
たとえ携帯でも、安楽死させるのはあまり気分のいいものではない。なにせ毎日手にとって使うのだから、自分の気が浸みている。

少しぐったりして帰宅。
死ぬ寸前の携帯と、4年前に22歳で逝った愛猫の姿がかぶってせつない気持ちになる。

2009.03.10