夢を見た。タンスから石仏を取り出し、庭に置いている夢だ。(夢だからちっとも重くない。)
人間と同じ大きさの石仏が3〜4体、みな、おだやかな顔を太陽に向けている。
すると、どこからか声が聞こえた。
「奥深くにあるものほど、たまには取り出して明るい日に当てなさい」
あっ、それが極意なのかとハッと気づいて目が覚めた。
2010.11.04
1年ぶりに会う友人とランチのため家を出て最寄り駅に向かうと、横断歩道の手前で松葉杖をついた人に遭遇。
横断歩道を渡るとまた松葉杖の人が向こうからやってきた。
追い越して進むとまたまた松葉杖の人がいる。
何も考えず電車に乗り、乗り換えのため改札を出るとこれまた松葉杖の人が向こうから歩いてくる。
今日は松葉杖をよく見るなあと思いつつK駅に到着、少し早く着いたので駅周辺をブラブラしていると目の前に松葉杖の人。
もしや自分の気づかぬうちにどこかで天変地異や事故でもあったのかと一瞬不安になるが、街はいつもと変わらず明るくにぎやか、どうもそうではないらしい。
時間通りにやってきた友人は相変わらずきれいでスタイル抜群。この人はいつ見ても美しい、まったく現実感のないところもすばらしいと頭の中でほめたたえながらイタリアンの店に入る。チキンのバルサミコ酢ソテーと前菜、パスタ、サラダの盛り合わせプレートに赤ワインとパンとデザートがついて1000円はお値打ちだ。
ワイングラスを持ち上げた瞬間「ほどほどにな」と右肩上からささやき声、いいじゃんたまにはと無視してひとくち飲むと、これがうまい。加速がつかないよう注意しながら、ワイン1杯と料理を約3時間かけてちびちび味わう。
ものすごくおもしろい友人の話に笑い転げていると、「お昼の部はもう終わりです」と店の人が勘定書を持ってきた。仕方ないので店を出て、K駅周辺をそぞろ歩く。
公園やデパートや商店街や路地や神社仏閣がギュッと詰まったこの街は、平日・週末に関係なく1年じゅう大勢の老若男女でにぎわっている。おおらかで豊かな雰囲気からして、街を守護しているのは弁天さまではなかろうか。
友人と商店街をそぞろ歩いていると、松葉杖の人がふっと目の前を通り過ぎる。
これは絶対何かある、松葉杖が意味するものは何だろう?
不自由? 足かせ? 依存? 故障?
いろいろ考えるが、思い当たらない。
友人と別れ、足もとに気をつけながら電車に乗った。電車はガラガラ、広いシートに余裕で座ってぼんやり窓の景色をながめていると、松葉杖をついた女の子が突然やってきて目の前にどさっと座る。体のわきに2本の松葉杖を置き、無心に携帯を操作している。左の足首から甲にかけて包帯ぐるぐる巻き。
うわあもう勘弁して、これ何の警告なの。
2つめの駅でドアが閉まる寸前、女の子は思いついたように立ち上がってするりと降りた。あ、松葉杖の力を借りなくてもほぼ歩けるんだ、見た目ほど重症じゃないじゃん。
何事もなく帰宅し、風呂に入って懸命に松葉杖の意味を考えるがやっぱりわからない。ま、いいやとぐっすり就寝。
で、翌朝やっと気がついた。
「今は思うようにならないかも知れないが、何とかがんばって歩きなさい」
たぶんこれだ。思い当たる節がある。
「こいつはボーッとしててたぶん1回じゃわからんから、ダメ押しでしつこく啓示してやろう」と神さまは思ったのであろう。粋なはからい、どうもありがとう。
2010.10.23

数年前、仙台の松島にハマッたことがある。自宅から吉方位であったこと、気に入ったホテルがあったこと、食べものがおいしかったことなど理由はいろいろだが、何より好みの観光名所が集中していたのである。
雄大な杉並木を通り抜けて行く瑞巌寺、渡り橋の底の透かしから海が見えるスリル満点な五大堂、朱塗りの長い橋を渡って行くアドベンチャーな福浦島、かわいいイルカやアザラシに会えるマリンピア、名菓「萩の月」「萩の調(しらべ)」で知られる菓匠三全(イートインあり)。
「バラ寺」「苔寺」と呼ばれる円通院もすばらしい。植物が膝の高さまでうっそうと生い茂る墓所は、1人でぼんやりするには最高の場所だ。
しかしなんと言っても特筆すべきは雄島(おしま)であろう。神秘的な切通しを抜けた先には、真っ赤な渡月橋。その橋を渡った向こうは静けさと神秘に満ちた異界である。
小さな島内には石塔や仏像が建ち並び、島の岩肌のあちこちに四角い岩窟が彫られている。岩窟は、ちょうど人が1人座れるくらいの大きさだ。
雄島はその昔、見仏上人という高僧がこもって修行をした島であり、僧や俗世を捨てた者たちがここに集まり、岩窟に座って修行したという。
夏が近いある晴れた日、私はこの島を訪れ、小高い丘に座って松島の海を1人でぼんやりながめていた。周囲には誰もいない。
海に浮かぶ島々を縫うように、白い遊覧船がゆっくり進んで行く。のどかな風景だ。
おだやかな日差しがぽかぽかと温かく気持ちがいいので、靴を脱いで素足になった。土が温かい。白い足の甲を1匹の蟻が渡ってゆく。それをじっと見つめるうち、「この島で暮したらどうなるだろう」と思い、しばし夢想にふけった。
1、2時間くらいそうしていただろうか。背中の向こうが何となく頼りなくなり、立ち上がって歩き出した。
薄暗い木々のふもとで座禅を組む、巨大な仏像が眼前にあらわれた。何だかその仏像が生きているような気がして不安になり、出口に向かった。
岩壁にぐるりと取り囲まれた薄暗い広場に出た。空気がしんと冷えている。
岩壁は1カ所トンネル状にぶち抜かれており、光の射す明るいあちら側に通じている。そこを通って島内から出る構造だ。
岩壁にはさまざまな形の岩窟がうがたれていた。仏像や卒塔婆が収められている岩窟もあった。
じっと見ているうち、岩窟の中で座禅を組んだまま静かに事切れた僧の姿がふと目に浮かんだ。
あ、まずい。
広場の草むらに、たくさんの死体が転がっている映像が脳裏をよぎる。
そうか、ここ、死体置き場だったんだ。
そう気づいて鳥肌が立った。
早くここを立ち去らねば。しかし外に出るには、この薄暗いトンネルを通り抜けなければならない。トンネルはけっこう奥行きがある、何秒間歩けばいいのか。もし、途中で何かに捕まって身動きができなくなったら?
私はこわごわトンネルに足を踏み入れた。
ひんやり冷たい空気が全身にまとわりついた。
できるだけ五感を閉じて歩いた。
雄島はその昔、御島とも書かれた。オシマ、オンシマ、・・・・・・、怨島?
自分を取り巻く空気が冷気を増した。明るい世界の向こうへ走った。
雄島が「あの世とこの世の境目」であり、「死者の骨や遺髪を葬り、浄土往生を願う日本有数の霊場」と知ったのは自宅に戻ってからのことだ。
その島を一歩も出ず、12年間にわたって修行した見仏上人はやがて法力を身につけ、鬼神を操ったり、瞬間移動を行うようになったと言われる。
いつ行っても、あの島にほとんど人がいない理由がこれでわかった。雄島は死者の島なのだ。
それでも、無性に惹かれるのはなぜだろう?
「岩窟の中に座ったらどんな気持ちになるだろう」とつい想像してうっとりしてしまうのは、私という人間の性(さが)なのだろうか。
2010.10.13
雲ひとつない秋晴れの体育の日、新宿西口高層ビル街へギリヤーク尼ヶ崎を見に行った。過去にいろいろな舞踏をスタジオや舞台で見たが、街頭で見るのは初めてだ。
広場には20代の若者から70代の年輩者まで、すでにたくさんの観客が集まっている。平均的な年齢層は高く、女性より男性のほうが多い。そのせいか、落ち着いた雰囲気。
80歳の「生ける伝説」はいったいどんな踊りを見せてくれるのだろう?
ワクワクしながら登場を待っていると、本人が風のようにするりと登場。長髪の、「おじいさん」というよりは「おじさん」が普通にカートを引いている。「のっぽさんに似ている」と思う。
散らばっている観客が一斉に前に集まり、人垣ができる。背伸びしてものっぽさん、いやギリヤークさんが見えないので舞台のわきへ移動。そうか、座って化粧をしているから見えなかったのかと気づく。
化粧が済むと、立ち上がって演目札を掲げ、口上。演目札は年季が入ってもうボロボロ。姿勢を正し、スピーカーから流れる津軽三味線に合わせておもむろに踊り出した。
「80歳」「ペースメーカー入り」と聞いて「ほとんど動かずに踊るのではないか」と予想していたが、あにはからんや、大数珠はブンブン振り回すわ、大股を広げてゴロゴロ転がり回るわ、高い階段を駆け上って周辺をひとっ走りして階段を駆け下りて舞台に戻って頭からバケツの水をざぶんとかぶって再び踊り狂うわ、かなりダイナミックである。
あちこちから「ギリヤーク!」「尼ヶ崎!」の野太いかけ声がかかり、白いおひねりが宙を飛び交う。
日陰だった広場に、ゆっくり陽が射してきた。念仏を唱えながらそろそろと歩くギリヤークを黄金色の光が包み込む。「南無阿弥陀仏」の流れる中、「おかーさーん」と叫んで仰向けに昇天。大拍手が鳴り響く。
演目がひととおり終わり、そのままトークに移った。
「踊りには到達点がない。いまだにあがるし、調子が悪いときもある。まだまだ修行です」
「ペースメーカーが入っているし、膝も腰も悪いけれど、88歳の50周年まで何とかがんばります」
ざんばら髪の老人は地べたにぺたんと正座し、淡々と話し続ける。観客がそれを温かく見守る。
ふと横を見ると、ポストカードがテーブルに並んでいた。1枚200円也。美しい肉体を誇示するように、手を広げてスッと立っている若かりしころのギリヤークが写っている。この人ハンサムだったのだなあと驚いて目の前の老人と見比べる。
老いるということは体が小さくなって皮膚が乾いて動きがゆっくりになることだ、だが肉体は縮んでも魂は変わらない。どんどんひからびる肉体をそれでも懸命に駆使して魂を表現するこの人は本当にすごいと感心しつつ、小腹が空いたのでその場を後にしてすぐ近くの釜揚げうどんの店に入った。プエルトリコの兄ちゃんが「お熱いのでお気をつけください」とそっと丼をサーブしてくれる。
いも天を乗せたかけうどんをすすっていると、「ギリヤークさんも相変わらずお元気やなあ、俺たちもがんばらんといかん」と芸人らしき男女の会話が耳に入ってきた。目の前には10代の赤毛の白人3兄弟(兄ちゃん、姉ちゃん、弟)が座って仲良くうどんをすすっている。
観光白人、君たちは賢い、ものすごく物価の高い東京において、うどんはうまい・早い・安いの三拍子がそろった素晴らしい食べ物であることをよくご存じだなと心の中でほめ、世の中には実にさまざまな人生が同時進行しているものだと感心し、すり下ろし生姜のきいた汁を一気に飲み干した。
2010.10.12

神社仏閣やパワースポット(聖地)をめぐることがちょっとしたブームになっているようだが、これは日本に限ったことではなく、かつ今に始まったことでもなく、ずっと昔からあらゆる場所で連綿と続いている行為だろう。
なぜなら人生に行きづまったときや不安なとき、心配事があるとき、人間はより大きな存在にすがりつきたくなるからだ。
「神さま、助けてください」
「正しい道をお示しください」
「どうか力をお貸しください」
そうやって神さまの前で真摯に祈れば、願いはきっと聞き届けられると私たちは信じている。
では、実際はどうなのか。
神さまに祈ったすべてのことが叶えられたら、世の中はぐじゃぐじゃになってしまう。たとえば同じ男性を好きなA子さんとB子さんがそれぞれ「神さま、どうかあの人が私のものになりますように」と祈り、それが叶えられてしまったらどうなるか。相手の男性は身が持たないであろう。
だから、世の中には「叶えられる願いごと」と「叶えられない願いごと」が存在する。「叶えられない願いごと」とは、次のようなものではないか。
◆それが叶うと明らかに本人にとっても周囲にとってもプラスにならないこと(「Xさんが妻子と別れて私のものになりますように」「憎いZさんがひどい目に遭いますように」など。祈っている当の本人にはそれがまっとうな望みでないことを認識できていないことが多い)
◆本人の資質と実力をはるかに超えた高望み(「明日目がさめたらロックスターになっていますように」「アイドルのK君と結婚できますように」など)
◆適当に願ったこと(「とりあえず金持ちになりたい! でいいや」)
それが叶えば本人はもちろん、周囲にとっても大きなメリットがある願いごとなら、そして本人がハードルを乗り越えるべく必死に努力するなら、さらにその夢がかなうことを本人が心の底から真剣に願うなら、多少時間がかかっても、少々力が足りなくても、少しばかり邪魔が入っても、必ず現実化するのではないか。
では、同じような「叶えられるべき願いごと」を持つ、同じような条件下のA子さんとB子さんがいたら、神さまはどちらの祈りを先に聞き届けるだろうか。
神さまの立場になって考えれば、答えは簡単である。
「A子はいつも私のところにやってきて、けなげに手を合わせて頭を下げる。しかしB子は一度も私のところに来たことがない」
どちらがかわいいか。もちろん、自分を慕ってくるほうである。で、「顔見知り」であるA子の言うことを先に聞いてやるわけである。
古今東西・老若男女を問わず、多くの人が神社仏閣、パワースポットにせっせと足を運ぶのは、神さまに顔を覚えてもらいたいからだろう。
人々の願いを親身に聞いてくれる神さまは、人間的な情をお持ちのはずだ。ならば御前にわざわざ足を運ぶことは、あながち無駄ではないように思う。
2010.09.18

いつの間にか立秋が過ぎ、処暑が過ぎた。
処暑と言えば「暑さがおさまり朝夕は涼しくなる頃」のはずだが、そういう気配はみじんもなく、夜になっても逃げ場のない熱気がむわっと空中をさまよっている。こんなに暑い夏は久しぶりだ。
夜、神楽坂を歩いていると人だかりに遭遇した。赤城神社の遷御の儀の真っ最中だった。
人垣の中に入ってしばらく見ていると、裃(かみしも)を着てたいまつを持った人の後に続き、正装した神職が4人、ぼんやり光る白い絹垣の柱を持って歩いてくる。
四角く囲われた絹垣の中にはもうひとり神職がいて、御霊(みたま)を捧げ持ってするする歩いていると思われるが、中は見えない。もちろん、のぞき見してもいけない。一般人が御霊の姿をじかに見ることは禁じられているのだ。
白い絹垣がふわりと目の前を通り過ぎた瞬間、何かものすごくピュアで稚拙なもの、わかりやすくたとえるならケガレのない稚児のようなものの存在が感じられた。「原型」という言葉が頭をかすめる。
それは一見すると弱々しくてはかないが、いざとなると人知を越えたすさまじい力を発揮するのではないか。だからこそ世間から隔離され、機嫌を損ねないよう、うやうやしく神殿に奉られているに違いない。
和御霊(にぎみたま)と荒御霊(あらみたま)。神さまには両極の二面性がある。だからこわい。
「暑いぞ、この国はいつからこんなに暑くなったのじゃ」
白い絹垣にガードされた神さまは、久しぶりに娑婆に出てさぞびっくりされたであろう。
新しい本殿に鎮座ましましたあと、冷たい水や酒、もしかするとビールまでもグビグビ飲まれ、プッフワァーッ!! もっと持ってこーいっ!!! と鼻の下に白いヒゲをふちどられたであろうことは想像に難くない。
2010.08.24

休日の夜、帰宅のため駅前のターミナルでバスを待っていた。濃いブルーの空がときおりピカピカッとストロボのように光るのをぼんやりながめていると、「雨は降らないのに雷がすごいわねえ、ああ、あんなに空が明るい。大自然というのは本当に人知の及ばない世界ね」と自分の前に並んでいた60歳くらいの小柄な婦人が私に言う。
おかっぱ頭ですっぴん、涼しげなワンピース、くるぶし丈のソックス。童女がそのまま年を重ねたような風貌。
「私が子どものとき、伊勢湾台風が来てね。あっという間に水がこの辺まで上がってきたの」
水平にした手を、鼻のあたりまで持ち上げる。
「すぐ2階に避難して外を眺めていたら、うちの犬が水の中を犬かきして泳いでいるのが見えたから、それを家に引き上げて。ああ、私たちは自然には歯が立たないんだなあって思ったわ」
あ、また光った、すごいね、そう言って空を見上げてから人なつこい目で私を見る。
「真っ先に救援物資を送ってくれたのは中国でも韓国でもない、アメリカよ。いろいろな意見があるけれど、安保条約ってこういうときに効くんだって思ったわ。一度交わした約束っていうのは、きちんと効力を発揮するものなのよ。安保条約に限らず、世の中はすべてそう。そういうしくみになっているの」
バスが来た。
バスで見知らぬ人から話しかけられるのはこれで何度目だろう、経験を積んだ人の話はおもしろい、こういう話はネットやテレビでは絶対に聞けないものなあ。
バスを降りると小雨がパラパラ降っている。私は雨粒を肌に感じながら「約束」について考えた。
約束は、人間同士だけでかわすものとは限らない。人間と神さまの間にもかわされるはずだ。
「神さまどうかこの地域をお守りください、毎日お供え物をして、年に一度は派手なお祭りをしますから」
「この仕事で成功したいのです。そうすればたくさんの人が幸せになれます」
「私は大金持ちになり、それを恵まれない人たちに分けてあげたいのです」
その夢や希望が本人にとっても神さまにとっても何らかのメリットがあり、なおかつ途中で契約違反をしない限り、取り交わされた約束はいざというとき確実に効力を発揮するだろう。
だがこういう場合はどうだろう?
「神さま、どうかお金持ちになれますように」
「玉の輿に乗れますように」
「この世の幸せがすべて手に入りますように」
どんなにたくさんお賽銭を投げてそう祈っても、「お前はそれでいいだろうよ、だけどそれ、わしに何のメリットがあるの?」と神さまは軽く一蹴することだろう。
自分の希望が叶うことで、相手にもメリットが生じること。それをきちんと踏まえたうえで交渉するのが、約束を取り付ける際のコツだと思う。一方通行はただの「お願い」、双方向性があるのが「約束」。相手が人間であれ神さまであれ、そこに注意すれば夢はずっと叶いやすくなるのではないだろうか。
2010.07.25

2010年は7月20日から夏土用に突入。これから8月7日の立秋前日までの18日間が夏土用である。
春(73日)→春土用(18日)→夏(73日)→夏土用(18日)→秋(73日)→秋土用(18日)→冬(73日)→冬土用(18日)(※日数は「おおよそ」)。季節はこの順番に巡っていくと昔の中国の人は考えた。土用とは、季節と季節の変わり目の期間のことだ。
中国で生まれた陰陽五行説では、あらゆる事象を木・火・土・金・水の5種類の気に分類する。
季節もしかり。春は木の気、夏は火の気、秋は金の気、冬は水の気、土用は土の気が旺盛になる季節と考える。春は木の芽が吹き出す季節、夏は太陽が燃えさかる季節、秋は金が熟成される季節、冬は冷たい雨や雪が降って水気が多くなる季節、土用は土の中でさまざまな変化が生じる季節。
だから昔から土用に土いじりをしたり、土木工事をするのは大凶とされている。土の中で起こっている大自然の変化に、人間がちょっかいをかけることになるからだ。
地面の下の世界は目に見えないが、中で起こっている変化のパワーは人知を越えるほど大きいと考えられる。なにせ、18日間で季節を変えなければならないのだから。
そのため、土用期間中の天・人・地の間に流れる気のバランスはかなり乱れる。海に行く人は土用波、山に行く人は迷子や神隠し、あるいは酷暑による夏バテ、イライラから来るストレスやケンカ、デート前のカーラーの取り忘れなどにも要注意だ。
夏土用は火の気の影響を受けるため、突発的で派手な事故が起こりやすい。
火の気を鎮めるためには、次の方法が有効だ。
◆インテリアに清涼感を取り入れる(透明感のある素材や寒色系の家具を置く、涼しげな観葉植物を飾るなど)
◆トマトやなす、キュウリなど夏の食材をたっぷり食べる(夏に出回る食材は体を冷やす作用がある)
◆波の音を聞く(CDなどでOK)
◆浴そうにハッカ油を垂らして入浴する(ほんの数滴でクールスパに変身)
◆涼しいところで眠る(昼寝も推奨)
「それっ、旅行!」もいいが、夏土用期間中はあまりあくせく動き回らず、スイカでも食べて稲川淳二の話でも聞きながらのんびり過ごすのが一番。
猛暑のなかで働かねばならない方は、ふだんの7割程度で余力を残しながらほどほどにがんばればいいと思う。
2010.07.20

たまにレンタルショップへ行ってCD狩りをしている。
膨大な棚にはさまざまな音が無限にひしめいており、いったいどんなジャンルがあってどんなミュージシャンがいてどんな楽曲を作っているのかよくわからないのだが、とにかく目についたものをジャンルや国やミュージシャンを踏み越えて手当たり次第に借りている。
R&B、ロック、ポップス、ラウンジ、ハウス、ダンス、ジャズ、レゲエ、ワールドミュージック、クラシック、歌謡曲、演歌・・・・・・エトセトラ。
正直言って大半のCDはスカである。確率的には本や映画と同じくらい、もしかするとそれ以上の確率ではずれが多い。だから、未知のCDは20枚のうち1枚当たりが出れば大ラッキーといった宝くじ感覚でいつも借りている。50枚借りてもダメだこりゃなときもある。だからこそ、当たりが出たときの喜びは何ものにも代えがたい。
いい音霊(おとだま)にめぐりあうことは幸いである。いい音霊は生きる力をくれる。それは「流行りもの」や「人の評判」や「定番」などとはまったく無関係の場所で、ひとり静かにじっと身を潜めている。まるで深い森に住む隠者のようだ。
隠者に会うには、うっそうとした森の茂みをかき分けて進まねばならない。森の中に標識はなく、ただ自分の直感だけが頼りだ。
2010.07.12

6月30日は夏越の大祓(なごしのおおはらい)である。
これは、1年の前半にたまった心と体の邪気(ストレス)を祓い清めましょうという日本古来の行事だ。
ちょうど今ごろの季節は、「なんだかイライラする」「体調がいまひとつすぐれない」「ものごとがスムーズに進まない」などのネガティブな現象が起こりがちである。なぜか。
大気中の湿気が多いため、体内にたまった邪気が毛穴から蒸発しないからである。スカッと晴れて湿度が低ければ、もやもやは汗と一緒に毛穴からスーッと蒸発する。だから梅雨時は誰でも不快感を感じやすい。
少しでも快適に過ごすためには、次の方法が有効だ。
◆除湿機をかける
◆まめに掃除する(掃除機をかけるだけでなく、床にこびりついた汚れも雑巾で拭き取る)
◆ものを捨てる(「長く使ってきたけどもう古くて用をなさない」というものは6月、12月が捨てどき。今まで引きずってきた念も一緒に捨てられるので心身が軽くなる)
◆運動して汗をかく(その後、シャワーを浴びる)
◆湯船に粗塩を入れて入浴する(粗塩には清めの作用がある)
きわめつけは神社でお祓い、つまり神だのみだ。行くなら地元の神社、つまり氏神さまがいい。
氏神さまとは、自分の住んでいる地域を管轄する神さまのことで、「目に見えない長老」みたいなものである。その地域のことなら、もうすべてわかっているのである。
「あ、お前はあそこに住んでる子だね。うン、来たの。お姑さんにいぢわるされてるのにいつもよくがんばってるねえ、じゃあ悪いものぜーんぶ祓ってあげるからね、ちょっとアタマ下げて」とか「お前、へっぴり腰だけどかわいい氏子だから力貸すよ。祓いたまえ 清めたまえ って3回唱えてみな。後半戦、パワー出てくるから」てな具合である。
そうやって神さまにごあいさつしておくと、7月からの流れが違ってくると思う。不調だった人は好調に、好調だった人は絶好調になっていくはずだ。
「神社行ったのに全然ダメじゃん」という人は自分に非がある可能性がある。神さまがせっかく道を開いてくれてるのに、今までと同じ姿勢でしゃがんでいるからである。立ち上がって明るいほうへ行くといいと思う。
2010.06.29