人はなぜパワースポットに行くのか

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 神社仏閣やパワースポット(聖地)をめぐることがちょっとしたブームになっているようだが、これは日本に限ったことではなく、かつ今に始まったことでもなく、ずっと昔からあらゆる場所で連綿と続いている行為だろう。
 なぜなら人生に行きづまったときや不安なとき、心配事があるとき、人間はより大きな存在にすがりつきたくなるからだ。
「神さま、助けてください」
「正しい道をお示しください」
「どうか力をお貸しください」
 そうやって神さまの前で真摯に祈れば、願いはきっと聞き届けられると私たちは信じている。
 では、実際はどうなのか。
 神さまに祈ったすべてのことが叶えられたら、世の中はぐじゃぐじゃになってしまう。たとえば同じ男性を好きなA子さんとB子さんがそれぞれ「神さま、どうかあの人が私のものになりますように」と祈り、それが叶えられてしまったらどうなるか。相手の男性は身が持たないであろう。
 だから、世の中には「叶えられる願いごと」と「叶えられない願いごと」が存在する。「叶えられない願いごと」とは、次のようなものではないか。
◆それが叶うと明らかに本人にとっても周囲にとってもプラスにならないこと(「Xさんが妻子と別れて私のものになりますように」「憎いZさんがひどい目に遭いますように」など。祈っている当の本人にはそれがまっとうな望みでないことを認識できていないことが多い)
◆本人の資質と実力をはるかに超えた高望み(「明日目がさめたらロックスターになっていますように」「アイドルのK君と結婚できますように」など)
◆適当に願ったこと(「とりあえず金持ちになりたい! でいいや」)

 それが叶えば本人はもちろん、周囲にとっても大きなメリットがある願いごとなら、そして本人がハードルを乗り越えるべく必死に努力するなら、さらにその夢がかなうことを本人が心の底から真剣に願うなら、多少時間がかかっても、少々力が足りなくても、少しばかり邪魔が入っても、必ず現実化するのではないか。
 では、同じような「叶えられるべき願いごと」を持つ、同じような条件下のA子さんとB子さんがいたら、神さまはどちらの祈りを先に聞き届けるだろうか。
 神さまの立場になって考えれば、答えは簡単である。
「A子はいつも私のところにやってきて、けなげに手を合わせて頭を下げる。しかしB子は一度も私のところに来たことがない」
 どちらがかわいいか。もちろん、自分を慕ってくるほうである。で、「顔見知り」であるA子の言うことを先に聞いてやるわけである。
 古今東西・老若男女を問わず、多くの人が神社仏閣、パワースポットにせっせと足を運ぶのは、神さまに顔を覚えてもらいたいからだろう。
 人々の願いを親身に聞いてくれる神さまは、人間的な情をお持ちのはずだ。ならば御前にわざわざ足を運ぶことは、あながち無駄ではないように思う。

2010.09.18 

夏土用

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 2010年は7月20日から夏土用に突入。これから8月7日の立秋前日までの18日間が夏土用である。
 春(73日)→春土用(18日)→夏(73日)→夏土用(18日)→秋(73日)→秋土用(18日)→冬(73日)→冬土用(18日)(※日数は「おおよそ」)。季節はこの順番に巡っていくと昔の中国の人は考えた。土用とは、季節と季節の変わり目の期間のことだ。
 中国で生まれた陰陽五行説では、あらゆる事象を木・火・土・金・水の5種類の気に分類する。
 季節もしかり。春は木の気、夏は火の気、秋は金の気、冬は水の気、土用は土の気が旺盛になる季節と考える。春は木の芽が吹き出す季節、夏は太陽が燃えさかる季節、秋は金が熟成される季節、冬は冷たい雨や雪が降って水気が多くなる季節、土用は土の中でさまざまな変化が生じる季節。
 だから昔から土用に土いじりをしたり、土木工事をするのは大凶とされている。土の中で起こっている大自然の変化に、人間がちょっかいをかけることになるからだ。
 地面の下の世界は目に見えないが、中で起こっている変化のパワーは人知を越えるほど大きいと考えられる。なにせ、18日間で季節を変えなければならないのだから。
 そのため、土用期間中の天・人・地の間に流れる気のバランスはかなり乱れる。海に行く人は土用波、山に行く人は迷子や神隠し、あるいは酷暑による夏バテ、イライラから来るストレスやケンカ、デート前のカーラーの取り忘れなどにも要注意だ。

 夏土用は火の気の影響を受けるため、突発的で派手な事故が起こりやすい。
 火の気を鎮めるためには、次の方法が有効だ。
◆インテリアに清涼感を取り入れる(透明感のある素材や寒色系の家具を置く、涼しげな観葉植物を飾るなど)
◆トマトやなす、キュウリなど夏の食材をたっぷり食べる(夏に出回る食材は体を冷やす作用がある)
◆波の音を聞く(CDなどでOK)
◆浴そうにハッカ油を垂らして入浴する(ほんの数滴でクールスパに変身)
◆涼しいところで眠る(昼寝も推奨)
「それっ、旅行!」もいいが、夏土用期間中はあまりあくせく動き回らず、スイカでも食べて稲川淳二の話でも聞きながらのんびり過ごすのが一番。
 猛暑のなかで働かねばならない方は、ふだんの7割程度で余力を残しながらほどほどにがんばればいいと思う。

2010.07.20

音霊狩り

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 たまにレンタルショップへ行ってCD狩りをしている。
 膨大な棚にはさまざまな音が無限にひしめいており、いったいどんなジャンルがあってどんなミュージシャンがいてどんな楽曲を作っているのかよくわからないのだが、とにかく目についたものをジャンルや国やミュージシャンを踏み越えて手当たり次第に借りている。
 R&B、ロック、ポップス、ラウンジ、ハウス、ダンス、ジャズ、レゲエ、ワールドミュージック、クラシック、歌謡曲、演歌・・・・・・エトセトラ。
 正直言って大半のCDはスカである。確率的には本や映画と同じくらい、もしかするとそれ以上の確率ではずれが多い。だから、未知のCDは20枚のうち1枚当たりが出れば大ラッキーといった宝くじ感覚でいつも借りている。50枚借りてもダメだこりゃなときもある。だからこそ、当たりが出たときの喜びは何ものにも代えがたい。 
 いい音霊(おとだま)にめぐりあうことは幸いである。いい音霊は生きる力をくれる。それは「流行りもの」や「人の評判」や「定番」などとはまったく無関係の場所で、ひとり静かにじっと身を潜めている。まるで深い森に住む隠者のようだ。
 隠者に会うには、うっそうとした森の茂みをかき分けて進まねばならない。森の中に標識はなく、ただ自分の直感だけが頼りだ。

2010.07.12

夏越の大祓

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 6月30日は夏越の大祓(なごしのおおはらい)である。

 これは、1年の前半にたまった心と体の邪気(ストレス)を祓い清めましょうという日本古来の行事だ。
 ちょうど今ごろの季節は、「なんだかイライラする」「体調がいまひとつすぐれない」「ものごとがスムーズに進まない」などのネガティブな現象が起こりがちである。なぜか。
 大気中の湿気が多いため、体内にたまった邪気が毛穴から蒸発しないからである。スカッと晴れて湿度が低ければ、もやもやは汗と一緒に毛穴からスーッと蒸発する。だから梅雨時は誰でも不快感を感じやすい。
 少しでも快適に過ごすためには、次の方法が有効だ。
◆除湿機をかける
◆まめに掃除する(掃除機をかけるだけでなく、床にこびりついた汚れも雑巾で拭き取る)
◆ものを捨てる(「長く使ってきたけどもう古くて用をなさない」というものは6月、12月が捨てどき。今まで引きずってきた念も一緒に捨てられるので心身が軽くなる)
◆運動して汗をかく(その後、シャワーを浴びる)
◆湯船に粗塩を入れて入浴する(粗塩には清めの作用がある) 
 きわめつけは神社でお祓い、つまり神だのみだ。行くなら地元の神社、つまり氏神さまがいい。
 氏神さまとは、自分の住んでいる地域を管轄する神さまのことで、「目に見えない長老」みたいなものである。その地域のことなら、もうすべてわかっているのである。
「あ、お前はあそこに住んでる子だね。うン、来たの。お姑さんにいぢわるされてるのにいつもよくがんばってるねえ、じゃあ悪いものぜーんぶ祓ってあげるからね、ちょっとアタマ下げて」とか「お前、へっぴり腰だけどかわいい氏子だから力貸すよ。祓いたまえ 清めたまえ って3回唱えてみな。後半戦、パワー出てくるから」てな具合である。
 そうやって神さまにごあいさつしておくと、7月からの流れが違ってくると思う。不調だった人は好調に、好調だった人は絶好調になっていくはずだ。
「神社行ったのに全然ダメじゃん」という人は自分に非がある可能性がある。神さまがせっかく道を開いてくれてるのに、今までと同じ姿勢でしゃがんでいるからである。立ち上がって明るいほうへ行くといいと思う。

2010.06.29

髪質

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 せめて耳の下くらいまでは髪を伸ばし、フェミニンなボブにしようと固く決意したものの、2カ月目にして頓挫。くせっ毛仲間ならおわかりと思うが、湿気の多い梅雨時はぼわんと髪がふくらむのである。
「そうだ、ブラッシングしよう。たんねんにブラッシングすればまっすぐ髪が伸びてサラサラになるのではないか」と期待するも、くせっ毛なので毛を立てたら立ちっぱなしである。おもしろいので鉄腕アトムやユニコーンなど、次々に創作する。
 どうして自分の髪は風になびくタイプではないのかとしだいに腹が立ってきて、やけを起こしてブラシで毛を立てまくったら完ぺきなアフロスタイルになった。
 以前の私なら、その場で迷うことなく縮毛矯正をかけに行ったことだろう。しかし髪の組成を組み替えてむりやりまっすぐ伸ばす縮毛矯正は髪にものすごいダメージがかかるうえ、「これは本当の自分ではない」という違和感が常につきまとい、気持ちに負荷がかかるのである。
 本来はくるくる巻きたくて巻いているものを薬剤や熱によって強制的に伸ばすのは、髪にとっては屈辱であり、ひいては自分自身を否定することにつながるのではないか。
 これは、過去に何十回も矯正しまくってきた私の正直な感想である。 

「髪は性格をあらわす」という説があるが、実際にさらさらでまっすぐな髪の持ち主は性格も素直だし、くせっ毛の持ち主はあまり人の言うことを聞かない傾向があるように思う。悪くいえばクセがある、よく言えば個性的でマイペース。
 でも本当はまっすぐでもくせっ毛でもどちらでもいい、持って生まれたものなのだから仕方ない。たまにパーマをかけていつもと違う自分を楽しむのはいいが、ずっとかけ続けていると「地の自分」が押さえつけられ、本来の個性が発揮できない気がする。はちかつぎ姫のようである。
 なので、私は今は天然のままである。しかし、このままではアフロなモンチッチである。さらに伸ばすとゴーゴンになるのは経験済みである。
 で、どうしたか。美容院へ行き、こう言った。
「あのう、髪を伸ばすのをやめました。ベリーショートにしてください」
「えっ! お客さん、伸ばすって言うから大事に大事にカットしてきたのに」
「はあ、でも頭がぼわんとまるーくなるもんですから」
「今がガマンのしどころなんですよ、これを乗り越えれば収まりがよくなるのになあ」
 せっかく伸びてきたのにもったいないなあ、ワックス使えば多少は収まるんだけどなあと美容院のお兄ちゃんは残念がるが、客のオーダーなので仕方ない。しゃきしゃきいさぎよくハサミをさばいていく。
「できましたよ」
 ミア・ファローの復活だ。そこら辺のメンズより短いだろう。これで、アフロからは脱却できた。
「お客さん、やっぱりベリーショート似合いますねえ」
 たぶん私はこれから生涯ロングヘアーとは縁のない人生を送るだろうなと確信。いや別に悲しくなんかない。

2010.06.21

病院の選び方

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 病院選びというのは、なかなか難しい。信頼できるかかりつけ医がすでにいる人はいいが、ふだんあまり病気をしない人や引っ越して間もない人は、どこにどんな病院があるかよく知らないし、たとえ知っていたとしても、具体的な評判まではなかなか耳に入ってこない。たとえ有名な病院でも、自分と相性がいいかどうかは行ってみるまでわからない。
 で、たいていネットで検索することになる。
「○○市 病院 ○○科」で検索すると、出るわ出るわ。聞いたこともない名前の病院がわんさか出てくる。しかしそのほとんどは、名前と住所と電話番号と開業時間と地図くらいしか載っていない。運よくホームページがあれば何となく感じはつかめるが、逆に「やめたほうがいいかも・・・」と悩むこともある。で、限られた情報の中で患者はあれこれ迷うのである。
「A病院はうちから近いけど今日は休診日だし、B病院は今日はやっているけどすっごく遠いし、C病院はホムペを見たけど医者の顔が全然好みじゃないし、D病院は大学病院だから待たされそうだし。ああもう、いったいどこに行けばいいの?」
 懊悩し、頭をかきむしっている間にどんどん具合が悪くなっていく。そういうときはどうするか。
 方位で決めるという手がある。自宅から見て吉方位の病院を探すのである。
「吉方位」とは自分を後押ししてくれる方位であり、ツキを与えてくれる方位とされている。
 厳密に言うと北、東北、東、東南、南、南西、西、北西の8つの方位にはそれぞれ独自のパワーが流れていて、たとえば北の吉方位の病院なら「心も身体もじわじわ癒やされる」、東北は「奇跡が起こって一気に挽回できる」、東なら「気持ちが前向きになってイヤでも元気になる」、東南なら「複雑な体調がスムーズにととのう」、南なら「ブラックジャックみたいな医師がいる」、南西は「時間はかかっても確実に治る」、西なら「いい待遇を受けておだやかに養生できる」、北西なら「その道の権威が担当してくれる」などの作用が期待できる。
 避けたいのは凶方位の病院だ。
「治るはずの病気がなかなか治らない」とか「あり得ない医療ミスが起こる」とか「治療費が予想以上にかさむ」とか「相性のよくない看護師に当たってしまう」などのアクシデントが考えられる。

方位で決める」という方法を知っていれば、ああどこにしよう、どこにすればいいのと頭を抱え込まなくて済む。選択肢が限られるので悩む労力と時間が節約できるし、「ここは大吉の方位だからだいじょうぶ」と自信がつき、初めての病院を訪れる不安も多少は軽減するだろう。
 ただし方位学は奥が深く、初心者は戸惑うことも多い。方位に流れる気は年、月、日、時刻単位で刻々と移り変わっていくし、自分の九星(一白水星とか二黒土星とかいうやつ)との相性もあるし、もとよりそれぞれの方位の特徴を覚えるのもひと苦労だ。
 だから、最低限「凶方位の病院は避ける」と心しておくだけでもいいと思う。ちなみに2013年の凶方位は北西だ。北西の凶方位の病院に行くと「医師とそりが合わない」「あてが外れやすい」などの作用が出やすいので注意されたい。

 もちろん、たとえ吉方位でも「スカ」を選ぶ可能性はある。方位云々の前に、いい病院もあればそうでない病院もあるからだ。だから「方位さえよければどこでもいい」と思い込むのは危険である。
◎入り口が乱雑で汚れている病院
◎清潔感のない病院
◎陰気で枯れた雰囲気の漂う病院
◎人気のない病院、つまり流行ってない病院
◎受付に愛想がない病院
 これらの病院には、たとえ吉方位であっても君子危うきに近寄らずである。

 人は本能的にいいものと悪いものを嗅ぎわける。だからいい病院には自然に人が集まるし、そうでない病院には人が集まらない。それは病院に限らず、不特定多数の人間が集まる場所、たとえばホテルでもスーパーでもレストランでもみな同じだ。
 一見しただけでは判断できないとか、勘が働かない場合は、誰か年輩者にたずねてみるといい。たぶん正解を教えてくれると思う。ちなみにネットの口コミはほぼ頼りにならない。
 候補が二カ所ある場合は、行く前に両方に電話して、相手の対応で判断すればいい。「あのう、今日は何時までやっていますか?」でも、「今日は混んでいますか?」でも、なんでもいい。電話に出た人の声が明るく、ホッとする感じなら「行ってOK」、雰囲気が暗かったり、「あれ? なんか違和感がある」と思うなら「行かないほうがいい」と判断する。どちらも同じような印象なら、それほど違いはないということだ。

 以上のことを抑えておけば、大きなミスは防げると思う。
 いい病院がスムーズに見つかり、あなたの痛みやつらさが一刻も早く治りますように。

2010.06.09

運のクリーニング

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 物を捨てずにため込むいっぽうの家に流れる気は、どんよりして重苦しい。物をためることは、持ち主の残留思念をため込むことに等しいからだ。
 そういう家で暮らす人の精神状態もどんよりして重苦しくなる傾向がある。「過去」に取り巻かれて暮らしているせいである。  
 心がいつも明るくハレている人の家はスッキリしていて、気の流れがいい。家の容量を100とすると、せいぜい50〜60くらいしか物を置いていない。
 しかしゆううつや不安がひんぱんに頭をもたげる人の家にはたいてい90から100、あるいはそれ以上の物がぎゅう詰めにされている傾向がある。
 クローゼットの中には好きでもないのに買った(もらった)服やサイズが微妙に合わない服、流行遅れになった服など「絶対に着ない服」がたっぷり、押し入れには壊れた家電品や捨てるに捨てられない思い出の品がみっちり、本棚にはこれから先100%読まないであろう本や雑誌がぎっしり、ドレッサーの引き出しには古い化粧品や試供品が山積み、冷蔵庫にはいつ作ったかわからないおかずがどっさり。
 ほこりをかぶって色あせた物たちはすべて、昔の自分が引き寄せた「過去」であり、未来に向かう自分の足かせとなる。いらない過去を大事にとっておいても、いいことはほとんどない。 
 古い過去を切り離すことは心の重荷を取り払うことに等しく、それはつまり運のクリーニングにつながる。ディスククリーンナップとデフラグが必要なのは、パソコンに限らない。

2010.06.08

吹けよ風、呼べよ嵐

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 房総へ開運旅行。
 途中、街道沿いにあるものすごくヘンな名前の中華料理店(よく覚えていないがたしか「このばかちんが」とか「おたんこなす」とかそんな名前だったと思う)でラーメン&餃子定食(想定外のどんぶり飯つき)をいただき、砂浜に押し寄せる波に素足をひたし、拾った貝を耳に押し当て、宿に着いてから速攻で露天風呂につかり、地元で採れた食材を使った夕餉をゆっくり味わった。
 やたらにぶ厚いマグロの刺身がスジだらけでかみ切れなかったが、それはいい。うやうやしくさし出されたかき揚げの中身がただのたまねぎだったが、それもまあいい。
 寝る前にもう一度露天風呂につかり、体がポカポカしてきたところで夜10時過ぎに布団に入り、灯りを消す。
 カエルの大合唱を子守歌に、スーッと眠りに落ちた。

 ・・・・・・かゆいっ。
 左足の膝の外側がちくりとかゆくなり、パッと意識が覚醒した。右足のつま先ですりすりしてから、再び目を閉じる。
 派手なザーザー音・・・・・・、外は激しい雨なのだな。そうか、それでカエルが異常に鳴きまくっていたのか。
 あれっ。左足の小指の爪の真下と、右足のふくらはぎがかゆくてかゆくてたまらないっ。
 右足と左足のつま先で交互に擦ってみるも、いっこうにかゆみが治まらないので腕を伸ばし、爪を立ててかきまくる。指でなぞると、ぷくんと大きくふくれている。蚊だ。
 私は銚子旅行を思い出した。あのときも蚊の奇襲攻撃を受けたのだった。
 くそう、またしても。
 その瞬間、真っ暗な部屋が真昼のように明るくなり、どーん! と天地を揺るがすようなものすごい音がとどろいた。雷である。布団から這い出て窓を閉めるとき、網戸の下部が破れてめくれ上がっていることに気づいた。
 蚊のダダ漏れ状態である。
 蚊取り器をONにし、再び寝ようと努める。が、眠れない。そこらじゅうかゆいのである。
 空がうっすら白み始めたころにようやくうとうとして、しばらくしてから時計を見ると朝の6時半。このまま寝ると朝ご飯に間に合わなくなるかもしれないと、ぼんやりした頭を抱えて仕方なく起き上がり、大浴場へ。
 ・・・・・・やはり吉方位の露天風呂は最高だ。体の隅々まで、エネルギーがじわじわ充電されていくのがわかる。見上げると、灰色の雲のすき間にところどころ青空がのぞいている。よかった、なんとか晴れるかも。
 朝食を済ませ、福の神によく似たおかみに手を振り、車で漁港へ向かった。 

 かつお祭りが開催されているせいか、港はかなりのにぎわいである。干物をおみやげに買い、ついでに近くの神社を参拝。
 ああ気分がいい、運が上がってきているのをジンジン感じる。よし、神さまのご託宣をいただこう。
 おみくじをひいていると、空からぽつぽつ雨が降り出した。本降りになりそうだ。おみくじをそのままポケットに入れ、あわてて屋根のある漁港に雨宿りに戻る。
 祭りはすでに終了し、あちらこちらに設置されていた椅子やテーブルはすでに撤去され、がらんとしている。
 雨と風は徐々に勢いを増し、ゴロゴロと雷まで鳴り始めた。雨宿りしていた人たちが、雨の中をちりぢりに走って車に戻る。自分も車まで戻りたい、しかしここから歩いて10分かかるところに停めてある。大渋滞でそこしか停めるところがなかったのだ。
 そのうち空は地獄のような暗黒に染まり、雷が爆弾のようにドカンドカンと景気よく落ち、やがてプールをひっくり返したような集中豪雨がやってきた。こんなに荒れるなんて、誰も教えてくれなかったじゃん。
 小1時間ほどその場で待機。しかし天気はちっとも回復せず、漁港にはもう関係者しか残っていない。
 先ほどから異様な気を背中に感じてさり気なく振り向くと、「ワシは誰からも相手にされんのじゃよオーラ」を発する爺さんが、私のすぐうしろでもそもそとイカの足を食べている。
「いっしょに食べないかね」と誘われたら困るなあと意を決し、思い切って豪雨の中を車まで突っ走る。
 なんとか車にたどり着くも、「海にドボンと落っこっちゃいました」みたいにずぶ濡れだ。
 まあいい、これは大祓の雨であると自分に言い聞かせ、後部座席のトランクからタオルを引っ張り出しているとき、さっき引いたおみくじのことを思い出した。
 そうだ、まだ中身を読んでいなかった。
 私はポケットからおみくじを取り出し、するすると広げてみた。
「吹き荒れる」
 ん?
「吹き荒れる 嵐の風の末(すえ)遂(つい)に 道埋もるまで 雪はふりつむ」
 ええとだいじょうぶ、だってここは吉方位なんだもの、たぶんそのうちきっと何かいいことあるよと自分に言い聞かせ、頭からポタポタしずくをしたたらせたまま急いでその港町をあとにした。

2010.06.07

おみくじ

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 清明の日、浅草の隅田公園へお花見。
 4月に入ったとはいえまだ肌冷たい曇天のもと、隅田川沿いにびっしり宴席が並ぶ。
 ときおりぱらつく小雨に襟をかき合わせつつ空を見上げると灰色。
 桜もそれに同調して灰色。隅田川も灰色。 
 早々に切り上げ、外人だらけの仲見世通りをかき分けて浅草寺へ。
 2頭の白い巨犬と遭遇。うれしくて犬の尻をポンポンたたき、ふとあちらを見て振り返ったらいつの間にか煙のように消えていた。

 浅草寺の本堂を参拝してから、わきのおみくじ所でくじを引く。
 第74番 凶
 そうか、このところゆううつなのは運気が悪いからなのか。そうだよなあ、これで大吉だったらこの程度かって逆にがっかりするもんなあと妙に納得しながら本堂を出ると、また同じようなおみくじ所がある。
 よし、もう1回。
 第75番 凶
 願望 かないにくいでしょう
 病気 かかると危ないでしょう
 失物 戻らないでしょう
 新築・引っ越し 悪いでしょう
 旅行 悪いでしょう
 つきあい 悪いでしょう
 がーん。1回目とほぼ一緒である。しかも1番違い。
「お前は凶。凶ちゅうとるのに同じこと何回も言わすんじゃないよ」
 観音様が眉間に薄くしわを寄せて私にほほえみかける。 

 2枚のおみくじをにぎりしめながら境内を出て、赤いねんねこを着た母子地蔵に涙ぐみ、ふところの広そうな二尊仏を見上げてうっとりする。
 空はやっぱり灰色だ。
 ああ救いがないなあ、娑婆に救いが届くまでにはまだまだ人智を越えた時間がかかるよなあと思う。

2010.04.06

む
 私は「血のつながり」とか「親子のきずな」という言葉がとても苦手だ。「仲のいい母娘」という概念も信じていないし、成年を過ぎてなお親元を離れない人間にも違和感を覚える。自分が親子関係でかなりしんどい思いをしてきたからだ。
「親子はなかよくすべきもの」という一般常識が世間にはあるが、そんなものからは1ミリでも遠くへ離れていたいと思う。

「子どもは自分の所有物」とかたくなに思い込んでいた母親は、私が成長して社会人になってもなお、執拗にまとわりついた。
「私のもとにずっといなさい、私の踏み台になりなさい」 
 その念の強さは尋常ではなく、まるでたちの悪い呪術師のようだった。
 すきを見て、私は逃げた。私は私の人生を生きねばならないからだ。
 しかし逃げても逃げても母親はどこまでも追いかけてきた。赤黒い炎をゆらめかせながら背後に手を伸ばしてくるその姿が、私には鬼に見えた。
 今でも、恐ろしい化け物に追いかけられる夢をたまに見る。

 自分を守るために実家から20年以上遠ざかっていたものの、あるとき、やむを得ない事情で一時期だけ母親の世話をすることになった。
 月日がこれだけたっているのだから、もしかすると親子関係が修復できるかもしれないと淡い期待を抱きつつ、約1カ月間、彼女が入院している病院に通い続けた。しかし退院まぎわ、再び鬼があらわれた。
 私が抱いていた甘い期待は静かに死に、絶望に変わった。だめなものはだめだとわかった。 

 寺山修司は、自分を過剰に溺愛する母親を「死んでください、お母さん」と詩に詠んだ。同じことを、私も何度願ったことだろう。その気持ちはたぶん、鬼を母親に持つ本人にしかわからない。兄弟にも理解できないと思う。
 もちろん、そういう特殊な環境で育ったからこそ得られるものもあるだろう。しかし母親がかけた呪いはあまりにも強力で、今でも私の日常にときおり忍びより、暗い影を落とす。

 彼女は今、遠く離れた兄の家で暮らしている。母親も、そしてその傀儡(かいらい)である父親も兄も、どうぞお達者でと思う。しかし私の心の中で、家族関係はすでに焼け野原と化している。
 それはそれでいい。私はそれ以外の場所に花の種を植えながら、ただ前を向いて生きていくだけだ。

2010.03.20