祈願装置

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 神前にはなぜ丸い鏡が祀られているのだろう?
 神棚を見上げるたび、疑問に思っていた。
 鏡には神さまの前に立つ自分の姿が映る。これで姿勢を正し身なりを整え真顔に戻ってから神さまに向かえということか。
 いや違う。それもあるかもしれないがたぶんそれが本当の目的じゃない。

 鏡は雲の形の台に乗っているからきっと太陽の象徴だ、太陽といえば天照大神(あまてらすおおみかみ)、つまり神道の最高神である太陽神の象徴を祀っているということか。
 神棚はふつう北に設置して南を向ける、もしくは西に設置して東を向けるから、鏡には上ってくる太陽の光や南中する太陽の光が集まって吸収される。吸収された光のパワーはそのままお社(やしろ)内部に広がり、そこから境内もしくは家じゅうにふわりと広がって気を清めるというわけか。うーん、なるほど。
 でも、もっと現実に即した意味があるのではないか。

 その答えを出すためには、まず「神さまって何か」を考えなくてはならない。私たちが神前で頭を下げるとき、いったい誰に向かって頭を下げているのか。
 一般的な作法としてはまず鈴を鳴らし、2回お辞儀して、2回柏手を打ち、最後にもう1回頭を下げる。このときうっすら目を開けて鏡を見ると、さあ誰が映っているでしょう? そう、自分である。私たちは自分に向かって2礼2拍手1礼しているのである。
 ・・・・・・ということはつまり、神前で「どうぞ夢が叶いますように」とお願いしている相手は、自分自身ということになる。

「宇宙に夢をオーダーすると叶う」という考え方がある。漠然と夢を思い浮かべながら、「それが叶ったらどんなにうれしいか」「どんなに楽しい気分になるか」を想像しながらぼんやりイメージしていると、やがて現実化するという考え方である。
 この方法は何かの媒体を必要とするわけではないし、お金も手間もかからないのでいつでもどこでもできるが、やり方に何の制約もないがゆえに「気が散りやすい」「ある程度の集中力が必要」「どうせ無理だろうと否定に傾きやすい」などの難点がある。
 しかし、日常から非日常に意識が切り替わる空間でならやりやすい。そう、神前で。

 鳥居をくぐると、そこは祓い清められたすがすがしい空間だ。参道を歩くうち、心から雑念、邪念が取り払われてすっきりしていく。
 神鏡の前に背筋を伸ばして立ち、「こうなりますように」と手を合わせて祈る。手と手を合わせると体内の気がどこにも逃げずにぐるぐる循環するので気持ちが集中しやすい。祈りはまっすぐ鏡に飛び、ぶつかってそのまま自分にはね返ってくる。
 ・・・・・・たぶんこの行為で、願望が潜在意識にすり込まれるのではないか。すり込まれた情報は無意識の分厚い層に潜り込み、その人を願望達成のための行動に向かわせる。つまりサブリミナルである。(だから、願いごとはシンプルなほうがいい。そのほうがストレートに飛んで深く潜り込むからだ。)
 そう考えて、やっと気づいた。
 神棚は、私たちの願いを叶える祈願装置なのだ。だからこそ、何千年もの間ずっと受け継がれている。

 近くに神社がない人、家に神棚を祀っていない人は、願望達成に丸い鏡を利用するといいのではないか。
 白雪姫に登場する意地悪な王妃のように「鏡よ鏡よ鏡さん、世界で一番美しいのはだあれ?」と夜な夜な問いかけるのは恐ろしいが、「幸せになるぞ!」とか「もっともっときれいになれ!」と語りかけるのはいいと思う。

2012.04.20

花まつり

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 花見をかねて川崎大師へ。
 日曜日とあって参道はにぎやか、トントコトントコとたんきり飴を切る乾いた音があたりに鳴り響いている。
 ここ下町っぽくて好きだなあと門をくぐると正面からドンドコドンドコ大太鼓を打ち鳴らす音、あっお護摩始まっちゃったよと血が騒ぎ、急いで本堂に上がった。
 鮮やかなパープルやグリーンの法衣を身につけた僧侶が一斉に読経するなか、護摩壇から金色の炎が勢いよく立ち上がる。ああっお不動さま、どうか私にまつわる災厄や煩悩をその強力な炎で一気に焼き払ってください、のうまくさあまんだーと手を合わせて祈る。
 無常に形の変わる炎を見つめ、リズミカルな太鼓の音を全身で聞くうち軽くトランス状態に入るかと思ったがそんなことは全然なく、ふと前を見ると母親におんぶされた赤子がこちらをじっと見ている。うわあかわいい頭髪がほとんどなくてお坊さんみたい、君の前世はもしかするとお坊さんだったのか、また娑婆に戻ってきて大変だのうと無言で問いかけるが返事はない。ただ澄んだ瞳でぽわんとこちらを見ているだけである。
 そういえばその日は花まつり、つまりお釈迦様の誕生日であった。

 読経が終わり外に出ると桜色の着物姿のきれいなお姉さんから甘茶のもてなし、ありがたくいただくとほんのり甘くてとてもおいしい。
 美しい花が飾られた花御堂(はなみどう)の中央にいらっしゃる幼いお釈迦様の像に甘茶を注いでいるとわれもわれもと子どもが寄ってくる。子どもはなぜ大人を真似るのが好きなのか。

 門前のそば屋で鴨なんばんをすすってから界隈を散歩するとあちこちに桜が咲いている。いわゆる桜の名所ではないところで「咲くときが来たので咲きました」と静かに咲いている桜は飾り気がなくスレておらず純朴な風情があって信用できる。「おみごとですね」とほめても「ああそうですか」と無関心、ただ太陽の光を受けて自分の営みをせっせと続けている。

 桜は満開に向かうときももちろんきれいだが散りぎわはもっと美しい、風に乗って一気に花びらを散らすときの潔さは壮絶で凄みすらある。
 花が散っても死ぬわけではない、きっかり1年後にはまた同じ花をつけて同じことを繰り返す桜は再生の象徴であり、希望の象徴でもある。
 桜満開の4月8日にお釈迦様が生まれたのはたぶん偶然ではないだろう、あっそういえば奇しくも今日はイースター(キリストの復活祭)でもある、それっていったいどういうことなのと少し驚いたのは、帰宅して竹の子の煮物を食べているときだった。

2012.04.10