松葉杖

 1年ぶりに会う友人とランチのため家を出て最寄り駅に向かうと、横断歩道の手前で松葉杖をついた人に遭遇。
 横断歩道を渡るとまた松葉杖の人が向こうからやってきた。
 追い越して進むとまたまた松葉杖の人がいる。
 何も考えず電車に乗り、乗り換えのため改札を出るとこれまた松葉杖の人が向こうから歩いてくる。
 今日は松葉杖をよく見るなあと思いつつK駅に到着、少し早く着いたので駅周辺をブラブラしていると目の前に松葉杖の人。
 もしや自分の気づかぬうちにどこかで天変地異や事故でもあったのかと一瞬不安になるが、街はいつもと変わらず明るくにぎやか、どうもそうではないらしい。

 時間通りにやってきた友人は相変わらずきれいでスタイル抜群。この人はいつ見ても美しい、まったく現実感のないところもすばらしいと頭の中でほめたたえながらイタリアンの店に入る。チキンのバルサミコ酢ソテーと前菜、パスタ、サラダの盛り合わせプレートに赤ワインとパンとデザートがついて1000円はお値打ちだ。
 ワイングラスを持ち上げた瞬間「ほどほどにな」と右肩上からささやき声、いいじゃんたまにはと無視してひとくち飲むと、これがうまい。加速がつかないよう注意しながら、ワイン1杯と料理を約3時間かけてちびちび味わう。
 ものすごくおもしろい友人の話に笑い転げていると、「お昼の部はもう終わりです」と店の人が勘定書を持ってきた。仕方ないので店を出て、K駅周辺をそぞろ歩く。

 公園やデパートや商店街や路地や神社仏閣がギュッと詰まったこの街は、平日・週末に関係なく1年じゅう大勢の老若男女でにぎわっている。おおらかで豊かな雰囲気からして、街を守護しているのは弁天さまではなかろうか。
 友人と商店街をそぞろ歩いていると、松葉杖の人がふっと目の前を通り過ぎる。
 これは絶対何かある、松葉杖が意味するものは何だろう?
 不自由? 足かせ? 依存? 故障? 
 いろいろ考えるが、思い当たらない。

 友人と別れ、足もとに気をつけながら電車に乗った。電車はガラガラ、広いシートに余裕で座ってぼんやり窓の景色をながめていると、松葉杖をついた女の子が突然やってきて目の前にどさっと座る。体のわきに2本の松葉杖を置き、無心に携帯を操作している。左の足首から甲にかけて包帯ぐるぐる巻き。
 うわあもう勘弁して、これ何の警告なの。
 2つめの駅でドアが閉まる寸前、女の子は思いついたように立ち上がってするりと降りた。あ、松葉杖の力を借りなくてもほぼ歩けるんだ、見た目ほど重症じゃないじゃん。
 何事もなく帰宅し、風呂に入って懸命に松葉杖の意味を考えるがやっぱりわからない。ま、いいやとぐっすり就寝。
 で、翌朝やっと気がついた。
「今は思うようにならないかも知れないが、何とかがんばって歩きなさい」
 たぶんこれだ。思い当たる節がある。
「こいつはボーッとしててたぶん1回じゃわからんから、ダメ押しでしつこく啓示してやろう」と神さまは思ったのであろう。粋なはからい、どうもありがとう。

2010.10.23

雄島

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 数年前、仙台の松島にハマッたことがある。自宅から吉方位であったこと、気に入ったホテルがあったこと、食べものがおいしかったことなど理由はいろいろだが、何より好みの観光名所が集中していたのである。
 雄大な杉並木を通り抜けて行く瑞巌寺、渡り橋の底の透かしから海が見えるスリル満点な五大堂、朱塗りの長い橋を渡って行くアドベンチャーな福浦島、かわいいイルカやアザラシに会えるマリンピア、名菓「萩の月」「萩の調(しらべ)」で知られる菓匠三全(イートインあり)。
「バラ寺」「苔寺」と呼ばれる円通院もすばらしい。植物が膝の高さまでうっそうと生い茂る墓所は、1人でぼんやりするには最高の場所だ。
 しかしなんと言っても特筆すべきは雄島(おしま)であろう。神秘的な切通しを抜けた先には、真っ赤な渡月橋。その橋を渡った向こうは静けさと神秘に満ちた異界である。
 小さな島内には石塔や仏像が建ち並び、島の岩肌のあちこちに四角い岩窟が彫られている。岩窟は、ちょうど人が1人座れるくらいの大きさだ。
 雄島はその昔、見仏上人という高僧がこもって修行をした島であり、僧や俗世を捨てた者たちがここに集まり、岩窟に座って修行したという。 

 夏が近いある晴れた日、私はこの島を訪れ、小高い丘に座って松島の海を1人でぼんやりながめていた。周囲には誰もいない。
 海に浮かぶ島々を縫うように、白い遊覧船がゆっくり進んで行く。のどかな風景だ。
 おだやかな日差しがぽかぽかと温かく気持ちがいいので、靴を脱いで素足になった。土が温かい。白い足の甲を1匹の蟻が渡ってゆく。それをじっと見つめるうち、「この島で暮したらどうなるだろう」と思い、しばし夢想にふけった。
 1、2時間くらいそうしていただろうか。背中の向こうが何となく頼りなくなり、立ち上がって歩き出した。
 薄暗い木々のふもとで座禅を組む、巨大な仏像が眼前にあらわれた。何だかその仏像が生きているような気がして不安になり、出口に向かった。

 岩壁にぐるりと取り囲まれた薄暗い広場に出た。空気がしんと冷えている。
 岩壁は1カ所トンネル状にぶち抜かれており、光の射す明るいあちら側に通じている。そこを通って島内から出る構造だ。
 岩壁にはさまざまな形の岩窟がうがたれていた。仏像や卒塔婆が収められている岩窟もあった。
 じっと見ているうち、岩窟の中で座禅を組んだまま静かに事切れた僧の姿がふと目に浮かんだ。
 あ、まずい。
 広場の草むらに、たくさんの死体が転がっている映像が脳裏をよぎる。
 そうか、ここ、死体置き場だったんだ。
 そう気づいて鳥肌が立った。
 早くここを立ち去らねば。しかし外に出るには、この薄暗いトンネルを通り抜けなければならない。トンネルはけっこう奥行きがある、何秒間歩けばいいのか。もし、途中で何かに捕まって身動きができなくなったら?
 私はこわごわトンネルに足を踏み入れた。
 ひんやり冷たい空気が全身にまとわりついた。
 できるだけ五感を閉じて歩いた。
 雄島はその昔、御島とも書かれた。オシマ、オンシマ、・・・・・・、怨島?
 自分を取り巻く空気が冷気を増した。明るい世界の向こうへ走った。 

 雄島が「あの世とこの世の境目」であり、「死者の骨や遺髪を葬り、浄土往生を願う日本有数の霊場」と知ったのは自宅に戻ってからのことだ。
 その島を一歩も出ず、12年間にわたって修行した見仏上人はやがて法力を身につけ、鬼神を操ったり、瞬間移動を行うようになったと言われる。
 いつ行っても、あの島にほとんど人がいない理由がこれでわかった。雄島は死者の島なのだ。
 それでも、無性に惹かれるのはなぜだろう?
「岩窟の中に座ったらどんな気持ちになるだろう」とつい想像してうっとりしてしまうのは、私という人間の性(さが)なのだろうか。

2010.10.13

ギリヤーク尼ヶ崎

 雲ひとつない秋晴れの体育の日、新宿西口高層ビル街へギリヤーク尼ヶ崎を見に行った。過去にいろいろな舞踏をスタジオや舞台で見たが、街頭で見るのは初めてだ。
 広場には20代の若者から70代の年輩者まで、すでにたくさんの観客が集まっている。平均的な年齢層は高く、女性より男性のほうが多い。そのせいか、落ち着いた雰囲気。
 80歳の「生ける伝説」はいったいどんな踊りを見せてくれるのだろう?
 ワクワクしながら登場を待っていると、本人が風のようにするりと登場。長髪の、「おじいさん」というよりは「おじさん」が普通にカートを引いている。「のっぽさんに似ている」と思う。
 散らばっている観客が一斉に前に集まり、人垣ができる。背伸びしてものっぽさん、いやギリヤークさんが見えないので舞台のわきへ移動。そうか、座って化粧をしているから見えなかったのかと気づく。
 化粧が済むと、立ち上がって演目札を掲げ、口上。演目札は年季が入ってもうボロボロ。姿勢を正し、スピーカーから流れる津軽三味線に合わせておもむろに踊り出した。
「80歳」「ペースメーカー入り」と聞いて「ほとんど動かずに踊るのではないか」と予想していたが、あにはからんや、大数珠はブンブン振り回すわ、大股を広げてゴロゴロ転がり回るわ、高い階段を駆け上って周辺をひとっ走りして階段を駆け下りて舞台に戻って頭からバケツの水をざぶんとかぶって再び踊り狂うわ、かなりダイナミックである。
 あちこちから「ギリヤーク!」「尼ヶ崎!」の野太いかけ声がかかり、白いおひねりが宙を飛び交う。
 日陰だった広場に、ゆっくり陽が射してきた。念仏を唱えながらそろそろと歩くギリヤークを黄金色の光が包み込む。「南無阿弥陀仏」の流れる中、「おかーさーん」と叫んで仰向けに昇天。大拍手が鳴り響く。

 演目がひととおり終わり、そのままトークに移った。
「踊りには到達点がない。いまだにあがるし、調子が悪いときもある。まだまだ修行です」
「ペースメーカーが入っているし、膝も腰も悪いけれど、88歳の50周年まで何とかがんばります」
 ざんばら髪の老人は地べたにぺたんと正座し、淡々と話し続ける。観客がそれを温かく見守る。
 ふと横を見ると、ポストカードがテーブルに並んでいた。1枚200円也。美しい肉体を誇示するように、手を広げてスッと立っている若かりしころのギリヤークが写っている。この人ハンサムだったのだなあと驚いて目の前の老人と見比べる。
 老いるということは体が小さくなって皮膚が乾いて動きがゆっくりになることだ、だが肉体は縮んでも魂は変わらない。どんどんひからびる肉体をそれでも懸命に駆使して魂を表現するこの人は本当にすごいと感心しつつ、小腹が空いたのでその場を後にしてすぐ近くの釜揚げうどんの店に入った。プエルトリコの兄ちゃんが「お熱いのでお気をつけください」とそっと丼をサーブしてくれる。
 いも天を乗せたかけうどんをすすっていると、「ギリヤークさんも相変わらずお元気やなあ、俺たちもがんばらんといかん」と芸人らしき男女の会話が耳に入ってきた。目の前には10代の赤毛の白人3兄弟(兄ちゃん、姉ちゃん、弟)が座って仲良くうどんをすすっている。
 観光白人、君たちは賢い、ものすごく物価の高い東京において、うどんはうまい・早い・安いの三拍子がそろった素晴らしい食べ物であることをよくご存じだなと心の中でほめ、世の中には実にさまざまな人生が同時進行しているものだと感心し、すり下ろし生姜のきいた汁を一気に飲み干した。

2010.10.12