バベルの塔

DSC00916
 平安時代、鴨長明(かものちょうめい)という歌人・随筆家がいた。いいとこのお坊ちゃんでありながら一族の権力争いに負けて50歳の春に出家し、54歳で人里離れた場所に方丈(ほうじょう)という小さな庵を建て、62歳で没するまでそこで1人で暮らした人である。

 彼は20代のとき、京の都で立て続けに発生した大火災や竜巻、飢饉、大地震を体験し、そのときのことを後に「方丈記」という随筆にまとめている。火事や竜巻で一晩のうちに消失した町のようす、飢えや流行病に苦しむ人々の凄惨な姿、日に日に荒れ果てていく都の姿などがそこには鮮明に描かれている。
 元暦二年(1185年)に京都で発生した大地震については、こんな記述がある。
「山は崩れ落ちて土砂で河が埋まり、海が傾いて津波が押し寄せた。大地は裂けて水が噴き出し、大岩が割れて谷底に落下した」
 推定マグニチュードは7.4、余震は3カ月ほど続いたそうである。地震の恐ろしさは、12世紀の昔も21世紀の今もまったく変わらない。

 4月4日に得た易卦は「山地剥(さんちはく)」。
「山が崩れ落ちる」という崩壊の象であり、タロットで言えばTOWER(バベルの塔)、つまり「災難」「破壊」「事故」の卦である。
 そういえばバベルの塔と原子炉は形がよく似ている、メルトダウンして今まさに朽ちなんとしている原子炉は、高度成長期に生まれてどんどん高く積み上げられたバベルの塔だったのではないか。
 だとすると今回の地震と大津波は、人間のおごり高ぶりを戒めようとする神意だったのか。
 ではなぜ、岩手や宮城、福島など東北の人たちの命が集中的に奪われたのだろう?

 方丈記の話に戻ろう。
「飢饉時にはいくら金や財宝を持っていても何の役にも立たない」
「見栄を張って建てた大きな家も、災害が来ればあっけなく滅びる」
 一貫して無常観の漂うこの随筆には、「しかし、感動するような出来事もあった」と記されてもいる。
「飢饉や病が横行するなか、仲のいい夫婦は、愛情の深いほうが必ず先に死んだ。なぜなら自分より相手の身をいたわるあまり、やっとのことで得た食べものも相手にあげてしまうからである。親子の場合は、子を思う親のほうが必ず先に逝く」
 その一文を読んで頭に浮かんだのは「聖性」「犠牲(Sacrifice)」という言葉だった。よけいなことを言わず、ただニッコリ笑って「お食べ」と命の糧を相手に差し出す、深い慈悲と徳を有する人たち。人の罪を背負ってはりつけに処されたキリストの姿と、無口だが情の厚い東北人の姿がかぶる。

 山地剥は易のセオリーでは「足もとが崩れる」という凶卦だが、それほど悲観的になることもない。「今まで君臨していた古い価値観が崩れることによって新しい価値観が生まれる」と解釈できるし、便秘が治ったり生理が始まるときにも実はこの卦が出る。つまり「つっかえていたものが崩れ(はがれ)落ちて道が開通する」とか「出口の見えなかったトンネルが貫通して見通しが出てくる」という見方もできるのだ。  
 今回の災害や事故をきっかけに、今まで「当たり前」と思っていたことに亀裂が生じ、ものごとの原点を見直す人が増えることだろう。たとえば人の手に負えない怪物をちゃちな箱で囲って安易に設置すること、人より多く稼いだり、権力や地位を得ることが幸せであると勘違いすること、人が人の下に人をつくっておとしめること、命を繁殖して金を儲けたりペットショップで命の売り買いをすること、その他もろもろ。
 それら古い時代の価値観があまねくこなごなに砕け散り、かわりにすべての生きとし生けるものが心の底から「楽しいね」「うれしいね」と感じられる社会にやがて進化していけばいいと心から思う。

 日本の別称は、豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)。「美しく豊かな大地に、みずみずしい黄金色の稲穂が育つ国」という意味だ。
 たしかにこの世は陰から陽へ、陽から陰へとダイナミックにうねりながら無常に変化していく。しかしたとえどんなにおそろしい天災や人災に見舞われようと、日本人が果敢に這い上がる力を有していることは、歴史で証明されている。
 これは日本人のDNAが豊葦原瑞穂国の原形を記憶しており、いかなる目にあっても本来あるべき姿を取り戻そうとするからに違いない。私たちの魂には、起き上がりこぼしが刻印されているのだ。

2011.04.04

吉方位の御利益

IMG_1559
 どんなに高名な占い師でも、吉方位へ行った人たちを1人1人つぶさに追跡調査して大々的な統計やアンケートを取っているわけではない。だから「そっちへ行けば100%の確率で運が上がる」などと断言できるものではない。
 信じる人も信じない人も、基本的には足の向くまま気の向くまま、自分が「そっち」と思うなら「そっち」へ行けばいいし、「あっち」と思うなら「あっち」へ行くのが本来の自然な姿だと思う。
 でももし自分の選ぶ方向に不安や迷いがあるなら、もしくはその選択に人生がかかっているなら、「吉方位か・凶方位か」を知っておくことは決してむだにならないのではないか。
 たとえ賭けに自信がなくても、「こっちは吉方位だからきっとうまくいく」と自分に言い聞かせるだけで、力が増す。一種のプラセボ効果と言ってもいい。
 実際、吉方位へ行くと、「何かいいことが起こるに違いない」「少なくとも悪いことは起こらない」「たとえ悪いことが起こったとしても、それは毒出しである」などと、そこで起こることを前向きに受け止められるようになる。心にゆとりが生まれるのだ。そこから幸運の扉が開く確率は高い。吉方位のご利益はまさにそこにある。

2011.04.01

ファイアーフラワー

DSC00330
 文京区の湯島天神で梅見。前日の雨で大量の花びらが散ってしまったもののまだまだいける、「雨上がりの梅はきれいねえ」のほめ言葉にパッとほほを染めて満開ぶりにますます拍車がかかる。梅は桜に比べると礼儀正しく謙虚な花だがそれでも300本そろうとさすがにすごみが出る。
 本殿を参拝してからほかほかの甘酒を買って赤いベンチでひと休み、白髪の爺さん婆さん中年女性の二人連れ着物姿のあでやかカップルカメラを手にした独身メンズなどさまざまな人がひっきりになしに訪れる。みんな春の陽気に誘われてうきうきとやってくるのだ。そういえば今日は大安、日本中で結婚式が繰り広げらているに違いない、めでたいのうと甘酒をぐっと飲み干してから神社を後にした。

 神社近くの和菓子屋で道明寺と桜大福を買い、上野のデパ地下で焼き鳥も買い、さあ帰ろうと地下鉄に乗った。
 さすがに日曜日の夕刻の車内はガラガラに近い空(す)きっぷり、余裕で連結部近くの端っこの椅子に座ると目の前に父親と5〜6歳の男児とベビーカーであばあばしている乳幼児の合計3人連れが座る。
「ファイアーフラワー! ファイアーフラワー!」
 機嫌の良さそうな男児がひとりで一生懸命連呼している。
 もしかしてマリオをファイアーマリオへとパワーアップさせるフラワーのことかい、ボク私はな、マリオの創世記を知っているんだぜとほんの少し得意に思うと同時に、あ〜あそれにしても生きるって面倒なことだらけ、いつどんなときも何かしらストレスがついて回るのはなぜなのかといきなり現実に目が向いて憂鬱な気分になる。ネガティブな思いはいつでも唐突にやってくる、それは気まぐれな風のようなものだ。

「ファイアーフラワー! ファイアーフラワー!」
 ファイアーフラワーがいったいどうしたんだバカのひとつ覚えみたいだぞと風に取り巻かれながら思っていると目の前の父親が立ち上がった。ベビーカーを押す父親に続き、男児が私の顔をちらりと見て降車。「お前、同類だろ?」とアイコンタクトされる。

 ホームに降り立った男児は自分に向かってそろそろと手を伸ばしている。あ、彼は自分に手を振りたいのだなとわかり、大きく手を振ってやると同調して向こうも大きく手を振り始めた。
 扉が閉まり電車に加速がつき始めてもなお男児は手を振り続け、しまいにホームを走って追いかけてきた。この瞬間に風が跡形もなく消え去り、かわりにファイアーフラワーに触れたマリオが手から発射するファイアーボールのようなものが心の中でぱふっぱふっといくつもはじけ出した。その火の玉のことをわかりやすく言うと「希望」という言葉に置き換えられると思う。「この世だってそんなに捨てたもんでもないじゃん」という希望である。
 そうかあの坊主こそがファイアーフラワーだったのだな、さては梅の精かと気づいたころ目的の駅に到着。「パパッパッパパッパ♩」というマリオの出だしのテーマ曲を唐突に思い出し、気分よく口ずさみながら真っ暗な道を歩いた。

2011.03.23

東日本大震災

IMG_1445
 2011年3月11日の朝に得た卦が沢水困(たくすいこん)。
 あれ? なぜこんな卦が出るのだろうと不思議に思ったが、午後になってそうか、この大地震のことだったのかと気づく。
 沢水困とは4大難卦の1つで、沢に穴が空いて水が流れ出してしまうという象であり、「困る」「苦しむ」「身動きが取れない」という意味だ。
 その前日、10日に得た卦が天地否(てんちひ)。天の気と地の気が互いにそむきあい、「常識が通じない」「八方ふさがり」「ものごとが破滅する」などという意味だ。
 天地否→沢水困の流れでこうなったのか。

 めったに例を見ない天変地異から丸1日たったが、余震がなかなか収まらない。福島第一原発も懸念される。日本人全員が不安な心持ちのまま、たまに揺り返してくる恐怖をなんとかやり過ごしている状況だと思う。
 こういうときに大切なのは、まず正しい情報を得て冷静に行動すること、そして自分の身はできるだけ自分で守ることだ。最終的に頼りになるのは、自分自身の直感と運だけだ。

2011.03.12

吉方位パワーの定着法

DSC00438
 全国の開運ファンのみなさんこんにちは。
 関心のない人はまったく気にしないし、好きな人はとことんこだわるのが「気学」というものです。気学とは「吉方位(自分と相性のいい方位)に出かけて、幸運パワーを吸収しましょう」という古人の知恵です。
 あまり方位にこだわりすぎることもないとは思いますが、古来より21世紀の今に至るまですたれずに連綿と伝わっているという事実を考えますと、「迷信」とか「うそっぱち」とか頭からナメてかかるのもちょっとなあと思います。ていうか知らずにいるのはもったいないと個人的には思います。
 このブログでも月ごとに九星別の吉方位を紹介したりしていますが、今回は、吉方位旅行に行った後の幸運パワーの定着のさせ方をいくつかご紹介しましょう。 

1 帰ってきたら早めに休む
 長距離を移動するほど身体に吸収できる吉パワーも大きくなりますが、同時に疲労も増します。電車にしろ車にしろ飛行機にしろ絶え間ない振動が身体にストレスを与えるのはもちろん、運が入れ替わると人は疲れるからです。
「ああ疲れた、吉方位へ行ったのになぜかしら」
 そう思うときは、よけいなことを考えずにさっさと風呂に入って早めに休みましょう。
 帰宅後の身体には目に見える汚れと見えない汚れがダブルでついているので、できれば湯船に粗塩をひとつかみ入れてお清めするといいと思います。
 言うまでもありませんが、シャンプーもお忘れなく。髪にはいろいろなものがつきやすいのです。髪を濡らしたとき、あれ? と首をかしげるほど変なニオイがするのは、物理的な原因だけとは限りません。厄がついている可能性もありますので、できれば二度洗いするといいでしょう。

2 現地で買ってきたものを食べる
 吉方位産のものをいただくと、その土地のパワーが体内に吸収され、それはあなたの血となり肉となります。
 お総菜でも名菓でもお酒でも何でもいいですが、素直に「おいしい!」と感じられるなら、運気が上がると思っていいでしょう(ただし食べ過ぎ・飲み過ぎは禁物)。
 
3 現地で撮った写真やおみやげをどんどん活用する
 写真やおみやげには現地の吉パワーがたっぷり詰まっているので、どんどん飾ったり日常的に使うといいでしょう。押し入れや引き出しにしまい込むのは宝の持ち腐れです。
 写りのいい写真なら紙焼きしてきれいなフレームに飾ったり、好きな服や雑貨なら日常的に使ったり部屋に飾りましょう。着たり使ったり愛でたりするたびに、それらのものからあなたに向かって吉パワーが放たれます。
 ただし色あせたりボロボロになったりこわれたりしたらパワーを使い切ったということなので、潔く処分してまた吉方位に行ったときに新品を調達してください。

4 凶方位にむやみに行かない
 吉方位から帰ってきたあなたの体内には、吉パワーがたっぷんたっぷんに詰まっています。定着液にひたした印画紙に徐々に画像が浮かび上がるようにそのまま運が身体に定着するのを静かに待てばいいのですが、無謀にも「なんとなく」とか「誘われたから」とかで直後に凶方位へ行っちゃう人がたまにいます。
 吉方位パワーを体内に取り入れる労力を10とすると、凶方位パワーを取り入れる労力は1。不運というのはすんなりスルッと体内に侵入しちゃうんですね。で、赤子の手をひねるようにいとも簡単に吉パワーを体内から追い出して、かわりに自分がのさばってしまいます。せっかくたっぷんたっぷんしてるのにもったいないです。
 ですから、またどこかへ旅行する場合は、しっかり地図をチェックしてみましょう。

 以上のことがらを守れば吉パワーがしっかり身につき、やがてその方位がもたらすラッキーな出来事に遭遇したり、自身に心境の変化が起こると思います。
 気づかない人はボーッと見落としてるかよほど体内に不運がたまっているか吉方位だと思ったけど実は吉方位じゃなかったかのどれかかもしれません。

2011.02.21

寅卯天中殺のみなさんへ その1

IMG_1386
 全国の寅卯天中殺生まれのみなさんこんにちは。(寅卯天中殺は別名「木星人」とも言う。)
 2010年と2011年は12年に2年間めぐってくるみなさんの天中殺年であり、特に2月、3月のちょうど今ごろは天中殺のど真ん中。
 天中殺とは「自分の思い通りに事が運ばない時期」であり、やけを起こして無謀に動くと大きなアクシデントに見舞われやすいとされる。
 サイコロの目がどう出るかわからないがゆえにものすごくいいことが起こる可能性もあるが、いずれにしても油断は禁物。ものごとはいい方向より悪い方向にころぶ確率のほうが高い。
 では去年から今年にかけてどんな現象がみなさんに起きているか、予想してみよう。
 
★猛烈に孤独感を感じている
 2010年から、たった1人で宇宙空間に放り出されたような不安と孤独にさいなまれてはいないだろうか。たとえば職場の同僚や上司から突き放されたようなものの言い方をされたり、友人・知人から相手にされなくなったり、恋人や故郷の家族からパタッと連絡が途絶えたり。会社をリストラされたり、クライアントから発注が途絶えて途方にくれている人もいるかもしれない。
 ものすごくつらい状況に思えるが、角度を変えると「1人になれるチャンス」「じっくり人生を見つめ直すチャンス」とも言える。

★突発的なアクシデントに見舞われる
「えっ、ウソでしょう!?」
 こんなセリフが増えていないだろうか。本来ならあり得ないようなミスやトラブルが、天中殺期間には勃発しやすい。特に契約などここ一番の時や車の運転時にはくれぐれも注意されたい。 
 また、いっしょにいる親しい人があなたの運気のあおりを受けてアクシデントを引き起こすこともある。

★のれんに腕押し
 どんなにがんばってもかんばしい反応が得られず、なかなか自体が進展、もしくは好転しない。特に2010年から新規にスタートしたことは「これだけやっているのに、なぜだ!」と頭を抱え込む事態になりやすい。
「天中殺期間はそういうもの」と割り切り、信頼できる第三者に相談するとか、力を抜いて受け身(なりゆき任せ)で臨むほうがいい結果を生む。

 どうですか、そんな感じですか。
 少しでも厄を遠ざけて楽しく明るく過ごしたい人は、次の注意事項を知っておきましょう。
◆利益ばかり追い求めない
 お金を稼ぐのは生きるために必要だし儲けるのは悪いことではないが、「他人を蹴落としてでも」とか「自分さえ儲かれば何してもいい」という考えで行動すると強烈なしっぺ返しを食らう。
 兄弟間の遺産争いや不動産投資、ギャンブル、金目当ての結婚など欲得ずくの行動もNGである。「ことしは財布を豊かにするより心を豊かにする年」と心して、お金より大事なものを追求する。

◆自分を客観的に観察する
 自分の頭の上に意識を飛ばし、「この人、今何をしているのかな?」「どうしたいと思っているのかな?」と冷静に自分を見下ろすことを「メタ認知」という。孤独でどうしようもなくなったときやトラブルに見舞われたとき、メタ認知ができる人は強い。
「あ、自分は今こういう状況に置かれているのだな、じゃあこうすればいいかも」と次の一手が読めるからだ。
 しかし「寂しい! 誰かいないの?」とか「誰でもいいから助けてくれ!」などと誰か救ってくれそうな人を求めてどしゃ降りの中を走ると、たいてい間違った方向へ行く。
 
◆自分を信用しすぎない
 寅卯天中殺生まれは「born to run」、休むことをきらう人種である。常に泳ぎ続けていなければ死んでしまうサメのようなもので、特に女性の場合、スリルとサスペンスを求めて自ら過酷な運命へ飛び込む傾向が強い。
 これを読んでいるのも「天中殺? ふん、上等じゃん」と鼻でせせら笑う寅卯天中殺生まれがほとんどだと思うし、それはそれでかっこいいが、前後を省みず好き勝手に立ち回るとケガをする。
 2011年の合い言葉は「自分を信用しすぎるな」。
「だいじょうぶ! 絶対できる」と思っても、環境がそれを許さないこともある。自分の運と能力の稼働率はいつもの5〜6割程度と心して慎重に。
 
◆なるべく動じない
 天中殺期間はその人の最も弱いところにダメージが出やすい。これは「お前の弱点はここだよ、どうすればいいか考えなさい」という12年に1度の天のサジェスチョンとも言える。
 だからつらいこと、イヤなことがあってもグチをこぼさず謙虚に受け止めて対処すれば、ひとまわりもふたまわりも大きく成長できるでしょう。
 でも「この試練をありがとう」なんて言える人、めったにおらんでしょう。じゃ、どうするか。
 なるべく動じないことです。「ものごとはすべて必然性があるから起こる」と心して、へそ下の丹田でグッと受け止め、そのつど自分にできる最善の方策を立てられたい。 

陰徳を積む
 わかりやすく言うと「人にやさしくする」とか「困っている人に親切にする」とか「ウソをつかない」とか「きちんと挨拶する」などといったこと。別に難しいことじゃないしお金もかからないが、これが厄除けとして効く。
 陰徳を積むと大難は中難に、中難は小難に、小難は無難に替わる。

 天中殺と言っても見た目に何がどう変わるわけではないし、「そんなのナンセンス」とまったく信じない人も多いと思う。それはそれで全然いい。そういうのを気にしなくても生きるのに支障はない。
 でももし「あれ? ずっと調子悪いな」とか「いつもの解決策が通用しないぞ」などとあせったときは、今回の記事をどうぞご参考に。
  さ、あともうちょっとの辛抱。もう少したてば、暗黒の宇宙から地球に帰還できますよ。
 それではみなさん、引き続き2011年宇宙の旅をお楽しみください。あ、シートベルトを締めるのをお忘れなく。

2011.02.17 

 

人はなぜ眠るのか

rimg0093.jpg
 人は1日約16時間起きて(生きて)約8時間眠る(死ぬ)。ぐっすり寝ている間は周囲で起こっていることが一切見えないし聞こえないしにおいを嗅げないし味わえないし動きを感じられない、つまり死んでいるようなものだ。
 寝ている間、人はどこへ行くのか。
 あの世ではないだろうか。身体を布団に横たえたまま、魂だけが次元を越えてあっちの世界へ行くのだ(ただし、へそと魂を結ぶ玉の緒はつながっている)。
 三途の川を渡りきってしまうと玉の緒がちぎれて身体が死んでしまうので、川の手前にある「生きている人間 専用広場」でとりあえずまったりしているのではないか。そこはあっちの人(死んだ人)とこっちの人(生きている人)が自由に交流できる、ふれあい広場のようなものだと思う。
 
「ポン太郎ちゃん」
「あっ、おじさん! 久しぶりだね、死んでもやっぱり女装してるんだね」
「ふふ、お元気そうで何より。あっちからいつも見てるわよ」
「ちっとも元気じゃないよ、娑婆はなかなかきびしくてね。こないだリストラされちゃったしマンションのローンはまだまだあるし女房は子ども連れて実家に帰っちゃうしで落ち込んでるよ」
「そうみたいね。ま、一杯飲みなさいよ」
「身体がないから味よくわかんないよ。おじさん俺お先真っ暗、これからどうしたらいいんだい」
「だいじょうぶよ心配しなくても、なるようになることになってるからあんたの思う通りにやってごらん。あんたが生きてる世界ってのは悪いことが起きなければいいことも起こらないようになってんの、つまり悪いことが続くのはいいことの前ぶれなのさ。苦あれば楽あり、だまされたと思ってもう少しガマンしてみな」  

「よう、アミ子」
「あっ、生前大きらいだった女ボスのサキサカさん」
「こんなとこでぐったりしょげてんじゃないよ、ゾンビみたいじゃん」
「いわばゾンビのサキサカさんに言われたくないです」
「どうせまた同じことでつまづいてんだろ、んであたしみたいなのに死ぬほど怒られてるんだろ」
「あっ、なぜわかる!」
「人間ちゅうのは同じミスを繰り返す動物なんだよ、根本的な問題から逃げている限りお前に救いはないよ。どうしていつもいつもこうなるのか考えてみな」
「・・・・・・」
「あたしは生前わざわざ憎まれ役を買って出てやってお前にとっては非常にありがたい存在だったのに逆恨みしやがってこのばかちんが。いいかアミ子、うまくいかないことを人のせいにしねえでハッもしかするとこれは自分の力不足ではねえかと自覚して少しは努力してみな」
「・・・・・・うーん」(アミ子、頭をかきむしる)   

 そんな感じで人はみな親しい人や親しくない人やあるいはかわいがっていた動物などから慰められたり元気づけられたり一緒に泣いたり笑ったりどつかれたりしてカツを入れているのではないか。で、目が覚めてからなんとなく元気になったり仕方ないなあと思ったりしながらそれなりに1日をスタートさせるのではないか。  
「この世での生活は基本的に自己判断&自己責任」というルールに基づき、ふれあい広場での出来事はほぼすべて記憶から抹消されるシステムになっているが、それでもたまにあっちからこっちへ帰るまぎわに言われたことは記憶に残ることがある。
「だいじょうぶやってごらん、きっとできる」
「私、そっちの世界から旅立ったの。今までありがとうね」
「タンスを捨てる前に、一番下の引き出しの後ろを見てごらん」
 いわゆる「虫の知らせ」とか「夢枕に立つ」とか「お告げ」などと言われるやつである。こういうのはだいたい明け方ごろに見る。

 睡眠時間に多少の誤差はあれ、人は誰でも眠らないと生きられない。
 なぜか。理由は2つ考えられる。
 ひとつは身体の全細胞に修復活動を営ませるため。一日活動し続けて疲れた細胞をリセットするには、よけいな力を抜かなければならない。
 もうひとつは魂にパワーチャージするため。魂が本来の光を取り戻すには、何もかも脱ぎ捨てた状態にならなければいけない。
 目に見えるものはこっちの世界、目に見えないものはあっちの世界で、それぞれ睡眠中にきっちり充電しているのだと思う。

2011.01.31

あんみつ屋

 天神様にお参りした帰り道、小腹がすいたのでどこか適当な店はないかとあたりを見回すと、あんみつやみつまめ、ところてんなどを供する甘味処がぽつんとあった。
 老舗の店らしく、ひさしが黄土色に色あせ、建物の輪郭がところどころぼやけたようにくたびれている。
 古いなあ、でも他に店はないし何か甘い物食べたいしたまにこういうとこ入るのも悪くないかなと無理に決心してぎぎぎと引き戸を開けた。 
 棺桶くらいの大きさの真っ黒い柱時計が、ほこりの堆積した暗い店内で静かに時を刻んでいる。短針は4を少し過ぎている。
 中途半端に広い店内は3方を壁に囲まれ、西側のくもった窓ガラスから長い夕陽が憂鬱そうにさし込んでいる。日の当たる場所以外は薄暗い。
 客は私のほかに老婆と中年女性がひとりずついて、ところてんとかくずもちなどを食している。窓際の光の当たる席が空いていたのでそこに座り、しばらく待つと若い女性店員がオーダーを取りに来た。ぷっくり太った娘だ。餅のように色が白い。
 あんみつと抹茶のセットを注文し、暇つぶしに携帯をもてあそび、それにも飽きてぼうっとする。左側の窓から右側の壁奥へまっすぐ走るオレンジ色の光の中で、細かいほこりの粒子がゆっくり宙を泳いでいる。

 老婆が席を立ち、ほどなく中年女性が立ち上がり、会計を済ませて店を出て行った。
 目の前にあんみつと温かいお茶が運ばれてくる。黒蜜を回しかけ、干し杏子を食べてスプーンで四角い寒天をすくい取る。ぎゅうひはもう少しあとだ、黒蜜が染みてから食べるのがおいしいんだと自分に言い聞かせる。
 あれ? 背中が寒い。それとなく後ろに眼をやると、ひんやりとした闇が広がっている。
 暗くてよく見えないや、それにしても明と暗のコントラストが強い店だなあと前を向いて再び食べようとした瞬間、自分の真後ろのテーブル席に若い女性が座っている気配を覚えた。肉眼で見ているわけではないが、後頭部でそう確信した。
 何だか寂しそうだな肩に手を伸ばしてくるなよ耳元に話しかけてくるのもだめだそのままそこにじっとしていてくれと心の中で願いつつぎゅうひと寒天をすくい取り、お茶を一気に飲み干して立ち上がろうとすると店員が「お茶いかがですか?」とニッコリ笑って有無を言わせずあつあつのを注いでくる。あああありがとうと答えて仕方なく湯のみに口をつけるが、熱いのでほんの数滴ずつしかすすれない。
 カッチコッチカッチコッチと大きな振り子がゆっくり揺れている。背中にぞぞぞと鳥肌をたてながらやばい、やばいぞここ、長居は無用だ何か立ち上がるきっかけがほしいなあと悶々とする。
 入り口でぎぎぎと重い音がして親子連れが入ってきた。長い髪が蛇のように乱れた女の子は小学校1年くらいか、なぜか知らないが白目をむいている。
 何でもない顔をして椅子を引き勘定書をつかんでレジに向かう。後ろは決して見ない。ひたすら引き戸の外に意識を向けながら、早くおつりをくれ一刻も早くここから脱出したいのになぜいつまでもぐずぐずレジを打っているのだと気をもむ。
 入ってきた親子連れは店の奥、ちょうど目に見えない女性が座っていたあたりにちょこんと座り、薄暗がりからじっと私を見ている。

2011.01.25

留守電

く
 去年の今頃の話である。外出しようと留守電のボタンを押し、玄関に向かうと電話が鳴った。
「・・・・・・ただ今電話に出られませんのでご用の方は・・・・・・」
 留守録が作動し始めた。誰だろう? と履きかけた靴を脱いで電話の前に立つ。
「・・・・・・」
 しばらく沈黙。
「・・・・・・ヨシオ、ヨシオ・・・・・・わしだ」
 ヨシオ?
 まったく聞いたことのない老人の声だった。しかもザーザーと背後に雑音が混じり、何を言っているのかよく聞き取れない。
 そのまま耳を傾ける。
「・・・・・・○○につまずいて腰を打った、起き上がれない。・・・・・・何とかしてくれんか」
 何とかしてくれんかって言われても、私はヨシオじゃないよおじいちゃん。
 どうしようと思っているうちにぷつんと切れた。
 正しい番号にかけ直して本物のヨシオに救いを求めてちょうだい、私はもう出かけねばならぬと後ろ髪を引かれる思いで外に出た。
 夕方、用事を済ませて家に戻った。留守電のランプがチカチカ点滅している。ボタンを押して再生する。
「メッセージが3件あります。最初のメッセージ ○時○分」
 いやな予感がした。
「・・・・・・ヨシオ、あれからずっと起き上がれないんだ。・・・・・・何とかしてくれ」
 くぐもった声が入っていた。
「次のメッセージ ○時○分」
「・・・・・・ヨシオ、ヨシオだろう・・・・・・、わしだ。立ち上がれない、困っている。・・・・・・なあ、頼むから何とかしてくれないか」
「次のメッセージ ○時○分」
「・・・・・・ヨシオ、ヨシオ、・・・・・・わしゃあもうだめだぁぁぁ」
 メッセージはそこで終わった。力のない消え入るような声、しかし妙にねっとりと耳にからみつく声がいつまでも耳に残った。
 今度かかってきたら電話番号が間違っていることを伝えて119にかけるよう言おうと電話の前でしばらく待った。
 しばらくすると「たたり神」という言葉がぼんやり浮かんだ。自分はもしかすると釣られる寸前だったのではないか、うっかり電話を取っていたらしわがれた手につかまっていたのではないかとうっすら背筋が寒くなり、そっと電話のそばを離れた。

 2011.01.21

五黄殺の飲み会

IMG_1451
 飲み会に参加。あまり気乗りがしなかった。
 体調が今ひとつだったこと、メンバーが猛者(=クセ者)ぞろいなど理由はいろいろあったが、もうひとつ付け加えるなら自宅から見た店の方位が日・月・年ともに「大凶」とされる五黄殺だったことが挙げられる(五黄殺とはやることなすことすべて裏目に出る方位のことで、楽しいはずの旅が後悔だらけの旅になると言われる)。
 いや方位のパワーなんて思い込みに過ぎない、そんなものは全然気にしなくていいと自分に言い聞かせて家を出た。 
 待ち合わせ時間よりかなり早く着いたので駅ビルの書店で本を買い、コーヒーショップでしばらく読んでから店に向かった。
 あらかじめネットで店のホームページから地図をプリントアウトしておいたおかげで、すんなり目的地に到着。
 しーん。誰もいない。
 店の女の子に「○○さんで予約を取ってあると思うのですけど」と聞くと「ああ、2階にいます。お1人、もういらしてますよ」とたどたどしい日本語でらせん階段の上を指さす。
 なあんだそうか1階じゃなくて2階を予約していたのねと階段を上ると誰もいない。
 じゃあすでに来ている1人ってどこにいるの、トイレにでも入っているのとコートを脱ぎ、誰もいないテーブルでしばらく待つ。待っても待っても誰も来ない。トイレからも誰も出てこない。
 店の中は薄暗い。音楽も鳴っていない。いきなり携帯が鳴った。
「いまどこ? 待ってるから早く来て、えっ2階? この店2階なんかないよ何言ってんのいったいどこの店にいるの」
 あわててコートをはおり階段を下るとさっきの女の子はどこにもいない、どころか店には誰もいない。

 外に出て向かいの焼き鳥屋の若いお兄ちゃんに「あのう○○という店はここでいいんですよね、看板出てますもんね、でももしかすると他に同じ名前の店ってありますか」とたずねると「この店ヘンな名前ですよね、たしか駅の反対側にもう1件ありますよ、場所は知らないですけど」と言われる。
 駅に向かいながら携帯で「たしかに駅のこっち側って言ったよね、どういうことだこれはぁ」と怒りを込めて言うと「あははごめんごめん、どうしてそんな変なほう行っちゃうの、あっそうかオレ間違えた西口店じゃなくて東口店、そっちじゃなくてこっち、そこからの道すじわからないから適当に歩いてきて、面倒だったらタクシー拾えばいいじゃん、早くおいでよーあははははは」と脳天気な返事が帰ってきた。
 お前から誘っておいてそれはないだろうさんざん歩かせやがって東口店の地図なんか持ってねえしいっそこのまま帰ってやろうかええおいコラぁと心の中でののしりながら冬土用の寒い寒い街を歩く。

 30分ほど歩いてようやく目的地に到着。ガラス越しに知り合いが2人、大口を開けて笑っているのが見える。
 思い切り眉間にしわを寄せて席に着くと「ごめんごめん、あはははははそうか店間違えちゃったんだぁー」とうれしそうに笑う。思い切りガンを飛ばしてからビールをグパッと飲む。
 その後遅れてやってきた若いのが何人かテーブルに加わる。まったくの初対面。あれっメンバー増えるの聞いてなかったけどまあいいかと勢いでビールジョッキ2杯あけて梅酒サワー飲み干して赤ワインにも触手を伸ばした。
 これ以上飲むとやばい、あっ時間も時間だしそろそろ引き上げようかなと席を立ちトイレに入る。
 鍵がなかなか閉まらない。立て付けの悪さに閉口しながらやっと金属のつまみをぼこんと横に倒した。
 用を済ませ、手を洗い、よし帰ろうとつまみを上げようとするとつまみが上がらない。ドアを押したり引いたりしながら鍵をガチャガチャやるがつまみは固まったままびくともしない。
 まずいぞ携帯をテーブルに置いてきたしこのドアとてつもなくぶ厚いから中で大声出しても誰にも聞こえないだろう、あっそういえば自分は閉所恐怖症だったと気づき、一気に酔いが覚めた。鍵と格闘するうち「五黄殺」という文字が頭の中にぼんやり浮かび、やがてくっきりあぶり出された。
 もしかすると自分はこれからヘンな名前の店の狭くて薄暗いトイレでしばらく人生を過ごさなければならないのだろうかと絶望しかけてしばらくすると、魔法が解けたようにいきなりスッとつまみが動いた。
「ふふふ、楽しんだかね?」
 悪意たっぷりのささやきに耳をそむけてトイレから脱出し、席に戻る。
「どうしたのずいぶん長かったですねだいじょうぶですかあ」と目の焦点の合わない女子に微笑みかけられ、ああだいじょうぶですどうかお気になさらずにじゃあ自分は帰りますからと金を置いて逃げるように店を出た。
 あははははは何なのおかしいよおかしすぎるよそれと馬鹿みたいに高笑いする声が背中から矢のように追いかけてきて、危うく突き刺さりそうになった。

2011.01.18