ラッキーナンバー

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「ツキのある数字」というのがある。これは人によって異なるが、以下に当てはまるなら、それはあなたにとって「運のいい数字」だ。

◆好きな数字
「理由はわからないけど、なんか5と8って好き」なら5と8。

◆自分の誕生日の数字
 たとえば1月28日生まれなら、1、2、8。もしくは12、18、81、812など、それらを組み合わせた数字。

◆昔から自分に縁のある数字
「受験番号24で難関を突破した」というなら24、42、「引っ越しても引っ越しても902号室」というなら902、209、90、20、92、9、0、2など。

「これだけは負けられない!」という勝負の際に使う番号が偶然にも自分のラッキーナンバーなら、天が味方についたと考えていい。リラックスして臨めば、勝率は高い。
 何気なくつくったカード(スーパーやドラッグストアのポイントカードなど)の番号や買った商品の製造番号が自分のラッキーナンバーだった場合、それらはあなたのラッキーアイテムとなる。銀行でさり気なくつくった口座の番号が「いい数字」なら、あなたの金運はその銀行とつき合うことでどんどん上がるだろう。 
 車に乗っていて、パッと眼にした他車のナンバーがいい数字だったときも、ツイている証拠だ。走行中、続けざまにラッキーナンバーの車がわきを通り過ぎたり、四方をラッキーナンバーの車に囲まれたら、「あんた、だいじょうぶ。みんなで見守ってるから安心して」という天の啓示と思っていい。実際、そういう日は何かしらラッキーなことがあり、気分よく過ごせるものだ。

 たかが数字、されど数字。縁のある数字を大切にしていると、チャンスをうまくつかめるようになる。ラッキーナンバーとはいわば天のGOサインのようなものだ。

2010.02.10

引っ越しの極意

 春と言えば引っ越しである。
「ああ面倒くさい、お金はかかるしいろいろな手続きも必要だしイヤになっちゃう」と深くため息をつく人も多いと思うが、実は引っ越しというのは運気を変えるイベントであり、負け続けている人にとっては起死回生のチャンスともなるので、前向きに対処されたい。
 で、新しい家を見つけるときのポイントをいくつか。 

★明るくて風通しがよく、日当たりのいい家を選ぶ
 風は邪気を追い払い、日光は邪気を蒸発させる。家の中にきれいな気が満ちれば、住人が前向きな気持ちになる。
 日当たりの悪い暗い家に住むと、身体の弱い人は身体に、心の弱い人は心にダメージが出やすいので注意。 

★前の住人の状態をチェック
「前の方? そりゃもう悲惨な生活をしてらっしゃいましたよ」とか「お気の毒な事件に巻き込まれましてねえ」とかいう家は避けたほうがいい。家には前の住人の気がしみ込むので、自分もその影響を受けてしまう恐れがある。
 どうせ住むなら、「前の女性、みごとに玉の輿に乗ったんですよ」とか「あの方、ボーッとしてたのにいきなり大出世されましてねえ」とか「ご主人も奥さんもお子さんもいつもニコニコして楽しそうでしたよ」とかいう家がいい。 

★なるべく凶方位は避ける
 ものすごく運のいい人は何も考えなくても勝手に吉方位へ動くが、ほとんどの人は放っておくと自分から凶方位へ行く。
 つまり凡人が行き当たりばったりに行動して幸せになれるほど、世の中は甘くないということである。「苦労、ウェルカム!」という人ならいいが、「なるべくなら苦労知らずで幸せに生きたい」という人は、凶方位を避けることをおすすめする。
 ちなみに2010年は、すべての人にとって東北と南西が凶方位。今の自宅から見て東北方位や南西方位に引っ越すと、「不動産でもめる」「家族間の信頼関係がこわれる」「突発事故が起こる」「精神的なストレスがじわじわたまる」など、うれしくない凶作用が起こるおそれがある。 
「転勤や入学でやむを得ず凶方位に移転しなければならない」という場合は、あまり深刻にならず、神社で方位除けをしてもらうとか、家をせっせときれいに保つとか、陰徳を積む(他人にやさしくする)と、凶作用をはずせる。
 方位にこだわりすぎると人生の自由度が低くなるが、まったく無知でいるのも損をする。昔から伝わる「迷信」や「縁起」は、あながち「デタラメ」ではないのだ。 

★自分の直感を信じる
 玄関に足を乗せた瞬間「ここ、気持ちいい!」「空気が軽い!」と感じる家はおすすめだ。その家とあなたは相性がいい。たぶんそこに住めば、あなたは順調に運をつかむだろう。
 逆に「何となく気が滅入る」「その家での楽しい生活を想像できない」「イヤなにおいがする」、あるいは「その家の下見に行く途中、イヤな出来事に遭遇した」などというなら、その家に住まないほうがベターである。そこに住んでも、幸せになれる確率は低いからだ。
 直感は正直。だから家を探すときは、直感が冴えているとき(体調がいいとき、鼻歌が出るようなとき、ツイているとき)がいい。
 間取り(家相)とか九星別の吉凶方位とか他にも細かいポイントはいろいろあるが、以上のことさえ心得ていれば、それほど大きな失敗はないと思う。

 家は住人の心と魂と身体を守りはぐくむ大切な空間だ。幸せに向かってあなたをそっと後押ししてくれる、やさしくて安らかで力強い家が見つかりますように。

2010.02.04

みんな夢の中

 蓮の花が咲く池のほとりをのんびり歩いていたあなたはある日突然、神さまからトントンと背中をたたかれ、こう言われる。
「これからあなたは長い夢を見る」
「えっ! 」
「ま、そういやがらずに。なに、100年もかからないよ。あっちの生活は、迫力満点の精巧なホログラフィーテレビを見るようなもの。番組は無限にあるから、どれでも好きなのを見るといい。番組に飽きたら、いつでもチャンネルを変えなさい。心をそっちに向ければ、一瞬のうちに切り替わるから」
「えっ! いきなりそんなこと言われても」
「番組の主役は、いつでもあなただよ。あっちの世界はこっちにいるよりずっとスリリングで刺激的だと思うよ。じゃ、楽しんでおいで!」
 神さまからウインクされた瞬間、あなたは青い惑星にヒュッと放り落とされる。そして、新しい人生がスタートする。

「選ばれた者」として日々の雑事に追われるうち、やがてあなたは「流れには逆らえない」とか「現実を変えるのは非常に困難だ」などと思い込み始める。で、見たくもない番組を延々と見続けることになる。つまらない番組に縛られる必要などひとつもないにも関わらず。
 そもそも、私たちが見ている番組は流れる雲のようなもので、本人の気分に応じて絶えずふわふわとあらすじを変えている。実体がないのだ。
 実体がないものに必要以上にとらわれると、どんどん萎縮してしまう。ひどくなると、受像機としての自分が壊れてしまうこともある。だから「もうこの番組は見たくない」と思ったら、その場で周波数を変えてチャンネルを切り換えればいいと思う。
 で、チャンネルの変え方。やりかたは簡単。「もっと楽しくておもしろい番組を見よう」と意識するだけ。

 その昔、こういう歌があった。
「喜びも悲しみも みんな夢の中」
 どうせ見るなら、楽しい夢を。

2010.01.31

パワースポット

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 大みそかの午後、とある神社へ行こうと思い立った。1年間無事だったことに対するお礼参りと、広い境内を散歩したかったのだ。
 愛車に乗り込むと道路はガラガラ、駐車場もガラガラ、境内もガラガラ。大みそかはこんなにすいているのに一夜明ければオセロを裏返したように過剰に人が押し寄せる、神社ほど陰陽の逆転しやすい場所もないのではないかと思いながら広大な境内を散策。
 本殿に向かう途中、「パワースポット」とちまたでもてはやされている一角の入り口を発見、興味がないのでそのまま通り過ぎたが、「まてよ」と思い直して引き返した。いつもは長い行列をつくっているけれど今日なら確実にすいている、じゃあせっかくだからどんなものか見てみようと思ったのだ。

 入り口で料金を支払って中に入ると、よく整備された庭園が広がっている。春になれば美しい花が咲き乱れるミニハイキングコースになるのだろうが今は冬のど真ん中、草木が枯れて寂しい風情だ。
 順路の矢印に沿って小道を歩くと、やがて広大な池が出現した。日が射さないせいか、表面に薄く氷が張っている。地獄のように真っ黒い池、この中に落ちたら心臓が一瞬で凍るだろうなとおそるおそるのぞき込むと、水面下に灰色の鯉が何匹もゆらゆら泳いでいる。冬の池はやっぱり陰気くさいなあとその場を後にする。
 園内を歩いているのは若い女性やカップルが多い。しばらく行くと行列の最後尾が見えてきた。湧水の井戸を見るために並んでいるのだ。先頭へ続く道はなだらかな下り坂になっていて、行き着く先に丸い井戸が見えた。
 井戸からあふれた水は小さな川をつくり、そのままあの黒い池に流れ込んでいるようだ。川の中には飛び石がしつらえられえていて、参拝者はその上を渡って井戸を拝む。
 1人あたりの所要時間が長いせいか、自分が来たときは15人ほどの行列だったのに、しばらくして振り返るとどんどん長い列が伸びていた。
 あともう少しで自分の番というとき、小バエの群れがバスケットボールくらいの大きさの球を描いて頭の上を飛んでいるのに気づいた。
 あ、ここやばい。
 しかしせっかくここまで来たのだからと自分に言い聞かせ、がまんしてやり過ごす。
 さあ次はいよいよ自分という段になり、川の手前の階段を下りようと足もとをふと見ると、今度は大ミミズが1匹のたくっていた。
 あ、これはもう完全にまずいと思ったが今さらここで引き返すわけにはいかない、ええいと大ミミズを飛び越え、石を渡って井戸をのぞき込んだ。
 こんこんと湧き出す水は何の曇りもなく清らかに澄んでいる。しかしその周囲に陰の気が幾重にも重なって取り囲み、実に奇妙な空間になっていた。重苦しいのですぐ井戸を後にした。

 パワースポットを出てしばらく歩き、午後の光がさんさんと当たる本殿の前に立った。
 八方位の気を一身に浴びることのできるそこは、いつ行っても心身が洗われるようで気持ちがいい。神木が織りなす森に周囲360度をがっちりガードされた太極の空間だからだろう。
 しばらくすると体内から陰の気が抜けて肩が軽くなったので、境内の地図を取り出してながめてみる。本殿の南西方向にあの井戸があった。なるほど、裏鬼門だったのか。
 鬼門は新しい気が勢いよく噴き上げる活火山のようなものであり、「鬼が出入りする門」と言われるように、よくも悪くも激しい現象が起こりやすい神聖な方位といわれている。あの井戸は、名実ともにまぎれもない「パワースポット」だったのだ。

 活火山から勢いよく噴出するマグマのごとく、純粋なパワーがこんこんと湧き出る井戸に人が集まるのは当然のこと、しかしそこに人間の欲が集まると周辺の気がケガレ、小バエやミミズが湧く。もちろん井戸そのものがケガレているわけではない、それを取り囲む一部の人間の思念がケガレているだけだ。有名になりすぎたパワースポットの悲劇である。
 ではどうすればいいのかというと、 
◆なるべく朝一番で行く 
◆体調の悪いときはなるべく行かない
◆自分の願いごとに必要以上に時間をかけない(後ろの人のイライラした気を受けて損をする)
◆敏感な人はあらかじめ塩やお守りを持参する
◆ブームが去ったときに行く
 などが挙げられる。
 これらを心がければ、少しでも清く正しい状態のパワースポットを拝めるのではないか。
 ・・・・・・しかし神さまの立場からすると、「こうしてほしい」「ああしてほしい」と勝手に願い倒す人間ばかり押し寄せてきたらどう思うだろうか。「ほんにうざいのう」と向こうに寝返り打ってせんべいでもかじりながらテレビ見始めるのではないか。
 たまにチラリと振り向くときがあるとすれば、「いつもありがとうございます、神さまに認めていただけるよう一所懸命がんばります」と手を合わせる清らかな人間が来たときだけではないかと思う。

 2012.01.06

メガの国

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 年明けに人生初のコストコ体験。
 入り口でメンバーズカードをつくり、いくつかの店内ルールを教えられ、倉庫のだだっ広さに圧倒されながら巨大カートを押して店の中へ入る。
 カジュアル服、電化製品、調理器具、洗剤、文房具、日用雑貨、酒、お菓子、薬品、その他もろもろ、ほとんど脈絡なく陳列される商品の群れ。
 高い天井を見上げると、商品の入ったコンテナが山積みになっている。「物流」という言葉が頭の中でぐるぐる回り出す。
 卸売りスーパーであるコストコと他の小売店との最大の違いは、商品ひとつあたりのボリュームだ。さり気なく手に取ったキッチンラップは手首がぐにゃりとしなるほど重いし、トイレットペーパーはワンパック36ロールである。
 すごいのはデリコーナーだ。売り場には巨大サイズのパエリアやピザ、6本ワンパックのチキンレッグ、50貫入りの寿司がずらり。テーブルパンは36個でワンパック、サイズ大きめのベーグルやマフィン、ドーナツは12個でワンパック。ブルーやパープルなど日本では絶対お目にかからないカラフルなクリームが盛られた特大ケーキは3キロを越えている。そういうのが普通に並んでいる。
 日常ではあり得ないメガぶりに興奮し、「うわぁッ」「ひえぇッ」と小さく叫びながらベーグルやインドカレーセット(カレー3種、ナン3枚、タンドリーチキンのセット)を次々にカートに入れていく。
「・・・○○円です」
 どはぁッ。お値段もメガである。単価は割安でも、カートが巨大なのでついつい買い過ぎてしまうのだ。
 精算後、疲れてフードコートでひと休み。甘いものが食べたいと注文したベリーベリーサンデー(ソフトクリームに赤いベリーソースがかかったもの)はゆうに2人分はあるだろう。
 がんばって食べるも、なかなか減らない。完食をあきらめ、しばし放心状態に。

 戦後の日本人が見たら腰をぬかすであろう体験に軽くカルチャーショックを覚えつつ帰宅。
 おそるおそる口にしたデリはまあまあイケる味、これならリピーターもつくだろうと納得。
 翌日、性懲りもなくまたコストコ探検に繰り出した。

 コストコは楽しい。不思議の国に迷い込んで身長が縮んでしまったアリスのような、へんてこな気分になれるからである。

2010.01.05

年末の帰省

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 2009年もあとわずかなので、家中の古いお守りをかき集めて氏神へ納めに行く。
 年の瀬は空気が澄んで、風がひゅうと骨にしみる。小柄な少女が向こうからパタパタと走ってきて、ヒョッと電信柱にしがみつく。目鼻立ちははっきりしているが、浮世離れした雰囲気でどこか普通ではない。よく見ると、ほおに黒い毛が生えている。
 私がわきを通り過ぎると電信柱から離れ、来た道をパタパタと小走りに戻っていった。

 誰もいない神社で参拝していると、真っ黒い髪を伸ばした黒いロングダウンコートの女がうしろで順番を待っている。ついさっきまではいなかった。
 参拝を済ませ、せっかくだから街へ足を伸ばそうと駅へ向かうと、携帯電話を耳に当てている若い男が左隣にいる。目は右斜め上30度をぼんやり見つめ、横断歩道をふらふらと右斜めに横切る。
 五分刈り、左右の眉はつながるほど濃く、まつげが異様に長い。何かに引っ張られるように、体を右側に傾けて歩いている。ぶつからないよう、そっとよけて歩道を渡る。

 不思議なことに、なぜか毎年、年末年始になると人間のようで人間でないもの、つまり「妖怪」が街中にひんぱんに現れる。古い気と新しい気が大きく入れ替わるときのどさくさにまぎれ、ひょっこり遊びに来るのだろうか。
 おしなべて妖怪はおぞましいようなでも憎めないようなアンバランスな雰囲気を漂わせており、かわいらしくそしてどこか哀しい。
 駅前にはカートを引きずる人々の群れ。
 ああそうか、妖怪たちも今、こちらに帰省中なのだなと気づく。

2009.12.29

イメチェン

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 セミロングに飽きたので、美容院でスタイルをチェンジ。
「ベリーショートでシャープな感じにしてください。もみあげの部分は少し長めに残して、後ろは耳にかけたいんです」
 私はそのとき、ジギー・スターダスト(デヴィッド・ボウイの初期のキャラ)の美しい容姿をぼんやりイメージしていた。
「そうですね、お客さまなら似合うと思いますよ。よし、思い切ってイメチェンしちゃいましょう!」
 念入りにカットして、カラーリングもして、2時間後に終了。疲れて最後はほとんど眠っていた。料金を支払い、頭がぼんやりしたまま店を出る。気分はもちろん異星の客・ジギーである。「屈折する星屑の上昇と下降、そして火星から来た蜘蛛の群れ」のジャケ写を思い浮かべながら街を闊歩する。

 帰宅して洗面所に直行、期待満々で鏡をのぞく。
 どうよ私? ジギーっぽくなった?
 ・・・・・疲れた森昌子が立っている。
 うわあなんだこれどうしたんだと驚愕しながらはさみを取り出し、あえて不揃い感を出してみる。
 これでどうよ?
 再び鏡をのぞく。
 森昌子からもんちっちへ華麗なる変身を遂げた人間が立っていた。

2009.12.22

太陽の慈悲

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 太陽は毎朝、東の地平線から顔を出し、南中して西の空に沈む。雨の日も風の日も同様だ。
「今日はしんどいから昇るのやめた」ということは一切なく、それこそ気の遠くなるような長い間、ひたすら同じ営みを繰り返している。考えてみれば、これはすごいことである。
  太陽は高いところから地球を照らす。だから町や国、陸や海を問わずすべての場所に平等に光が当たるし、すべての生きとし生けるものに平等にエネルギーが降り注がれる。その温かいエネルギーを体に浴びるだけで、私たちは生きる力が自然に湧いて前向きな気持ちになれる。 

「すべてに平等」
「無償の愛を惜しみなく与える」
「うそいつわりがない」
「まぶしくて直視できない」
 それって神さまじゃないのか。つまり太陽とは、一日も休むことなく慈悲の光を放つ神さまなのではないか。

2009.12.21

とげ抜きエンジェル

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 巣鴨のとげぬき地蔵通りを散策。懐かしい雰囲気の洋品店やふくろもの屋、漢方薬局などが建ち並ぶ。大福やすあまを売っている和菓子屋の奥をひょいとのぞくと、食堂になっている。ほぼ満席状態だ。迷わず入店。
 店内には20代の親子連れから中年女性のグループ、80代のばあさん、英語でしゃべっている白人のサラリーマンなどいろいろな人が麺をすすったり丼をかきこんだりいなり寿司をつまんだりしている。60代〜70代のベテランのお姉さんが数人、お盆を運んでいる。みな忙しそうだが、決して急がない。忙しいのと急ぐのとは違うのだ。
 70代と思われるふっくら福相のお姉さんが、温かいお茶を銀盆に載せて細長い通路をこちらに向かってゆるゆる歩いてくる。「別にあくせく働かなくたっていいじゃんかー」と言わんばかりのマイペースぶりにいやされる。
「あ、食券買ってないの? 入り口で」
 席に着いてから注文するのかと思っていた。あわてて席を立とうとすると、「いいよいいよ、あたしが買ってきてあげる」。
「じゃあ、タンメンお願いします」とお金を渡すと、入り口のレジまで行って食券を買い、「はいよ」とおつりとともに渡してくれた。
「おまちどうさま」
 目の前にタンメンが置かれる。
「あのう、お冷やもいただけますでしょうか」
 お姉さん頭(がしら)だろうか、骨格のはっきりした威厳のある顔立ちと風格のあるお姉さんに向かい、意を決して私は言った。
「OKよ-、今日はあたしノッてるから、なんでも頼んでちょうだいね-」
 柔和なスマイルでこちらの気分をやんわりほぐし、ユーモアのあるひとことで親愛の情を抱かせ、仕事ぶりはていねいでそつがない。一見の客を瞬時に魅了するのは、さすが年の功である。地蔵通りのお姉さんたちは、まことに高度なスキルを持ったプロ軍団なのである。
 タンメンは薄味で野菜たっぷり、素朴な味がした。 
 機会があったらまた来ようと思いつつ店頭でおみやげの塩大福を買い求め、帰宅後にさっそく試食。
 温かくてやさしい味。店の魂は小さな大福にも宿っていた。

2009.11.02

ふるさと

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 小学校4年から高校2年まで、 私はM市の共同アパートに住んでいた。当時、アパートの前には米軍の駐屯地があり、広大な敷地には住居棟が要塞のように建ち並んでいた。敷地内にはアメリカ人の子どもが遊ぶ芝生の公園や教会やスーパーマーケットもあった。
 駐屯地はそれ自体がひとつの街として機能していたため、中で暮らす住人が歩いて外に出てくることはあまりなかったが、たまに柔道着に黒帯を締めた黒人がゲートから出てきて素足で道をのし歩いたり、黒人男性と白人女性のカップルが体をぴったりくっつけて近隣を散歩したりしていた。
 夕方になると国旗がするすると降ろされてアメリカ国歌が流れ、建国記念日などにはロックやジャズの生演奏が風に乗って聞こえてきた。
 こちらから見ると鉄条網で隔離された異世界だったが、そこは妙に豊かで明るくてさばさばした雰囲気が漂っており、そのころ暗黒の人生を送っていた私は、まるで光を求める蛾のようにいつも窓から巨大な要塞を憧れの目でながめながら暮らしていた。救いようのない窮屈な環境に身を置きながら、「この世に存在する世界はたったひとつではない」と無意識のうちに教わっていたような気がする。

 家の都合で高2のときにそこを離れて南西の丘陵地に移動したが、何年か前、思い立ってM市のそのアパートを訪ねた。すでに廃墟になっていた。
 立ち入り禁止のロープがかかっていなかったので、思い切って自分の住んでいた棟の階段を上ってみた。捨てるに忍びなかったのか、階段の途中に枯れた鉢植えが数個置いてあり、小バエがその回りを飛んでいた。
 3階の305号室のドアノブを回す。
 開かない。
 ドア中央部にしつらえられた新聞受けのフラップを押し開けるが、中は真っ暗で何も見えない。
 仕方なく3階の階段から外をながめると、米軍の敷地内にあった要塞は跡形もなく取り壊され、だだっ広い開放公園になっていた。アメリカ人の姿は消え、かわりに芝生に座ってのんびりくつろぐ日本人がいた。私が慣れ親しんでいた世界は完全に消失していた。 

 あとで幼なじみにアパートのことを聞くと、「あそこはじきに取り壊され、民間の低層マンションが新しく建つのだ」と教えてくれた。
 後日、再びそこを訪れてみると、すでにまったく新しい建物が建ち並んでいた。当時の風景の面影などもうどこにもなかった。どこか別の街に迷い込んだような気がした。
 形あるものはすべて消え失せる。青春時代を過ごした「ふるさと」はもう私の記憶の中にしかない。

2009.10.30