春のお彼岸のココちゃん

img_1123
 春のお彼岸に突入してからナマ傷が絶えなかった。
 まず初っぱなに親指を勢いよく壁にぶつけて爪が紫色のマニキュアを塗ったようになった。
 お彼岸だし部屋を清めとくかと初日の朝から張り切って雑巾を握り、あちこちの壁を拭いていたとき、まったく意図していないのに不意に右腕が野球のボールを投げるような動きをした。大きく振りかぶった先は壁である。もちろん自分の意思ではない、まるで誰かに腕を持ち上げられて力任せにぶつけられたような感じだった。
 自分はなぜ親指の爪を自ら壁に激突させるような真似をしたのかとショックのあまり呆然としていたら、間もなくじんじん痛み出し、熱を帯び、平たいはずの爪が亀の甲羅のようにぷっくりふくれあがった。
 その日の午後、今度は右足の親指を机の脇に置いてあるキャスター付きの引き出しの角に思いっきりぶつけた。もちろんぶつけたくてぶつけたわけではない、何かのはずみでぶつけてしまったのである。しかし何のはずみだったのかさっぱり思い出せない。
 手の爪も痛いが足の爪はもっと痛い。見ると、こちらも紫色に変色していた。

 翌日の夜、風呂に入るためパンツ(下着ではなくアウターのパンツ。ズボン。)を脱いだら、右脚のふくらはぎに20センチほどの真っ赤なみみず腫れができていた。ほぼ一直線で、ところどころうっすら血がにじんでいる。浴槽に浸かるとひりひり痛んだ。
 風呂から上がってからパンツを裏返して念入りに調べたが、とがった金具などは出ていないし針やトゲが生地に突き刺さっているわけでもない。もしやこのみみず腫れは何かの聖痕かと背筋がゾッとして身体が一気に冷えた。

 次の日、新品の靴をおろして外出した。「バカの大足」と揶揄されながら育った自分にはまるで夢みたいなゆとりのある安心サイズで、デザインも好みだったので喜び勇んで色違いを二足買ったうちの一足だ。
 しかし歩き始めて10分もたたないうちに右くるぶしの下が痛くて痛くてたまらなくなり、道ばたで靴を脱いで靴下をめくってみると皮膚がむけて出血していた。仕方ないので人混みの中で立ち止まり、カバンから応急絆創膏を取り出してくるぶしの下に貼り付けた。
 新品の靴だから革が固いのはやむを得ない、しかしEEEの幅広サイズなのになぜこうなる、と割り切れない思いだった。

 ああなんかお彼岸に入ってから満身創痍、「気を引きしめい」とご先祖が戒めているのか、あるいは娑婆帰りしている悪霊のいたずらか。
 お彼岸は昼夜の時間がほぼ同じ、また寒くもなければ暑くもない。こういう陰陽のバランスが取れたニュートラルな時期は、自分の生き方や運を顧みる絶好の機会と言われている。何ともないならそれでOKだが、どこかにトラブルが出たら運が落ちている証拠なので気をつけたほうがいいとされている。
 春分の日を中日としてその前後3日間を春のお彼岸と呼ぶが、その1週間に身体に何かしらのトラブルが出た場合、左半身なら先祖の警告、右半身なら自分のせいという説もある。
 それじゃ右半身ばかりケガしてる自分はおっちょこちょいなのか。臍下丹田に気を込めてもっとどっしり生きなくてはいけないのかなどとぼんやり考えながら、例年より10日ほど早く咲いた桜並木をとぼとぼ歩く。

 お彼岸の最終日。
 ちょっと遠出をしようと愛車で高速道路に入り、途中でSAに立ち寄った。土曜日の昼だけあって非常に混んでいる。犬連れも多い。
 売店でも覗いていこうと施設の入り口に向かうと、通路の途中にいたプードルがつぶらな瞳でじっとこちらを見つめている。
 プードルは人間の気持ちを理解するひときわ賢い犬種と聞く、ああプードルちゃんかわいいなあやっぱり犬には犬好きがわかるんだねえお利口ちゃんだぞうと笑顔でアイコンタクトを取り、その犬の脇を通り過ぎようとしたとき、「バウンッ!!」と敵意むき出し、犬歯もむき出しで威嚇された。
「だめよぉココちゃん」
 身体のラインに沿うワンピースを着たフェロモンたっぷりな飼い主が、長い髪をかき上げながら犬に向かってやさしく微笑む。
 だめよぉココちゃんの前に驚かしてすみませんとあやまるのがスジだろうかき上げ女、お前らまとめて浦見魔太郎におしおきしてもらおうかええっどうだぁと誰にも聞こえないようにつぶやきながらそのまま何もなかったふりをして施設内に入り、売店を物色する。桜の季節だが心の中には秋風が吹いている。
 SAの売店をひととおり見て回ると、とあるコーナーに地元で取れた農産物が並んでいた。
 あっこのぬか漬けおいしそう、よし買ってやる、ビニール袋で念入りに包装されてるからだいじょうぶだろうと2パックレジに持って行き、ついでにリンゴも6個ばかりかごに入れているうちバカプードルのことなどすっかり忘れ、ウキウキと駐車場に戻って車のトランクに買い物袋を放り投げてからぶうううんと再び高速に参入した。

 帰宅すると、すでに夜10時を回っていた。
 さあ遅めの夕食だ、おかずは何もないけどもう遅いからぬか漬けと温かいご飯で充分と鼻歌を歌いつつほどよくつかったキュウリとにんじんと大根を適当な大きさに切った。
「いただきます!」
 ぬか漬け久しぶり、うれしいなあ、今回のお彼岸はいろいろあったけれど最後は口福(こうふく)で締めてやれ、終わりよければすべてよしだ。
 パリッ。
 いい音がする。鼻孔をふんわり軽やかに腐敗臭が通り抜ける。
 心にそよりと秋風が吹いた。
 これ、傷んでるじゃん。
 ぬか漬けを容赦なく捨てると、心の中で暴風雨がどうどうと吹き荒れた。
 せめてもの口直しにとリンゴをむく。
 シャクッ。
 まったくの無味無臭、甘くも酸っぱくも何ともなかった。

 以上が春のお彼岸の顛末である。わが人生に幸あれと祈る。

2013.03.26

骨密度

rimg0057.jpg_4
 3月中旬のある晴れた朝、散歩がてら骨密度を測定しに行く。
 道路沿いはマンションやビルの建設工事でわさわさとにぎやか、おまけにゴミの日なので収集車が集積所に来ては停まり、そのうえバスまであとからあとから来ては停まりするので全体的にアップテンポな春の大交響曲といったおもむきである。
 グリーンのフェルトのつば広帽に季節外れの毛皮のショートコートをまとった若い女性が精神病院の前にじっとたたずんでいる、これから行くのか出てきたのか。そこだけ時間が停止していたが、しばらくしてその女性が顔の向きをひょっと変えた瞬間にまた時間が流れ出した。
 そのようなばらばらの音符が飛び交う世界、印象としては淡いピンク色の陰と陽が交錯するうららかな2013年春の世界を、ひとり縫うように目的地へ向かった。

「おはようございます」を合図に検診が始まる。検診そのものは1分で済み、あとは椅子に腰掛けて結果と解説を待つだけだ。
 平日の午前中というのに次から次へと人がやって来る、男女比は3対7程度、年齢層はばらばら、たぶん職業もばらばら、それぞれの表情もばらばらである。
 ひまに任せていろいろな顔をながめるうち、幸せそうな顔をしている人とそうでない顔の人がいることに気づく。
 前者は背筋をスッと伸ばし顔色が明るく声のトーンが高くはつらつとしゃべり親しみやすい感じ、後者は猫背で顔色が沈み声のトーンが低くぼそぼそとぶっきらぼうな話し方で人を寄せつけない感じがする。これは着ている服や履いている靴や持っている物にはあまり関係ない。内面の光の質や輝き方が外側ににじみ出ているのだ。

「あなたは成人したときと骨密度がほぼ変わっていませんね。問題ないですよ」
 いやあよかったじゃん自分、じゃあこれからもがんばれるなと晴れ晴れした気持ちで建物の外に出ると太陽の光が道路に強く当たっている。風呂屋の煙突のように天高く伸びる真っ赤なクレーンを横目に見ながら、温かい道をウキウキと歩く。
 
 幸せな人もそうでない人も「人間である」というくくりではまったく同じ、何が違うかというと生きている環境と本人の心のあり方だけだ。100%言うことなしの素晴らしい環境に生きている人は皆無、むしろ人は何も考えずにほっとくと徐々によくないほうへ沈んでいくのが普通だから、幸せな人というのは重力に反して何かしらの努力をしていることになる。
 つらい、実につらいけどこのつらさをこのまま外にさらしたら周囲にもこのつらさが移ってしまうだろうとか、このまま堂々めぐりしてイヤなことを考え続けていてもちっともいいことなんかないからもうちょっと楽しいことを考えてみようとか、自分がされていやなことを人にするのはやめておこうとか、不安や心配で気持ちは下がってるけどせめて唇の両端だけは上げておこうとか、そういうちょっとした、しかしわりと力のいる作業ができるかできないかでその人の骨密度いや幸せ度は決まっていくのではないかと思う。
 
「骨密度は放っておくと自然に減っていきます、だからバランスの取れた食生活と適度な運動が大切なんですよ」
 過剰なダイエットがなぜ危険かというと、身を削るだけでなく骨も削るからだそうだ。骨が細くなると年を取ってから骨が折れやすくなる、寝たきりは実に骨が折れるので納豆や豆腐やめざしをたべて骨太をめざしましょうというわけだ。
 身も心も幸せになるためにはやはりカルシウムの意識的な摂取が必要だなと「骨まで愛して」を口ずさみながら再認識。
「やせなくちゃ」と無理にダイエットしなくても、年とりゃ食欲なくなってイヤでもやせますよお嬢さん。「痩せればモテる」「何とかなる」は女子の幻想、既製服の9号がすんなり入れば幸せになれるのかといったらそんなこと全然ないんだぜ。女の幸せは服のサイズでは決まらない、骨太かどうかで決まるのだ。

2013.03.12