夏越の大祓

photo1
 6月30日は夏越の大祓(なごしのおおはらい)である。

 これは、1年の前半にたまった心と体の邪気(ストレス)を祓い清めましょうという日本古来の行事だ。
 ちょうど今ごろの季節は、「なんだかイライラする」「体調がいまひとつすぐれない」「ものごとがスムーズに進まない」などのネガティブな現象が起こりがちである。なぜか。
 大気中の湿気が多いため、体内にたまった邪気が毛穴から蒸発しないからである。スカッと晴れて湿度が低ければ、もやもやは汗と一緒に毛穴からスーッと蒸発する。だから梅雨時は誰でも不快感を感じやすい。
 少しでも快適に過ごすためには、次の方法が有効だ。
◆除湿機をかける
◆まめに掃除する(掃除機をかけるだけでなく、床にこびりついた汚れも雑巾で拭き取る)
◆ものを捨てる(「長く使ってきたけどもう古くて用をなさない」というものは6月、12月が捨てどき。今まで引きずってきた念も一緒に捨てられるので心身が軽くなる)
◆運動して汗をかく(その後、シャワーを浴びる)
◆湯船に粗塩を入れて入浴する(粗塩には清めの作用がある) 
 きわめつけは神社でお祓い、つまり神だのみだ。行くなら地元の神社、つまり氏神さまがいい。
 氏神さまとは、自分の住んでいる地域を管轄する神さまのことで、「目に見えない長老」みたいなものである。その地域のことなら、もうすべてわかっているのである。
「あ、お前はあそこに住んでる子だね。うン、来たの。お姑さんにいぢわるされてるのにいつもよくがんばってるねえ、じゃあ悪いものぜーんぶ祓ってあげるからね、ちょっとアタマ下げて」とか「お前、へっぴり腰だけどかわいい氏子だから力貸すよ。祓いたまえ 清めたまえ って3回唱えてみな。後半戦、パワー出てくるから」てな具合である。
 そうやって神さまにごあいさつしておくと、7月からの流れが違ってくると思う。不調だった人は好調に、好調だった人は絶好調になっていくはずだ。
「神社行ったのに全然ダメじゃん」という人は自分に非がある可能性がある。神さまがせっかく道を開いてくれてるのに、今までと同じ姿勢でしゃがんでいるからである。立ち上がって明るいほうへ行くといいと思う。

2010.06.29

髪質

rimg0003.jpg_5
 せめて耳の下くらいまでは髪を伸ばし、フェミニンなボブにしようと固く決意したものの、2カ月目にして頓挫。くせっ毛仲間ならおわかりと思うが、湿気の多い梅雨時はぼわんと髪がふくらむのである。
「そうだ、ブラッシングしよう。たんねんにブラッシングすればまっすぐ髪が伸びてサラサラになるのではないか」と期待するも、くせっ毛なので毛を立てたら立ちっぱなしである。おもしろいので鉄腕アトムやユニコーンなど、次々に創作する。
 どうして自分の髪は風になびくタイプではないのかとしだいに腹が立ってきて、やけを起こしてブラシで毛を立てまくったら完ぺきなアフロスタイルになった。
 以前の私なら、その場で迷うことなく縮毛矯正をかけに行ったことだろう。しかし髪の組成を組み替えてむりやりまっすぐ伸ばす縮毛矯正は髪にものすごいダメージがかかるうえ、「これは本当の自分ではない」という違和感が常につきまとい、気持ちに負荷がかかるのである。
 本来はくるくる巻きたくて巻いているものを薬剤や熱によって強制的に伸ばすのは、髪にとっては屈辱であり、ひいては自分自身を否定することにつながるのではないか。
 これは、過去に何十回も矯正しまくってきた私の正直な感想である。 

「髪は性格をあらわす」という説があるが、実際にさらさらでまっすぐな髪の持ち主は性格も素直だし、くせっ毛の持ち主はあまり人の言うことを聞かない傾向があるように思う。悪くいえばクセがある、よく言えば個性的でマイペース。
 でも本当はまっすぐでもくせっ毛でもどちらでもいい、持って生まれたものなのだから仕方ない。たまにパーマをかけていつもと違う自分を楽しむのはいいが、ずっとかけ続けていると「地の自分」が押さえつけられ、本来の個性が発揮できない気がする。はちかつぎ姫のようである。
 なので、私は今は天然のままである。しかし、このままではアフロなモンチッチである。さらに伸ばすとゴーゴンになるのは経験済みである。
 で、どうしたか。美容院へ行き、こう言った。
「あのう、髪を伸ばすのをやめました。ベリーショートにしてください」
「えっ! お客さん、伸ばすって言うから大事に大事にカットしてきたのに」
「はあ、でも頭がぼわんとまるーくなるもんですから」
「今がガマンのしどころなんですよ、これを乗り越えれば収まりがよくなるのになあ」
 せっかく伸びてきたのにもったいないなあ、ワックス使えば多少は収まるんだけどなあと美容院のお兄ちゃんは残念がるが、客のオーダーなので仕方ない。しゃきしゃきいさぎよくハサミをさばいていく。
「できましたよ」
 ミア・ファローの復活だ。そこら辺のメンズより短いだろう。これで、アフロからは脱却できた。
「お客さん、やっぱりベリーショート似合いますねえ」
 たぶん私はこれから生涯ロングヘアーとは縁のない人生を送るだろうなと確信。いや別に悲しくなんかない。

2010.06.21

さわらぬ神にたたりなし

IMG_1224
 10年ほど前、あちこちの神社をめぐり歩いたことがある。今のように「パワースポット」が流行するはるか以前のことだ。
 当時の私は悩みを抱えていて、今から思えば「少しでも運が上がっていい方向に向かいますように」とわらにでもすがる気持ちだったのだと思う。移動や散歩途中で神社仏閣を見かけては、いそいそとお参りしていた。

 その日も、自宅から小一時間ほど歩いてとある町まで散歩した。
 にぎやかな駅前の繁華街に向かう坂の途中に、大きな寺があった。何度もそばを通ってはいたが、何となく「一見さんお断り」のような雰囲気があったため、そこに入ったことはなかった。しかしその日に限ってなぜか入ってみようと思った。
 夏の終わりの夕方で、自分の影が妙に細長く伸びていたのを覚えている。
 境内には誰もいなかった。本堂を見て庭園をひとまわりしたが、だだっ広いだけで神気を感じなかった。その寺は妙にあっけらかんとして、「空洞」という印象だった。
 少々がっかりして門に向かうと、巨大な老木が立っていた。よくみると根もとのほうに大きなうろ、つまり空洞がある。その中に木彫りの一寸法師が収まっていた。なかなか精悍な顔つきである。
 スクナヒコナを祀っているのかな? と思い、手を合わせた。ちなみにスクナヒコナは大国主命(オオクニヌシノミコト)と力を合わせて日本を作った神さまであり、医療の神さまでもある。
 一寸法師に祈っていると、木の根もとからなまぐさいにおいがふわりと立ち上ってきた。気のせいだと思った。 

 寺の外に歩き出してから、あれ? と違和感を覚えた。背中がずしりと重く、胃がムカムカして非常に気分が悪いのである。
 ガマンして、そのまま歩いて帰る。
 帰宅して塩風呂に入ったあとも、何とも言えないいやな感じが続いた。まるで背中に子どもがべったりのしかかっているような重苦しさなのである。
 自問自答するうち、あの一寸法師のせいだと確信。こちらが無防備に手を合わせたので、すかさず憑依してきたのだろう。
 その晩、目に見えない邪気、それもかなりたちの悪いやつと無言の攻防戦を繰り広げることになった。「押されたら押し戻す」を続けてぐったり気疲れしながら、下手に見知らぬ寺に入るもんじゃない、縁起ものだからといって何でもかんでも手を合わせるとひどい目に遭う、これは神頼みで問題を解決したいというさもしい欲得の罰が当たったのだと深く反省した。
 
 人間にもいい人と悪い人がいるように、神さまにもいい神霊と悪い神霊がいる。
 プロや経験値の高い人ならひと目見て「これはありがたい神さま」とか「近づかないほうがいい神さま」などとわかるだろうが、素人にはほとんど見分けがつかない。
 昨今はパワースポットブームでたくさんの人が神社仏閣を訪れるが、「助けてください」の欲得の心は時として魔を呼び寄せる。
 
有名な場所でも、直感で「あ、ここヤバそうかも」「ちょっと違うかも」と感じたら、そのままUターンするか素通りすることをおすすめする。わけのわからないものにうっかり関わると、ろくなことにならないからである。

2010.06.16

病院の選び方

rimg0005.jpg_1
 病院選びというのは、なかなか難しい。信頼できるかかりつけ医がすでにいる人はいいが、ふだんあまり病気をしない人や引っ越して間もない人は、どこにどんな病院があるかよく知らないし、たとえ知っていたとしても、具体的な評判まではなかなか耳に入ってこない。たとえ有名な病院でも、自分と相性がいいかどうかは行ってみるまでわからない。
 で、たいていネットで検索することになる。
「○○市 病院 ○○科」で検索すると、出るわ出るわ。聞いたこともない名前の病院がわんさか出てくる。しかしそのほとんどは、名前と住所と電話番号と開業時間と地図くらいしか載っていない。運よくホームページがあれば何となく感じはつかめるが、逆に「やめたほうがいいかも・・・」と悩むこともある。で、限られた情報の中で患者はあれこれ迷うのである。
「A病院はうちから近いけど今日は休診日だし、B病院は今日はやっているけどすっごく遠いし、C病院はホムペを見たけど医者の顔が全然好みじゃないし、D病院は大学病院だから待たされそうだし。ああもう、いったいどこに行けばいいの?」
 懊悩し、頭をかきむしっている間にどんどん具合が悪くなっていく。そういうときはどうするか。
 方位で決めるという手がある。自宅から見て吉方位の病院を探すのである。
「吉方位」とは自分を後押ししてくれる方位であり、ツキを与えてくれる方位とされている。
 厳密に言うと北、東北、東、東南、南、南西、西、北西の8つの方位にはそれぞれ独自のパワーが流れていて、たとえば北の吉方位の病院なら「心も身体もじわじわ癒やされる」、東北は「奇跡が起こって一気に挽回できる」、東なら「気持ちが前向きになってイヤでも元気になる」、東南なら「複雑な体調がスムーズにととのう」、南なら「ブラックジャックみたいな医師がいる」、南西は「時間はかかっても確実に治る」、西なら「いい待遇を受けておだやかに養生できる」、北西なら「その道の権威が担当してくれる」などの作用が期待できる。
 避けたいのは凶方位の病院だ。
「治るはずの病気がなかなか治らない」とか「あり得ない医療ミスが起こる」とか「治療費が予想以上にかさむ」とか「相性のよくない看護師に当たってしまう」などのアクシデントが考えられる。

方位で決める」という方法を知っていれば、ああどこにしよう、どこにすればいいのと頭を抱え込まなくて済む。選択肢が限られるので悩む労力と時間が節約できるし、「ここは大吉の方位だからだいじょうぶ」と自信がつき、初めての病院を訪れる不安も多少は軽減するだろう。
 ただし方位学は奥が深く、初心者は戸惑うことも多い。方位に流れる気は年、月、日、時刻単位で刻々と移り変わっていくし、自分の九星(一白水星とか二黒土星とかいうやつ)との相性もあるし、もとよりそれぞれの方位の特徴を覚えるのもひと苦労だ。
 だから、最低限「凶方位の病院は避ける」と心しておくだけでもいいと思う。ちなみに2013年の凶方位は北西だ。北西の凶方位の病院に行くと「医師とそりが合わない」「あてが外れやすい」などの作用が出やすいので注意されたい。

 もちろん、たとえ吉方位でも「スカ」を選ぶ可能性はある。方位云々の前に、いい病院もあればそうでない病院もあるからだ。だから「方位さえよければどこでもいい」と思い込むのは危険である。
◎入り口が乱雑で汚れている病院
◎清潔感のない病院
◎陰気で枯れた雰囲気の漂う病院
◎人気のない病院、つまり流行ってない病院
◎受付に愛想がない病院
 これらの病院には、たとえ吉方位であっても君子危うきに近寄らずである。

 人は本能的にいいものと悪いものを嗅ぎわける。だからいい病院には自然に人が集まるし、そうでない病院には人が集まらない。それは病院に限らず、不特定多数の人間が集まる場所、たとえばホテルでもスーパーでもレストランでもみな同じだ。
 一見しただけでは判断できないとか、勘が働かない場合は、誰か年輩者にたずねてみるといい。たぶん正解を教えてくれると思う。ちなみにネットの口コミはほぼ頼りにならない。
 候補が二カ所ある場合は、行く前に両方に電話して、相手の対応で判断すればいい。「あのう、今日は何時までやっていますか?」でも、「今日は混んでいますか?」でも、なんでもいい。電話に出た人の声が明るく、ホッとする感じなら「行ってOK」、雰囲気が暗かったり、「あれ? なんか違和感がある」と思うなら「行かないほうがいい」と判断する。どちらも同じような印象なら、それほど違いはないということだ。

 以上のことを抑えておけば、大きなミスは防げると思う。
 いい病院がスムーズに見つかり、あなたの痛みやつらさが一刻も早く治りますように。

2010.06.09

運のクリーニング

DSC00271
 物を捨てずにため込むいっぽうの家に流れる気は、どんよりして重苦しい。物をためることは、持ち主の残留思念をため込むことに等しいからだ。
 そういう家で暮らす人の精神状態もどんよりして重苦しくなる傾向がある。「過去」に取り巻かれて暮らしているせいである。  
 心がいつも明るくハレている人の家はスッキリしていて、気の流れがいい。家の容量を100とすると、せいぜい50〜60くらいしか物を置いていない。
 しかしゆううつや不安がひんぱんに頭をもたげる人の家にはたいてい90から100、あるいはそれ以上の物がぎゅう詰めにされている傾向がある。
 クローゼットの中には好きでもないのに買った(もらった)服やサイズが微妙に合わない服、流行遅れになった服など「絶対に着ない服」がたっぷり、押し入れには壊れた家電品や捨てるに捨てられない思い出の品がみっちり、本棚にはこれから先100%読まないであろう本や雑誌がぎっしり、ドレッサーの引き出しには古い化粧品や試供品が山積み、冷蔵庫にはいつ作ったかわからないおかずがどっさり。
 ほこりをかぶって色あせた物たちはすべて、昔の自分が引き寄せた「過去」であり、未来に向かう自分の足かせとなる。いらない過去を大事にとっておいても、いいことはほとんどない。 
 古い過去を切り離すことは心の重荷を取り払うことに等しく、それはつまり運のクリーニングにつながる。ディスククリーンナップとデフラグが必要なのは、パソコンに限らない。

2010.06.08

吹けよ風、呼べよ嵐

rimg0250.jpg
 房総へ開運旅行。
 途中、街道沿いにあるものすごくヘンな名前の中華料理店(よく覚えていないがたしか「このばかちんが」とか「おたんこなす」とかそんな名前だったと思う)でラーメン&餃子定食(想定外のどんぶり飯つき)をいただき、砂浜に押し寄せる波に素足をひたし、拾った貝を耳に押し当て、宿に着いてから速攻で露天風呂につかり、地元で採れた食材を使った夕餉をゆっくり味わった。
 やたらにぶ厚いマグロの刺身がスジだらけでかみ切れなかったが、それはいい。うやうやしくさし出されたかき揚げの中身がただのたまねぎだったが、それもまあいい。
 寝る前にもう一度露天風呂につかり、体がポカポカしてきたところで夜10時過ぎに布団に入り、灯りを消す。
 カエルの大合唱を子守歌に、スーッと眠りに落ちた。

 ・・・・・・かゆいっ。
 左足の膝の外側がちくりとかゆくなり、パッと意識が覚醒した。右足のつま先ですりすりしてから、再び目を閉じる。
 派手なザーザー音・・・・・・、外は激しい雨なのだな。そうか、それでカエルが異常に鳴きまくっていたのか。
 あれっ。左足の小指の爪の真下と、右足のふくらはぎがかゆくてかゆくてたまらないっ。
 右足と左足のつま先で交互に擦ってみるも、いっこうにかゆみが治まらないので腕を伸ばし、爪を立ててかきまくる。指でなぞると、ぷくんと大きくふくれている。蚊だ。
 私は銚子旅行を思い出した。あのときも蚊の奇襲攻撃を受けたのだった。
 くそう、またしても。
 その瞬間、真っ暗な部屋が真昼のように明るくなり、どーん! と天地を揺るがすようなものすごい音がとどろいた。雷である。布団から這い出て窓を閉めるとき、網戸の下部が破れてめくれ上がっていることに気づいた。
 蚊のダダ漏れ状態である。
 蚊取り器をONにし、再び寝ようと努める。が、眠れない。そこらじゅうかゆいのである。
 空がうっすら白み始めたころにようやくうとうとして、しばらくしてから時計を見ると朝の6時半。このまま寝ると朝ご飯に間に合わなくなるかもしれないと、ぼんやりした頭を抱えて仕方なく起き上がり、大浴場へ。
 ・・・・・・やはり吉方位の露天風呂は最高だ。体の隅々まで、エネルギーがじわじわ充電されていくのがわかる。見上げると、灰色の雲のすき間にところどころ青空がのぞいている。よかった、なんとか晴れるかも。
 朝食を済ませ、福の神によく似たおかみに手を振り、車で漁港へ向かった。 

 かつお祭りが開催されているせいか、港はかなりのにぎわいである。干物をおみやげに買い、ついでに近くの神社を参拝。
 ああ気分がいい、運が上がってきているのをジンジン感じる。よし、神さまのご託宣をいただこう。
 おみくじをひいていると、空からぽつぽつ雨が降り出した。本降りになりそうだ。おみくじをそのままポケットに入れ、あわてて屋根のある漁港に雨宿りに戻る。
 祭りはすでに終了し、あちらこちらに設置されていた椅子やテーブルはすでに撤去され、がらんとしている。
 雨と風は徐々に勢いを増し、ゴロゴロと雷まで鳴り始めた。雨宿りしていた人たちが、雨の中をちりぢりに走って車に戻る。自分も車まで戻りたい、しかしここから歩いて10分かかるところに停めてある。大渋滞でそこしか停めるところがなかったのだ。
 そのうち空は地獄のような暗黒に染まり、雷が爆弾のようにドカンドカンと景気よく落ち、やがてプールをひっくり返したような集中豪雨がやってきた。こんなに荒れるなんて、誰も教えてくれなかったじゃん。
 小1時間ほどその場で待機。しかし天気はちっとも回復せず、漁港にはもう関係者しか残っていない。
 先ほどから異様な気を背中に感じてさり気なく振り向くと、「ワシは誰からも相手にされんのじゃよオーラ」を発する爺さんが、私のすぐうしろでもそもそとイカの足を食べている。
「いっしょに食べないかね」と誘われたら困るなあと意を決し、思い切って豪雨の中を車まで突っ走る。
 なんとか車にたどり着くも、「海にドボンと落っこっちゃいました」みたいにずぶ濡れだ。
 まあいい、これは大祓の雨であると自分に言い聞かせ、後部座席のトランクからタオルを引っ張り出しているとき、さっき引いたおみくじのことを思い出した。
 そうだ、まだ中身を読んでいなかった。
 私はポケットからおみくじを取り出し、するすると広げてみた。
「吹き荒れる」
 ん?
「吹き荒れる 嵐の風の末(すえ)遂(つい)に 道埋もるまで 雪はふりつむ」
 ええとだいじょうぶ、だってここは吉方位なんだもの、たぶんそのうちきっと何かいいことあるよと自分に言い聞かせ、頭からポタポタしずくをしたたらせたまま急いでその港町をあとにした。

2010.06.07

ズンドコ節

 私はなぜか子どものころからよく虫歯になる。きちんとみがいているつもりでも、いつの間にか必ず虫歯大魔王の手が忍び寄ってくる。緊張性で小心者のため歯医者に行くたびイヤというほど恐怖体験を味わうのだが、このたび3年ぶりに再発生。ことの起こりは検診だ。
「あ、ありますね虫歯。けっこう深いな。じゃ、また来週来てください」
 5月のとある午後、とほほとため息をつきつつ、歯科医院を再度訪問。
 独特の薬の香りと空間に漂う緊張感に一瞬ひるむ。しかしもう後には引けない、虫歯は放っておいては絶対に治らないのだ。
「だいじょうぶ、30分後には私は治療費を払い、ホッとした気分で病院を後にしているだろう」と自分に言い聞かせる。

 殺風景な待合室には誰もいない。ここは予約制で、私が午後一番の患者なのだ。ラジオからピンク・レディの「UFO」がうっすら流れている。軽快なメロディに集中しようとするほど、心臓のドキドキ音が大きくなる。そばに誰かがいたら、「うわっ大きな音!」と驚くだろう。
 で、こういうときに限ってなかなか先生が昼休みから帰ってこないのである。時間より早く来てんのにどうしてこんなに待たせるのかな緊張が体の中で爆発しそうだよ、いっそ診察券置いたまま逃げようかなと逡巡(しゅんじゅん)する矢先、先生が登場。
「はい、やりましょう」
 絶望的な気持ちになる。 

「チクッとしますよ」 
 麻酔の注射針が歯茎に押し込まれる。
 ああっ、これがイヤ。ものすごくイヤ。心臓麻痺起こして死んだらどうしようここは暑いな鼻が詰まって息が苦しい変な味がするからツバ飲み込めないじゃん。
 2本目の注射を打ってしばらくたつと、唇の感覚がなくなってきた。
「はい、口あけて」
 キュウグイーンガリガリガリガリと猛烈なドリル責め。麻酔がかかっているので先生は安心して容赦なくけずる、けずる、そしてまたけずる。頭蓋骨に重低音と衝撃が響きまくる。
 そんなに振動させたら脳味噌が豆腐のように崩れるのではないかと不安になるが、いやひょっとすると活性化されて逆に頭がよくなるのではないかとも思う。「ズンドコ節」を歌い踊る氷川きよしが脳内にあらわれては消える。
 ああやっと終わったと思ったら先生はうれしそうに刃を替えてまたけずり出す。
 永遠にも等しい30分が過ぎた。
「はいうがいしてください。また来週」
 頭に熱が充満した状態でよたーんとしたままフラフラ立ち上がり、上の空で会計を済ませ、外に出る。受付のお姉さんに何か言って大笑いしたような気もするが、よく覚えていない。

 外は初夏を思わせるさわやかな午後だ。自分でもよくわからない気分のまま、停留所でバスを待つ。ホッとしたわけでもない、うれしいわけでもない、かといって落ち込んでいるわけでもない、しかし決してスッキリはしていない。
 バスが来た。空いている席に座る。ああやっと終わった、おなかがすいたからどこかでお茶でも飲んで帰ろうかなと考えるうち、徐々に気が遠くなってくる。過度の緊張による脳貧血と思われる。
 このままま揺られているとたぶん気分が悪くなるだろうと予知し、2つ先の停留所で降り、夢遊病者のようにふらふら歩く。
 駅に向かう坂道にはたくさんの人がせかせかと歩いている。
 私は坂道をゆっくり降りた。体内時計がいつもの3倍のスローペースで時を刻んでいる。ときおり、視界がぐらつくので立ち止まる。
 コンビニのショーウインドウに顔を写すと、唇の右半分がだらんと垂れ下がっている。十分に笑える顔だが、歯がズキズキうずいているので笑えない。ブルドッグのような唇のまま、電車に乗って帰宅。

 夜、布団に入ってからやっと唇の感覚が戻った。削った歯は相変わらずズキズキうずいている。
 どうか今日の試練によって私の脳に奇跡が起こり、明日の朝になったらものすごく頭がよくなって素晴らしいひらめきが次々に浮かびますように、と神さまに祈りながらさみしく眠りについた。
 残念ながらその願いは叶えられず、翌日もそのまた翌日も同じような日々が過ぎてゆくだけだった。

2010.05.30

逢魔が時

img_1439
 日曜日の夕方、散歩がてら街まで買い物に。多くの人が軽く厭世観を覚えながら、お茶の間で夕餉の支度を調える「サザエさんタイム」と呼ばれる時間帯である。
 ゆるやかな坂道を上っていくと、前方に赤いシャツを着た中年男がいる。小ぶりなリュックをかつぎ、スニーカーでスタスタ歩いている。
 男は少し先の信号で立ち止まった。左側に渡り、道路の反対側を歩くつもりなのだろう。
 左側を向いて信号待ちをしている男と、距離が縮まった。40歳前後の、涼しい顔立ちのイケメンだ。
「・・・・・・が、・・・・・・で、」
 何かしゃべっている。携帯で話しているのかと思いきや、両手は体の両脇にだらんと垂れ下がっている。
 じゃあ誰と話しているのだろう? そうか、独り言か。
「・・・・・・空虚さが」
 え?
「残酷な変化を遂げて」
 ええっ?
「・・・・・・絶望に変わる」
 あ、狂ってる。
 外見上はどこにもほころびが見えないその男性は、脈絡のないことを1人でずっとしゃべり続けているのである。しかも、けっこう大きな声で。
 私は足早にそばを通り過ぎた。

 背中に張り付くように、念仏のような男の独り言が聞こえてくる。男は信号を渡るのをやめ、私のすぐ後ろをついてきているのだ。のべつ幕なしに吐き出される無意味な言葉の羅列から、忌まわしい気が放たれてくる。意識をそちらに向けないようにすればするほど、まがまがしい言葉の1つ1つが矢のように耳に突き刺さってくる。
「・・・・・・孤独な」
「・・・・・・行き場のない」
「・・・・・・ぎりぎりの崖っぷちから」
 何かに憑かれているのか、それとも私に呪いを掛けているのか。聖なるものほど追いかけると逃げ、邪悪なものほど逃げると追いかけてくるのはなぜだろう?
 その道は一本道だった。信号で左側の道に渡るか、後戻りするか、そのまままっすぐ進むしかない。私は歩行スピードを一気に上げた。信号を待つのも後戻りするのもいやだった。

 よし、ここまで来ればだいじょうぶだろう。
 しばらく歩いてから振り向いた。かなり歩調を早めたので、息切れしていた。
 背後にぴったり貼り付くように、その男がいた。男と私の距離はまったく変わっていなかった。
 うわあ。
 なかば駆け足になった。それでも男の声が背中を追いかけてくる。ふり返るたび、赤いシャツが目に飛び込んでくる。
 あの色は・・・・・・、
 私はその考えを頭から振りはらった。
 あの赤いシャツを着た男は普通に歩いているのに、なぜ距離が開かないのだろう? そういえばあのシャツの色は、乾いた血の色によく似ている。
 恐怖が背筋を這い上った。

 大きな十字路に出た。すかさず右に曲がり、人混みをかき分けるようにジグザグに歩いた。一直線に飛んでくる念をかわすには、無軌道に動くか、リズムをパッと変えて波長をずらすしかない。
 おそるおそるふり返ると男は消えていた。胸をなで下ろし、そのまま街へ向かった。
 日曜の夕刻は逢魔が時だ。人気の少ないその時間帯には、隠れた者がやってくる。

2010.05.17

人外大魔境・養老渓谷

rimg0215.jpg
 養老渓谷そばの秘湯の宿に1泊。川に面した部屋に案内されて窓を開けると、耳を洗うような川のせせらぎの音。
 宿に着いたのが夕方過ぎだったので渓谷散策はその日はあきらめ、露天風呂に入って夕食をいただく。シカ肉のソテーやしし鍋、鮎の塩焼き、タケノコの炭火焼きなど、ご当地ならではのご馳走が並ぶ。どれもほどよい分量で好感が持てる。
 夕食後、もう一度露天風呂に入ってから床についた。
 ・・・・・・あれ? 眠れない。疲れているからすぐ眠れるはずなのに、奇妙な映像が次から次に頭に浮かんで意識が半覚醒したままだ。
 日本昔話の幻灯絵巻をフラッシュバックで延々と見せられている感じ、ああもう面倒くさい、早く寝たいのになあと何度も寝返りを打つが、意識がなくなる寸前にすかさず映像がパパパッと挿入されてくるので、なかなか意識を失うことができない。
 いったい誰が邪魔してる? そういえば部屋のすぐ外につがいのシカのはく製が飾ってあった、でもあれはそんなに力が強くないからたぶん悪さはしないだろう、じゃあ誰だ。
 しばらく考えてから気がついた。そうか、滝だ! 窓のすぐ下には渓谷が広がっているのだっけ。水場にはさまざまなものが集まるからなあ、カバンにお守り入ってるのに効かないじゃん、やっぱり枕元に置かないとダメだな、あ、雨だ、雨の音が聞こえる、かなり降ってきた。
 うつらうつらするうちに夜が明けた。

 翌朝、朝食を済ませてから渓谷へ降りた。「滝めぐりコース」として川沿いに設置された遊歩道は全長4キロ、約80分の道のりだ。
 雨は小降りでときおりぱらぱら降る程度、傘なしでもいけそうだ。それにしても寒い。
 重く垂れ込めた雲の下、私はコートの襟をかき合わせて遊歩道を歩き始めた。見渡す限り、ほぼ手つかずの大自然。眼下には渓流、その両脇に天高くそびえ立つ岸壁。頭上には生い茂る新緑の木々。ところどころ、うす紫色の藤の花が咲いている。
 平日の朝のせいか、あたりには誰もいない。聞こえるのは水の流れる音だけ。
 川の中は神秘的だ。水が走る岩盤の上に横たわったり、深い青緑色の水の中に沈み込みたいと本気で思う。
 滝をふたつほど通過したあたりで、雨が勢いを増してくる。道の向こうには同じような景色が果てしなく続いている。
 仕方ない、引き返すとするか。これ以上濡れたら風邪を引く。
 いさぎよくUターンする。内心、ホッとしていた。陰気な雨が降る暗い遊歩道をそのまま進み続けるのは少し気が重かった。いや、実を言うとこわかった。神隠しにあってもおかしくない雰囲気だったからである。 

 帰宅後、渓谷の写真をパソコン画面で見ると、そのうちの1枚に大きな紫色のオーブ(丸い光の玉)がくっきり写っていた。拡大すると、刀の鍔(つば)の中にエイリアンもしくは観音さまの顔がきちんと収まっているような感じ。
 歩いている最中、背中がゾクゾクしたのは気温が低いからだけではなかったのだ。無人の大魔境に踏み込んだ「よそ者」は、水辺に棲む者にずっと後をつけられ、監視されていたに違いない。

 2010.05.13

神さま酔い

photo2
 千代田区の祭礼で宮御輿が町内を巡幸。
 活きのいい担ぎ手が御輿を揺らすたび、界隈の空気が清まる。清まった空気は気持ちがいいから、御輿のまわりにだんだん人が集まってくる。みな笑顔である。
 やがてゴールの神社が近くなると気の高ぶった担ぎ手はトランス状態に。ついて歩く人々も軽くトランス状態。
 御輿が無事に神社に戻って一本締め、やれやれ楽しかったと後楽園遊園地(東京ドームシティ)へ足を伸ばす。

 ドームホテルを左に見ながらラクーアに向かってクリスタルアベニューを直進し始めたときから異空間がスタート。目の前に現れるものすべてがヘンである。
 通常の4、5倍はあろうかと思われるボリューミーな体型の女性が道のど真ん中でソフトクリームを食べ、海底でゆらゆら揺らめくワカメのように体がしなるお母さんが同じようにゆらゆらする子どもを連れて歩き、劇画からそのまま出てきたようなゴルゴ13似の濃い顔のおっさんがいきなり目の前にどーんと登場し、ホームレスの人が花壇で1人静かに口を開けたまま瞑想。
 パラシュートやジェットコースターなどのアトラクションは満員、ステージでは目的のよくわからないイベントが開かれていてこれも満員、飲食店も満員。カーネル・サンダースは張り切って武者コスプレ。園内には見渡す限り魑魅魍魎(ちみもうりょう)の群れ。
 疲れて椅子に座り、コーヒーを飲みながらチョコ餅(ココアの粉をたっぷりまぶした餅の中にチョコクリームが入っているぶよんぶよんした菓子)を食べていると、「ここ、いいですか?」と20歳くらいのかわゆい婦女子が2人やってきて、同じテーブルを囲む。「どうぞ」とニッコリ微笑む私の唇はきっとココアの粉で真っ茶色に染まっていたに違いない。
 どこか時代遅れの服を着た婦女子はおいしそうにソフトクリームをなめ、食べ終わると風のように立ち上がり、そのままスーッと薄くなって上空に消えた。昭和何年代からタイムスリップして来たのだろうと考えていると、早くも夜の風が「ねえーん、ほほほほ」とほおをなでる。たくさんの親子連れを乗せたメリーゴーラウンドが回り始めた。メリーゴーラウンドはいつ見ても哀しい。
 ごう音とともに龍が空を駆け抜けていく。龍に乗せられた若者たちは「祇園精舎の鐘の声」を金切り声で大合唱。ああ無常。
 風が殺気をはらんできたので、園を後にする。

 駅に続く地下道を歩くうち、脳内ライトがオレンジ色の電球から昼白色の蛍光灯に切り替わった。宮御輿の酔いが覚めたのだなと思った。

2010.05.05