星、それは希望

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 久しぶりにタロットをめくってみた。
 死神、魔術師、力、運命の輪、そしてストイックなカード・・・・・・隠者、法王、女教皇がたてつづけに3枚。最後に星。
 最初の4枚は力づくで人生の流れを変えたことをあらわし、後半の4枚は新しい価値観の創出をあらわす。
 そういえばここ1年、いままで「大事」と思っていたことが徐々に大事ではなくなった。一途に信じ込んでいたことに、実はそれほどの価値はなかったのだと気づいた瞬間、私はものすごく自由になった。たぶん何かがはがれ落ちたのだと思う。

 最後の星のカードは「希望」を意味する。「不用なものを捨てると、新しいものがやってくる」ということだ。
 新鮮な水を汲むためには、水がめの古い水をいったん捨てなければならない。
 古い水より、新しい水のほうがおいしいに決まっている。

2009.04.19

怒りの浮上

 恵比寿の写真美術館でやなぎみわ展。雨なのに盛況。
「50年後、どんなおばあさんになりたいか」を表現した作品群は、毒のあるおとぎ話の世界。
 同じおとぎ話なら、「fairy tale」シリーズのほうがすごみがあって好きだなあと思いつつ、帰りに美術館のショップで「ゆるす言葉」(ダライ・ラマ)を購入。「怒りは力ではなく、弱さのしるし」という表紙の言葉が気になったのだ。 
 人にはそれぞれ「原点の感情」が存在すると思う。物事を受け止めるときの感情のクセ、あるいは幼いころから慣れ親しんでいる感情の種類。これは、育ってきた環境によって異なる。
 私の原点は怒りだ。憤りに満ちた幼少期を過ごしたおかげで、現在に至ってもちょっとしたことで怒りを感じたり(怒りのアンテナが敏感になっているせいだと思う)、過去の怒りが突発的に浮上してくる。これらの怒りをどう沈めればいいのか、どうすれば消せるのか、ものごころついてからずっと考えているが答えは見つからない。
 ダライ・ラマの本には「相手をゆるして、怒りから自分を解放してあげなさい」とある。しかし、自分を怒らせた相手をゆるすほどの大きな愛と慈悲心は私にはない。無理にゆるすと、自分にウソをつくことになる。
 で、こう考えることにした。浮上してくる怒りは、無理に抑えつけない。頭に浮かぶままにさせる。そして浮かんだものは留めずに、左から右へ流していく。
 脳に刻まれた記憶は消しゴムで消すことはできないが、記憶の残像に取り憑かれないよう気をそらせることならできる。

2009.04.19

流れるということ

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 目黒川に桜吹雪を見に行く。
 散った花びらが川面に乗ってごうごうと流れていく。水の勢いにあらがえる花びらはただの1枚もない。みな静かに同じ方向に流れていく。
 人も同じ。私たちはみな、時の流れに乗って一定方向に進むだけだ。不平等なことは何もない。

2009.04.12

埋め立て地の果て

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平日の埋め立て地には誰もいない。
船の博物館の奥を進むと、海の見える公園が広がっている。
ベンチに座り、西日を浴びながら黒い海をながめる。光が乱反射してまぶしい。
海の向こうには、悠然と立つ大キリン。
キリンの背中に乗り、風に吹かれながらぼんやり海を見つめる自分を夢想する。
私はいつも、「ここ」ではない場所にあこがれる。

2009.04.12

お経

 知り合いのお通夜に参列。夏にお見舞いに行ったときには元気そうだったのに、12月の満月の夜、あっけなく逝ってしまった。
 白いトルコキキョウやユリなど花いっぱいの祭壇には、屈託なく笑うその人の顔写真が飾られている。病室で見たのと同じ、人なつこい笑顔だ。
「ボクね、運がよかったんですよ」。そう言って微笑んでいた。

 亡くなったことを実感できないまま会場内をあちこちながめているうち、導師が入場。読経が始まる。

 無上甚深微妙法(むじょうじんじんみみょうほう)
 百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう)
 我今見聞得受持(がこんけんもんとくじゅじ)
 願解如来真実義(がんげにょらいしんじつぎ)

 何となくわかったようなわからないような経文がひたすら続く。
 これ、死んだ人は理解できるのだろうか? 自分だったらきっと理解できない。
 では、何のために唱えるのか?
「あなたはもう死んだのである」と死者に納得させるためではないか。
「この抑揚のない歌のようなものは、あなたのために唱えるお経である」
 おりんがゴーンとおごそかに響く。
「そう言えばほおをつねっても痛くないし、坊主が読経してみんな黒服を着てむわっと線香臭い・・・・・・。そうか葬式だ、あれっ、祭壇には自分の写真!? ・・・・・・むむむ、もしかすると自分は死んだのではないか」
 お通夜や葬式を目の当たりにして、死者は悟る。

 読経は死者に対してだけでなく、生者にも作用する。 
 人はお経を聞くことで、「あの人はもう死んだのだ、生きている私はそれを認めてあきらめなくてはいけない」と認識する。お経がかもし出す波動で悲しみをいやされる人もいるだろう。

 お通夜のお経とは、亡くなった人はもちろん、残された人にも「あきらめ」を促す語りかけではないか。執着を手放すことで死者は少しでもスムーズに成仏でき、生者は少しでも心おだやかに過ごすことができるようになると思う。

 Yさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。合掌

2009.03.11

携帯電話の死

iPhoneを買ったので、長年使っていたdocomoを手放すことにした。
「じゃあ、こちらで処分します」と係員が携帯を閉じた瞬間、ブルーのイルミネーションがけなげに点滅してそれから静かに消えた。
あ、命が消えるのだなと思った。
それから係員は万力のようなものを取り出し、携帯のプッシュボタンにぐさりと穴を開けた。3カ所。
「ほら、こことこことここをつぶすと、もう二度と電源が入らないのですよ」
息の根を止められた携帯電話は動物の亡きがらのようだ。
たとえ携帯でも、安楽死させるのはあまり気分のいいものではない。なにせ毎日手にとって使うのだから、自分の気が浸みている。

少しぐったりして帰宅。
死ぬ寸前の携帯と、4年前に22歳で逝った愛猫の姿がかぶってせつない気持ちになる。

2009.03.10