くるくる頭

ほ
 生まれつきの天パーで放置するとゴーゴンのように髪がうねってくるため、ここ数年、縮毛矯正(髪を強制的にまっすぐにするパーマ)をかけていた。
 これをすると、あこがれのサラサラ直毛が手に入る。入るけれども施術にけっこうな時間と費用がかかるうえ、1カ月もたたないうちに根もとの毛がうねうね伸びてくるので、わりとすぐに髪全体のまとまりが悪くなるのが難点である。
 で、耐えられなくなって3カ月後にまたかけ直す。
 ・・・・・・この繰り返しで私の髪はどんどん傷み、枝毛や切れ毛が増え、キューティクルが失われてツヤがなくなった。

 夢のサラサラ直毛は確かに捨てがたい、しかしこのままでは費用もバカにならないし髪も枯れていくしとジレンマに悩みながら、ある日「さてどうする? またかけ直すのか?」と自問自答して「もうやめよう」と結論を出した。
 金と時間と髪の健康が損なわれる懸念もあったが、実は最大の理由は「常に違和感がつきまとっていたから」である。痛いとかかゆいとかではない。
 意識の奥底で強制的に自分をねじ曲げている感じ。
 どこかから抑えつけられて、自分が自分でない感じ。
 私はたしかに私だけれども、この私は本当の私ではないという意識が絶えずつきまとい、まるで自我が薄いフィルムでラミネートパックされているような気分だったのである。 
 それで、矯正のかかっていた部分を思い切りバッサリ切った。傷んだ髪をリセットしたかったのと、自分の頭は放っておくといったいどんな形状になるのか再確認してみたかったのだ。
 耳が出るほどのツンツンのベリーショートからモンチッチへと少しずつ伸ばし、現在はやっと耳の下までのボブになったが、いやあ巻く巻く。鳴門(なると)のうずしおにも負けないほどくるくるうずを巻いて目が回りそうだ。
 だが面倒なブロウもカーラーもコテも一切無用、洗いっぱの髪に適当に手ぐしを入れるだけでボサボサではあっても何となくそれなりにまとまってくれるので便利である。
 湿気の多い日にはビッグバン現象が起きるが、それはそれでいい。かまわない。強制的に髪質を変えていたときより、はるかに自由で開放的な気分でいられるからだ。色々な意味で楽ちんだから、もうずっとこれでいくつもりだ。
 
 思うに、髪とは体内に湧き出る自我が物体化し、身体のてっぺんに噴出したものではないか。まっすぐな髪質の人は性格もまっすぐストレートであり、クセ毛の人は性格にもどこかクセがあり、我も強い。硬い髪の持ち主はどんなときも自分の考えをきちっと貫き、柔らかい髪の持ち主は周囲の情況を見ながら柔軟に立ちふるまう。
 髪を長く伸ばし続ける人は「自分を守りたい」「現状を維持したい」「積み重ねてきたものを壊したくない」、思い切って短く切る人は「脱皮したい」「チャレンジしたい」「目の前のことに集中したい」などの願望があるのではないか。
 パーマをかけたり、黒髪を染めるのは「違う自分になりたい」という変身願望であり、失恋した女性が髪をばっさり切るのは過去をスパッと切り離そうとする決意のあらわれだ。前髪で額を隠すのは自分をあからさまに出したくないからで、出すのは自分に自信があるから。
 かつらやウィッグではげを隠すのは人に弱みを見せたくないから、堂々とさらすのは「この自分でよし!」と自分を認めているから。
 ・・・・・・などなど、髪の毛ひとつとってもいろいろ分析できる。
   
 パーマに限らず最近ではジェルネイルなどのつけ爪やカラーコンタクト、まつげパーマ、アートメイク、プチ整形、ダイエットなどによって外見を変化させる人が少なくない。
 おしゃれにチャレンジするのはもちろんいいことだが、過剰な変身願望は危険である。それは時に自我を圧迫したり、場合によっては封印しようとする行為になりやすいからだ。自我は決して死なないから、不毛な闘いとなる。
 もしかするとマイケル・ジャクソンは表層の自分と深奥の自分が24時間闘い続け、片時も心の安まる暇がなかったのではないか。
 気の毒だが、スターの宿命か。
 スターでない人は、「自然でいること」が最もロスのない生き方ではないかと思う。

2011.05.12

がんばりすぎの悲劇

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 ナタリー・ポートマン主演の「ブラック・スワン」は見ごたえのあるホラー映画である。
 ダーレン・アロノフスキー監督はこの作品の前にミッキー・ローク主演の「レスラー」でとことん自分の肉体を痛めつけるレスラーの映画を撮ったが、今回はとことん自分を追い詰めるバレリーナの話。監督自身が「この2作品は姉妹」と語っているように、いずれもベースは人間の極限状態の描写である。
「レスラー」も「ブラック・スワン」も傷を持つ心にフォーカスした味わい深い作品だが、特に後者は人間なら誰しもが持つ二面性をアーティスティックに表現した秀作だ。

 この映画はのっけから密度の濃いシークエンスがバンバンバンとテンポよく積み重ねられていくが、後半からさらに激しく狂気を帯びてくる。
 主役に抜擢されたがゆえに自分を追い詰めていく主人公のバレリーナ、ニナは、現実と妄想の狭間をさまよい歩く。限界ぎりぎりの彼女の目に映るのはまわりの嘲笑と執拗にからんでくるライバルの悪意、そして鬼のように追いかけてくる母親の執念だ。
 悪夢のような映像が、ニナの荒い呼吸音に伴って幾重にもフラッシュバックする。そういえば「2001年宇宙の旅」で船長のデビッド・ボーマンが狂った人工知能・ハルの息の根を止めるときも、聞こえてくるのは彼自身の呼吸音だけだった。緊張して意識が内側に向かうと、人間は自身の発する鼓動と呼吸音しか耳に入らなくなるのだ。
 パニック症の患者が発作を起こすときも、自身の鼓動や呼吸音を意識することが多い。これは気持ちが内向している証拠であり、そのまま耳を澄ませていると発作が起きやすい。
 余談になるが、不安の予兆を感じたら無理して呼吸を整えようとか深呼吸して平常心を保とうなどと思わずに、好きな音楽を聴いたり軽く体操したり水を飲むなどして意識のスイッチを外側に切り換えると、その場をしのぐことができる。それでも治まらない場合は医師から軽い精神安定剤を処方してもらって常備し、頓服すれば楽になる。
 パニック症はまじめで一途な努力家がなりやすい。治療法は簡単、がんばるのをやめればいいだけだ。
   
 話を戻そう。
 最終的にニナは「敵」に取り囲まれる。まわりにいるすべての人間が自分をあざ笑い、陥れ、傷つけるように見えたり、壁一面にびっしり飾られた母親の自画像が一斉に泣いたり怒ったりして自分を威嚇するように錯覚するシーンは、統合失調症患者が体験する世界に非常によく似ているのではないかと思う。
 統合失調症とは誤作動した脳が生み出す妄想や幻覚・幻聴にとらわれて心のバランスを崩していく病気である。適切な処置や治療を施さずに放っておくと、患者の心はやがて逃げ場のない恐怖にとらわれてしまう。

 今の時代は、心に過度なストレスが溜まる機会がとても多い。それらのストレスが自分の中に眠る神経症や精神病を目覚めさせる可能性が「絶対にない」とは誰にも言い切れない。みな、危ういところで何とか折り合いをつけながら生きているのだ。

 ニナはパーフェクトな踊りを究めようと自分を厳しく追求するあまり、表と裏の人格が統合できなくなってしまった。
 人一倍ナイーブできまじめな努力家が、ストレスを押し殺してがんばりすぎるのは危険である。どこかで気を抜かないと、意識がどんどん内側に向かってしまうからだ。それはたとえて言うなら心の洞窟の奥深くに分け入るようなもので、下手をすると迷って出口を見失ってしまう。
 迷路の中は不安と恐怖に満ちた闇であり、自分の呼吸音しか聞こえない孤独な世界だ。

2011.05.06