巨人のポルカ

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 東京スカイツリーをオープン前日にプレ見。内部は内覧会の客でにぎわっているが、一般客はまだ施設内に入れない。仕方ないので敷地内や周辺を散策する。
 外側だけではやっぱり物足りないなあとツリータウンの南側を流れる川に降り、ウォーキングデッキにしつらえられたベンチでまったりしてみる。隅田川の支流の水は濁ってコーヒー色だ。
 西日に目を細めつつ眼前にそびえ立つタワーを見上げると、この上なく高い。さすが世界一、圧倒的な存在感がある。

 見上げるのに飽きたのでその場を離れ、周辺の街を散策する。
 平日の夕方だからなのか、それとももともと人口が少ないからなのか、町工場や古い家が立ち並ぶ道路沿いには誰も歩いていない。金色の光に染まった街は、まるで猫が眠っているかのように静かだ。
 なぜこんなところに、
 ふと思った。 
 なぜこんな時間が止まっているようなところに、世界一巨大な電波塔を建てたのか。
 
 帰宅して焼鮭と卵焼きの夕飯を食べ終えてから、あ、そうかと気づいて東京の地図を広げてみた。
 ・・・・・・ここがスカイツリー、ここが東京タワー、ここがサンシャイン60。
 ペンと定規を持ってきて、東京の3つの高層建築をそれぞれ直線で結んでみる。
 じゃーん。
 きれいな正三角形が浮かび上がった。中心にあるのは皇居だ。
 眠れる町に白羽の矢が立った理由がわかった。 
 家康お抱えの天才風水師・天海の後を継ぐ誰かが新しい結界を作ったのだ、うんそうだ、そうに違いない。
 城を囲む巨大な精霊が手をつなぎ合い、輪になってポルカを踊っている姿が脳裏に浮かんだ。精霊たちの背中にはそれぞれ東北に延びる管、南西に延びる管、北西に延びる管がつながっている。管とは龍脈のことだ。
 踊れ踊れ、踊るほど日本という名の龍は強くなっていくのだ。

 5月21日の金環日食の翌日22日にスカイツリーがオープンしたのは言うなれば天の岩戸開き、しかも翌平成25年には20年に1度の式年遷宮(ご神体を移動させること)が伊勢神宮で執り行われる。
 この先、この国のバイオリズムは陰から陽へとダイナミックにうねっていくに違いない。私たちの頭上を覆う雨雲はゆっくり消滅し、徐々に希望の光が射してくるに違いない。

2012.05.23

不意の来客

ん
 土曜の昼、わが家に2人の客が来た。
 まずはビールで乾杯、「どうですか、最近」「ぼちぼちですわ」の会話から入り、「んじゃ、ワインでも」。
 納戸から2年前のボジョレーを持ってくる。
 コルクをシュポンと抜くと酢の香りがかすかに立ち上るものの、飲んでみるとまだまだイケる。
「おいしいね」
「ビラージュはやっぱり飲みやすいね」
「この年は当たり年だったらしい、しかし毎年そう言われているような気もする」
 たちまち1本空になる。たいした会話をしているわけではないが、別にいいのである。2本目をまた持ってくる。

 ワインを飲みながらあれやこれや話しているうち日が南西方向に傾く。
 まぶしいのでブラインドを下ろそうとすると「あれ?」とびっくりした声でメンバーAが言う。
 どうしたんだ、天からすごい啓示でも降りてきたのかと問おうとするとAはあらぬ方を向いて目をごしごしこすっている。
「今さあ」
「うん」(メンバーBと自分)
「あそこのトイレからさあ」
「うん」(メンバーBと自分)
「ものすごく背の高い金髪の男が出てきてそのまま廊下の奥の寝室のドアを開けて入っていったけど、この家、自分たちのほかに誰かいる?」
 自分とBは顔を見合わせた。
「そういえば、さっき寝室のほうでバタンと音がしたね」とB。
「どんな顔だった?」
「いや、後ろ姿しか見えなかった」
「A、その男、どんな感じだった?」
「なんだか楽しそうだった、トイレを出てから廊下で何かにけつまずいてつんのめってた」
 ものすごく背の高い金髪の男などうちにはいない、A、念のため聞くが、あなたの酔っ払い度は100点満点中何点かと問うと、「60点くらいかなあ」と答える。
 2本目のワインの瓶はもうすぐ空になる。自分が1、Bが2、Aが3の割合、つまり一番飲んでいるのはAである。
 酒に酔ったうえでの幻覚か、それとも本当に見えたのか。

 西日がきついのでブラインドを下ろす。部屋がスッと暗くなる。
 あのさあもしかするとこの家霊道通ってるかもしれないんだよねとか言ったらいやがるだろうなあと思いつつワインを飲んでいると、まったくなんの脈絡もなくAが「ちょっとおなかすいたなあ」と言い出す。
 キッチンに立ち、用意していたカレーを温めた。まあいいや酔いが覚めればたぶん忘れるだろう、そのまま放っておこうと決め、カレーてんこ盛りの皿を2つテーブルに出す。不意の来客のぶんも出してやろうかと思ったがそこまでする義理もなかろうとやめておく。
「あ、すごいうまい」
「チーズかけるとさらにうまい」
 怒濤の勢いでカレーが目に見える世界から目に見えない世界へと消えていく。
 ブラインドの隙間から空を見ると雲間にオレンジ色の玉が沈みかけている。この先はつるべ落としでいきなり暗くなるだろう。
「じゃ、そろそろ帰る」
 まだいいじゃんちょっと気味が悪いからもう少しいてくれないかなあとこっそり願うが先方にも先方の都合があるので無理に引き留めるわけにいかず、「またどうぞ」とにっこり笑って送り出した。寝室の扉の奥で誰かが聞き耳を立てているような気がしたが、気のせいだと打ち消して、キッチンでひとり山のような洗い物と格闘し始めた。

2012.05.14

路傍の石

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 今の家に住んでから、たまに「あちらの人」を見るようになった。見るのは昼間ではなく寅の刻、つまり明け方の3〜5時、眠っているときだ。
 この時間帯を方位に置き換えると東北、つまり鬼門。「鬼がわらわら出てくるから鬼門と呼ぶ」という説もあるが、偶然にも、寝室は家の中心から見て鬼門方位にあり、自分は北枕で寝ている。
 具体的に何をどう見るのかというと、別に貞子やフレディやチャッキーが目の前に来ていないいないばあするわけではなく、寝ている自分の側を人が通り過ぎていくだけだ。別に具合が悪そうには見えないし、ケガをしているわけでもなく、ただ普通の人が普通に歩いているのだが、夢うつつに「この人は死んだのだ」とピンとくるのが不思議である。
 なぜだろう、出てくる人たちは知り合いでも何でもないし、自分に何か伝えたいことがあるわけでもなさそうだしとあれこれ考えるうちに「もしかすると」とひらめいた。
 確かめるために、寝室の窓を開けて外を見る。
 やっぱり。
 寝室の真北に寺があった。
 念のため、近辺の地図を広げてみる。
 寺はひとつではなく複数あった。
 そうか、ここは通り道になっているのだなと納得。もちろんさまざまな通り道があるだろうが、日本を含む北半球では磁石の針はすべて北に引っ張られるし、それに何より肉体を脱ぎ捨てた魂は東や東南、南など明るい陽の方位へ向かうより、西や北西、北など陰の方位へ向かうほうが落ち着くのではないかと思う。西は西方浄土、北西は神仏を祀る方位、北は最も深い陰の方位であり、肉体と心を安らかに横たえる安らぎの方位なのだ。
 ではなぜ、死んだ人は寺を目指すのか。

「神社は生きている人の願いを叶えるための祈願装置」と前に書いたが、寺は死んだ人を集めてあの世へ送り出す「吸引装置」なのではないか。線香の香りや灯明の光、太鼓、読経の声などで「こっち、こっちですよ」と故人を呼び寄せ、僧侶や参列者が「どうぞ安らかに」「ご冥福をお祈りします」と鎮魂と祈りの念を捧げてあちらの世界へ送り出す。
 死んだ人は「そうか、自分は死んだのだな」と認識し、この世を離れる心の準備をする。何気なく上を見ると誰かが自分に手をさしのべている、この「誰か」は大好きだったおばあちゃんであったりかわいがっていた弟であったり愛しいネコやイヌであったりあるいは金色に輝く観音さまであるなど人によってさまざまと思う。
 今まで生きていた世界に未練や後悔が残っている場合はお迎えの手を無視してもう少しふらふらするかもしれないが、素直な子どもや一人でがんばって生きてきた女性ややりたいことをやって心残りがない人はわりとすんなり悟ってスムーズにあちらへ旅立つのではないだろうか。

 寝ている自分の側を通り過ぎていった人たちは性別も年齢もさまざまで、置かれていた立場も亡くなり方も多種多様だったと推測されるが、向かう方向はみな同じだった。小さくても年を取っていても、誰かと一緒に歩いている人はいなかった。財布や旅行カバンを持っている人もいなかった。やはり死ぬときは身ひとつなのだ。
 その後たぶん寺に吸い込まれ、次のステップに向かってそれぞれの旅立ちをしたのだろう。

 見るのは「たまに」だし、寝室を換えるのも間取り的に無理だし、勝手に引き出しを開けるとかいきなり枕をひっくり返すなどの悪さをするわけではないのでこのまま路傍の石として寝っ転がっていようと思うが、寝室の隅によっこらしょっと座り込んだり、顔を通常サイズの100倍くらいに増大させていきなり人の寝顔をのぞき込んだりするのだけはやめていただきたいと切に願う。

2012.05.08

祈願装置

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 神前にはなぜ丸い鏡が祀られているのだろう?
 神棚を見上げるたび、疑問に思っていた。
 鏡には神さまの前に立つ自分の姿が映る。これで姿勢を正し身なりを整え真顔に戻ってから神さまに向かえということか。
 いや違う。それもあるかもしれないがたぶんそれが本当の目的じゃない。

 鏡は雲の形の台に乗っているからきっと太陽の象徴だ、太陽といえば天照大神(あまてらすおおみかみ)、つまり神道の最高神である太陽神の象徴を祀っているということか。
 神棚はふつう北に設置して南を向ける、もしくは西に設置して東を向けるから、鏡には上ってくる太陽の光や南中する太陽の光が集まって吸収される。吸収された光のパワーはそのままお社(やしろ)内部に広がり、そこから境内もしくは家じゅうにふわりと広がって気を清めるというわけか。うーん、なるほど。
 でも、もっと現実に即した意味があるのではないか。

 その答えを出すためには、まず「神さまって何か」を考えなくてはならない。私たちが神前で頭を下げるとき、いったい誰に向かって頭を下げているのか。
 一般的な作法としてはまず鈴を鳴らし、2回お辞儀して、2回柏手を打ち、最後にもう1回頭を下げる。このときうっすら目を開けて鏡を見ると、さあ誰が映っているでしょう? そう、自分である。私たちは自分に向かって2礼2拍手1礼しているのである。
 ・・・・・・ということはつまり、神前で「どうぞ夢が叶いますように」とお願いしている相手は、自分自身ということになる。

「宇宙に夢をオーダーすると叶う」という考え方がある。漠然と夢を思い浮かべながら、「それが叶ったらどんなにうれしいか」「どんなに楽しい気分になるか」を想像しながらぼんやりイメージしていると、やがて現実化するという考え方である。
 この方法は何かの媒体を必要とするわけではないし、お金も手間もかからないのでいつでもどこでもできるが、やり方に何の制約もないがゆえに「気が散りやすい」「ある程度の集中力が必要」「どうせ無理だろうと否定に傾きやすい」などの難点がある。
 しかし、日常から非日常に意識が切り替わる空間でならやりやすい。そう、神前で。

 鳥居をくぐると、そこは祓い清められたすがすがしい空間だ。参道を歩くうち、心から雑念、邪念が取り払われてすっきりしていく。
 神鏡の前に背筋を伸ばして立ち、「こうなりますように」と手を合わせて祈る。手と手を合わせると体内の気がどこにも逃げずにぐるぐる循環するので気持ちが集中しやすい。祈りはまっすぐ鏡に飛び、ぶつかってそのまま自分にはね返ってくる。
 ・・・・・・たぶんこの行為で、願望が潜在意識にすり込まれるのではないか。すり込まれた情報は無意識の分厚い層に潜り込み、その人を願望達成のための行動に向かわせる。つまりサブリミナルである。(だから、願いごとはシンプルなほうがいい。そのほうがストレートに飛んで深く潜り込むからだ。)
 そう考えて、やっと気づいた。
 神棚は、私たちの願いを叶える祈願装置なのだ。だからこそ、何千年もの間ずっと受け継がれている。

 近くに神社がない人、家に神棚を祀っていない人は、願望達成に丸い鏡を利用するといいのではないか。
 白雪姫に登場する意地悪な王妃のように「鏡よ鏡よ鏡さん、世界で一番美しいのはだあれ?」と夜な夜な問いかけるのは恐ろしいが、「幸せになるぞ!」とか「もっともっときれいになれ!」と語りかけるのはいいと思う。

2012.04.20

花まつり

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 花見をかねて川崎大師へ。
 日曜日とあって参道はにぎやか、トントコトントコとたんきり飴を切る乾いた音があたりに鳴り響いている。
 ここ下町っぽくて好きだなあと門をくぐると正面からドンドコドンドコ大太鼓を打ち鳴らす音、あっお護摩始まっちゃったよと血が騒ぎ、急いで本堂に上がった。
 鮮やかなパープルやグリーンの法衣を身につけた僧侶が一斉に読経するなか、護摩壇から金色の炎が勢いよく立ち上がる。ああっお不動さま、どうか私にまつわる災厄や煩悩をその強力な炎で一気に焼き払ってください、のうまくさあまんだーと手を合わせて祈る。
 無常に形の変わる炎を見つめ、リズミカルな太鼓の音を全身で聞くうち軽くトランス状態に入るかと思ったがそんなことは全然なく、ふと前を見ると母親におんぶされた赤子がこちらをじっと見ている。うわあかわいい頭髪がほとんどなくてお坊さんみたい、君の前世はもしかするとお坊さんだったのか、また娑婆に戻ってきて大変だのうと無言で問いかけるが返事はない。ただ澄んだ瞳でぽわんとこちらを見ているだけである。
 そういえばその日は花まつり、つまりお釈迦様の誕生日であった。

 読経が終わり外に出ると桜色の着物姿のきれいなお姉さんから甘茶のもてなし、ありがたくいただくとほんのり甘くてとてもおいしい。
 美しい花が飾られた花御堂(はなみどう)の中央にいらっしゃる幼いお釈迦様の像に甘茶を注いでいるとわれもわれもと子どもが寄ってくる。子どもはなぜ大人を真似るのが好きなのか。

 門前のそば屋で鴨なんばんをすすってから界隈を散歩するとあちこちに桜が咲いている。いわゆる桜の名所ではないところで「咲くときが来たので咲きました」と静かに咲いている桜は飾り気がなくスレておらず純朴な風情があって信用できる。「おみごとですね」とほめても「ああそうですか」と無関心、ただ太陽の光を受けて自分の営みをせっせと続けている。

 桜は満開に向かうときももちろんきれいだが散りぎわはもっと美しい、風に乗って一気に花びらを散らすときの潔さは壮絶で凄みすらある。
 花が散っても死ぬわけではない、きっかり1年後にはまた同じ花をつけて同じことを繰り返す桜は再生の象徴であり、希望の象徴でもある。
 桜満開の4月8日にお釈迦様が生まれたのはたぶん偶然ではないだろう、あっそういえば奇しくも今日はイースター(キリストの復活祭)でもある、それっていったいどういうことなのと少し驚いたのは、帰宅して竹の子の煮物を食べているときだった。

2012.04.10

辰巳天中殺のみなさんへ その2

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 全国の辰巳天中殺のみなさんこんにちは。ようこそ宇宙船「辰巳号」へ。

◆ホームルーム◆
 では、出欠を取ります。
 一白水星の辰巳さーん、はい。お元気ですか。あなたは「古傷に塩」の席へどうぞ。そこの因幡(いなば)の白ウサギのマークがついてる席です。
 二黒土星の辰巳さーん、はい。ああやっぱりちょっと元気ないですか、さもありなん。あなたは「ドラキュラ城」の席にどうぞ。ちょっとカビ臭いかもしれませんけど。クモの巣に気をつけて。
 三碧木星の辰巳さーん、はい。「人生の建築基準法根底から見直し本部」の席へどうぞ。どこにあるのかわからない? そこそこ、西日がぼんやり当たってるとこ。
 四緑木星の辰巳さんは・・・・・・、はいすでにみなさん「しおしおのパー」の席に座っていらっしゃいますね、ブースカの着ぐるみがかわいいですね。
 五黄土星の辰巳さーん、はい。「ブルータスよお前もか」の席へどうぞ。今までよくぞ裸一貫からがんばってきましたね、さあ汗を拭いてください。
 六白金星の辰巳さーん、はい。「押しくらまんじゅう押されて泣くな」の席へどうぞ。ちょっと見晴らし悪いですけど。
 七赤金星の辰巳さーん、はい。「矢面(やおもて)上等」の席へどうぞ。座席の下は奈落の底になってますから、足を踏み外して落ちないように気をつけましょう。
 八白土星の辰巳さーん、はい。「パンがないならお菓子をお食べ」の席へどうぞ。そこそこ、ヘンゼルとグレーテルの像が建ってるとこです。
 九紫火星の辰巳さーん、はい。「無限ループのジェットコースター」の席へどうぞ。無料で2年間ノンストップ乗り放題です。
 同じ辰巳天中殺でも生まれ年の九星によってそれぞれ個性や課題や運のバイオリズムが微妙に異なりますからね、ま、詳しいことはいずれ追々お話ししていきましょう。

 ・・・・・・あれ? なんでまだこんなに人が余ってるんですか、あっ。
 子丑さん、午未さん、申酉さん、戌亥さん、あなたがたは組が違います。この宇宙船は辰巳さんしか乗れません。
 あっ寅卯さんいつまで乗ってるんですか、あなたもうとっくに天中殺明けたでしょう。・・・・・・えっ? ずっとこうして宇宙旅行していたい? これはこれでラクだもん? 
 ダメですよ何甘えたこと言ってるんですか、あなたほかにやることあるでしょう。さあみなさん、このパラシュートをつけてすぐに地上に降りてください、ぐずぐず言わないでさっさと地球に戻るっ。

 ・・・・・・ふぅ、さてと。
 それではみなさん着席されたところで、これからオリエンテーションを始めたいと思います。わたくしキャビンアテンダントの・・・・・・、あのうタバコと携帯と爆睡はご遠慮くださいね、勝手なおしゃべりも禁止です、他の方のご迷惑になりますので。
 さてみなさんがこの宇宙船に乗船されてからはや2カ月ですが、乗り心地はいかがでしょうか。
 もともと辰巳のみなさんは順応性が非常に高く、どんな環境に置かれてもちゃっかり芽を出すという人並み外れた生き残り能力をお持ちですのであまり心配はしておりません、たぶん今後2年間の宇宙旅行もそれなりに楽しみながら過ごしていただけることと思います。

◆1時限目「天中殺とは」◆
 すでにご存じの方もいらっしゃると思いますが、2012年と2013年は辰巳のみなさんの天中殺期間です。天中殺と聞くと「えっ死んじゃうの?」と短絡的に考えてしまう方も少なくないと思われますが、そうではありません。そんな簡単に死んでたまるもんですか。
 わかりやすく言いますと、天中殺とは「ものごとがスムーズに運びにくい時期」「がんばりが形になりにくい時期」「自分の良さが発揮しにくい時期」のことです。
 人はふつう自分の歩きたいスピードで歩きたい道をさくさく歩いたり走ったりしますが、12年に一度回ってくる天中殺の2年間だけは、見えない手で無重力の宇宙空間に放り出されます。しかし本人の目にはいつも通りの風景しか見えません。あれおかしいな、ちっとも前に進まないじゃんと一生懸命足をバタバタさせるものの、ふわふわ浮いちゃったりくるくる回ったりして全然前に進めない。
 がんばってもらちがあかないので、そのうち疲れちゃう。「あたし、いったいどうしちゃったの?」「俺、もうダメかも」などと頭を抱えてため息をつくわけです。
 よしもう1回! とむりやり立ち上がって悪あがきすることもありますが、やっぱりダメもしくは逆効果なので結局ぐったりしちゃう。
 でもね、それ、あなたのせいじゃないんです。根性が足りないからでも、努力が足りないからでもありません。そういう時期なんです。・・・・・・それが天中殺。 

 天中殺期間は現実世界における豊かさより内面世界の豊かさを追求する時期です。そもそも宇宙空間に浮遊しているわけですから、家なんか建てられないしお金だって使い道がない。いつもそばにいてくれるはずのあの人もなんか存在感が希薄で頼れません。まるで自分一人だけエア牢獄に閉じ込められているみたい。
 そんな状況下でいったい何ができるかと言ったら、ひたすらおのれの心を見つめながらフウフウ息を吹きかけてせっせとみがくしかありません。
「今まで自分はこう生きてきたけどこれでよかったのかな?」
「人にやさしくしてるかな? 悪口言ったり足ひっぱたりしてないかな?」
「どうすればもっと幸せになれるかな?」
 そうやってうんうん考えるあなたの姿を真上から見て、「ん、よしよしその調子。今まで見なかったもの、フタをしていたものに目を向けなさい」と神さまはうなずくわけです。運がよければ、ときたま細ーい蜘蛛の糸を垂らしてくださるかもしれません。
 ・・・・・・何となく、見えてきましたか?
 
◆2時限目「していいことと悪いこと」◆
 さて、この2年間はしていいことといけないことがあります。
 あっ携帯禁止だっちゅうのに五黄の辰巳はすぐ掟を破る! 一白の辰巳は勝手にフィギュアをテーブルに並べない! 七赤の辰巳は一升瓶開けて隣の人と世間話始めないイカも勝手に焼かない、宇宙船がイカくさくなるでしょうっ! 
 ・・・・・・辰巳さんは本当にマイペースでご自分の好きなことしか興味がありませんね、しかも飽きっぽいのでじっと座ってるのが苦手、ああっ先が思いやられるなあ。・・・・・・まあいいか、話を戻します。  

 天中殺の期間は「自分さえよければOK」という自己中心的な考えに基づく行動はすべて裏目に出ると心してください。特に金銭面、地位・名誉・財産に関わる野望面、恋愛面における自分勝手なエゴはきつい揺り戻しがはね返ってきますので要注意、「この世は銭や」「あいつを蹴落として上行こう」「奥さんと別れてちょうだい」などの無理なゴリ押しは禁止、「目ぇ冷ませ反動波」を浴びてノンストップぐるぐる回転刑の末、心や体にトラブルを来すことがあります。
 反対に、損得抜きの善意から出た行動、世直し、人助け、自分自身をレベルアップさせるための勉強や習い事などはまったく問題ありません。あ、お産や育児も問題ありません。自分の命をかけてこの世に新しい生命を生み出し育てる尊い行為ですから。
 基本的に自分から生み出す行為、手放す行為、静かに習得する行為は吉であり、かき集める行為、たぐり寄せる行為、にぎやかにはじける行為は裏目に出やすいと覚えておけばわかりやすいかもしれません。

◆3時限目「んじゃ健闘を祈る」◆
 辰巳天中殺の方々はバリバリの現実主義者ですから、「目に見えない世界なんてあるもんか」「天中殺なんてアホくさい」とお考えになるかもしれません、それはそれでいいと思います。でももしこの先、「あれ? いつになく孤独」とか「なにひとつうまくいかない」と焦りや不安を感じたとき、ご自分が今いる場所を思い出してみてください。いつもとまったく同じ世界で生活しているように見えて、実はあなたの本体は、この宇宙船の中にあるのです。そう、この暗黒の大宇宙をさまよう巨大宇宙船・辰巳号の中です。 

 これから、自分とじっくり向き合って対話する人生が始まります。地道で孤独な時間が流れていくかもしれませんが、あなたの人生になくてはならない非常に大切な2年間になると思います。
 宇宙酔いの際は、どうぞキャビンアテンダントにご相談ください。あなたの悩みをあなたにかわって解決することはできませんが、酔い止めやツボ押し棒、トランプ、かぎ針編み等のご用意がございます。

 それでは引き続き、快適な空の旅をお楽しみください。・・・・・・あ、4月に入りますと「宇宙へようこそ・ウェルカムパーティ」が何の前触れもなく開催されるかもしれませんがどうぞ驚かれませんように。
 かなり体力と気力を消耗しそうですがきっとだいじょうぶ、辰巳天中殺の別名は「荒野のサバイバー」。サボテンのようにしたたかに、タンブルウィード※のようにかろやかに生き抜く知恵と力と勇気をお持ちです。※タンブルウィード・・・砂漠を風に吹かれてころころ転がる回転草

 それでは、引き続き快適な空の旅をお楽しみください。サンキュー。

2012.03.29

女の背中

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 土曜日の夕方に自宅を出て愛車に乗り込みレッツドライブ片道2時間コースのはずが、途中で大渋滞に巻き込まれて片道4時間コースとなった。目的地である巨大ショッピングセンターに到着するとなんと閉店3分前、ぎりぎりセーフとあわてて中に入ると皆さんゆったりお買い物をお楽しみ中だ。
 必要な物を何とか買い終えて車に積み込み、まだ渋滞しているかないやたぶんもう大丈夫でしょう大丈夫になっといてくださいよと祈りつつ右よし左よしも一回右よしはい出発進行〜とJRの車掌になったつもりでエア指さし確認してから発進。
 道路は来たときよりだいぶ流れている、よし土曜日の夜としてこれくらいなら許容範囲であるとアクセルを踏みブレーキを踏みしているうちに非常に空腹であることに気づく。時計を見ると夜10時近い。元気に活動するためにはエネルギーを適宜補給しなければならぬと国道沿いのファミレスに車を止めた。

 入店率80%の店内を窓際の4人掛け禁煙席に案内され、豚肉ソテー定食を注文する。ついでにイチゴパフェもと思ったが時間も時間だしとやめておく。
 うーんちょっと塩辛いですね外食だから仕方ないかとはむはむしていると目の前の4人席に親子連れが案内されてきた。母親と就学前の男の子2人。3人は自分に背を向けて並んで座った。
 夜10時過ぎに幼い児童がまだ起きていて、しかもこれからここで夕飯なのかと思うが人ごとなので目の前の食べ物に集中する。
「・・・・・・タンメンお願いします」
 消え入りそうな母親の声。おっタンメンは私も好きだぞ野菜が多いから消化もいい、ナイスチョイスだ奥さんと心の中で突っ込みを入れる。 
 しーん。
 男児というものは通常わんぱくであり2名群れればわんばく2乗でカオスが形成されるはずなのに眼前の3人はまるで通夜の席のようにしめやかである。
「タンメンお待たせいたしました〜」と店員が向こうのテーブルに丼を乗せた。
 奥さんは箸を割り、食べ始めた。
 軽く肉のついた母親の背中は少し丸まっている。ガラス窓にもたれかかりながら食べている後ろ姿を見ているうちに、あ、この女性はあまり幸せではないなと思った。タンメンをすすっている後ろ姿がむせび泣いているように見えたのだ。
 女の背中は幸運のバロメーターのようなもので、現状に満足しているときは堂々と伸びているが、そうでないときは不安げにくねっている、もしくは光の当たらない植物のようにしゅんとしなびている。いずれにしても鏡に映らない部分なのでたいてい本人は無自覚である。
 男児2人は相変わらず静か、さっき聞こえなかったけど君たち何注文したのと心の中で問いかけるがもちろん返事はない。そのうちに小さい方が飽きたのかくるっとこちらを振り返って所在なさげに私のテーブルを眺めた。3歳くらいだろうか、邪気のない顔だ。
 私はこのとき自分がマジシャンでないことを残念に思った。手のひらからバラの花やトランプを次々に出せたら、空中からおもちゃをパッとつかみ出せたら、この子の顔にはきっと笑顔が浮かんだだろう。
 ごめんねボク私は引田天功じゃないんだよ、土曜日の夜10時すぎにファミレスでひとりぼっちでタンメン食べてる母ちゃんのそばで静かに過ごすしかないボクたちはこれから少しばかり苦労するかもしれないけどがんばりな、そのうち母ちゃんの背中がまっすぐに伸びるといいね。
 こちらを向いた男児に向かって、そんな内容のテレパシーを送った。
 それからおもむろにレシートをつかみ、じゃあなと手を振って、きょとんとした顔の彼を後にしてレジに向かった。

2012.03.11

奥さまは神さまである

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「どうだい今夜? 帰りにちょっと一杯」
「いやあやめとくよ、山の神がうるさいから」
 山の神とは誰か。奥さんである。 

「走りは爽快だし燃費もいいしおすすめの車ですよ、いかがですか?」
「うーんいいなあ、たしかにいいけどかみさんに相談しないとなあ」
 かみさんとは誰か。奥さんである。

 山の神の語源は「どっしり動かない人」「怒らせたらこわい人」、かみさんは「上にいる人」、奥さんは「奥に控えた人」「床の間で祀られる人」。つまり一家の主婦は、その家を支える神さまなのである。
 見せかけの強弱はどうあれ、夫婦の役割分担がどうあれ、その家で最も強い影響力を家族に及ぼすのは夫よりも奥さんだ。だから奥さんのパワーが強い家は、いざというとき強い。

2012.03.09

日当たりの悪い家

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 近所に高層マンションが建った。東、南、西の三方が開けているから日当たりがよくて住み心地がいいだろうなと前を通るたび思っていたのだが、つい最近、そのマンションのそばに別の高層マンションが建った。
 敷地の広さはほぼ同じ、よって建物の構造・規模もほぼ同じ。新しい建物の位置は古いマンションの南側。これは受難である。・・・・・・北側に位置するマンションにとって。

 風水や家相における「吉相の家」の定義は、1に日当たり、2に風通しのいい家だ。
「東に青龍、西に白虎、南に鳳凰、北に玄武(亀)」と古来言われるように、東に川、西に道が伸び、南が大きく開け、北に大きな山があるのが四神相応の吉地とされるものの、現代の住宅事情ではそういう理想的な環境を手に入れるのはなかなか難しく、どこかで何かを妥協しなければならない。
 がそれでも、「1日のうちのどこかで日が当たること」は絶対必要条件として守られねばならない。なぜなら人は誰しも、太陽光線から生きるエネルギーをもらっているからである。
 外に干した衣類の肌ざわりを心地よく感じたり、日に当てたふかふかの布団で寝るとぐっすり眠れたり、日当たりのいい部屋にいると気持ちが明るくなるのは、太陽の気=陽気を体内に吸収しているからだ。

 数年前、仕事でとある家を訪問したことがある。3方を背の高い建物に囲まれて、まったく日の当たらない家だった。
「この家に住むようになってから、私、うつ病になってしまいましてね」
 病気になった心当たりはまったくないのですが、と奥さんは薄く笑う。
 あ、でも、と付け足した。
「ここに住み始めて間もなく、かわいがっていた犬が死んでしまったのです」
 普通ではあり得ないような事故死だったという。
 家の中を見渡すと、晴れた昼間なのにぼんやり薄暗い。
「暗いでしょう? 両隣と裏を他の家にぴったり囲まれているので、朝から晩までずっと灯りをつけっぱなしなんですよ」
 この奥さんのゆううつの原因は毎月届く電気料金の請求書より、日光不足と風通しの悪さではないかと思った。
 光と風が家に入らなければ、家の中に陰の気がどんどん溜まってしまう。よどんだ陰の気は邪気を呼ぶ。邪気の影響を最初に受けるのは、その家で最も弱い者だ。

 しばらく滞在するうち、時間の経過とともに頭痛と吐き気がひどくなってきた。
 夕方にようやく仕事から解放され、よろよろになって同行者とその家を後にした。ふと見ると、同行者の顔も白い。どうしたのと聞くと「入ったときから頭痛と吐き気がひどくて、こらえるのに必死だった」と答える。同行者も自分と同じように感じていたのだ。
 帰宅してからすぐに塩風呂に入ったことは、言うまでもない。

2012.03.05

 

忌み神

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「あなたは生まれてから20歳くらいまでずっと、生きにくかったのではないですか」
 昔、占い師からそう言われたことがある。
「忌み神が憑いていたのです、・・・・・・大量の水に浸されて根腐れを起こしていませんでしたか」と。
 考えてみれば成人して家を出るまで、私には母親という名の忌み神が憑いていた。「親子」という大義名分のもとに「情」という汚水が大量に心身に注ぎ込まれ、やがて体内に収まりきらなくなった水はぽたぽた外部にあふれ出し、よどんだ沼を形成した。まったりといやらしく粘る黒い水の中で、私は息のできない鯉のようにパクパクあえいでいたのだった。
 太陽の光は沼の底まではなかなか届かず、顔を仰向けても、ぼんやりと薄明るい蜃気楼しか見えなかった。
  
 2月の寒い日、日本画家・松井冬子の個展を見に横浜美術館へ。久しぶりのみなとみらいは殺風景な野原から超高層ビルが林立する近代都市へと変貌しており、しばし方向感覚を失った。
 平日のせいか観客は少ない。人口密度が低いぶん、絵から放たれる気をストレートに受け取ることができるので都合がいい。
 薄暗い館内で最初に展示されていたのは、目の見えないボルゾイ犬の絵だ。「盲犬図」と題されたその絵には、意識を暗黒の世界に閉じ込められた犬の絶望感が静かに漂う。
 この時点で観客は不思議の国のアリスとなり、白いボルゾイ犬の後を追って深い穴の底へ落ちていくことになる。
 枯れて崩壊寸前の花や解剖標本のごとく切り開かれた身体、怨念のように細長く垂れ落ちる毛髪など、1枚1枚から濃密に立ちのぼる死の香りにかすかな快感と吐き気を覚えつつ会場を巡るうち、展覧会の副題にもなっている代表作「世界中の子と友達になれる」が現れた。最も見たかった絵だ。

 薄紫色の藤の花が一面に垂れ下がるなか、背中を丸めた少女が画面左側にたたずみ、藤の花をかき分けて左側をうかがっている。素足のつま先が血に染まっているのは、防御のすべを知らない無力さの表われか。
 画面右側には空の揺りかご。元気に泣きわめく赤ん坊を「活動的なエネルギーに満ちあふれた生命の象徴」とするならば、このゆりかごは「もぬけの殻」、つまり魂が抜け去った後のなきがらを意味する。
 だらりと垂れ落ちる藤の花は半分から下が黒い。よく見ると、スズメバチがびっしり群がっている。
 ぶうん。ぶうううん。耳元にスズメバチの羽音がまとわりつく。死体にたかるハエの羽音にも似ている。
 力のない笑みを浮かべる少女の魂は半分抜けかけている。そのまま左側へ進んだ先には藤の花のカーテンが延々続き、彼女はきっと痛みにのたうち回りながら少しずつ迫ってくる死と永遠に対峙させられるに違いない、「この先に行けば世界中の子と友達になれる」という狂った思い込みに絶望的な希望を託しながら。
 藤の花の下でたたずむ少女の姿と、かつて沼の底でもがいていた自分の姿がぴたりと合わさる。この絵の作者もまた、過去に忌み神に取り憑かれたことがあるに違いない。
 
 ひととおり鑑賞して時計を見るとはや夕方。昼食を抜いて空腹のはずなのにまったく食欲が失せていた。喫茶店に入ってとりあえずカプチーノを注文したが、死臭が身体中にまとわりついているような気がして液体を飲み込むのにひどく苦労した。絵の毒気に当たったのだと思う。
 松井冬子の美貌に多くの人が目を惹きつけられるように、彼女が生み出した絵にも見る者をとらえて離さない強い引力がある。だが見た目は美しくても、その奥から放たれるのは猛毒だ。
 かつて忌み神と抜き差しならない関係に陥り、もがき苦しんだ末に命からがら逃げ出した者(=サバイバー)は、トラウマを客観視して昇華できる創造力とテクニックがあればすぐれたアーティストになり得る。しかしその作品を鑑賞する者が同じくサバイバーであった場合、底なし沼に引きずり戻されてなかなか抜け出せなくなる危険がある。
 横浜に行ってからしばらくの間、私は暗い不思議の国をさまよい続けることになった。スティーブン・キングの「IT」に出てくる道化師姿の鬼=ペニーワイズのように忌み神はたぶん不死であり、機会があればいつでもまた一緒に楽しくダンスを踊ろうと死角からこちらを狙っているのではないかと恐れるようになった。
 しかし、やすやすと憑かれるわけにはいかない。

 迷宮から脱出するには「お笑い」が効く。漫才やお笑いコントには邪気や陰気を笑い飛ばす=祓い飛ばすパワーがあるからだ。
(古来、笑う門には福来たるというように、古今東西お笑いがすたれないのは、それが邪気をすばやく祓える強力な呪術だからではないか。漫才師やお笑い芸人は現代のシャーマンなのだ。)
 youtubeを見ながら笑っていると、スッと肩が軽くなった。愛は地球を救う、いや、お笑いはサバイバーを救う。

2012.03.05