生き霊

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 夢枕に立つのは死んだ人間ばかりでなく、ときに生きている人間も出てくることがある。
 いわゆる「生き霊」というやつである。
 私はこの経験をしたことがある。
 かりに、名前をAさんとしておこう。
 彼女はけっこう恵まれた環境にいる人なのだが、変に人をうらやむ癖があった。たぶん自分に自信がなかったのだと思う。
 面倒なのでなるべく距離を置くようにしていたのだが、何かのはずみで私に興味を持ってしまったらしい。
 ある日の明け方、眉間のあたりに映像がフッと浮かんだ。
 白い壁から右半身だけ出して、Aさんが私の家の中をじっとのぞき込んでいるのである。
 目が覚めて、「これは夢ではない」とわかった。
 その数日後、また同じ映像を見せられた。
 前回と同じように白い壁から右半身だけ出して、こちらをのぞき込んでいる。
「うらやましい」というどんよりした感情が伝わってくる。
(私はAさんからうらやましがられる覚えは何もない。)
 やがて、その感情が「うらめしい」に変わってこちらに伝わってきた。
 前回より投影の時間が長い。
「しつこいやつだな」と思い、猛烈に腹が立った。以後、その相手と関わるのは一切やめた。幸いにも私の存在を忘れてくれたのか、それ以降、彼女が夢に出てくることはない。

 死者は夢に何かしらの意思を伝えに来るが、生き霊にはそれがない。
こちらにはどうしようもない感情を自分勝手にぶつけてくるだけである。
 そこに愛はない。

2009.07.27

小枝の実

 名古屋から近鉄電車に乗ったときの話である。
 スカスカの車両の一番端に座り、iPhoneでいくつかメールを打ち終え、パッと目の前を見ると、小柄な初老の男性がちんまり座っている。大きな黒いボストンバッグを膝に乗せ、バッグの上に新聞を置き、その新聞に顔を置いて読んでいる。
 ずいぶん目の悪い人だなと思ってよく見ると、新聞紙の上に置いた顔がじっとこちらを向いている。ビン底の分厚いメガネ。ぼさぼさに立った髪。くたびれたウディ・アレンというところだ。
 彼はなぜ自分をずっと見ているのかと一瞬あせるが、よく見ると目が閉じている。寝ているのである。おっさんはボストンバッグの上に広げた新聞紙にあごを載せ、まっすぐこちらを向いたまま寝ているのである。眉をハの字に広げたその顔は、無防備であどけない。 
 
 メールが来た。再びiPhoneに目をやる。
 読み終えて前を向くと、おっさんは「小枝の実」という小さな袋菓子を開け、中に指を突っ込んでは口に運んでポリポリ食べている。いつの間に起きたのか。眉は相変わらずハの字である。ポリポリ。ポリポリ。ビン底メガネのおっさんが、リスのように小枝の実を食べている。
 やがて、おなかの底からむずむずと笑いがこみ上げてきた。携帯に目を落とし、気分をそらそうとするがダメである。山本リンダではないがどうにも止まらない。マグマのようにあとからあとから笑いが口からこぼれ出し、下を向いたままクスクス笑ってしまう。
 次におっさんは緑茶のペットボトルをおいしそうに飲み、それから週刊文春を広げて読み始めた(新聞紙はいつの間にかなくなっている)。

 携帯を見ながらクスクス、車内広告を見ながらクスクス、外の風景を見ながらクスクス。気をそらそうとするほど笑いが止まらない。 
 笑いと格闘し続けること20分。
 さあ降りようと立ち上がると、不思議そうな顔でこちらを見ている若い娘と目が合った。知らんぷりしてホームに降り立つ。
 娘、お前もこのおっさんの真正面に座ってみい。
 ピリピリピーと笛が鳴った後、週刊文春を読んでいるおっさんの薄い後頭部がスーッと目の前を通り過ぎていった。

2009.07.14

カタコンベ

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 手術を受けて入院したという知人を見舞いに、某病院へ。
 大病院なのでアクセスに迷うことはなかったが、到着してからが大変だった。入り口がどこにもないのである。日曜日だというのに入り口という入り口はすべて閉鎖され、「こちらではなく、あちらの入り口へお回りください」と貼り紙にある。
 しかし、「あちらの入り口」がどうしても見つからないのだ。院内のだだっ広い敷地をぐるぐる歩いて探すが、目印はどこにもない。
「これは、中に入るなということか」
 逡巡しつつ歩いていると、いきなり初老の女性から声を掛けられる。
「あのう、入り口はどちらでしょう」
 彼女もまた、中に入れず迷っているらしい。
 しばらく探し回ってから、「ここはあり得ないだろう」としか思えない狭苦しいところで入口を発見。

 中に入る。誰もいない。かなり大きな病院なのに、建物内を歩いている人間は自分だけだ。看護師もいない。何ひとつ音がしない。
 西日の当たる長い長い廊下をひたすら歩く。 
 めざす病室にいた知人は、大手術のあとにもかかわらず元気だった。しかし、隣のカーテンで仕切られた奥はしんと静まりかえった闇だ。
 沈みかけた夕陽が、病室の風景を黄金色に染め上げる。まるで西方浄土だ。
 手みやげを渡し、しばし世間話をしてから病室をあとにする。

 別フロアの誰もいない食堂に立ち寄って階下の景色を見下ろす。眼下に人気のない広い公園、その脇を真っ黒い川が流れている。ここは人の住む土地ではないと理解する。
 この場所に陽の気は存在しない、陰の気だけが渦巻いている。マイナスのエネルギーが支配する砂漠に、プラスのエネルギーを持つ生き物が足を踏み入れるとどうなるか。徐々にパワーを吸収され、やがて蒸発してしまうだろう。
 私は長い廊下を早足で通り過ぎた。曲がり角の飾り棚に、骨壺が置いてある。よく見るとただの丸い壺だった。
 
 私は場の影響を受けやすい。重い気分は帰路途中もずっと続き、帰宅して塩風呂に入ったあとも抜けなかった。まるで大量の血を抜かれたかのようにまったく何もする気が起こらず、ただ横たわるしかなかった。

2009.07.13

解せない人間を見分けるサイン

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 いきなりお肌の曲がり角になったのか、ほおやまぶた、鼻筋が赤くかぶれてかゆい。毛髪が当たるだけでもかゆい。気がつくと一日中ほおやまぶたを指でカシカシかいている。
 かぶれの全体像を鏡でじっと見るうち、これはスキンケア化粧品のせいだと気づいた。それ以上悪化させないため、ずっと使い続けてきた化粧品をすべて捨てた。買ったばかりの高価な美白美容液も捨てた。(ううう)

 トラブルはひたひたと忍びより、ある日突然襲いかかってくる。それは肌に限らず、人間関係においても同じである。
「この人、なんてすばらしいのだろう」と口をあんぐり開けて感心している最中に、いきなりその相手からパンチを食らったことは一度や二度じゃない。
「そんな理不尽なことするなんて、うそでしょう?」と目をごしごしこすりたくなるような仕打ちをする人間て、実は意外と多い。
 彼らは自分に何を教えてくれているのか。「人の表面ばかり見ていてはいけませんよ」か。「世の中にはいろんな人がいるのだよ」か。「お前はまだまだアマちゃんだよ」か。
 相手の立場に立ってその心理をのぞこうと試みるが、わからない。どんなに考えてもわからない。もしかするとわからなくていいのかもしれない。
 しかし「解せない人間」を見分けるサインはいくつかある。
◇言動の端々に「あれ?」「何か変だな」と感じる瞬間がある
◇どんなときも目が笑っていない
◇表と裏の落差が激しい
◇別れぎわがすっきりしない
◇その人間のことを考えると、なぜか気持ちが重くなる

「この人は何か違うのではないか」
 理由がなくても直感的にそう感じることがあれば、それはほぼ正解である。相手のステイタスがどんなに高かろうと、どんな金持ちであろうと、どんなに魅力的であろうと、「おかしいぞ」と感じる私やあなたの直感は間違っていない。
「そんなこと思う自分はねじれているのではないか」「変なのは自分のほうではないか」などと卑下する必要もない。肌に合わない化粧品を処分するのと同じくらい思い切りよく、一刻も早くその不条理な相手から自分を解放してやるべきだと思う。

2009.07.07

踊り子さんは巫女さんである

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 某商店街でサンバ祭り。商店街と言っても地味な店がぽつぽつ点在するだけの通りだが、行ってみると道路の両脇にはすでに山のような人だかり。望遠レンズをかまえる中高年男性が多い。
 勇壮なドラムの音に合わせ、美しく着飾った踊り子たちが道路の真ん中で飛び跳ね始める。観客の顔が、老いも若きも男も女もみなうれしそうにほころぶ。
 隊列が道路をゆっくり行進していく。さびれた町を「ハレ」の気がふわりと覆う。
 踊り子の後ろ姿を見ながら、これは形を変えた町内御輿なのだと気づいた。
 祭りとは、祀ること。踊り子は、神を呼び寄せる巫女だ。
 御輿に担がれて揺られるかのごとく、非日常の音や風景に呼び寄せられた氏神は、踊り子の手や足でぽんぽん跳ね上げられながら町内を練り歩く。
 踊り子の隊列が踊りすぎていったあと、掃除で掃き清めた後のように空気がすがすがしくなっていた。

2009.07.06