わんぱくフリッパー

rimg0154.jpg
 何年か前、とある海辺の水族館へ一人で出かけた。どんより曇った午後だったと記憶している。平日のせいか入場者は少なく、広い園内は閑散としていた。
 大きなウミガメに触ったり、いきなり現れた巨大なデンキウナギにびっくりしたり、ピラニアの歯を見てうわあ破壊力あるうと思ったり、ふわふわ漂うクラゲをぼんやりながめたりしてから、少し離れた「イルカのプール」まで足を伸ばした。
 そこは2階建て構造になっており、上からはプールの水面からイルカを見下ろすことができ、階段を下るとぶ厚いガラス越しに泳ぐイルカがながめられるつくりになっていた。
 まずは上階でイルカが顔を出してくれるのを待つ。
 来ない。手をたたいても「おーい」と呼んでも来ない。
 潮風のさみしい香りが園内をさまよう。
 鼻水をすすり、背中を丸め、コートのポケットに両手を突っ込んでじっと待つ。
 やっぱり来ない。
 首を伸ばして下をのぞき込むと、黒っぽい大きなイルカが3頭ほどプールの底をゆっくり回遊している。なあんだ下にいるんじゃんと階段を下り、ぶ厚いガラスに顔をへばりつけて「イルカさーんこっちこっちー、こっちおいでよぅー」と両手をひらひら振った。
 ああイルカと仲良しになりたい癒やされたい、早くこっちにいらしゃいとガラスの水槽をパンパンたたいていたら、3頭がくるりと方向転換して一斉にこちらに泳いできた。
 君たちさみしかったろう、今日はお客さんが少ないもんね、私と一緒に遊びましょう。
 イルカの泳ぐスピードが尋常ではない。ものすごい勢いでグングンこちらに突進し、ガラスにぶつかる直前で彼らは体をくの字に曲げ、上半身を激しく前後に振り始めた。顔を見ると、目がつり上がっている。口元が般若のように裂けている。どう見ても威嚇である。これは人なつこくてさみしがりやのイルカさんが親愛の情を示しているのでは決してなく、私という侵入者に対して敵意をむき出しにしているのだと気づいた。
 イルカになぜここまできらわれなければいけないのかと呆然としていると、蛍の光が流れ始めた。薄暗い園内にはもう誰もいない。
 肩を落として出口へ向かった。おそるおそるプールを振り返ると、イルカはまだ上半身を激しく降り続けている。
「帰れ!」
「ボケ!」
「もう来るな!」
 彼らの発する超音波を翻訳したら、きっとそんな内容になったと思う。
 イルカと聞くとかわいくて賢い「わんぱくフリッパー」を連想する人は少なくないと思うが、それはあくまでも彼らの表向きの顔に過ぎない。裏の顔も知りたい人は、寒い曇り空の夕刻、人気のない水族館へ行くことをおすすめする。運がよければ、あなたも特別なおもてなしを受けるだろう。

2010.11.23

同窓会

a
 幼なじみ4人で同窓会。毎年会っているので「うわあこんなになっちゃって」という驚きは一切なく、「元気だった?」程度の軽い再会である。
 待ち合わせは新宿御苑。
 1人が電車のアクシデントで遅れるというので、3人で庭園内のベンチに座って待つ。秋の空は高い。
 視線を降ろすと黄金に色づき始めた木々を写生する老婦人、赤い薔薇のそばにぼんやりたたずむ青年、仲よく手をつなぐ若いカップル。芝生で寝そべる男のそばでは、ベレー帽をかぶった園児の集団が弁当を広げている。
 日々是好日。 
 晴れた昼間とはいえ、立冬を2週間過ぎた風は冷たい。
 人差し指の側面で鼻水をぬぐっていると「で? あなたは最近いかがですか」と話をふられる。
「ええ、私はいま地上を離れ、暗黒の宇宙空間をたった1人でふわふわさまよっているような状態です」と本当のことは言わずに「ま、ぼちぼちですわ」と答える。
 ほう、と幼なじみが遠くを見ながら口を開く。
「わたくし手術をしましてね、最近では大手術をしてもじっと寝かせておいてくれないのですね、もう翌日から体力回復とリハビリのためにどんどん歩けと医者が言うのです。おなかからチューブを何本も垂らしつつ点滴スタンドをガラガラ押して病院内を歩き回っているとき、まるで自分がキャプテンEOに出てくる女王様になったような気がいたしました」
 人差し指を突き出しながらこわい顔でファイアー! とかネイティブ英語をキメてひとりで遊んでいたのでしょう、と別の幼なじみが微笑み、で、わたくしはと続ける。
「先日父が亡くなりましてお墓を作ったのですが、最近は○○家の墓とか先祖代々の墓とかではなく、好きな言葉を刻むのですね、和とか愛とか祈とか。そうすることで戸籍上の名前を気にすることなく、好きな人と一緒にお墓に入れる。21世紀のお墓は自由度が高まっているのですね」
 地獄上等とか夜露死苦とか刻んだら受けるだろうかとバカなことを考えながらティッシュを取り出し鼻をズビズバかんでいると最後の1人がやってきた。
「腹が減ったから庭園散策はやめてランチにしようぜ」と全員一致、近くのイタリアンへ。

 ストーブつきのオープンテラスの4人テーブルが運よく空いていたので、そこに陣取る。まずはシャンペンで乾杯。
「これおいしいっ」と口々に叫びながらパスタやピザをたらふくつまみ、「兄ちゃん、もう1杯持ってきてんか」とみんなでワインをおかわりする。
 ああ3杯目に手を伸ばしてしまっていいものだろうか、いいに決まっていると即断即決して結局1人につきシャンペン1杯と赤ワイン(大盛)2杯を飲み干す。
 4人でグラス合計12杯(大盛)の酒をたいらげ、ああ酔っぱらった、いい気分だからついでに酉の市でもなめてくかとよれた足取りで神社に立ち寄り、二礼二拍手一礼。
 自分だけおみくじを引いて「ここは大吉出ないんだよね-」と言いながらクルクル広げてみると43番大吉。図に乗ってA、B、C全員に見せびらかす。
 酔った勢いで映画DVDと音楽CDを山ほどレンタルし、帰宅後に新作ホラー映画を一気に2本見る。
 映画に悪酔いしたのかそれともワインに悪酔いしたのかそのうちに頭痛が始まり、あわてて鎮痛薬を飲んだ。
 やがて薬が効き始め、疲れたからもう寝てやれと布団にもぐり込み、面倒なことは何もかも置き去って一途に眠りの世界へ駆け込んだ。

2010.11.21

後ろ前

rimg0033.jpg_9
 明け方、顔見知りの女性が夢に現れた。
「私、結婚するのです。お世話になりました」
「それはよかったですね。お幸せに」
 そう言いながら女性を見ると、真っ黒いオーバーを着ている。仕立てのよい上質なウールのオーバーは、品のいい彼女にとてもよく似合っている。だがよく見ると、後ろ前だ。
 あれ? 顔の下に後ろ身頃がきている。なんか変だなあと思っているうちに目が覚めた。

 洋服を後ろ前に着るのは、着物を左前に着ることと同じではないか。左前は死人前、つまり死人の着付けだ。
 もしかすると彼女、あまりよくない流れに身を置いているのだろうか。変な夢見ちゃったなあ、でも特別に親しい間柄でもないからよけいなおせっかいはできない、私にできるのは推移を見守ることだけだと思い、そのまま放っておくしかなかった。
 
 しばらくしてから、その女性が結婚したという噂を聞いた。その後、夢には一度も出てこない。「便りがないのは元気な証拠」であることを祈る。

2010.11.06

石仏の教え

rimg0044.jpg_6 
 夢を見た。タンスから石仏を取り出し、庭に置いている夢だ。(夢だからちっとも重くない。)
 人間と同じ大きさの石仏が3〜4体、みな、おだやかな顔を太陽に向けている。
 すると、どこからか声が聞こえた。
「奥深くにあるものほど、たまには取り出して明るい日に当てなさい」
 あっ、それが極意なのかとハッと気づいて目が覚めた。

2010.11.04

松葉杖

 1年ぶりに会う友人とランチのため家を出て最寄り駅に向かうと、横断歩道の手前で松葉杖をついた人に遭遇。
 横断歩道を渡るとまた松葉杖の人が向こうからやってきた。
 追い越して進むとまたまた松葉杖の人がいる。
 何も考えず電車に乗り、乗り換えのため改札を出るとこれまた松葉杖の人が向こうから歩いてくる。
 今日は松葉杖をよく見るなあと思いつつK駅に到着、少し早く着いたので駅周辺をブラブラしていると目の前に松葉杖の人。
 もしや自分の気づかぬうちにどこかで天変地異や事故でもあったのかと一瞬不安になるが、街はいつもと変わらず明るくにぎやか、どうもそうではないらしい。

 時間通りにやってきた友人は相変わらずきれいでスタイル抜群。この人はいつ見ても美しい、まったく現実感のないところもすばらしいと頭の中でほめたたえながらイタリアンの店に入る。チキンのバルサミコ酢ソテーと前菜、パスタ、サラダの盛り合わせプレートに赤ワインとパンとデザートがついて1000円はお値打ちだ。
 ワイングラスを持ち上げた瞬間「ほどほどにな」と右肩上からささやき声、いいじゃんたまにはと無視してひとくち飲むと、これがうまい。加速がつかないよう注意しながら、ワイン1杯と料理を約3時間かけてちびちび味わう。
 ものすごくおもしろい友人の話に笑い転げていると、「お昼の部はもう終わりです」と店の人が勘定書を持ってきた。仕方ないので店を出て、K駅周辺をそぞろ歩く。

 公園やデパートや商店街や路地や神社仏閣がギュッと詰まったこの街は、平日・週末に関係なく1年じゅう大勢の老若男女でにぎわっている。おおらかで豊かな雰囲気からして、街を守護しているのは弁天さまではなかろうか。
 友人と商店街をそぞろ歩いていると、松葉杖の人がふっと目の前を通り過ぎる。
 これは絶対何かある、松葉杖が意味するものは何だろう?
 不自由? 足かせ? 依存? 故障? 
 いろいろ考えるが、思い当たらない。

 友人と別れ、足もとに気をつけながら電車に乗った。電車はガラガラ、広いシートに余裕で座ってぼんやり窓の景色をながめていると、松葉杖をついた女の子が突然やってきて目の前にどさっと座る。体のわきに2本の松葉杖を置き、無心に携帯を操作している。左の足首から甲にかけて包帯ぐるぐる巻き。
 うわあもう勘弁して、これ何の警告なの。
 2つめの駅でドアが閉まる寸前、女の子は思いついたように立ち上がってするりと降りた。あ、松葉杖の力を借りなくてもほぼ歩けるんだ、見た目ほど重症じゃないじゃん。
 何事もなく帰宅し、風呂に入って懸命に松葉杖の意味を考えるがやっぱりわからない。ま、いいやとぐっすり就寝。
 で、翌朝やっと気がついた。
「今は思うようにならないかも知れないが、何とかがんばって歩きなさい」
 たぶんこれだ。思い当たる節がある。
「こいつはボーッとしててたぶん1回じゃわからんから、ダメ押しでしつこく啓示してやろう」と神さまは思ったのであろう。粋なはからい、どうもありがとう。

2010.10.23

雄島

RIMG1779
 数年前、仙台の松島にハマッたことがある。自宅から吉方位であったこと、気に入ったホテルがあったこと、食べものがおいしかったことなど理由はいろいろだが、何より好みの観光名所が集中していたのである。
 雄大な杉並木を通り抜けて行く瑞巌寺、渡り橋の底の透かしから海が見えるスリル満点な五大堂、朱塗りの長い橋を渡って行くアドベンチャーな福浦島、かわいいイルカやアザラシに会えるマリンピア、名菓「萩の月」「萩の調(しらべ)」で知られる菓匠三全(イートインあり)。
「バラ寺」「苔寺」と呼ばれる円通院もすばらしい。植物が膝の高さまでうっそうと生い茂る墓所は、1人でぼんやりするには最高の場所だ。
 しかしなんと言っても特筆すべきは雄島(おしま)であろう。神秘的な切通しを抜けた先には、真っ赤な渡月橋。その橋を渡った向こうは静けさと神秘に満ちた異界である。
 小さな島内には石塔や仏像が建ち並び、島の岩肌のあちこちに四角い岩窟が彫られている。岩窟は、ちょうど人が1人座れるくらいの大きさだ。
 雄島はその昔、見仏上人という高僧がこもって修行をした島であり、僧や俗世を捨てた者たちがここに集まり、岩窟に座って修行したという。 

 夏が近いある晴れた日、私はこの島を訪れ、小高い丘に座って松島の海を1人でぼんやりながめていた。周囲には誰もいない。
 海に浮かぶ島々を縫うように、白い遊覧船がゆっくり進んで行く。のどかな風景だ。
 おだやかな日差しがぽかぽかと温かく気持ちがいいので、靴を脱いで素足になった。土が温かい。白い足の甲を1匹の蟻が渡ってゆく。それをじっと見つめるうち、「この島で暮したらどうなるだろう」と思い、しばし夢想にふけった。
 1、2時間くらいそうしていただろうか。背中の向こうが何となく頼りなくなり、立ち上がって歩き出した。
 薄暗い木々のふもとで座禅を組む、巨大な仏像が眼前にあらわれた。何だかその仏像が生きているような気がして不安になり、出口に向かった。

 岩壁にぐるりと取り囲まれた薄暗い広場に出た。空気がしんと冷えている。
 岩壁は1カ所トンネル状にぶち抜かれており、光の射す明るいあちら側に通じている。そこを通って島内から出る構造だ。
 岩壁にはさまざまな形の岩窟がうがたれていた。仏像や卒塔婆が収められている岩窟もあった。
 じっと見ているうち、岩窟の中で座禅を組んだまま静かに事切れた僧の姿がふと目に浮かんだ。
 あ、まずい。
 広場の草むらに、たくさんの死体が転がっている映像が脳裏をよぎる。
 そうか、ここ、死体置き場だったんだ。
 そう気づいて鳥肌が立った。
 早くここを立ち去らねば。しかし外に出るには、この薄暗いトンネルを通り抜けなければならない。トンネルはけっこう奥行きがある、何秒間歩けばいいのか。もし、途中で何かに捕まって身動きができなくなったら?
 私はこわごわトンネルに足を踏み入れた。
 ひんやり冷たい空気が全身にまとわりついた。
 できるだけ五感を閉じて歩いた。
 雄島はその昔、御島とも書かれた。オシマ、オンシマ、・・・・・・、怨島?
 自分を取り巻く空気が冷気を増した。明るい世界の向こうへ走った。 

 雄島が「あの世とこの世の境目」であり、「死者の骨や遺髪を葬り、浄土往生を願う日本有数の霊場」と知ったのは自宅に戻ってからのことだ。
 その島を一歩も出ず、12年間にわたって修行した見仏上人はやがて法力を身につけ、鬼神を操ったり、瞬間移動を行うようになったと言われる。
 いつ行っても、あの島にほとんど人がいない理由がこれでわかった。雄島は死者の島なのだ。
 それでも、無性に惹かれるのはなぜだろう?
「岩窟の中に座ったらどんな気持ちになるだろう」とつい想像してうっとりしてしまうのは、私という人間の性(さが)なのだろうか。

2010.10.13

ギリヤーク尼ヶ崎

 雲ひとつない秋晴れの体育の日、新宿西口高層ビル街へギリヤーク尼ヶ崎を見に行った。過去にいろいろな舞踏をスタジオや舞台で見たが、街頭で見るのは初めてだ。
 広場には20代の若者から70代の年輩者まで、すでにたくさんの観客が集まっている。平均的な年齢層は高く、女性より男性のほうが多い。そのせいか、落ち着いた雰囲気。
 80歳の「生ける伝説」はいったいどんな踊りを見せてくれるのだろう?
 ワクワクしながら登場を待っていると、本人が風のようにするりと登場。長髪の、「おじいさん」というよりは「おじさん」が普通にカートを引いている。「のっぽさんに似ている」と思う。
 散らばっている観客が一斉に前に集まり、人垣ができる。背伸びしてものっぽさん、いやギリヤークさんが見えないので舞台のわきへ移動。そうか、座って化粧をしているから見えなかったのかと気づく。
 化粧が済むと、立ち上がって演目札を掲げ、口上。演目札は年季が入ってもうボロボロ。姿勢を正し、スピーカーから流れる津軽三味線に合わせておもむろに踊り出した。
「80歳」「ペースメーカー入り」と聞いて「ほとんど動かずに踊るのではないか」と予想していたが、あにはからんや、大数珠はブンブン振り回すわ、大股を広げてゴロゴロ転がり回るわ、高い階段を駆け上って周辺をひとっ走りして階段を駆け下りて舞台に戻って頭からバケツの水をざぶんとかぶって再び踊り狂うわ、かなりダイナミックである。
 あちこちから「ギリヤーク!」「尼ヶ崎!」の野太いかけ声がかかり、白いおひねりが宙を飛び交う。
 日陰だった広場に、ゆっくり陽が射してきた。念仏を唱えながらそろそろと歩くギリヤークを黄金色の光が包み込む。「南無阿弥陀仏」の流れる中、「おかーさーん」と叫んで仰向けに昇天。大拍手が鳴り響く。

 演目がひととおり終わり、そのままトークに移った。
「踊りには到達点がない。いまだにあがるし、調子が悪いときもある。まだまだ修行です」
「ペースメーカーが入っているし、膝も腰も悪いけれど、88歳の50周年まで何とかがんばります」
 ざんばら髪の老人は地べたにぺたんと正座し、淡々と話し続ける。観客がそれを温かく見守る。
 ふと横を見ると、ポストカードがテーブルに並んでいた。1枚200円也。美しい肉体を誇示するように、手を広げてスッと立っている若かりしころのギリヤークが写っている。この人ハンサムだったのだなあと驚いて目の前の老人と見比べる。
 老いるということは体が小さくなって皮膚が乾いて動きがゆっくりになることだ、だが肉体は縮んでも魂は変わらない。どんどんひからびる肉体をそれでも懸命に駆使して魂を表現するこの人は本当にすごいと感心しつつ、小腹が空いたのでその場を後にしてすぐ近くの釜揚げうどんの店に入った。プエルトリコの兄ちゃんが「お熱いのでお気をつけください」とそっと丼をサーブしてくれる。
 いも天を乗せたかけうどんをすすっていると、「ギリヤークさんも相変わらずお元気やなあ、俺たちもがんばらんといかん」と芸人らしき男女の会話が耳に入ってきた。目の前には10代の赤毛の白人3兄弟(兄ちゃん、姉ちゃん、弟)が座って仲良くうどんをすすっている。
 観光白人、君たちは賢い、ものすごく物価の高い東京において、うどんはうまい・早い・安いの三拍子がそろった素晴らしい食べ物であることをよくご存じだなと心の中でほめ、世の中には実にさまざまな人生が同時進行しているものだと感心し、すり下ろし生姜のきいた汁を一気に飲み干した。

2010.10.12

人はなぜパワースポットに行くのか

rimg0058.jpg_2
 神社仏閣やパワースポット(聖地)をめぐることがちょっとしたブームになっているようだが、これは日本に限ったことではなく、かつ今に始まったことでもなく、ずっと昔からあらゆる場所で連綿と続いている行為だろう。
 なぜなら人生に行きづまったときや不安なとき、心配事があるとき、人間はより大きな存在にすがりつきたくなるからだ。
「神さま、助けてください」
「正しい道をお示しください」
「どうか力をお貸しください」
 そうやって神さまの前で真摯に祈れば、願いはきっと聞き届けられると私たちは信じている。
 では、実際はどうなのか。
 神さまに祈ったすべてのことが叶えられたら、世の中はぐじゃぐじゃになってしまう。たとえば同じ男性を好きなA子さんとB子さんがそれぞれ「神さま、どうかあの人が私のものになりますように」と祈り、それが叶えられてしまったらどうなるか。相手の男性は身が持たないであろう。
 だから、世の中には「叶えられる願いごと」と「叶えられない願いごと」が存在する。「叶えられない願いごと」とは、次のようなものではないか。
◆それが叶うと明らかに本人にとっても周囲にとってもプラスにならないこと(「Xさんが妻子と別れて私のものになりますように」「憎いZさんがひどい目に遭いますように」など。祈っている当の本人にはそれがまっとうな望みでないことを認識できていないことが多い)
◆本人の資質と実力をはるかに超えた高望み(「明日目がさめたらロックスターになっていますように」「アイドルのK君と結婚できますように」など)
◆適当に願ったこと(「とりあえず金持ちになりたい! でいいや」)

 それが叶えば本人はもちろん、周囲にとっても大きなメリットがある願いごとなら、そして本人がハードルを乗り越えるべく必死に努力するなら、さらにその夢がかなうことを本人が心の底から真剣に願うなら、多少時間がかかっても、少々力が足りなくても、少しばかり邪魔が入っても、必ず現実化するのではないか。
 では、同じような「叶えられるべき願いごと」を持つ、同じような条件下のA子さんとB子さんがいたら、神さまはどちらの祈りを先に聞き届けるだろうか。
 神さまの立場になって考えれば、答えは簡単である。
「A子はいつも私のところにやってきて、けなげに手を合わせて頭を下げる。しかしB子は一度も私のところに来たことがない」
 どちらがかわいいか。もちろん、自分を慕ってくるほうである。で、「顔見知り」であるA子の言うことを先に聞いてやるわけである。
 古今東西・老若男女を問わず、多くの人が神社仏閣、パワースポットにせっせと足を運ぶのは、神さまに顔を覚えてもらいたいからだろう。
 人々の願いを親身に聞いてくれる神さまは、人間的な情をお持ちのはずだ。ならば御前にわざわざ足を運ぶことは、あながち無駄ではないように思う。

2010.09.18 

遷座

img_1641
 いつの間にか立秋が過ぎ、処暑が過ぎた。
 処暑と言えば「暑さがおさまり朝夕は涼しくなる頃」のはずだが、そういう気配はみじんもなく、夜になっても逃げ場のない熱気がむわっと空中をさまよっている。こんなに暑い夏は久しぶりだ。
 
 夜、神楽坂を歩いていると人だかりに遭遇した。赤城神社の遷御の儀の真っ最中だった。
 人垣の中に入ってしばらく見ていると、裃(かみしも)を着てたいまつを持った人の後に続き、正装した神職が4人、ぼんやり光る白い絹垣の柱を持って歩いてくる。
 四角く囲われた絹垣の中にはもうひとり神職がいて、御霊(みたま)を捧げ持ってするする歩いていると思われるが、中は見えない。もちろん、のぞき見してもいけない。一般人が御霊の姿をじかに見ることは禁じられているのだ。
 白い絹垣がふわりと目の前を通り過ぎた瞬間、何かものすごくピュアで稚拙なもの、わかりやすくたとえるならケガレのない稚児のようなものの存在が感じられた。「原型」という言葉が頭をかすめる。
 それは一見すると弱々しくてはかないが、いざとなると人知を越えたすさまじい力を発揮するのではないか。だからこそ世間から隔離され、機嫌を損ねないよう、うやうやしく神殿に奉られているに違いない。
 和御霊(にぎみたま)と荒御霊(あらみたま)。神さまには両極の二面性がある。だからこわい。

「暑いぞ、この国はいつからこんなに暑くなったのじゃ」
 白い絹垣にガードされた神さまは、久しぶりに娑婆に出てさぞびっくりされたであろう。
 新しい本殿に鎮座ましましたあと、冷たい水や酒、もしかするとビールまでもグビグビ飲まれ、プッフワァーッ!! もっと持ってこーいっ!!! と鼻の下に白いヒゲをふちどられたであろうことは想像に難くない。

2010.08.24

 

バス停の教え

IMG_1512
 休日の夜、帰宅のため駅前のターミナルでバスを待っていた。濃いブルーの空がときおりピカピカッとストロボのように光るのをぼんやりながめていると、「雨は降らないのに雷がすごいわねえ、ああ、あんなに空が明るい。大自然というのは本当に人知の及ばない世界ね」と自分の前に並んでいた60歳くらいの小柄な婦人が私に言う。
 おかっぱ頭ですっぴん、涼しげなワンピース、くるぶし丈のソックス。童女がそのまま年を重ねたような風貌。
「私が子どものとき、伊勢湾台風が来てね。あっという間に水がこの辺まで上がってきたの」
 水平にした手を、鼻のあたりまで持ち上げる。
「すぐ2階に避難して外を眺めていたら、うちの犬が水の中を犬かきして泳いでいるのが見えたから、それを家に引き上げて。ああ、私たちは自然には歯が立たないんだなあって思ったわ」
 あ、また光った、すごいね、そう言って空を見上げてから人なつこい目で私を見る。
「真っ先に救援物資を送ってくれたのは中国でも韓国でもない、アメリカよ。いろいろな意見があるけれど、安保条約ってこういうときに効くんだって思ったわ。一度交わした約束っていうのは、きちんと効力を発揮するものなのよ。安保条約に限らず、世の中はすべてそう。そういうしくみになっているの」
 バスが来た。
 バスで見知らぬ人から話しかけられるのはこれで何度目だろう、経験を積んだ人の話はおもしろい、こういう話はネットやテレビでは絶対に聞けないものなあ。
 バスを降りると小雨がパラパラ降っている。私は雨粒を肌に感じながら「約束」について考えた。
 約束は、人間同士だけでかわすものとは限らない。人間と神さまの間にもかわされるはずだ。
「神さまどうかこの地域をお守りください、毎日お供え物をして、年に一度は派手なお祭りをしますから」
「この仕事で成功したいのです。そうすればたくさんの人が幸せになれます」
「私は大金持ちになり、それを恵まれない人たちに分けてあげたいのです」
 その夢や希望が本人にとっても神さまにとっても何らかのメリットがあり、なおかつ途中で契約違反をしない限り、取り交わされた約束はいざというとき確実に効力を発揮するだろう。
 だがこういう場合はどうだろう?
「神さま、どうかお金持ちになれますように」
「玉の輿に乗れますように」
「この世の幸せがすべて手に入りますように」
 どんなにたくさんお賽銭を投げてそう祈っても、「お前はそれでいいだろうよ、だけどそれ、わしに何のメリットがあるの?」と神さまは軽く一蹴することだろう。
 自分の希望が叶うことで、相手にもメリットが生じること。それをきちんと踏まえたうえで交渉するのが、約束を取り付ける際のコツだと思う。一方通行はただの「お願い」、双方向性があるのが「約束」。相手が人間であれ神さまであれ、そこに注意すれば夢はずっと叶いやすくなるのではないだろうか。

2010.07.25