まさかの夏風邪

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 病気でも何でもなく雑用で病院へ行った。
 老人が待合室にわんさか座っている。
 何なんだこの混雑は、この夏は街で老人の姿を見かけなくなったと思ったらこんなところに集っていたのか。
 ポカリのペットを持ったお兄ちゃんがフラフラ入ってきて看護婦から体温計を渡されそれを脇の下に当ててさっきからじっと私の隣に座っている。
 このお兄ちゃんかわいそうに、おなかこわして発熱してるのかな、今年は暑いから食べものにでもあたったかと待合室のテレビを見ながらのんびり思う。
 お兄ちゃんは名前を呼ばれてボウフラのように頼りない足取りで診察室へ入っていった。何度あったのかなあ熱、とのんきに思う。

 翌日、くしゃみ3連発。
 翌々日、くしゃみ5連発&ツーッと鼻水。
 あれ花粉症の季節にはまだ早いんじゃないのかななんて脳天気に考えていたら発熱。しかも37度弱の微熱。
 このくらいの微妙な体温が一番やっかいだ、妙に熱っぽくてだるいが横になるほどではない。
 翌朝起きると鼻が完全に詰まっており、あっあのお兄ちゃんにうつされた、こりゃあ完全に夏風邪じゃないのと気づいたときには鼻がまったくきかず咳も出て呼吸が少し苦しくなっていた。
 胸にサロンパスを張り、ショウガ紅茶を飲み、市販の風邪薬を1日に3回飲んで1週間経過してもちっとも治らない。台風が近づくにつれて不安がつのってきたので近所の町医者へ行った。
 待合室で脇の下に体温計を当てて熱を測っている間、壁に貼られたポスターを夢うつつにながめる。
「シミ取りクリーム!」
「アンチエイジングサプリメント!」
 ピピピピピ、36度8分ですか、もっとあると思ったのになあ。
 1人しかいないのですぐに呼ばれる。
「あっ風邪風邪、風邪ですね」
 せっかく病院に来たのに風邪薬だけもらって帰るんじゃおもしろくないなあとさっき見たポスターの商品についていろいろたずねると懇切丁寧に教えてくれる。
「じゃあこれも、それからそれもついでにもらっていこうかなあ」と枯れてドスのきいた声でつぶやくように医者に告げ、大量の薬の束を抱えて家に戻った。
 
 風呂に入ってからおじやを食べ、食後にさあ薬飲むぞ! と戦闘態勢でアンチエイジングのサプリや美白関係の内服薬を数粒一気に飲み干す。風邪薬の袋はテーブルの片隅に追いやられており、1錠も手をつけていない。
 お前バカじゃないの、風邪薬どうして飲まないの、さっき何のために病院へ行ったの、今のその苦しい鼻づまりや微熱で頭がぼんやりしている状態においてお前は風邪治療よりも美白を選ぶのかと自問自答するがどうしても風邪薬を飲む気になれない。
 だってクスリを逆さまから読むとリスクじゃん、そんなもの飲むより自分の免疫力を信じてきちんと発熱して白血球部隊を増やしてウイルスと真っ向から勝負するほうがいさぎよいし体にいいに決まってるもん、それにいきなり見ず知らずの薬をたくさん飲んで気持ち悪くなったらイヤだもん。
 つまるところ、自分は風邪を治すより色白になりたいのであった。バカじゃないのか。

2011.08.22

暗剣殺に愛されて

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 仕事で出張。事前に地図で方位を確認する。
 あれ? 南の移動だと思ったけどわずかな差で南西じゃん、しかも方位の境界線のすぐ近くだ。やばい8月の南西は暗剣殺だ、だけど「南」と見立てて全意識を南へ面舵いっぱい向ければいいだろう、そんな甘い考えで家を朝7時に出たのだった。
 お盆の週なのに電車は予想以上に大混雑、みんな朝からよく働くなあ車内殺気立ってるじゃん、ああ荷物がかさばって肩に食い込む、この年になると真夏の仕事は命がけだぜと電車のリズムに合わせてゆらゆら揺れていると突然腰にものすごい衝撃。
 ん? 誰かの荷物が当たった?
 そしてものすごい圧力。
 んっ? 超満員でもないのになぜそんなに押す?
 見るとメガネをかけた女子小学生。肩からぶら下げたバカでかいショルダーをこちらにぶつけて方向転換、そして力任せにぐいぐい押してくる。
 あ、次で降りるのね。でもそんなに押さなくてもいいじゃないのさ。
 小学生とは思えない馬鹿力、はずみでこちらの体が大きくふらつく。だんだんムカムカしてきてそいつが降りたあともはらわたの煮えくりかえりは収まらず、浦見魔太郎か黒井ミサか喪黒福造か妖怪人間ベム・ベラ・ベロに「復讐お願いいたします」の書状を送ってやろうかあええコルァと 脳内でエンドレスにののしるがもちろんまったく無意味なことである。 

 仕事そのものは順調に進んだが最後に奥さんが出してくれたアップルティーをはずみでうっかりカップごとカバンの中に落としてしまう。
「これすごくおいしいですね、あっ」
 ローマは1日にしてならずだが悲劇は一瞬にして起こる。その日に限ってなぜか持参したものすごく高価な黒皮の名刺入れ、財布、新品のノートとボールペン、その他もろもろがすべてアップルティーの甘い洗礼を受けた。
 ものを取り出したあとのカバンを流しに持って行って逆さまにすると、まるで滝のようにアップルティーが流れ落ちた。
「カバン、お前はのどが渇いていたのか」と問いかけるが答えはない。
 ふと窓ガラスの外を見ると天に真っ黒い雲が立ち込め、雷が鳴っている。
 パラパラ降っていた雨がざあっと勢いよく降り出した。
「あっ雨ですね、ではこれで失礼いたします」と外に出て突風&豪雨の中を小さくてきゃしゃな折りたたみ傘をさしながら歩いていると、携帯から地震警報のチャイムがけたたましく流れ出した。
「注意! あんたは30秒以内に震度4以上に襲われる可能性あるよ」
 何度も何度もしつこく鳴る。
 おいおいちょっと待ちなさいよすぐそこ海じゃん太平洋じゃん、今大地震来たら確実に津波に飲まれるじゃん。
 あせって高台の駅へ歩こうとするが向かい風&向かい雨でなかなか進まない。あっそういえばここって正確に言うとうちから暗剣殺、後ろからいきなり闇討ちされる大凶の方位だったよなあと今さらながら気づく。
 南方位だぞと自分に無理やり言い聞かせて来たけどやっぱりダメじゃん、方位の境界線でも暗剣殺は暗剣殺、しかも裏鬼門の上に表鬼門が乗っている最悪の暗剣殺、自分勝手な「見立て」なんかクソの役にも立たないなあと痛感しながら遠い道のりを雨風に逆らってとぼとぼ歩く。
 あれっ、駅ってどこ? どこだっけ?
 頭の中でさっきからずっと研ナオコが「あきらめの夏」を唄っている。

2011.08.14

婆さん姉妹とマリアさま

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 あれっ1日が2時間くらいしかないじゃんどうしてこんなに早く過ぎていくの、ああそうか今忙しいんだな、それはそうと腹がすごく減ったので戦(いくさ)なんか全然できない、というわけで気分転換を兼ねてデパ地下へ夕飯を買いに出かけた。

 デパートに着いて時計を見ると午後8時10分前。
 やべえデパートがもうすぐ閉まっちまう迷っているヒマはねえ、そうだ中華だ中華にすべえ、閉店間際だからタイムセールやってるはずだ
中華総菜屋まで忍者走りで行くと自分と同じこと考えている客がすでにショウケースの前にわんさかたかっている。
「困っているときの中華頼み」と古来ささやかれるように、人は切羽詰まったときには中華を選択するものだ(注:筆者の勝手な決めつけ)。ボリュームあるし野菜と肉のバランスがいいしバカ高くないしそこそこハズレがないからである。
「200gが3パックで1000円! どれでもお好きなの3パックで1000円!」
 もはや投げ売りである。下手に残しても仕方ないからである。
 時計を見る。閉店まであと5分。
 ショウケース前の客の間に緊張感が走る。
 誰もお行儀よく並びやしない、ショウケースの前でブーイング寸前の神経戦を伴う陣取り合戦だ。
 婆さんが2人、強引に店員をつかまえた。どうやら姉妹のようである。
 50数年前はきっとお嬢さん姉妹でありそれからずっとかたくなに自称お嬢さん姉妹を通してきたと思われる、世間離れした世間知らずの雰囲気。
「ええっと・・・・・・あたしは青椒牛肉絲(チンジャオロースー)とね・・・・・・」
 婆さん姉妹の姉と思われるほうは声がやたらにデカい。
「あたしは・・・・・・」
 もう1人はおとなしい。妹だろう。
「○○ちゃんボケッとしてんじゃないわよ、あそこにあんたの好きな麻婆豆腐があるじゃないのよ」
「麻婆豆腐なら家にあるわよ」
「あらそう、じゃあ他のにしなさいよ。あたしあと2つ何にしようかしら・・・・・・」
 イライラしているのは店員だけではない。ショウケースの前は山のような人だかりである。「早くしなさいよ」「迷ってられると迷惑なのよ」「いい加減にしてよ」と声なき怒声が飛び交う。「閉店間際のタイムサービスで迷いは御法度」がデパ地下の暗黙の掟なのである。
 そんな中、タイミングよく自分の番が来たので鶏肉のカシューナッツ炒めと麻婆豆腐と酢豚を注文する。店員がすばやくショウケースから取り出してカウンターに積み上げる。
「あら、酢豚もおいしそうじゃない」
 向こうにいたはずの婆さん姉妹がいつの間にか自分の背後に忍び寄り、蜘蛛のように曲がった長い指でカウンター上の酢豚のパックをむんずとつかみ取る。
 私は怒った犬のようにうなり、奪い返してカウンターに置く。
「あら、あなたのだったの? ごめんなさーい」
 こいつらちょっと変だぞ、一般的な老人は人が買ったものに手を出さない。
 心の中で空襲警報が鳴った。
 婆さん姉妹はその後も店員を待たせてキャンキャン嬌声を上げながら白い顔であちこち移動して総菜を選んでいる。
 いったいどこから来たんだこの姉妹、お盆まで待てなくて出てきたのか。
 店員が気を効かせて別の酢豚のパックと取り替えて包んでくれた。
 やれやれ、どうにか夕飯をゲットできたわいと哀愁を帯びた蛍の光が流れ始めるなか、出口へ向かった。婆さん姉妹はふらふらショウケースのまわりを歩き回っている。まだ迷っているのだ。もしかすると一生迷い続けるのか。
 店員はとっくに彼女たちを放っといて他の客の相手をしている。
  
 家に帰るためバスに乗る。けっこう込んでいるが2人掛けの窓際に座れた。
 至近距離に立っているおっさんがさっきから何だか落ち着かない。
 変な人だなあ何でチラチラこっち見るのかな、やめてくれないかなあ疲れるから。
 声を出さずに抗議するが聞こえるわけがないので無視して仕方なく携帯をいじる。
 やがておっさんを含む乗客が真っ暗な停留所でバラバラ降り、今度は妊婦が私の隣に座った。手に持ったブランド服の大きな紙袋がぼかんと私の膝に当たる。
 妊婦はずっと携帯をいじっている。
 あーあ今日はこんなのばっかり勘弁してほしいなあ、やっぱりこれ全部自分の心が引き寄せてるのかね。
 少しうんざりしていると次は自分の降りる停留所。
 妊婦さん立たせるの悪いなあ、でも立ってくれないと自分が降りられないからなあと仕方なく「すみません」と会釈すると、ニコッと微笑んで「降りますのね」と大きなおなかを持ち上げて立ち上がった。
 あっすごい美人。
 すがすがしく清楚で品のある顔立ち、透明に光り輝くクリスタル色のオーラが全身を取り巻いている。
 うわああなたさまは確実に徳の高いお方、知性と理性とやさしさが三位一体となって周囲の人々の心を根底から癒やしてくださる本物の貴婦人。そのおなかに宿られた幸運な御子は男の子ですわ、将来はきっとあなたさまの自慢の息子に成長することでしょう。
 バスを降り、家に帰って酢豚と鶏のカシューナッツ炒めと麻婆豆腐を食べた後もしばらく陶酔が続いた。
 自分を取り巻く世界には婆さん姉妹もいるがマリアさまもいる、ま、それほど捨てたもんでもないかなあと満足し、その晩はぐっすり眠った。

2011.08.06

真夏の憂鬱

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 ものすごく日差しが強かったので、太陽が西の空に移動するのを待って散歩。
 夏真っ盛りだが吹く風にどことなく哀愁がある、気の早い秋がすでに吹いてきているのだなあと眠い目をこすりながら駅ビルに入ると、小学生くらいの女の子が「夕飯食べたくない! 絶対に食べたくない!」と母親に大声で怒鳴っている。
 暑いからね、その気持ちわかるわかる、実は私も食欲があまりないんだよお嬢ちゃんと心の中でテレパシーを送りつつ総菜売り場でおかずを買い、ついでに大好物のシュークリームとチョコレートも買って店を出る。本当に食欲ないのか。

 しおしおのパーになりかけながらとぼとぼ歩いていると、道ばたにキジトラのネコが寝そべってじっとこちらを見ている。若い、たぶん1歳未満だ。お前、遊んでほしいんだねネコだいすきーフリスキー♪と歌いながら手を出して小一時間ほど草むらでたわむれる。
 やがてネコはこちらをナメはじめ、手首に噛みついたり後ろ脚で腕を蹴ったりあげくの果ては狂気に満ちた目つきになり鋭い爪を立てて乱暴狼藉の数々で手をいたぶりまくる。案の定、皮膚が裂けて流血。今日はもうおしまいだよ子ネコちゃんと平静を保ちつつその場を離れ、帰宅。
 家に着いてから猛烈に腕や脚がかゆくなり、見るとぷっくり赤く腫れている。草むらにしゃがんでいるとき、蚊に刺されたのである。
 かゆい、かゆすぎると手足数カ所にかゆみ止めを塗るがいっこうに治まらない。
 いいもん、生クリームがうずまき状にこんもり盛り上がったシュークリームがあるもん、ふわっと盛り上がったシューの中に注入された黄色いカスタードクリームと白い生クリームをスプーンで微妙に調合してハーモニーを楽しむんだもんねと箱を開けると逆さにひっくり返って中のクリームが紙箱の内側に飛び散っていた。
 ええい土用だから仕方ない、自然界の気のバランスが乱れている時期だから何があってもおかしくないのだなどとわかったようなわからないような言いわけをむりやり自分にして、清水の舞台から飛び降りて購入した高価なひんやりマットにごろんと横たわって行き場のない怒りとかゆみを鎮めようと試みた。
 しかし何分たっても体はいっこうにひんやりせず、それどころか蓄熱してどんどんぬるくなってきた。なぜなのか。夏土用だからなのか。

2010.08.02

黄金虫

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 銀行に行った帰り道、アスファルトの地面を黄金虫がもそもそ歩いていたので拾って帰る。本来、虫は苦手なのだが、黄金色に光り輝く甲羅についつい魅せられ、人差し指に乗せて持ち帰ったのである。コガちゃんと名づける。
 蓋付きの小箱にきりで穴をぶすぶす開け、新聞紙を細かくちぎって敷き、小皿の上に輪切りのなすを乗せてやる。食べない。固いのか。じゃスイカの切れ端。パッと吸い付いた。
 スイカによじ登っている姿をよく見ると、黒い6本の脚それぞれにトゲトゲが生えている。これ、どこかで見たことあるなと不吉な気分になる。
 あ、ゴキブリじゃんと気づいてゾッとするが、「いいえこれはスカラベ、古代エジプトでは太陽神の化身とあがめられた聖なる虫」とどこかでエコーのかかった声が聞こえて気を取り直す。 

「暑いなあ、早く夏が終わらないかなあ」と思いながら本を読んでいると、頭上でバタバタバタバタといやあな音がする。ハッと見上げると大きな黒い物が天井をぶうううんとうなりながら飛び回っている。
 いやああああっ! 
 楳図かずおのマンガに出てくる女の子のような顔をして部屋を飛び出す。大きな黒いそれは窓ガラスにバン! と大きな音を立ててぶつかった。
 あああやっぱり虫はいや、大きらい、飛んでる姿なんかまんまゴキブリじゃんとうんざりしながらコガちゃん、どこいったのコガちゃんと呼ぶが返事なんかするわけがない。もしやと思って窓ガラスの下のさんを見ると細いすきまにはまってじっとしている。バカなやつ。指先で拾い上げてスイカに貼りつけてやる。

 翌日、友人宅で打ち上げ花火を鑑賞。ラスト5分は天空に大輪のラメの花が「どうでえこれでもかっ、ええいこれでもかあっ」と咲き乱れた。日本人の美意識と花火師の心意気を感じる。圧巻。
 友人が用意してくれたグリーンタイカレーやポテトサラダや生ハムメロンも圧巻。
 満員電車に揺られ少々ぐったりして帰宅、すぐにコガちゃん箱のふたを開けて中をのぞく。金色のコガちゃんは1人スイカ山に登ってじっとしている。どうすんのこれ、気持ち悪いけどかわいいけど気持ち悪いけどかわいいけどが頭の中で花火のようにバンバン打ち上がる。|

2010.08.01

カピバラ

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 車を走らせて郊外の動物園へ。そこは比較的自由度の高い動物園で、カピバラが放牧されているので気に入っている。やはり敷地が広いと園の器も広くなるのか。
 晴れたり曇ったり忙しい空の下、車は快調に目的地へひた走る。途中で真っ黒い雲が出てきて降るかなと懸念するが杞憂に終わる。

 到着してすぐ空腹に気づき、まっすぐ食堂に向かって焼きそばとウーロン茶を注文する。
 親子連れ、老人連れ、恋人連れが多い。いつもの習性で焼きそばのにおいをクンクン嗅いでからひとくち食べる。前世は犬だったかもしれない。まったく期待してなかったのに意外とうまい、でも量が少ないからけっこう物足りないぞとソフトクリームも買う。あっという間に食べ尽くす。
 コーヒーも飲みたいな、でも腹がパンパンになると園内の山歩きがきついかなとあきらめ、ひと息ついてから金網に囲われた犬舎へ駆け寄った。そこで生息するイヌたちに笑顔でモーションをかけるが、あっけなく無視される。
 1匹だけ、丸まって寝ていたところをモソモソ起き上がってこちらに来ようとする秋田犬がいた。けなげな姿にとグッと来る。だがそいつはあまりにも年を取りすぎて、足が思うように動かない。金網の向こうに立っている私のそばに来るには、地面から一段高くなったフロアにジャンプしなければならない。しかしそのジャンプがどうしてもできない。飛び上がろうとすると、足が震えるのだ。
 連日の猛暑でかなり弱っているのか、目やにがすごい。目やにの奥で人なつこそうな小さな眼が困ったようにきょときょと動いている。
 いいよいいよ、お前の気持ちはようくわかった、ありがとね、無理してこっちに来るなゆっくり休んでてくれ、いいからいいからと両手を広げて秋田犬を制し、そそくさと立ち去る。
 ああやっぱり動物園ってせつないなあ、来ると哀しい気持ちになってしまうのになぜ来てしまうのだろう。

 太ったお父さんくらいものすごく大きく成長したミニブタは暗くじめじめした檻の中でひたすら寝ている、よく見ると隣の檻にイノシシがいる。イノシシは皮膚の硬いブタだ、しかし瞳孔が縮小して闘争本能があからさまになっているところがブタと違う。 
 ふたこぶラクダの檻の前に出る。1頭はぽわーんと立っており、もう1頭はぼよんと座っている。のどかである。ラクダはおっとりして風情があるので好きだ。
 売店で買った動物用のバナナとにんじんを立ったほうに与えると、はむはむ・ポリポリおいしそうに食べる。
 座っているラクダが突然ごろりと横にころがった。白目をむいて舌をべろんと出したので死んだのかとあせる。と思ったらこぶを地面になすりつけ始めた。腹にたかっていたハエが一斉にぶわんと飛び立つ。かゆいのか、4本とも足だから不自由だよなあと気の毒になるがどうしようもない。ただ黙って見ているだけである。
 ラクダはやがて起き上がり、立ち上がって私の前に顔を突き出した。口の中はよだれだらけだ。ほら食べな、のど乾いてるんだろうとバナナとにんじんを口の中に入れてやる。
 はむはむ・ポリポリしている間もラクダの大きな眼はとろんと遠くを見ている。その奥に思慮分別だとか理性だとか包容力だとかは存在しない。ただビー玉のようにつやつやと真っ黒に輝いているだけだ。哀しい眼だなあ、本能だけで生きているとこういう眼になるのだなあと思う。  

「動物ショーが始まりますのでお集まりください」
園内にアナウンスが流れるが、無視してカピバラの池へ向かう。だって好きなんだもん。
 ふれあいゲートの扉を開ける。
 しーん。お客なんか誰もいない。みんなショーを見に行っているのだ。
 緑色の池の中にカピバラが3頭いる。よく見るとウンコがあちこちにぷかぷか浮いている。水辺に住むカピバラは、池の中で排泄する習性があるのだ。
 一番大きいカピバラが池から出てきてのそのそこちらに近づいてきた。もちろんバナナとにんじんが目当てだ。
 うわあかわいい、手に水かきがついててかっぱみたい、顔デカい、鼻の下が長くてぶわぶわしてるねえ、前歯が伸びてまるで不思議の国のアリスに出てくるきちがい帽子屋みたいじゃんとうっとりしながら抱きつくように両手で剛毛をなでていると、いきなりブルブルブルッ! と身体を震わせた。うわあ水切りしやがった、ウンコのついた水滴を一身に浴びてしまったぞとちょっぴり困るがやっぱり離れられない。どうやらカピバラから強い磁力が放たれているようである。

 目を遠くにやると、地平線に添って伸びるなだらかな丘を夕陽が金色に染めている。風が冷たくて心地いい。いつの間にかスズムシが鳴いている。
 大きな金色のカメがこちらに向かってゆっくり歩いてくる。にんじんをやるが、見向きもしないでただ通過していく。
 ふれあいコーナーを奥に進むと天井の高い檻がある。サル小屋だ。見ると、床に小さな小さなサルの赤ん坊が落ちている。じっと眼を懲らすがぴくりとも動かない。もう死んでいるのだ。
 生まれたばかりの赤ん坊を落としてしまったのか。かわいそうにと思うがすでに動かないそれはただの肉塊だ、いずれ係員に発見されて跡形もなく片付けられるだろう。
 死んだ子ザルの親を探すがさっぱりわからない。みんな同じ顔をして普通にたたずんでいる。
 しばらくベンチに座って夕陽をながめる。ああここは大自然がのんびりしている、ビルも工場もネオンサインも何もないのがいいなあと心から思う。どこかで5時のサイレンが鳴っている。
 さあてそろそろ帰るかあと立ち上がると、出口のゲートの手前に先ほどの一番大きいカピバラがどっかり座ってこちらを見ている。変な威厳がある。
「楽しかった? あんた」
 えっ?
「俺たち細かいこといちいち気にしてないから」
 ええっ?
「また来たらいいじゃん」
 えええっ?
 それだけ言うとよっこいしょと重そうにのそのそ立ち上がり、他のカピバラが顔を出している緑色の池の中にちゃぽんと入り、そのままゆっくり水の中に消えていった。

2011.08.01