ギリヤーク尼ヶ崎

 雲ひとつない秋晴れの体育の日、新宿西口高層ビル街へギリヤーク尼ヶ崎を見に行った。過去にいろいろな舞踏をスタジオや舞台で見たが、街頭で見るのは初めてだ。
 広場には20代の若者から70代の年輩者まで、すでにたくさんの観客が集まっている。平均的な年齢層は高く、女性より男性のほうが多い。そのせいか、落ち着いた雰囲気。
 80歳の「生ける伝説」はいったいどんな踊りを見せてくれるのだろう?
 ワクワクしながら登場を待っていると、本人が風のようにするりと登場。長髪の、「おじいさん」というよりは「おじさん」が普通にカートを引いている。「のっぽさんに似ている」と思う。
 散らばっている観客が一斉に前に集まり、人垣ができる。背伸びしてものっぽさん、いやギリヤークさんが見えないので舞台のわきへ移動。そうか、座って化粧をしているから見えなかったのかと気づく。
 化粧が済むと、立ち上がって演目札を掲げ、口上。演目札は年季が入ってもうボロボロ。姿勢を正し、スピーカーから流れる津軽三味線に合わせておもむろに踊り出した。
「80歳」「ペースメーカー入り」と聞いて「ほとんど動かずに踊るのではないか」と予想していたが、あにはからんや、大数珠はブンブン振り回すわ、大股を広げてゴロゴロ転がり回るわ、高い階段を駆け上って周辺をひとっ走りして階段を駆け下りて舞台に戻って頭からバケツの水をざぶんとかぶって再び踊り狂うわ、かなりダイナミックである。
 あちこちから「ギリヤーク!」「尼ヶ崎!」の野太いかけ声がかかり、白いおひねりが宙を飛び交う。
 日陰だった広場に、ゆっくり陽が射してきた。念仏を唱えながらそろそろと歩くギリヤークを黄金色の光が包み込む。「南無阿弥陀仏」の流れる中、「おかーさーん」と叫んで仰向けに昇天。大拍手が鳴り響く。

 演目がひととおり終わり、そのままトークに移った。
「踊りには到達点がない。いまだにあがるし、調子が悪いときもある。まだまだ修行です」
「ペースメーカーが入っているし、膝も腰も悪いけれど、88歳の50周年まで何とかがんばります」
 ざんばら髪の老人は地べたにぺたんと正座し、淡々と話し続ける。観客がそれを温かく見守る。
 ふと横を見ると、ポストカードがテーブルに並んでいた。1枚200円也。美しい肉体を誇示するように、手を広げてスッと立っている若かりしころのギリヤークが写っている。この人ハンサムだったのだなあと驚いて目の前の老人と見比べる。
 老いるということは体が小さくなって皮膚が乾いて動きがゆっくりになることだ、だが肉体は縮んでも魂は変わらない。どんどんひからびる肉体をそれでも懸命に駆使して魂を表現するこの人は本当にすごいと感心しつつ、小腹が空いたのでその場を後にしてすぐ近くの釜揚げうどんの店に入った。プエルトリコの兄ちゃんが「お熱いのでお気をつけください」とそっと丼をサーブしてくれる。
 いも天を乗せたかけうどんをすすっていると、「ギリヤークさんも相変わらずお元気やなあ、俺たちもがんばらんといかん」と芸人らしき男女の会話が耳に入ってきた。目の前には10代の赤毛の白人3兄弟(兄ちゃん、姉ちゃん、弟)が座って仲良くうどんをすすっている。
 観光白人、君たちは賢い、ものすごく物価の高い東京において、うどんはうまい・早い・安いの三拍子がそろった素晴らしい食べ物であることをよくご存じだなと心の中でほめ、世の中には実にさまざまな人生が同時進行しているものだと感心し、すり下ろし生姜のきいた汁を一気に飲み干した。

2010.10.12

人はなぜパワースポットに行くのか

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 神社仏閣やパワースポット(聖地)をめぐることがちょっとしたブームになっているようだが、これは日本に限ったことではなく、かつ今に始まったことでもなく、ずっと昔からあらゆる場所で連綿と続いている行為だろう。
 なぜなら人生に行きづまったときや不安なとき、心配事があるとき、人間はより大きな存在にすがりつきたくなるからだ。
「神さま、助けてください」
「正しい道をお示しください」
「どうか力をお貸しください」
 そうやって神さまの前で真摯に祈れば、願いはきっと聞き届けられると私たちは信じている。
 では、実際はどうなのか。
 神さまに祈ったすべてのことが叶えられたら、世の中はぐじゃぐじゃになってしまう。たとえば同じ男性を好きなA子さんとB子さんがそれぞれ「神さま、どうかあの人が私のものになりますように」と祈り、それが叶えられてしまったらどうなるか。相手の男性は身が持たないであろう。
 だから、世の中には「叶えられる願いごと」と「叶えられない願いごと」が存在する。「叶えられない願いごと」とは、次のようなものではないか。
◆それが叶うと明らかに本人にとっても周囲にとってもプラスにならないこと(「Xさんが妻子と別れて私のものになりますように」「憎いZさんがひどい目に遭いますように」など。祈っている当の本人にはそれがまっとうな望みでないことを認識できていないことが多い)
◆本人の資質と実力をはるかに超えた高望み(「明日目がさめたらロックスターになっていますように」「アイドルのK君と結婚できますように」など)
◆適当に願ったこと(「とりあえず金持ちになりたい! でいいや」)

 それが叶えば本人はもちろん、周囲にとっても大きなメリットがある願いごとなら、そして本人がハードルを乗り越えるべく必死に努力するなら、さらにその夢がかなうことを本人が心の底から真剣に願うなら、多少時間がかかっても、少々力が足りなくても、少しばかり邪魔が入っても、必ず現実化するのではないか。
 では、同じような「叶えられるべき願いごと」を持つ、同じような条件下のA子さんとB子さんがいたら、神さまはどちらの祈りを先に聞き届けるだろうか。
 神さまの立場になって考えれば、答えは簡単である。
「A子はいつも私のところにやってきて、けなげに手を合わせて頭を下げる。しかしB子は一度も私のところに来たことがない」
 どちらがかわいいか。もちろん、自分を慕ってくるほうである。で、「顔見知り」であるA子の言うことを先に聞いてやるわけである。
 古今東西・老若男女を問わず、多くの人が神社仏閣、パワースポットにせっせと足を運ぶのは、神さまに顔を覚えてもらいたいからだろう。
 人々の願いを親身に聞いてくれる神さまは、人間的な情をお持ちのはずだ。ならば御前にわざわざ足を運ぶことは、あながち無駄ではないように思う。

2010.09.18 

遷座

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 いつの間にか立秋が過ぎ、処暑が過ぎた。
 処暑と言えば「暑さがおさまり朝夕は涼しくなる頃」のはずだが、そういう気配はみじんもなく、夜になっても逃げ場のない熱気がむわっと空中をさまよっている。こんなに暑い夏は久しぶりだ。
 
 夜、神楽坂を歩いていると人だかりに遭遇した。赤城神社の遷御の儀の真っ最中だった。
 人垣の中に入ってしばらく見ていると、裃(かみしも)を着てたいまつを持った人の後に続き、正装した神職が4人、ぼんやり光る白い絹垣の柱を持って歩いてくる。
 四角く囲われた絹垣の中にはもうひとり神職がいて、御霊(みたま)を捧げ持ってするする歩いていると思われるが、中は見えない。もちろん、のぞき見してもいけない。一般人が御霊の姿をじかに見ることは禁じられているのだ。
 白い絹垣がふわりと目の前を通り過ぎた瞬間、何かものすごくピュアで稚拙なもの、わかりやすくたとえるならケガレのない稚児のようなものの存在が感じられた。「原型」という言葉が頭をかすめる。
 それは一見すると弱々しくてはかないが、いざとなると人知を越えたすさまじい力を発揮するのではないか。だからこそ世間から隔離され、機嫌を損ねないよう、うやうやしく神殿に奉られているに違いない。
 和御霊(にぎみたま)と荒御霊(あらみたま)。神さまには両極の二面性がある。だからこわい。

「暑いぞ、この国はいつからこんなに暑くなったのじゃ」
 白い絹垣にガードされた神さまは、久しぶりに娑婆に出てさぞびっくりされたであろう。
 新しい本殿に鎮座ましましたあと、冷たい水や酒、もしかするとビールまでもグビグビ飲まれ、プッフワァーッ!! もっと持ってこーいっ!!! と鼻の下に白いヒゲをふちどられたであろうことは想像に難くない。

2010.08.24

 

バス停の教え

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 休日の夜、帰宅のため駅前のターミナルでバスを待っていた。濃いブルーの空がときおりピカピカッとストロボのように光るのをぼんやりながめていると、「雨は降らないのに雷がすごいわねえ、ああ、あんなに空が明るい。大自然というのは本当に人知の及ばない世界ね」と自分の前に並んでいた60歳くらいの小柄な婦人が私に言う。
 おかっぱ頭ですっぴん、涼しげなワンピース、くるぶし丈のソックス。童女がそのまま年を重ねたような風貌。
「私が子どものとき、伊勢湾台風が来てね。あっという間に水がこの辺まで上がってきたの」
 水平にした手を、鼻のあたりまで持ち上げる。
「すぐ2階に避難して外を眺めていたら、うちの犬が水の中を犬かきして泳いでいるのが見えたから、それを家に引き上げて。ああ、私たちは自然には歯が立たないんだなあって思ったわ」
 あ、また光った、すごいね、そう言って空を見上げてから人なつこい目で私を見る。
「真っ先に救援物資を送ってくれたのは中国でも韓国でもない、アメリカよ。いろいろな意見があるけれど、安保条約ってこういうときに効くんだって思ったわ。一度交わした約束っていうのは、きちんと効力を発揮するものなのよ。安保条約に限らず、世の中はすべてそう。そういうしくみになっているの」
 バスが来た。
 バスで見知らぬ人から話しかけられるのはこれで何度目だろう、経験を積んだ人の話はおもしろい、こういう話はネットやテレビでは絶対に聞けないものなあ。
 バスを降りると小雨がパラパラ降っている。私は雨粒を肌に感じながら「約束」について考えた。
 約束は、人間同士だけでかわすものとは限らない。人間と神さまの間にもかわされるはずだ。
「神さまどうかこの地域をお守りください、毎日お供え物をして、年に一度は派手なお祭りをしますから」
「この仕事で成功したいのです。そうすればたくさんの人が幸せになれます」
「私は大金持ちになり、それを恵まれない人たちに分けてあげたいのです」
 その夢や希望が本人にとっても神さまにとっても何らかのメリットがあり、なおかつ途中で契約違反をしない限り、取り交わされた約束はいざというとき確実に効力を発揮するだろう。
 だがこういう場合はどうだろう?
「神さま、どうかお金持ちになれますように」
「玉の輿に乗れますように」
「この世の幸せがすべて手に入りますように」
 どんなにたくさんお賽銭を投げてそう祈っても、「お前はそれでいいだろうよ、だけどそれ、わしに何のメリットがあるの?」と神さまは軽く一蹴することだろう。
 自分の希望が叶うことで、相手にもメリットが生じること。それをきちんと踏まえたうえで交渉するのが、約束を取り付ける際のコツだと思う。一方通行はただの「お願い」、双方向性があるのが「約束」。相手が人間であれ神さまであれ、そこに注意すれば夢はずっと叶いやすくなるのではないだろうか。

2010.07.25

夏土用

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 2010年は7月20日から夏土用に突入。これから8月7日の立秋前日までの18日間が夏土用である。
 春(73日)→春土用(18日)→夏(73日)→夏土用(18日)→秋(73日)→秋土用(18日)→冬(73日)→冬土用(18日)(※日数は「おおよそ」)。季節はこの順番に巡っていくと昔の中国の人は考えた。土用とは、季節と季節の変わり目の期間のことだ。
 中国で生まれた陰陽五行説では、あらゆる事象を木・火・土・金・水の5種類の気に分類する。
 季節もしかり。春は木の気、夏は火の気、秋は金の気、冬は水の気、土用は土の気が旺盛になる季節と考える。春は木の芽が吹き出す季節、夏は太陽が燃えさかる季節、秋は金が熟成される季節、冬は冷たい雨や雪が降って水気が多くなる季節、土用は土の中でさまざまな変化が生じる季節。
 だから昔から土用に土いじりをしたり、土木工事をするのは大凶とされている。土の中で起こっている大自然の変化に、人間がちょっかいをかけることになるからだ。
 地面の下の世界は目に見えないが、中で起こっている変化のパワーは人知を越えるほど大きいと考えられる。なにせ、18日間で季節を変えなければならないのだから。
 そのため、土用期間中の天・人・地の間に流れる気のバランスはかなり乱れる。海に行く人は土用波、山に行く人は迷子や神隠し、あるいは酷暑による夏バテ、イライラから来るストレスやケンカ、デート前のカーラーの取り忘れなどにも要注意だ。

 夏土用は火の気の影響を受けるため、突発的で派手な事故が起こりやすい。
 火の気を鎮めるためには、次の方法が有効だ。
◆インテリアに清涼感を取り入れる(透明感のある素材や寒色系の家具を置く、涼しげな観葉植物を飾るなど)
◆トマトやなす、キュウリなど夏の食材をたっぷり食べる(夏に出回る食材は体を冷やす作用がある)
◆波の音を聞く(CDなどでOK)
◆浴そうにハッカ油を垂らして入浴する(ほんの数滴でクールスパに変身)
◆涼しいところで眠る(昼寝も推奨)
「それっ、旅行!」もいいが、夏土用期間中はあまりあくせく動き回らず、スイカでも食べて稲川淳二の話でも聞きながらのんびり過ごすのが一番。
 猛暑のなかで働かねばならない方は、ふだんの7割程度で余力を残しながらほどほどにがんばればいいと思う。

2010.07.20

音霊狩り

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 たまにレンタルショップへ行ってCD狩りをしている。
 膨大な棚にはさまざまな音が無限にひしめいており、いったいどんなジャンルがあってどんなミュージシャンがいてどんな楽曲を作っているのかよくわからないのだが、とにかく目についたものをジャンルや国やミュージシャンを踏み越えて手当たり次第に借りている。
 R&B、ロック、ポップス、ラウンジ、ハウス、ダンス、ジャズ、レゲエ、ワールドミュージック、クラシック、歌謡曲、演歌・・・・・・エトセトラ。
 正直言って大半のCDはスカである。確率的には本や映画と同じくらい、もしかするとそれ以上の確率ではずれが多い。だから、未知のCDは20枚のうち1枚当たりが出れば大ラッキーといった宝くじ感覚でいつも借りている。50枚借りてもダメだこりゃなときもある。だからこそ、当たりが出たときの喜びは何ものにも代えがたい。 
 いい音霊(おとだま)にめぐりあうことは幸いである。いい音霊は生きる力をくれる。それは「流行りもの」や「人の評判」や「定番」などとはまったく無関係の場所で、ひとり静かにじっと身を潜めている。まるで深い森に住む隠者のようだ。
 隠者に会うには、うっそうとした森の茂みをかき分けて進まねばならない。森の中に標識はなく、ただ自分の直感だけが頼りだ。

2010.07.12

夏越の大祓

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 6月30日は夏越の大祓(なごしのおおはらい)である。

 これは、1年の前半にたまった心と体の邪気(ストレス)を祓い清めましょうという日本古来の行事だ。
 ちょうど今ごろの季節は、「なんだかイライラする」「体調がいまひとつすぐれない」「ものごとがスムーズに進まない」などのネガティブな現象が起こりがちである。なぜか。
 大気中の湿気が多いため、体内にたまった邪気が毛穴から蒸発しないからである。スカッと晴れて湿度が低ければ、もやもやは汗と一緒に毛穴からスーッと蒸発する。だから梅雨時は誰でも不快感を感じやすい。
 少しでも快適に過ごすためには、次の方法が有効だ。
◆除湿機をかける
◆まめに掃除する(掃除機をかけるだけでなく、床にこびりついた汚れも雑巾で拭き取る)
◆ものを捨てる(「長く使ってきたけどもう古くて用をなさない」というものは6月、12月が捨てどき。今まで引きずってきた念も一緒に捨てられるので心身が軽くなる)
◆運動して汗をかく(その後、シャワーを浴びる)
◆湯船に粗塩を入れて入浴する(粗塩には清めの作用がある) 
 きわめつけは神社でお祓い、つまり神だのみだ。行くなら地元の神社、つまり氏神さまがいい。
 氏神さまとは、自分の住んでいる地域を管轄する神さまのことで、「目に見えない長老」みたいなものである。その地域のことなら、もうすべてわかっているのである。
「あ、お前はあそこに住んでる子だね。うン、来たの。お姑さんにいぢわるされてるのにいつもよくがんばってるねえ、じゃあ悪いものぜーんぶ祓ってあげるからね、ちょっとアタマ下げて」とか「お前、へっぴり腰だけどかわいい氏子だから力貸すよ。祓いたまえ 清めたまえ って3回唱えてみな。後半戦、パワー出てくるから」てな具合である。
 そうやって神さまにごあいさつしておくと、7月からの流れが違ってくると思う。不調だった人は好調に、好調だった人は絶好調になっていくはずだ。
「神社行ったのに全然ダメじゃん」という人は自分に非がある可能性がある。神さまがせっかく道を開いてくれてるのに、今までと同じ姿勢でしゃがんでいるからである。立ち上がって明るいほうへ行くといいと思う。

2010.06.29

髪質

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 せめて耳の下くらいまでは髪を伸ばし、フェミニンなボブにしようと固く決意したものの、2カ月目にして頓挫。くせっ毛仲間ならおわかりと思うが、湿気の多い梅雨時はぼわんと髪がふくらむのである。
「そうだ、ブラッシングしよう。たんねんにブラッシングすればまっすぐ髪が伸びてサラサラになるのではないか」と期待するも、くせっ毛なので毛を立てたら立ちっぱなしである。おもしろいので鉄腕アトムやユニコーンなど、次々に創作する。
 どうして自分の髪は風になびくタイプではないのかとしだいに腹が立ってきて、やけを起こしてブラシで毛を立てまくったら完ぺきなアフロスタイルになった。
 以前の私なら、その場で迷うことなく縮毛矯正をかけに行ったことだろう。しかし髪の組成を組み替えてむりやりまっすぐ伸ばす縮毛矯正は髪にものすごいダメージがかかるうえ、「これは本当の自分ではない」という違和感が常につきまとい、気持ちに負荷がかかるのである。
 本来はくるくる巻きたくて巻いているものを薬剤や熱によって強制的に伸ばすのは、髪にとっては屈辱であり、ひいては自分自身を否定することにつながるのではないか。
 これは、過去に何十回も矯正しまくってきた私の正直な感想である。 

「髪は性格をあらわす」という説があるが、実際にさらさらでまっすぐな髪の持ち主は性格も素直だし、くせっ毛の持ち主はあまり人の言うことを聞かない傾向があるように思う。悪くいえばクセがある、よく言えば個性的でマイペース。
 でも本当はまっすぐでもくせっ毛でもどちらでもいい、持って生まれたものなのだから仕方ない。たまにパーマをかけていつもと違う自分を楽しむのはいいが、ずっとかけ続けていると「地の自分」が押さえつけられ、本来の個性が発揮できない気がする。はちかつぎ姫のようである。
 なので、私は今は天然のままである。しかし、このままではアフロなモンチッチである。さらに伸ばすとゴーゴンになるのは経験済みである。
 で、どうしたか。美容院へ行き、こう言った。
「あのう、髪を伸ばすのをやめました。ベリーショートにしてください」
「えっ! お客さん、伸ばすって言うから大事に大事にカットしてきたのに」
「はあ、でも頭がぼわんとまるーくなるもんですから」
「今がガマンのしどころなんですよ、これを乗り越えれば収まりがよくなるのになあ」
 せっかく伸びてきたのにもったいないなあ、ワックス使えば多少は収まるんだけどなあと美容院のお兄ちゃんは残念がるが、客のオーダーなので仕方ない。しゃきしゃきいさぎよくハサミをさばいていく。
「できましたよ」
 ミア・ファローの復活だ。そこら辺のメンズより短いだろう。これで、アフロからは脱却できた。
「お客さん、やっぱりベリーショート似合いますねえ」
 たぶん私はこれから生涯ロングヘアーとは縁のない人生を送るだろうなと確信。いや別に悲しくなんかない。

2010.06.21

さわらぬ神にたたりなし

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 10年ほど前、あちこちの神社をめぐり歩いたことがある。今のように「パワースポット」が流行するはるか以前のことだ。
 当時の私は悩みを抱えていて、今から思えば「少しでも運が上がっていい方向に向かいますように」とわらにでもすがる気持ちだったのだと思う。移動や散歩途中で神社仏閣を見かけては、いそいそとお参りしていた。

 その日も、自宅から小一時間ほど歩いてとある町まで散歩した。
 にぎやかな駅前の繁華街に向かう坂の途中に、大きな寺があった。何度もそばを通ってはいたが、何となく「一見さんお断り」のような雰囲気があったため、そこに入ったことはなかった。しかしその日に限ってなぜか入ってみようと思った。
 夏の終わりの夕方で、自分の影が妙に細長く伸びていたのを覚えている。
 境内には誰もいなかった。本堂を見て庭園をひとまわりしたが、だだっ広いだけで神気を感じなかった。その寺は妙にあっけらかんとして、「空洞」という印象だった。
 少々がっかりして門に向かうと、巨大な老木が立っていた。よくみると根もとのほうに大きなうろ、つまり空洞がある。その中に木彫りの一寸法師が収まっていた。なかなか精悍な顔つきである。
 スクナヒコナを祀っているのかな? と思い、手を合わせた。ちなみにスクナヒコナは大国主命(オオクニヌシノミコト)と力を合わせて日本を作った神さまであり、医療の神さまでもある。
 一寸法師に祈っていると、木の根もとからなまぐさいにおいがふわりと立ち上ってきた。気のせいだと思った。 

 寺の外に歩き出してから、あれ? と違和感を覚えた。背中がずしりと重く、胃がムカムカして非常に気分が悪いのである。
 ガマンして、そのまま歩いて帰る。
 帰宅して塩風呂に入ったあとも、何とも言えないいやな感じが続いた。まるで背中に子どもがべったりのしかかっているような重苦しさなのである。
 自問自答するうち、あの一寸法師のせいだと確信。こちらが無防備に手を合わせたので、すかさず憑依してきたのだろう。
 その晩、目に見えない邪気、それもかなりたちの悪いやつと無言の攻防戦を繰り広げることになった。「押されたら押し戻す」を続けてぐったり気疲れしながら、下手に見知らぬ寺に入るもんじゃない、縁起ものだからといって何でもかんでも手を合わせるとひどい目に遭う、これは神頼みで問題を解決したいというさもしい欲得の罰が当たったのだと深く反省した。
 
 人間にもいい人と悪い人がいるように、神さまにもいい神霊と悪い神霊がいる。
 プロや経験値の高い人ならひと目見て「これはありがたい神さま」とか「近づかないほうがいい神さま」などとわかるだろうが、素人にはほとんど見分けがつかない。
 昨今はパワースポットブームでたくさんの人が神社仏閣を訪れるが、「助けてください」の欲得の心は時として魔を呼び寄せる。
 
有名な場所でも、直感で「あ、ここヤバそうかも」「ちょっと違うかも」と感じたら、そのままUターンするか素通りすることをおすすめする。わけのわからないものにうっかり関わると、ろくなことにならないからである。

2010.06.16

病院の選び方

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 病院選びというのは、なかなか難しい。信頼できるかかりつけ医がすでにいる人はいいが、ふだんあまり病気をしない人や引っ越して間もない人は、どこにどんな病院があるかよく知らないし、たとえ知っていたとしても、具体的な評判まではなかなか耳に入ってこない。たとえ有名な病院でも、自分と相性がいいかどうかは行ってみるまでわからない。
 で、たいていネットで検索することになる。
「○○市 病院 ○○科」で検索すると、出るわ出るわ。聞いたこともない名前の病院がわんさか出てくる。しかしそのほとんどは、名前と住所と電話番号と開業時間と地図くらいしか載っていない。運よくホームページがあれば何となく感じはつかめるが、逆に「やめたほうがいいかも・・・」と悩むこともある。で、限られた情報の中で患者はあれこれ迷うのである。
「A病院はうちから近いけど今日は休診日だし、B病院は今日はやっているけどすっごく遠いし、C病院はホムペを見たけど医者の顔が全然好みじゃないし、D病院は大学病院だから待たされそうだし。ああもう、いったいどこに行けばいいの?」
 懊悩し、頭をかきむしっている間にどんどん具合が悪くなっていく。そういうときはどうするか。
 方位で決めるという手がある。自宅から見て吉方位の病院を探すのである。
「吉方位」とは自分を後押ししてくれる方位であり、ツキを与えてくれる方位とされている。
 厳密に言うと北、東北、東、東南、南、南西、西、北西の8つの方位にはそれぞれ独自のパワーが流れていて、たとえば北の吉方位の病院なら「心も身体もじわじわ癒やされる」、東北は「奇跡が起こって一気に挽回できる」、東なら「気持ちが前向きになってイヤでも元気になる」、東南なら「複雑な体調がスムーズにととのう」、南なら「ブラックジャックみたいな医師がいる」、南西は「時間はかかっても確実に治る」、西なら「いい待遇を受けておだやかに養生できる」、北西なら「その道の権威が担当してくれる」などの作用が期待できる。
 避けたいのは凶方位の病院だ。
「治るはずの病気がなかなか治らない」とか「あり得ない医療ミスが起こる」とか「治療費が予想以上にかさむ」とか「相性のよくない看護師に当たってしまう」などのアクシデントが考えられる。

方位で決める」という方法を知っていれば、ああどこにしよう、どこにすればいいのと頭を抱え込まなくて済む。選択肢が限られるので悩む労力と時間が節約できるし、「ここは大吉の方位だからだいじょうぶ」と自信がつき、初めての病院を訪れる不安も多少は軽減するだろう。
 ただし方位学は奥が深く、初心者は戸惑うことも多い。方位に流れる気は年、月、日、時刻単位で刻々と移り変わっていくし、自分の九星(一白水星とか二黒土星とかいうやつ)との相性もあるし、もとよりそれぞれの方位の特徴を覚えるのもひと苦労だ。
 だから、最低限「凶方位の病院は避ける」と心しておくだけでもいいと思う。ちなみに2013年の凶方位は北西だ。北西の凶方位の病院に行くと「医師とそりが合わない」「あてが外れやすい」などの作用が出やすいので注意されたい。

 もちろん、たとえ吉方位でも「スカ」を選ぶ可能性はある。方位云々の前に、いい病院もあればそうでない病院もあるからだ。だから「方位さえよければどこでもいい」と思い込むのは危険である。
◎入り口が乱雑で汚れている病院
◎清潔感のない病院
◎陰気で枯れた雰囲気の漂う病院
◎人気のない病院、つまり流行ってない病院
◎受付に愛想がない病院
 これらの病院には、たとえ吉方位であっても君子危うきに近寄らずである。

 人は本能的にいいものと悪いものを嗅ぎわける。だからいい病院には自然に人が集まるし、そうでない病院には人が集まらない。それは病院に限らず、不特定多数の人間が集まる場所、たとえばホテルでもスーパーでもレストランでもみな同じだ。
 一見しただけでは判断できないとか、勘が働かない場合は、誰か年輩者にたずねてみるといい。たぶん正解を教えてくれると思う。ちなみにネットの口コミはほぼ頼りにならない。
 候補が二カ所ある場合は、行く前に両方に電話して、相手の対応で判断すればいい。「あのう、今日は何時までやっていますか?」でも、「今日は混んでいますか?」でも、なんでもいい。電話に出た人の声が明るく、ホッとする感じなら「行ってOK」、雰囲気が暗かったり、「あれ? なんか違和感がある」と思うなら「行かないほうがいい」と判断する。どちらも同じような印象なら、それほど違いはないということだ。

 以上のことを抑えておけば、大きなミスは防げると思う。
 いい病院がスムーズに見つかり、あなたの痛みやつらさが一刻も早く治りますように。

2010.06.09