羊たちの沈黙  

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 日常の軌道をはずれて小旅行。雲ひとつない青空のもと、愛車のまち子(傷だらけの12歳)はわき目もふらず山上の牧場へ。まち子のボディは私のカルマによってボコボコだが、文句ひとつ言わずよく働いてくれるので感謝している。
 朝8時に出発して昼ごろ到着。都市部の緊張に慣れた目・鼻・耳には、郊外の光・風・空気すべてがおだやかで心地よく感じられる。
 ハイキング気分で小山を登ると、頂上には広大な牧草地。GW後なので観光客はまばら。柵に囲われた放牧場では、明るく温かい光を浴びながら羊の群れが昼寝をしたり、のんびり草をはんでいる。
 坂の下に、巨大倉庫のような大きな建物が2棟見える。坂を下って行ってみる。人の姿がどんどん消えていく。

 ひとつめの建物に到着。建物の外に柵で囲まれた小さな空間があり、そこにへその緒の垂れ下がった子羊と母羊が収容されている。子羊は力なく地面に座り、母羊は不安げにそのまわりをぐるぐる回っている。
 建物の中に入ると、中は一面に干し草が敷かれ、がらんとしている。薄暗いそこは、巨大な羊小屋だったのだ。
 建物を出ると、道の途中に大きな黒い牧羊犬が死んだように横たわっている。 
 ふたつめの羊小屋に到着。中に入る。
 だだっ広い空間に羊が群れている。100匹近くいるだろうか。私が近づいても彼らはぼんやりたたずんだまま、あるいは寝たまま動かない。誰かに時計の針を止められて、ストップモーションがかかっているようだ。
 羊の瞳をのぞき込むと横長の長方形で、頭をなでて話しかけてもぴくりとも動かない。静かな空間に、カツカツと歯をかみ合わせる音だけが響く。エサを食べているのだ。 
 ダイアン・アーバスの「UNTITLED」をふと思い出した。その写真集は知的障害者の施設で暮らす人々の姿を収めたもので、アーバスの遺作となったものだ。(彼女は撮影後にうつが悪化し、自死している。)
 がらんどうの目をした人たちの姿と、目の前の羊が頭の中で重なる。
 ・・・・・・ここにいてはいけない。
 こわくなり、足早にその空間を去った。

 山は強い日差しを浴び、みずみずしい春の草木が勢いよく萌えている。放牧場の羊たちは私のことなど意に介さず、ただ静かにたたずんでいる。

2010.04.17

 

春のお彼岸

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 風が強い。メアリー・ポピンズが「ギャアーッ」と悲鳴を上げて世界の裏側まで一気に吹き飛ばされそうなくらいの強風である。
 そういえば、もう春のお彼岸ウィークに入っている。この時期は例年強風が吹きまくるが、ことしも同じだ。

 お彼岸の時期は太陽が真東から昇り、真西へ沈む。
 西は西方浄土、つまり「あの世」の方位である。昔の人は「お彼岸の時期は最もあの世が近くなる」と考え、沈みゆく太陽に向かって手を合わせた。
 思いはこの世とあの世の境を越えて瞬時に通じる。祈りを受け取った彼方の者もまた、この世に生きる者たちに思いをはせる。すると彼岸(ひがん)と此岸(しがん)の間に神風が吹き、境界がめりめりっと避けて大きな道が通じるのだ。
 ふだんはあの世に携帯なんか通じないが、この1週間だけはあの世への携帯アンテナが3本立つ。もちろん、あちらからの通信もスムーズになるから、虫の知らせが多くなる。 
「お前、元気でやってるの」
「先に逝っちゃってゴメンね。寂しいかい」
「お父さん、あっちはとっても楽しいのよ」
「生きてるときはいぢわるしてゴメンね」
 あの世の人だって、言いたいことはたくさんあるのだ。

 お墓に行って菊を供えるのもいいし、夕陽をぼんやりながめるのもいいし、「おばあちゃんが好きだったなあ」と自宅でぼた餅をほおばるのもいい。それだけで、思いは通じると思う。
「思い出してくれてありがとう、そっちは大変だと思うけど、がんばって」
 あなたは寝ている間にそうささやかれ、ぎゅっと抱きしめられているに違いない。

2010.03.20

パワースポット

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 大みそかの午後、とある神社へ行こうと思い立った。1年間無事だったことに対するお礼参りと、広い境内を散歩したかったのだ。
 愛車に乗り込むと道路はガラガラ、駐車場もガラガラ、境内もガラガラ。大みそかはこんなにすいているのに一夜明ければオセロを裏返したように過剰に人が押し寄せる、神社ほど陰陽の逆転しやすい場所もないのではないかと思いながら広大な境内を散策。
 本殿に向かう途中、「パワースポット」とちまたでもてはやされている一角の入り口を発見、興味がないのでそのまま通り過ぎたが、「まてよ」と思い直して引き返した。いつもは長い行列をつくっているけれど今日なら確実にすいている、じゃあせっかくだからどんなものか見てみようと思ったのだ。

 入り口で料金を支払って中に入ると、よく整備された庭園が広がっている。春になれば美しい花が咲き乱れるミニハイキングコースになるのだろうが今は冬のど真ん中、草木が枯れて寂しい風情だ。
 順路の矢印に沿って小道を歩くと、やがて広大な池が出現した。日が射さないせいか、表面に薄く氷が張っている。地獄のように真っ黒い池、この中に落ちたら心臓が一瞬で凍るだろうなとおそるおそるのぞき込むと、水面下に灰色の鯉が何匹もゆらゆら泳いでいる。冬の池はやっぱり陰気くさいなあとその場を後にする。
 園内を歩いているのは若い女性やカップルが多い。しばらく行くと行列の最後尾が見えてきた。湧水の井戸を見るために並んでいるのだ。先頭へ続く道はなだらかな下り坂になっていて、行き着く先に丸い井戸が見えた。
 井戸からあふれた水は小さな川をつくり、そのままあの黒い池に流れ込んでいるようだ。川の中には飛び石がしつらえられえていて、参拝者はその上を渡って井戸を拝む。
 1人あたりの所要時間が長いせいか、自分が来たときは15人ほどの行列だったのに、しばらくして振り返るとどんどん長い列が伸びていた。
 あともう少しで自分の番というとき、小バエの群れがバスケットボールくらいの大きさの球を描いて頭の上を飛んでいるのに気づいた。
 あ、ここやばい。
 しかしせっかくここまで来たのだからと自分に言い聞かせ、がまんしてやり過ごす。
 さあ次はいよいよ自分という段になり、川の手前の階段を下りようと足もとをふと見ると、今度は大ミミズが1匹のたくっていた。
 あ、これはもう完全にまずいと思ったが今さらここで引き返すわけにはいかない、ええいと大ミミズを飛び越え、石を渡って井戸をのぞき込んだ。
 こんこんと湧き出す水は何の曇りもなく清らかに澄んでいる。しかしその周囲に陰の気が幾重にも重なって取り囲み、実に奇妙な空間になっていた。重苦しいのですぐ井戸を後にした。

 パワースポットを出てしばらく歩き、午後の光がさんさんと当たる本殿の前に立った。
 八方位の気を一身に浴びることのできるそこは、いつ行っても心身が洗われるようで気持ちがいい。神木が織りなす森に周囲360度をがっちりガードされた太極の空間だからだろう。
 しばらくすると体内から陰の気が抜けて肩が軽くなったので、境内の地図を取り出してながめてみる。本殿の南西方向にあの井戸があった。なるほど、裏鬼門だったのか。
 鬼門は新しい気が勢いよく噴き上げる活火山のようなものであり、「鬼が出入りする門」と言われるように、よくも悪くも激しい現象が起こりやすい神聖な方位といわれている。あの井戸は、名実ともにまぎれもない「パワースポット」だったのだ。

 活火山から勢いよく噴出するマグマのごとく、純粋なパワーがこんこんと湧き出る井戸に人が集まるのは当然のこと、しかしそこに人間の欲が集まると周辺の気がケガレ、小バエやミミズが湧く。もちろん井戸そのものがケガレているわけではない、それを取り囲む一部の人間の思念がケガレているだけだ。有名になりすぎたパワースポットの悲劇である。
 ではどうすればいいのかというと、 
◆なるべく朝一番で行く 
◆体調の悪いときはなるべく行かない
◆自分の願いごとに必要以上に時間をかけない(後ろの人のイライラした気を受けて損をする)
◆敏感な人はあらかじめ塩やお守りを持参する
◆ブームが去ったときに行く
 などが挙げられる。
 これらを心がければ、少しでも清く正しい状態のパワースポットを拝めるのではないか。
 ・・・・・・しかし神さまの立場からすると、「こうしてほしい」「ああしてほしい」と勝手に願い倒す人間ばかり押し寄せてきたらどう思うだろうか。「ほんにうざいのう」と向こうに寝返り打ってせんべいでもかじりながらテレビ見始めるのではないか。
 たまにチラリと振り向くときがあるとすれば、「いつもありがとうございます、神さまに認めていただけるよう一所懸命がんばります」と手を合わせる清らかな人間が来たときだけではないかと思う。

 2012.01.06

年末の帰省

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 2009年もあとわずかなので、家中の古いお守りをかき集めて氏神へ納めに行く。
 年の瀬は空気が澄んで、風がひゅうと骨にしみる。小柄な少女が向こうからパタパタと走ってきて、ヒョッと電信柱にしがみつく。目鼻立ちははっきりしているが、浮世離れした雰囲気でどこか普通ではない。よく見ると、ほおに黒い毛が生えている。
 私がわきを通り過ぎると電信柱から離れ、来た道をパタパタと小走りに戻っていった。

 誰もいない神社で参拝していると、真っ黒い髪を伸ばした黒いロングダウンコートの女がうしろで順番を待っている。ついさっきまではいなかった。
 参拝を済ませ、せっかくだから街へ足を伸ばそうと駅へ向かうと、携帯電話を耳に当てている若い男が左隣にいる。目は右斜め上30度をぼんやり見つめ、横断歩道をふらふらと右斜めに横切る。
 五分刈り、左右の眉はつながるほど濃く、まつげが異様に長い。何かに引っ張られるように、体を右側に傾けて歩いている。ぶつからないよう、そっとよけて歩道を渡る。

 不思議なことに、なぜか毎年、年末年始になると人間のようで人間でないもの、つまり「妖怪」が街中にひんぱんに現れる。古い気と新しい気が大きく入れ替わるときのどさくさにまぎれ、ひょっこり遊びに来るのだろうか。
 おしなべて妖怪はおぞましいようなでも憎めないようなアンバランスな雰囲気を漂わせており、かわいらしくそしてどこか哀しい。
 駅前にはカートを引きずる人々の群れ。
 ああそうか、妖怪たちも今、こちらに帰省中なのだなと気づく。

2009.12.29

生き霊

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 夢枕に立つのは死んだ人間ばかりでなく、ときに生きている人間も出てくることがある。
 いわゆる「生き霊」というやつである。
 私はこの経験をしたことがある。
 かりに、名前をAさんとしておこう。
 彼女はけっこう恵まれた環境にいる人なのだが、変に人をうらやむ癖があった。たぶん自分に自信がなかったのだと思う。
 面倒なのでなるべく距離を置くようにしていたのだが、何かのはずみで私に興味を持ってしまったらしい。
 ある日の明け方、眉間のあたりに映像がフッと浮かんだ。
 白い壁から右半身だけ出して、Aさんが私の家の中をじっとのぞき込んでいるのである。
 目が覚めて、「これは夢ではない」とわかった。
 その数日後、また同じ映像を見せられた。
 前回と同じように白い壁から右半身だけ出して、こちらをのぞき込んでいる。
「うらやましい」というどんよりした感情が伝わってくる。
(私はAさんからうらやましがられる覚えは何もない。)
 やがて、その感情が「うらめしい」に変わってこちらに伝わってきた。
 前回より投影の時間が長い。
「しつこいやつだな」と思い、猛烈に腹が立った。以後、その相手と関わるのは一切やめた。幸いにも私の存在を忘れてくれたのか、それ以降、彼女が夢に出てくることはない。

 死者は夢に何かしらの意思を伝えに来るが、生き霊にはそれがない。
こちらにはどうしようもない感情を自分勝手にぶつけてくるだけである。
 そこに愛はない。

2009.07.27

カタコンベ

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 手術を受けて入院したという知人を見舞いに、某病院へ。
 大病院なのでアクセスに迷うことはなかったが、到着してからが大変だった。入り口がどこにもないのである。日曜日だというのに入り口という入り口はすべて閉鎖され、「こちらではなく、あちらの入り口へお回りください」と貼り紙にある。
 しかし、「あちらの入り口」がどうしても見つからないのだ。院内のだだっ広い敷地をぐるぐる歩いて探すが、目印はどこにもない。
「これは、中に入るなということか」
 逡巡しつつ歩いていると、いきなり初老の女性から声を掛けられる。
「あのう、入り口はどちらでしょう」
 彼女もまた、中に入れず迷っているらしい。
 しばらく探し回ってから、「ここはあり得ないだろう」としか思えない狭苦しいところで入口を発見。

 中に入る。誰もいない。かなり大きな病院なのに、建物内を歩いている人間は自分だけだ。看護師もいない。何ひとつ音がしない。
 西日の当たる長い長い廊下をひたすら歩く。 
 めざす病室にいた知人は、大手術のあとにもかかわらず元気だった。しかし、隣のカーテンで仕切られた奥はしんと静まりかえった闇だ。
 沈みかけた夕陽が、病室の風景を黄金色に染め上げる。まるで西方浄土だ。
 手みやげを渡し、しばし世間話をしてから病室をあとにする。

 別フロアの誰もいない食堂に立ち寄って階下の景色を見下ろす。眼下に人気のない広い公園、その脇を真っ黒い川が流れている。ここは人の住む土地ではないと理解する。
 この場所に陽の気は存在しない、陰の気だけが渦巻いている。マイナスのエネルギーが支配する砂漠に、プラスのエネルギーを持つ生き物が足を踏み入れるとどうなるか。徐々にパワーを吸収され、やがて蒸発してしまうだろう。
 私は長い廊下を早足で通り過ぎた。曲がり角の飾り棚に、骨壺が置いてある。よく見るとただの丸い壺だった。
 
 私は場の影響を受けやすい。重い気分は帰路途中もずっと続き、帰宅して塩風呂に入ったあとも抜けなかった。まるで大量の血を抜かれたかのようにまったく何もする気が起こらず、ただ横たわるしかなかった。

2009.07.13

メッセンジャー

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 数年前、私はAという町に住んでいた。結局、そこには3年しか住まなかった。
  くわしいことはここでは書かないが、当時の私はそこに住んだことによってかなり精神的に追い詰められ、八方ふさがりのなかで死にかけた金魚のようにパクパク息をしている状態だった。

 どこに相談しても相手にされず、孤立無援でなかばノイローゼ状態になっているとき、知らない人間から突然電話が来た。
「○○さんからの紹介で電話しました。仕事をお願いしたいのです。お会いしましょう」
 最寄りの駅で待ち合わせると、時間通りに相手が現れた。そこら辺に普通にいる、30代の男性だった。
 カフェでコーヒーを飲みながら最初は仕事の話をしていたのだが、そのうちなぜか私は彼に悩みを打ち明けていた。きっとわらにでもすがる気持ちだったのだと思う。

 彼はひととおり私の話を聞いてから、立て板に水のごとく話し始めた。
「それは大変ですね。もしかするとこれこれこういうことが原因かもしれませんね。いつか必ず解決しますから、あまり気に病まず、どこかに行って羽を伸ばしたらどうですか」
 目を見ると、とろんと半眼になっている。トランス状態である。
 しばらくして目が全開し、ニッコリ笑った。
「すみません、私、たまにこうなるのです。何を言ったか覚えていませんが、お役に立てましたか?」
 問題の原因について彼が示唆したことは自分では予想もしていないことだったが、ズバリと核心を突いていた。彼に会っていなかったら、私はことの本質に気づかないまま、いつまでも堂々めぐりを続けていただろう。
 それで問題がすっきり解決したわけではなかったが、精神的にはものすごく楽になった。
 その人とは1度だけ仕事をしたが、やがて自然に音信が途絶えた。

 あのときなぜタイミングよく彼が現れたのか、いまだに謎である。しかしよくよく今までをふり返ってみると、窮地の時は必ず誰かから救いの手がさしのべられている。私の人生を上から見ている誰かが、必要に応じてメッセンジャーを派遣してくれているとしか思えない。
 メッセンジャーは頭の上に輪っかがあるわけでも、背中に羽が生えているわけでもない。どこにでもいるような普通の人が、ある日突然、さりげなく自分の前に現れるだけである。私のところにも来るのだから、あなたのところにも必ず来ていると思う。

2009.06.28

猫集会

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 暗黒の高校生時代
、私は小田急線沿線のとある新興住宅地に住んでいた。そこは丘陵地帯で、少しずつ宅地造成が進んでいたもののまだまだ未開の原野(つまりド田舎)で、日中そこら辺を歩く人はほとんどいなかった。
 初夏のある日、授業が午前中で終わった私は、駅から徒歩で家を目指した。家は辺鄙な場所にあり、どうがんばっても駅から歩くと30分以上かかるが、その日は何となくバスに乗る気がしなかったのである。
 滅多に歩かない造成中の小高い丘を登ると、あたりには誰もいない。日差しの強いなか、歩いているのは私1人である。 
 道の途中に猫がいた。しばらく行くと、また猫がいた。
「ここは猫が多いなあ」と思いながら歩くうち、やがて高台の広場のような場所に出た。そこで足が止まった。
 猫、猫、猫、猫。見渡す限り猫がいる。数十匹はいる。みな前足を立て、黙祷するかのように静かに座っている。
「まずいところに来てしまった」
 本能的にそう思い、そそくさとそばを通り抜けた。緊張と悲しみの入り混じった空気がふわりと漂った。
 猫が集まっていた広場を脱けた先に道路があった。そこに、猫の轢死体が転がっていた。「ああ、これだ」と思った。
 仲間の死を悼む猫たちの集会を、私は見てしまったのだ。

 何十年たった今も、あのときの光景は忘れない。人が人の死を悼むように、猫も猫の死を悼むのである。

2009.06.22

夢枕

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 暗黒の高校生時代、少し曲がって育った私には友人がいなかった。そのことは別にどうでもいいが、そのときにクラスメイトの1人が脳腫瘍をわずらい、気の毒にも亡くなってしまった。

 いいところのお嬢さんだったが、脳を冒されていたのか、最後のほうは奇行が目立ち、「うっとおしいやつ」と私は感じていた。事情を知って同情していた人もいたかもしれないが、当時の私はクラスメイトとほとんど没交渉だったので、彼女がなぜそんなに風変わりな行動を取るのかまったくわからなかったのである。
 ほとんどすべてのクラスメイトは葬式に出たが、私ともう1人の変わり者は出席しなかった。私たちは単に「面倒」だったのである。「別に友達じゃないし」と放っておいたのだ。

 するとその晩、彼女が夢枕に立ち、こう言った。
「・・・・・・なんで来てくれなかったの?」
 その声は、今でも鮮明に覚えている。ふわふわした、けれど悲しそうな声。
 悪いことをしたと思った。面倒くさがらずに行けばよかったと反省した。
 そしてそのときから「死んだらそれまで」という認識が一転した。
 肉体は消えても魂は消えないことを、私は「うざい」と思っていた相手から教えられたのである。

 翌日、葬式をさぼったもう1人に夢の話をした。すると相手も、「実は自分のところにも来た。それと全く同じ夢を見た」と言う。
 それ以来、私は人の死を甘く見るのをやめた。 
  
 夢枕に立つのは人間だけではない。死んで何年もたつ犬や猫も、自分を懐かしがってたまに夢に出てきてくれることがある。彼らの夢を見たあとは、せつなくやるせない気持ちになる。

2009.06.19

植物の幽霊

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 買った当初はどんなに美しい観用植物も、1年もたてば背が伸びて葉がぼさぼさになる。余分な枝をカットしても、美しい鉢に入れ替えても、悲しいかな容姿が衰えてくるのである。観用植物がお金を払ってでも手に入れたいほど美しいのは、店頭に飾られているときだけだ。
 ちょうど去年の今ごろ、私は枝ぶりのいいエバーフレッシュやコンシンネを購入した。どれもひとめぼれである。みずみずしいグリーンが白い壁に美しく映え、室内にフレッシュな気が放たれた。やはり緑があると落ち着くと思った。
 だが、至福はそう長く続かない。時間がたつにつれ輝くようなグリーンは光を失い、葉は不揃いに伸び始め、それを置いている周辺の空気がずしりと重くなった。そばを通るたびにゆううつになった。植物の幽霊がたたずんでいるように見えたのである。
 ある日、水やりのためすべての鉢をベランダに出した。部屋の中がすっきりして、すがすがしい印象になった。そのまま1週間ほど放置。
 そして今日、見てみたら。力を失った手のように葉が垂れ下がり、葉は茶色に変色して、枯れていた。室外の環境が合わなかったのかもしれないが、実は、飼い主の思いを感じ取って自分から枯れたのではないかとも思う。

2009.05.03