おみくじ

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 清明の日、浅草の隅田公園へお花見。
 4月に入ったとはいえまだ肌冷たい曇天のもと、隅田川沿いにびっしり宴席が並ぶ。
 ときおりぱらつく小雨に襟をかき合わせつつ空を見上げると灰色。
 桜もそれに同調して灰色。隅田川も灰色。 
 早々に切り上げ、外人だらけの仲見世通りをかき分けて浅草寺へ。
 2頭の白い巨犬と遭遇。うれしくて犬の尻をポンポンたたき、ふとあちらを見て振り返ったらいつの間にか煙のように消えていた。

 浅草寺の本堂を参拝してから、わきのおみくじ所でくじを引く。
 第74番 凶
 そうか、このところゆううつなのは運気が悪いからなのか。そうだよなあ、これで大吉だったらこの程度かって逆にがっかりするもんなあと妙に納得しながら本堂を出ると、また同じようなおみくじ所がある。
 よし、もう1回。
 第75番 凶
 願望 かないにくいでしょう
 病気 かかると危ないでしょう
 失物 戻らないでしょう
 新築・引っ越し 悪いでしょう
 旅行 悪いでしょう
 つきあい 悪いでしょう
 がーん。1回目とほぼ一緒である。しかも1番違い。
「お前は凶。凶ちゅうとるのに同じこと何回も言わすんじゃないよ」
 観音様が眉間に薄くしわを寄せて私にほほえみかける。 

 2枚のおみくじをにぎりしめながら境内を出て、赤いねんねこを着た母子地蔵に涙ぐみ、ふところの広そうな二尊仏を見上げてうっとりする。
 空はやっぱり灰色だ。
 ああ救いがないなあ、娑婆に救いが届くまでにはまだまだ人智を越えた時間がかかるよなあと思う。

2010.04.06

む
 私は「血のつながり」とか「親子のきずな」という言葉がとても苦手だ。「仲のいい母娘」という概念も信じていないし、成年を過ぎてなお親元を離れない人間にも違和感を覚える。自分が親子関係でかなりしんどい思いをしてきたからだ。
「親子はなかよくすべきもの」という一般常識が世間にはあるが、そんなものからは1ミリでも遠くへ離れていたいと思う。

「子どもは自分の所有物」とかたくなに思い込んでいた母親は、私が成長して社会人になってもなお、執拗にまとわりついた。
「私のもとにずっといなさい、私の踏み台になりなさい」 
 その念の強さは尋常ではなく、まるでたちの悪い呪術師のようだった。
 すきを見て、私は逃げた。私は私の人生を生きねばならないからだ。
 しかし逃げても逃げても母親はどこまでも追いかけてきた。赤黒い炎をゆらめかせながら背後に手を伸ばしてくるその姿が、私には鬼に見えた。
 今でも、恐ろしい化け物に追いかけられる夢をたまに見る。

 自分を守るために実家から20年以上遠ざかっていたものの、あるとき、やむを得ない事情で一時期だけ母親の世話をすることになった。
 月日がこれだけたっているのだから、もしかすると親子関係が修復できるかもしれないと淡い期待を抱きつつ、約1カ月間、彼女が入院している病院に通い続けた。しかし退院まぎわ、再び鬼があらわれた。
 私が抱いていた甘い期待は静かに死に、絶望に変わった。だめなものはだめだとわかった。 

 寺山修司は、自分を過剰に溺愛する母親を「死んでください、お母さん」と詩に詠んだ。同じことを、私も何度願ったことだろう。その気持ちはたぶん、鬼を母親に持つ本人にしかわからない。兄弟にも理解できないと思う。
 もちろん、そういう特殊な環境で育ったからこそ得られるものもあるだろう。しかし母親がかけた呪いはあまりにも強力で、今でも私の日常にときおり忍びより、暗い影を落とす。

 彼女は今、遠く離れた兄の家で暮らしている。母親も、そしてその傀儡(かいらい)である父親も兄も、どうぞお達者でと思う。しかし私の心の中で、家族関係はすでに焼け野原と化している。
 それはそれでいい。私はそれ以外の場所に花の種を植えながら、ただ前を向いて生きていくだけだ。

2010.03.20

春のお彼岸

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 風が強い。メアリー・ポピンズが「ギャアーッ」と悲鳴を上げて世界の裏側まで一気に吹き飛ばされそうなくらいの強風である。
 そういえば、もう春のお彼岸ウィークに入っている。この時期は例年強風が吹きまくるが、ことしも同じだ。

 お彼岸の時期は太陽が真東から昇り、真西へ沈む。
 西は西方浄土、つまり「あの世」の方位である。昔の人は「お彼岸の時期は最もあの世が近くなる」と考え、沈みゆく太陽に向かって手を合わせた。
 思いはこの世とあの世の境を越えて瞬時に通じる。祈りを受け取った彼方の者もまた、この世に生きる者たちに思いをはせる。すると彼岸(ひがん)と此岸(しがん)の間に神風が吹き、境界がめりめりっと避けて大きな道が通じるのだ。
 ふだんはあの世に携帯なんか通じないが、この1週間だけはあの世への携帯アンテナが3本立つ。もちろん、あちらからの通信もスムーズになるから、虫の知らせが多くなる。 
「お前、元気でやってるの」
「先に逝っちゃってゴメンね。寂しいかい」
「お父さん、あっちはとっても楽しいのよ」
「生きてるときはいぢわるしてゴメンね」
 あの世の人だって、言いたいことはたくさんあるのだ。

 お墓に行って菊を供えるのもいいし、夕陽をぼんやりながめるのもいいし、「おばあちゃんが好きだったなあ」と自宅でぼた餅をほおばるのもいい。それだけで、思いは通じると思う。
「思い出してくれてありがとう、そっちは大変だと思うけど、がんばって」
 あなたは寝ている間にそうささやかれ、ぎゅっと抱きしめられているに違いない。

2010.03.20

鼻天国

 遠い昔、もしかすると自分は犬だったのではないかと確信するくらい嗅覚が敏感な私は、鼻地獄を味わうことが少なくない。
「鼻地獄」とは、
◆満員電車で真ん前に立つ人のきついシャンプーや整髪料、コロンのにおい
◆隣で立ち読みする人のちょっと困ったにおい(「何日お風呂に入ってないか当ててごらんよ」と挑発してくるようなにおい。なぜか「精神世界」のコーナーでよく遭遇)
◆レストランで近くの席に座った人の甘い香水の香り
◆朝の新幹線で隣に座った人の二日酔いのにおい
◆雨の日の地下鉄のにおい(ケモノくさい)
 などのことである。
 目や耳なら何とかふさげても、鼻だけはごまかせないのでやっかいだ。だから映画やコンサートや食事に出かけたり、長距離電車に乗るときは「どうか何事もありませんように」と胸で十字を切っている。 

 地獄があるなら、極楽もある。
 先日、近所の神社へ散歩に出かけた。平日の午後のせいか、町を歩く人は少ない。何も考えずに歩いていると、突然、鼻腔内の細胞がぴくりと反応。
 あっ、これは・・・・・・!
 ジンチョウゲの香りである。
 そうか、もう3月か。
「ねえねえ、春ですよ。私、咲いてるんですよ」
 道路沿いにぽつぽつ植わったジンチョウゲはどれもまだつぼみが固く閉じていたが、なぜか目の前の1本だけ、赤い花がいっせいにぷわっと咲いていた。がんばって、けなげに春を知らせているのだ。
 私は胸いっぱいにその香りを吸う。体内をめぐる血液に、春が溶け込む。これぞ鼻天国。

2010.03.04

カメ

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 葛西臨海公園へドライブ。
 日当たりのいいオープンカフェでのんびりコーヒーを飲んでから、東京湾に浮かぶガラスドームの水族館へ向かう。
 エスカレーターを深く下ると、薄暗い空間が広がっていた。通路のところどころに水槽が設けられ、天井にはライトが吊され、その下でさまざまな魚が泳いでいる。サメ、ウツボ、マグロ、キンメダイ・・・・・・。ここは海の中につくられた水族園なのだ。
 不思議な空間だなあと思いつつ、ぶらぶら見物。

 銀色のマグロの群れが泳ぐ大水槽の前で、しばし足を止める。
 マグロの体の向きはみな一緒、同じようなスピードで同じようにぐるぐる円を描いて泳いでいる。
 みるで人間みたいである。
 泳いでいる最中、強そうな魚が弱そうな魚をどついたり、たまにどつかれ返されたりしている。まんま、人間社会である。

 別の大水槽には、ブルーの体に黄色の背びれと尾びれが美しいウメイロモドキ(スズキ目タカサゴ科)の群れ。この中に、ぽつんとカメがいた。
 カメは、ウメイロモドキの描く軌道とはまったく無関係に泳ぐ。カメが行くところ、ブルーの魚の隊列がちりぢりに乱れる。カメはそんなのにかまわずいきなり急降下したかと思うと、今度は水面近くでふわあんと浮いている。

 好きだなあ、カメ。
 どの世界にも「群れ」と「流れ」はあるが、そんなもんに関係なく「個」として好き勝手に動き回るやつは見ていておもしろいし、かっこいい。
 がんばれカメ! 群れを蹴散らせ! 好きなように生きろ!
 ぶ厚いアクリルガラスに手を当て、私は夢中でエールを送る。もちろんカメはそんなの知ったこっちゃない、ただ自分の好きなように進んでいる。

2010.02.24

 

マンション選びの極意

「ここも手狭になってきたし、そろそろ買おうか、家」
 春先にそう考えて、「今年こそは」と物件探しを始める人も少なくないのではなかろうか。新聞やテレビで「不況」「不景気」と騒がれようと、人は買うときは買うのである。で、マンションの物件探しのコツをいくつか。 

◆中古か新築か
 そりゃもう、古いより新しいほうがいいに決まっている。家は消耗品だからだ。住めば住むほどあちこち傷んでくる。
 また中古は前の住人の痕跡があちこちに残っているが、新築はすべてが無垢の状態なので、よけいな思念やストレスを感じることなくイチからスタートできる。
「でも、中古のほうが安いじゃん」
 そのとおり。住みたいエリアに住みたい建物がすでにあって、築年数もまあ許せる範囲で、管理状態がいいなら、もちろん中古もありだ。しかし仲介手数料やリフォーム代などを加算すると、「結局あんまり差がないじゃん」ということもあるので注意されたい。

◆1階か最上階か
「小さな子どもがいる」「地に足をつけて生活したい」「庭でガーデニングを楽しみたい」「エレベーターがきらい」という人は1階、それ以外の人は最上階がおすすめだ。周囲を高い建物に囲われていなければ最上階はその建物内で最も見晴らしがいいうえ、日当たり、風通しも期待できる。また上階に人が住んでいないため、物音や足音などにわずらわされる恐れもない。絶対ではないが防犯面でも下の階よりは安心できる。
 だからこそ、最上階の物件はなかなか手に入らない。新築なら「もう売れちゃいました」、中古なら「めったに出ません」「お値段お高めですけどいいですか」と言われるのが普通である。
 もし最上階が無理なら、上階に住戸のない部屋を選ぶといいと思う。 

◆角部屋か中住戸か
 電車の座席で最初に埋まるのは端の席。両端があいてない場合、乗客は仕方なく中間に座る。つまり、人は人と距離を置きたい動物なのである。
 家も同じ。両隣を他人にはさまれた中住戸より、角部屋のほうが開放感があって住みやすい。窓が多い分、風通しがよくなって邪気を祓いやすいというメリットもある。 

◆東南向きか南西向きか
「東南向きの部屋がいい」とよく言われるが、日照時間は南西向きの部屋のほうが長い。つまり東南向きの家は冬寒く、洗濯物も乾きにくいということ。南西向きなら冬温かいうえ、上層階なら夕方になっても家の中が明るい。つまり1日が長くなる。
 朝早く出て夜遅く返ってくる人なら東南向きでいいと思うが、家にいる時間が長い人は南西向きのほうが楽しい。  

◆奇抜なデザインかオーソドックスな外観か
「いまふうで格好いい!」と派手な色づかいや形状のデザイナーズマンションにあこがれる人もいるが、買う前に20年後、30年後を想定してみたほうがいい。そのマンションはもしかすると色が褪せ、デザインが風化し、時代遅れになってしまうかもしれない。
 私は昔、「何年か前に○○デザイン賞を取った」という家を訪問したことがある。コンクリート打ちっ放しの無機質なつくりで、部屋の中央に螺旋階段があった。実際に室内を歩いてみて「寒々しいし、掃除しにくそうだし、住みにくいだろうなあ」と感じた記憶がある。
 流行とは「流れて行く」と書く。つまり、はかないのだ。
 ならば、シンプルでベーシックなマンションのほうがいい。変なひねりがないぶん、飽きが来ないからだ。特に将来、売る可能性があるなら、万人受けするオーソドックスなマンションがいい。
 また「類は友を呼ぶ」の法則通り、奇抜な外観のマンションには変わった人、オーソドックスなマンションには普通の人が住む傾向がある。「変わった人たちに囲まれて暮らしたい」という人以外は、普通のマンションに暮らすほうが無難と思う。 

◆四角形の間取りか変形の間取りか
 家相の本には「張りや欠けのない四角い間取りが吉」とよく書いてあるが、あながちそうとも言い切れない。
 私は以前、四角い間取りの家に住んでいたことがある。きれいな長方形で、張りも欠けもなかった。家相は悪くなかったが、実際に住んでみて「味も素っ気もない、つまらない家だなあ」と思った。空間が四角四面にきちんと収まりすぎて、逆に居心地が悪かったのである。
 私はそのとき、世間一般で言われる「大吉の家相」が万人に当てはまるわけではないことを知った。人の個性は十人十色だから、たとえ吉相でも合う・合わないがあるのである。
 現在は変形の間取りの家に住んでいるが、前よりずっと住み心地がいい。つまり家相の教科書では満点が取れなくても、自分が「別にいいじゃん」と思えばそれでOKなのだ。
 ただし「ゆがんだ部屋」「三角形の部屋」だけはすすめない。家具がしっくり収まらないし、デッドスペースができるから掃除が大変だし、何より圧迫感があって精神的にストレスがたまるからだ。 

 いろいろポイントをあげてみたが、「100%理想にかなう家」というのは存在しない。「ステキ!」と思う家はたいてい予算を大幅に超えているし、「相場より安いじゃん」と値段に釣られて見に行くと、「こんなとこに住んだら気が滅入るだろうなあ」とがっかりするものだ。がっかりが続くと「結局、買えませんでした」になるか、妥協してつまらない物件をつかむことになる。
 だから、「これだけは譲れない!」という最低条件を最初にしぼっておくといいと思う。
「女1人で住むから10階以上!」「料理が好きだからキッチンの広いとこ!」「愛犬と楽しく暮らせるとこ!」「子どもがいるから公園のそば!」「残業が多いから駅から徒歩10分以内!」などなど、自分なりのキャッチフレーズをつくっておけばたぶんブレない。 
 で、やっと決断して買ったマンションがもし「ダメだ、こりゃ」とか「住んでてちっともおもしろくない」などという場合、どうするか。
「大金払ったから」とガマンして住み続ける必要なんかない。話は簡単、売って別の家に住めばいいのである。
 ただし売るためには、「売れる部屋」であることが必要だ。今まで述べてきたポイントにかなっている家なら、売れる確率は高いと思う。

2010.02.17

ラッキーナンバー

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「ツキのある数字」というのがある。これは人によって異なるが、以下に当てはまるなら、それはあなたにとって「運のいい数字」だ。

◆好きな数字
「理由はわからないけど、なんか5と8って好き」なら5と8。

◆自分の誕生日の数字
 たとえば1月28日生まれなら、1、2、8。もしくは12、18、81、812など、それらを組み合わせた数字。

◆昔から自分に縁のある数字
「受験番号24で難関を突破した」というなら24、42、「引っ越しても引っ越しても902号室」というなら902、209、90、20、92、9、0、2など。

「これだけは負けられない!」という勝負の際に使う番号が偶然にも自分のラッキーナンバーなら、天が味方についたと考えていい。リラックスして臨めば、勝率は高い。
 何気なくつくったカード(スーパーやドラッグストアのポイントカードなど)の番号や買った商品の製造番号が自分のラッキーナンバーだった場合、それらはあなたのラッキーアイテムとなる。銀行でさり気なくつくった口座の番号が「いい数字」なら、あなたの金運はその銀行とつき合うことでどんどん上がるだろう。 
 車に乗っていて、パッと眼にした他車のナンバーがいい数字だったときも、ツイている証拠だ。走行中、続けざまにラッキーナンバーの車がわきを通り過ぎたり、四方をラッキーナンバーの車に囲まれたら、「あんた、だいじょうぶ。みんなで見守ってるから安心して」という天の啓示と思っていい。実際、そういう日は何かしらラッキーなことがあり、気分よく過ごせるものだ。

 たかが数字、されど数字。縁のある数字を大切にしていると、チャンスをうまくつかめるようになる。ラッキーナンバーとはいわば天のGOサインのようなものだ。

2010.02.10

引っ越しの極意

 春と言えば引っ越しである。
「ああ面倒くさい、お金はかかるしいろいろな手続きも必要だしイヤになっちゃう」と深くため息をつく人も多いと思うが、実は引っ越しというのは運気を変えるイベントであり、負け続けている人にとっては起死回生のチャンスともなるので、前向きに対処されたい。
 で、新しい家を見つけるときのポイントをいくつか。 

★明るくて風通しがよく、日当たりのいい家を選ぶ
 風は邪気を追い払い、日光は邪気を蒸発させる。家の中にきれいな気が満ちれば、住人が前向きな気持ちになる。
 日当たりの悪い暗い家に住むと、身体の弱い人は身体に、心の弱い人は心にダメージが出やすいので注意。 

★前の住人の状態をチェック
「前の方? そりゃもう悲惨な生活をしてらっしゃいましたよ」とか「お気の毒な事件に巻き込まれましてねえ」とかいう家は避けたほうがいい。家には前の住人の気がしみ込むので、自分もその影響を受けてしまう恐れがある。
 どうせ住むなら、「前の女性、みごとに玉の輿に乗ったんですよ」とか「あの方、ボーッとしてたのにいきなり大出世されましてねえ」とか「ご主人も奥さんもお子さんもいつもニコニコして楽しそうでしたよ」とかいう家がいい。 

★なるべく凶方位は避ける
 ものすごく運のいい人は何も考えなくても勝手に吉方位へ動くが、ほとんどの人は放っておくと自分から凶方位へ行く。
 つまり凡人が行き当たりばったりに行動して幸せになれるほど、世の中は甘くないということである。「苦労、ウェルカム!」という人ならいいが、「なるべくなら苦労知らずで幸せに生きたい」という人は、凶方位を避けることをおすすめする。
 ちなみに2010年は、すべての人にとって東北と南西が凶方位。今の自宅から見て東北方位や南西方位に引っ越すと、「不動産でもめる」「家族間の信頼関係がこわれる」「突発事故が起こる」「精神的なストレスがじわじわたまる」など、うれしくない凶作用が起こるおそれがある。 
「転勤や入学でやむを得ず凶方位に移転しなければならない」という場合は、あまり深刻にならず、神社で方位除けをしてもらうとか、家をせっせときれいに保つとか、陰徳を積む(他人にやさしくする)と、凶作用をはずせる。
 方位にこだわりすぎると人生の自由度が低くなるが、まったく無知でいるのも損をする。昔から伝わる「迷信」や「縁起」は、あながち「デタラメ」ではないのだ。 

★自分の直感を信じる
 玄関に足を乗せた瞬間「ここ、気持ちいい!」「空気が軽い!」と感じる家はおすすめだ。その家とあなたは相性がいい。たぶんそこに住めば、あなたは順調に運をつかむだろう。
 逆に「何となく気が滅入る」「その家での楽しい生活を想像できない」「イヤなにおいがする」、あるいは「その家の下見に行く途中、イヤな出来事に遭遇した」などというなら、その家に住まないほうがベターである。そこに住んでも、幸せになれる確率は低いからだ。
 直感は正直。だから家を探すときは、直感が冴えているとき(体調がいいとき、鼻歌が出るようなとき、ツイているとき)がいい。
 間取り(家相)とか九星別の吉凶方位とか他にも細かいポイントはいろいろあるが、以上のことさえ心得ていれば、それほど大きな失敗はないと思う。

 家は住人の心と魂と身体を守りはぐくむ大切な空間だ。幸せに向かってあなたをそっと後押ししてくれる、やさしくて安らかで力強い家が見つかりますように。

2010.02.04

みんな夢の中

 蓮の花が咲く池のほとりをのんびり歩いていたあなたはある日突然、神さまからトントンと背中をたたかれ、こう言われる。
「これからあなたは長い夢を見る」
「えっ! 」
「ま、そういやがらずに。なに、100年もかからないよ。あっちの生活は、迫力満点の精巧なホログラフィーテレビを見るようなもの。番組は無限にあるから、どれでも好きなのを見るといい。番組に飽きたら、いつでもチャンネルを変えなさい。心をそっちに向ければ、一瞬のうちに切り替わるから」
「えっ! いきなりそんなこと言われても」
「番組の主役は、いつでもあなただよ。あっちの世界はこっちにいるよりずっとスリリングで刺激的だと思うよ。じゃ、楽しんでおいで!」
 神さまからウインクされた瞬間、あなたは青い惑星にヒュッと放り落とされる。そして、新しい人生がスタートする。

「選ばれた者」として日々の雑事に追われるうち、やがてあなたは「流れには逆らえない」とか「現実を変えるのは非常に困難だ」などと思い込み始める。で、見たくもない番組を延々と見続けることになる。つまらない番組に縛られる必要などひとつもないにも関わらず。
 そもそも、私たちが見ている番組は流れる雲のようなもので、本人の気分に応じて絶えずふわふわとあらすじを変えている。実体がないのだ。
 実体がないものに必要以上にとらわれると、どんどん萎縮してしまう。ひどくなると、受像機としての自分が壊れてしまうこともある。だから「もうこの番組は見たくない」と思ったら、その場で周波数を変えてチャンネルを切り換えればいいと思う。
 で、チャンネルの変え方。やりかたは簡単。「もっと楽しくておもしろい番組を見よう」と意識するだけ。

 その昔、こういう歌があった。
「喜びも悲しみも みんな夢の中」
 どうせ見るなら、楽しい夢を。

2010.01.31

パワースポット

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 大みそかの午後、とある神社へ行こうと思い立った。1年間無事だったことに対するお礼参りと、広い境内を散歩したかったのだ。
 愛車に乗り込むと道路はガラガラ、駐車場もガラガラ、境内もガラガラ。大みそかはこんなにすいているのに一夜明ければオセロを裏返したように過剰に人が押し寄せる、神社ほど陰陽の逆転しやすい場所もないのではないかと思いながら広大な境内を散策。
 本殿に向かう途中、「パワースポット」とちまたでもてはやされている一角の入り口を発見、興味がないのでそのまま通り過ぎたが、「まてよ」と思い直して引き返した。いつもは長い行列をつくっているけれど今日なら確実にすいている、じゃあせっかくだからどんなものか見てみようと思ったのだ。

 入り口で料金を支払って中に入ると、よく整備された庭園が広がっている。春になれば美しい花が咲き乱れるミニハイキングコースになるのだろうが今は冬のど真ん中、草木が枯れて寂しい風情だ。
 順路の矢印に沿って小道を歩くと、やがて広大な池が出現した。日が射さないせいか、表面に薄く氷が張っている。地獄のように真っ黒い池、この中に落ちたら心臓が一瞬で凍るだろうなとおそるおそるのぞき込むと、水面下に灰色の鯉が何匹もゆらゆら泳いでいる。冬の池はやっぱり陰気くさいなあとその場を後にする。
 園内を歩いているのは若い女性やカップルが多い。しばらく行くと行列の最後尾が見えてきた。湧水の井戸を見るために並んでいるのだ。先頭へ続く道はなだらかな下り坂になっていて、行き着く先に丸い井戸が見えた。
 井戸からあふれた水は小さな川をつくり、そのままあの黒い池に流れ込んでいるようだ。川の中には飛び石がしつらえられえていて、参拝者はその上を渡って井戸を拝む。
 1人あたりの所要時間が長いせいか、自分が来たときは15人ほどの行列だったのに、しばらくして振り返るとどんどん長い列が伸びていた。
 あともう少しで自分の番というとき、小バエの群れがバスケットボールくらいの大きさの球を描いて頭の上を飛んでいるのに気づいた。
 あ、ここやばい。
 しかしせっかくここまで来たのだからと自分に言い聞かせ、がまんしてやり過ごす。
 さあ次はいよいよ自分という段になり、川の手前の階段を下りようと足もとをふと見ると、今度は大ミミズが1匹のたくっていた。
 あ、これはもう完全にまずいと思ったが今さらここで引き返すわけにはいかない、ええいと大ミミズを飛び越え、石を渡って井戸をのぞき込んだ。
 こんこんと湧き出す水は何の曇りもなく清らかに澄んでいる。しかしその周囲に陰の気が幾重にも重なって取り囲み、実に奇妙な空間になっていた。重苦しいのですぐ井戸を後にした。

 パワースポットを出てしばらく歩き、午後の光がさんさんと当たる本殿の前に立った。
 八方位の気を一身に浴びることのできるそこは、いつ行っても心身が洗われるようで気持ちがいい。神木が織りなす森に周囲360度をがっちりガードされた太極の空間だからだろう。
 しばらくすると体内から陰の気が抜けて肩が軽くなったので、境内の地図を取り出してながめてみる。本殿の南西方向にあの井戸があった。なるほど、裏鬼門だったのか。
 鬼門は新しい気が勢いよく噴き上げる活火山のようなものであり、「鬼が出入りする門」と言われるように、よくも悪くも激しい現象が起こりやすい神聖な方位といわれている。あの井戸は、名実ともにまぎれもない「パワースポット」だったのだ。

 活火山から勢いよく噴出するマグマのごとく、純粋なパワーがこんこんと湧き出る井戸に人が集まるのは当然のこと、しかしそこに人間の欲が集まると周辺の気がケガレ、小バエやミミズが湧く。もちろん井戸そのものがケガレているわけではない、それを取り囲む一部の人間の思念がケガレているだけだ。有名になりすぎたパワースポットの悲劇である。
 ではどうすればいいのかというと、 
◆なるべく朝一番で行く 
◆体調の悪いときはなるべく行かない
◆自分の願いごとに必要以上に時間をかけない(後ろの人のイライラした気を受けて損をする)
◆敏感な人はあらかじめ塩やお守りを持参する
◆ブームが去ったときに行く
 などが挙げられる。
 これらを心がければ、少しでも清く正しい状態のパワースポットを拝めるのではないか。
 ・・・・・・しかし神さまの立場からすると、「こうしてほしい」「ああしてほしい」と勝手に願い倒す人間ばかり押し寄せてきたらどう思うだろうか。「ほんにうざいのう」と向こうに寝返り打ってせんべいでもかじりながらテレビ見始めるのではないか。
 たまにチラリと振り向くときがあるとすれば、「いつもありがとうございます、神さまに認めていただけるよう一所懸命がんばります」と手を合わせる清らかな人間が来たときだけではないかと思う。

 2012.01.06