北海道開運旅行

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 さあてちょっと気合い入れて開運するかと北海道へ。
 北の果てはさぞや寒かろうと身を案じ、上半身は肌着2枚重ね+タートルセーター+ダウンベスト、下半身はタイツ+厚手のズボン、厚手の靴下。以上を基本装備とし、外を歩くときは重量のあるダウンコート+毛糸の帽子+ダウン手袋、そしてムートンブーツを履いた。そもそも寒いのがものすごく苦手なので、貼るカイロの予備をコートのポケットに8枚しのばせておいた。
 その格好で飛行機に乗り込むと何だかものすごく暑く感じたが、気にせず方位磁石をサパッと取り出し、東北方向に飛んでいるのを確認して、「よし、自分は間違った飛行機には乗っていない」と安心する。
 狭いとこきらい、この飛行機とってもコンパクト、まるでかまくらみたいと夢見心地でうとうとするうち北海道に到着。気持ちのよい晴天である。

 空港から電車に乗って温泉の湧き出る山奥へ移動。あたりには何もない、ほったらかしの大自然だ。
 宿に着いて荷を降ろし、ひと息入れてから散歩に出る。
「行ってらっしゃい、どちらへ?」
 宿のおじさんが温かい笑顔を差し向けてくれる。
「まあ適当に、気の向くままぶらついてきます」と答える。
 氷点下の世界をサクサク歩いていると途中に神社があったので参拝し、境内に降り積もったパウダースノーの上にいきなり仰向けのままドサッと倒れてみる。ひんやり冷たい。起き上がって見てみるとバンザイをした人の形にくっきりへこんでいる。おもしろいのでもう1回別の場所で倒れてみる。・・・・・・飽きたので神社をあとにした。
 東北方位へ出かけたときの開運行動のひとつは「雪山をうろつく」。東北の象意(しょうい=気学的なシンボル)は山、いまひとつの運を打破して新しい運を呼び込みたいときは、東北の吉方位で山肌にふれるといいとされている。

 ふと見やると前方に真白い雪に覆われた山、ああこりゃあちょうどいいわと喜び勇んで山を目指すことにする。
 山麓は人気のハイキングコースになっているらしく、遊歩道が整備され、あちこちに丸太を半分に割ったベンチが設けられている。しかしそれは夏場の話、今は冬、雪の降り積もったベンチに腰掛けようものならたちまち尻が凍るであろう。
 冬の平日の昼間にそこを歩いている人間は皆無、雪上に残された何日か前の誰かの足跡をたどりながら適当に進むのみである。
 スッと天高く伸びるエゾマツや白樺の林を通り過ぎると、あたり一面、白い雪を背負って低くうなだれたハイマツの大群生となる。文字通り地面を這うようにして生えているハイマツの高さは1〜2m、ちょうど人間の身長ほどだ。冬期は観光客が途絶えるせいか好き放題に枝を伸ばし、あちこちで行く手をさえぎっている。
 それを乗り越えたりくぐったりして進むうち、「クマ」という2文字が頭の中に唐突に浮かんだ。
 いやもう冬眠してるだろう、しかし十分なエサを取れなかったクマは冬眠せずに山野をうろつくというしな。・・・・・・そういえばハイキングコース入り口付近でクマに関する注意書きポスターを目にしたような気がするぞ、ええと、大事なのはクマに遭ったときどうするかではなく、まずクマに遭わないようにすることです。
 ええっ!
 背筋がゾッとしておそるおそる周囲を見渡すと自分の周囲360度には茫漠たる白い原野が広がっている。マツの茂みからいきなりクマが出てきてもちっともおかしくないシチュエーションだ。
 あっこれ大声出しても誰も来ないし自分はクマを遠ざける鈴も武器も持ってない、クマの気をそらすドングリやハチミツももちろんない、仕方ないからもし出たらポケットにしのばせたホカホカカイロをシールをはがしてから投げつけてやろうか、たぶん確実にノーダメージかむしろ温かくて喜ぶ、こりゃあ出会ったら最後、食われ損、いざとなったらシラカバによじ登って逃げるしかない、しかしいったい何分間あの細くまっすぐな幹にしがみついていられるかなと絶望的な気分になる。
 動物園で檻越しに見るクマはかわいいが檻なしでこんにちはするクマはかわいくも何ともなく、200%気の荒いデストロイヤーに決まっている。
 背中の神経をギュッと張り詰め、耳を澄ませながら歩くが何の気配もない。早くも西の方角に傾きかけた太陽が一面の雪をただまぶしく照らしている。
 しーん。
 あっ山の入り口にレストハウスが見える、あそこまで行けばとりあえず安心だと歩き出すと、いきなりハイマツが通せんぼ。狭い遊歩道に大きな枝をバーンと何重にも広げているため、乗り越えることもくぐることもできない。
 遊歩道以外の道を探すがハイマツがびっしり群生しているので無理、下手にバリバリかき分けて進むと近辺でぼんやりしているクマを目覚めさせてしまうかもと思い、「慣れぬ旅先で無理は禁物」という座右の銘に従って引き返すことにした。
 うわっこの広大な原野を引き返すんですか、今までよく無事でしたね自分、行きはよいよい帰りはこわいってまったく通りゃんせじゃないですかとクマに聞こえるように大声でつぶやきながら、雪道に深々とついた自分の足跡をたどって戻る。

「あ、お帰りなさい。お散歩いかがでした?」
 宿のお姉さんに笑顔で迎えられたのでがんばって笑顔をつくり、おそるおそる聞いてみた。
「楽しかったです、ところでこの辺、クマ出ます?」
「出ませんよ」
 なあんだやっぱり気の回し過ぎだよ心配して損したなあ、ずるんと脱力。
「あ、でも」
 え?
「先週、山のふもとに1頭出たって言ってたっけ、今年はドングリが少なかったですからねえ」

 東北の別名は「鬼門」、よくも悪くも運が大逆転する方位とされている。「不動の山を動かす方位」とささやかれるように、そのちゃぶ台返しぶりは他のどの方位よりも激烈であり、いにしえの戦国武将などは強行突破や起死回生を願う際、いちかばちかの命がけで東北方位を用いたとされている。
 もちろん現代でも、東北のパワーを取るときは万全の注意を払わなければならない。凶方位は言わずもがな、たとえ吉方位でも、運が好転する際にどんな強烈な毒出しがあるかわからないからだ。
「お夕食は6時からですからねー」
 宿のお姉さんは忙しそうに去っていく。
 うはぁっと口から出かけた魂をあわてて飲み込み、何事もなかった顔をして部屋に戻り、どんまいどんまい吉方位だもの、そのうちきっといいことあるってばとわが身をさすりながらつぶやいているうちに夜がすとんと更け、南の空にとてつもなく大きな満月がにょっこりあらわれた。北海道の夜は寒い。

2011.11.17

黒い服

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 今から振り返ればあまり運のよくなかった20代から30代前半のころ、私は黒い服ばかり着ていた。
 当時は黒い服が流行っていたこともあるが、着ればそれなりになんとかまとまる、体型がカモフラージュできる、汚れがついても目立たないなどという理由から、店へ行っては100発100中黒ばかり選んでいた。今から考えれば本当にカモフラージュしたかったのは体型よりも内面に渦巻く孤独や不安や恐れだったように思う。
 ある日、若者で賑わうファッション街を歩いていると気になるショップがあった。薄暗い店内にふらふら入ると目の前の壁に黒いショートジャケットがぽつんと展示されていた。
 いいなこれと思って眺めていると店員が寄ってきて「着てみますか?」と言う。勧められるまま袖を通すとぴったりだ。値札を見ると、自分に手が届く金額が書いてある。
「いいですよ、これ。ついこの間入ってきたんですけど。手作りの1点もので」
 かっちりしたシンプルなデザインなので仕事にも使えると踏み、財布からなけなしのお金を取り出してすぐに買った。

 翌日、さっそくそのジャケットを着て仕事に行った。新しい服を身につけると普通は意気揚々とするはずなのに、なぜかずっと気が重くゆううつだった。いざ仕事をしようとしても集中できず、一日中ずっとぼんやりとりとめのないことばかり考えていた。
「ダメじゃないか!」
 その日はつまらないミスをして上司から叱られ、いやな気分で家路についた。

 手持ちの服をそれほど持っていないせいで、黒いジャケットの出番は多かった。1週間のうち2、3回は着ていたのではないかと思う。しかしそれを着るたびに気持ちがふさいだり体調が悪くなったり人とぶつかったり仕事がうまくいかなかったりとよくないことばかり起こった。
 最初のうちこそ気に留めていなかったものの、「君、このプロジェクトからはずれてくれないかな」とその服を着ている日にクライアントから眉をひそめて言われたときにはさすがに「この服はおかしいのではないか」と感じざるを得なくなった。もちろん自分の未熟さや不手際もあったのだが、そこまで不運が重なると、本当の理由はそれだけではないように思えた。

 洗えば厄が落ちるのではないかと黒いジャケットを何回かクリーニングに出した。しかし何度洗っても、店から戻ってきた黒いジャケットには重苦しい気がまとわりついているような気がした。
「手作りの1点もので」
 ふと、店員の言葉が脳裏によみがえった。
 物には作り手の思いや念がこもる。もし作り手が服を製作するときに怒りや悲しみ、憎しみ、絶望などの感情にとらわれていたらどうなるだろう? そのネガティブな思いは無言のうちに裁ちばさみや針を通じて布地に潜り込むのではないだろうか。
 もしかするとこのジャケットにはひと針ひと針「不吉」が縫い込まれているのではないか? 黒い布地一面にどす黒い想念が乾いた血のように染み込んでいるのではないか?
 イヤな気持ちになり、クリーニング済みの服をそのまま丸めてゴミ袋に放り込んだ。
 その後、徐々に黒い服からも遠のいた。古来、喪服として使われるように、黒は悲しみや孤独を吸収して留める色と知ったからだ。

「着るだけで気分がよくなる服」「着るとなぜかいいことが起こる服」があるように、「着るだけで気分が落ち込む服」「なぜかよくないことが起こる服」というのも存在する。服はどれも何食わぬ顔をしてクローゼットやタンスの中で静かに眠っているが、持ち主が取り出して身につけた瞬間に息をよみがえらせ、正体をあらわにする。
 物には心が宿る。まず最初に入るのは作り手の心だ。それはたぶん、物の寿命が尽きるまで消えることはない。
 だから最初に着たときによくないことが起こった服には注意しなければならない。しかし「もったいないから」と売ったり譲ったりするのはほかの誰かに不幸をバトンタッチすることになる。勇気を出して早めに見切りをつけ、葬り去るほうがいい。

2011.11.06