犬天国

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 イヌイヌ、ああっイヌが足りないイヌに囲まれてゴロンゴロンしたいッと発作が起こり、いても立ってもいられずぶうううんと車を走らせて着いたところが犬ランド。
 天気は快晴、梅雨なのにちっとも雨が降らないのはどうしたわけかと道中ふと思うがランドに着くなりそんな懸念は木っ端みじんに吹っ飛び、入り口でけだるそうにごろんと横たわっている本日の園長犬・パグのモモちゃんに意識をロックオン。こんにちは、こんにちはと呼びかけながら笑顔で胴体をなで回すがうるせえなあほっといてくれよと無視される。
 いいもん、ここには他にまだまだたくさん犬がいるんだもんと気を取り直し、焼きそばやフランクやソフトクリームを売る売店には目もくれず一直線にふれあい広場へ向かう。

 ふれあい広場は小型犬エリアと大型犬エリアに分かれている。まずは手慣らしにと小型犬エリアのゲートを開ける。
 いるいる、プードルやポメラニアンやチワワやミニチュアシュナウザーなどふだんなかなかさわれない愛らしいのがたくさんいる。先客のカップルや親子連れがベンチに座ってまったり膝の上のイヌをなでている。のどかな風景だ。
 我も負けじと「さあこいっ」と両手を広げて入り口付近でしゃがみ込むが数分間そのまま待っても誰も来ない、みなスタッフのお姉さんのそばで尻尾を振ったりお姉さんの足もとをくるくる走り回ったりしている。
 そうだよなあ、毎日お世話してくれるかわいいお姉さんと一見(いちげん)のよくわからないヘンな客、自分がもしイヌなら迷わずかわいいお姉さんを選ぶよなあと思い直し、イヌがたくさん集っているところへ行く。
 この時点でやっと何匹かのイヌが自分に気づき、そばに寄ってきてクンクンにおいを嗅ぎ始める。そのまましっぽを振って抱っこをせがむかと思いきやつまらなそうにスッと通り過ぎ、どこかへ行ってしまう。
 仕方ないのでベンチに座ると、ふくらはぎに何か温かいものが当たった。ん? と足もとに目をやると、ネズミによく似た痩せイヌがぶるぶる震えて自分のふくらはぎに身体を押しつけている。
 実験ネズミのごとく体毛をすべて剃り落としたような身体、四肢は骨張ってまるで干からびたサルの手みたい、モンステラの葉のように巨大に発達した黒い耳はところどころちぎれている。うわあ正直このイヌ気持ち悪い、でもぶるぶる震えててかわいそう、仕方ないなあと抱き上げて膝の上に乗っけてやる。
 すぐ隣で毛がふさふさのプードルや毛並みのいいシェルティーやモコモコの柴犬などいわゆるイヌらしいイヌたちが元気に飛び跳ねたり抱っこされているのを横目で見ながら、困ったような顔をしてぶるぶる震えるネズミイヌを膝の上でそっとなで続ける。背骨やあばらが浮いてゴツゴツだ。
 イヌの気ははかなくてかよわい、人間に愛されるため品種改良されてきた小型犬は親の言うことにただ素直に従うだけしかないけなげで頼りない嬰児(みどりご)のようだ。

「これから一時間、ふれあい広場は休憩時間に入りまーす」
 スタッフのお姉さんのかけ声で客が次々に立ち上がり、ゲートから出て行く。半眼のネズミイヌにごめんね時間だからねとあやまり、そろそろと地面に降ろして自分も外に出る。

 広い敷地の向こうに、「ドッグレンタル」の看板が立っている。
「お好きなわんちゃんとお散歩しませんか?」
 見ると大きな犬舎にイヌがいっぱい、ねえ来て早くこっち来てと一斉に吠えている。その昔ロシア貴族に愛された優雅なボルゾイやら頭の良さそうなイングリッシュセッターやら愛嬌のあるラブラドルリトリーバーなどよりどりみどり、別の仕切りにはマルチーズやらチワワやらダックスフントやら小型愛玩犬が低い柵に前足を乗せてフンフンキュンキュン甘え鳴きしている。
 ここはつまりイヌのキャバクラ、お金を払えばこの子たちをしばらくレンタルできるのだ。かわいい子、きれいな子、頭がよくて愛想のいい子から先にどんどん売れていき、愛想のない子、ぼんやりした子、人に興味のない子は散歩に出してもらえない。
 世をはかなんでいるかのようにしょんぼりうつむいているチワワを抱き上げ、君は借り手がつかないのだね今日はお客さん少ないもんねこの世界も人気商売だから大変だねと背中をさすると、おとなしく自分に身体を預けている。
 そのとき、私のショルダーバッグのひもを誰かが背後からグイッと引っ張った。
 ん? どこのわんちゃんがいたずらしてるんだい? と振り向くと誰もいない。
 あれおかしいなあ、気のせいかなあと気を取り直してチワワをなでていると、またしても誰かが背後からバッグをグイッと引っ張る。
 ぱっと振り向くとやっぱり誰もいない。イヌたちはみな犬舎に入っているので、勝手にそこら辺をフラフラ歩き回れるわけはない。
 あっこれはもしかすると、自分が死んだことに気づかないイヌが遊んでくれ散歩してくれと自分に訴えかけたのではないかと思った。気のせいかもしれないしそうでないかもしれないが別にどっちでもいい、力の強さや引っ張った高さから言ってたぶん中型犬か大型犬だろう。遊んでやりたいのは山々だが、姿形が見えないので遊びようがない。
 生きてる生きてないに関わらずたくさんのイヌとふれあえるここはまさに犬天国、いいよいいよ生きてるイヌも死んだイヌもどんとこい、一緒に遊ぼうじゃないかと少ししんみりしながら「お願いします」と受付で財布を取り出し、生きたイヌにリードをつけて散歩させている最中に蛍の光が流れ始めた。
 イヌを返してから出口に向かうと、果たして自分が最後の客であった。本日の園長犬・パグのモモちゃんがスタッフのかわいいお姉さんに抱っこされて出口の外にいる。
「お見送りしてくれるのありがとう、楽しかったからまた来るね」と頭をなでるとうるせえなあと顔を背けられた。
 車に乗り込むと全身がイヌ臭い。これでいいのだ、ああ楽しかったとバウンとアクセルを踏み、「迷子の迷子の」と歌い出すがあっこれ子猫ちゃんの歌じゃんとすぐに気づく。だが面倒なのでそのまま歌い続ける。「あなたのおうちはどこですか」のところで何かがグッとこみ上げてきたが、あえてそれを無視して一目散に家を目指した。

奥さんの方術

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 繁華街にある大きな書店をじっくりひと巡りしたのち疲れてぼんやりした頭で電車に乗って帰宅、駅前のスーパーで牛乳やオレンジジュースや日本酒や塩など重量のあるものをこれでもかと買いまくり、ああ重いこんなの持っててくてく歩いて家に帰るのかね本屋で本3冊買ったうえにさらに重いもの買ってバカじゃねえのと自分で自分にうんざりしながら袋詰めしていると、「ステキね」と唐突に声がした。
 前後左右&天地をきょろきょろ見回すが他に誰もいない。怪訝な顔でふと正面を見ると見知らぬ奥さんが自分を見てニコニコしている。向こう三軒両隣どこにでもいるような、ごく一般的な品のいい中年の奥さんである。
 えっもしかすると自分のことですか、えええ奥さん正気ですかとじっと相手の目を見る。
「帽子とお洋服の色の組み合わせがとってもステキ」
 その日は紺色の帽子に紺色の麻シャツに真っ赤なパンツを履いていた。
 そうか、この奥さんは赤×紺のパッキリしたコンビネーションに目を奪われたのだなと気づき、あああありがとうございますこの帽子は自分にとって天パーのボサボサ頭をカムフラージュするためになくてはならない必須アイテムであり、これがないと私は巨大なモンチッチになるのでありますと説明する。
「そのお帽子とても似合うわ、ほほほじゃあねえ」
 長年生きているがスーパーで見知らぬ他人さまから褒められるのは生まれて初めての体験だ。そうかあ自分イケてるんかあとうれしくなり、マリオが空中ブロックをドカコンとどつくようにひゃっほうと天高くジャンプしてからスーパーを出た。

 地球を持ち上げるくらい重かった荷物がこんなに軽い、あの奥さんの方術すごい、いやあありがたいねえと感謝するうち「無財の七施」という言葉を思い出した。
 それは人に慈悲を施しましょうという仏教の教えで、1.眼施(がんせ)・・・やさしいまなざしを向ける 2.和顔施(わがんせ)・・・にこやかな顔で接する 3.言施(ごんせ)・・・温かい言葉をかける 4.身施(しんせ)・・・助ける 5.心施(しんせ)・・・思いやる 6.床座施(しょうざせ)・・・席を譲る 7.房舎施(ぼうしゃせ)・・・もてなす、の7項目がある。
 あの奥さんがぐったりしていた自分にしてくれたことは実に3番目の「言施」ではなかったかとハッとする。

 言った本人は「無財の七施」とか「慈悲の実践」など小難しいことはまったく考えていなかったと思う。たぶん目について感じたことを素直に口にしただけだろう。しかし不意討ちのように放たれた「ステキね」の言葉はずどんと私の心に深く突き刺さり、身体の隅々に重苦しく張り巡らされていた疲労感を粉々に打ち砕いた。恐るべし、言施の威力。

 金と徳は天下の回りものだ。だから私はあの奥さんから受け取ったプレゼントをいずれ誰かに手渡したいと思う。
 もしあなたがいつかどこかで帽子をかぶった変なやつから何かモニョモニョ言われることがあったら、ああ、あのブログの筆者だな仕方ねえなあと、どうかいやがらずに言施を受け取っていただきたいと切に願う。