暗剣殺に愛されて

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 仕事で出張。事前に地図で方位を確認する。
 あれ? 南の移動だと思ったけどわずかな差で南西じゃん、しかも方位の境界線のすぐ近くだ。やばい8月の南西は暗剣殺だ、だけど「南」と見立てて全意識を南へ面舵いっぱい向ければいいだろう、そんな甘い考えで家を朝7時に出たのだった。
 お盆の週なのに電車は予想以上に大混雑、みんな朝からよく働くなあ車内殺気立ってるじゃん、ああ荷物がかさばって肩に食い込む、この年になると真夏の仕事は命がけだぜと電車のリズムに合わせてゆらゆら揺れていると突然腰にものすごい衝撃。
 ん? 誰かの荷物が当たった?
 そしてものすごい圧力。
 んっ? 超満員でもないのになぜそんなに押す?
 見るとメガネをかけた女子小学生。肩からぶら下げたバカでかいショルダーをこちらにぶつけて方向転換、そして力任せにぐいぐい押してくる。
 あ、次で降りるのね。でもそんなに押さなくてもいいじゃないのさ。
 小学生とは思えない馬鹿力、はずみでこちらの体が大きくふらつく。だんだんムカムカしてきてそいつが降りたあともはらわたの煮えくりかえりは収まらず、浦見魔太郎か黒井ミサか喪黒福造か妖怪人間ベム・ベラ・ベロに「復讐お願いいたします」の書状を送ってやろうかあええコルァと 脳内でエンドレスにののしるがもちろんまったく無意味なことである。 

 仕事そのものは順調に進んだが最後に奥さんが出してくれたアップルティーをはずみでうっかりカップごとカバンの中に落としてしまう。
「これすごくおいしいですね、あっ」
 ローマは1日にしてならずだが悲劇は一瞬にして起こる。その日に限ってなぜか持参したものすごく高価な黒皮の名刺入れ、財布、新品のノートとボールペン、その他もろもろがすべてアップルティーの甘い洗礼を受けた。
 ものを取り出したあとのカバンを流しに持って行って逆さまにすると、まるで滝のようにアップルティーが流れ落ちた。
「カバン、お前はのどが渇いていたのか」と問いかけるが答えはない。
 ふと窓ガラスの外を見ると天に真っ黒い雲が立ち込め、雷が鳴っている。
 パラパラ降っていた雨がざあっと勢いよく降り出した。
「あっ雨ですね、ではこれで失礼いたします」と外に出て突風&豪雨の中を小さくてきゃしゃな折りたたみ傘をさしながら歩いていると、携帯から地震警報のチャイムがけたたましく流れ出した。
「注意! あんたは30秒以内に震度4以上に襲われる可能性あるよ」
 何度も何度もしつこく鳴る。
 おいおいちょっと待ちなさいよすぐそこ海じゃん太平洋じゃん、今大地震来たら確実に津波に飲まれるじゃん。
 あせって高台の駅へ歩こうとするが向かい風&向かい雨でなかなか進まない。あっそういえばここって正確に言うとうちから暗剣殺、後ろからいきなり闇討ちされる大凶の方位だったよなあと今さらながら気づく。
 南方位だぞと自分に無理やり言い聞かせて来たけどやっぱりダメじゃん、方位の境界線でも暗剣殺は暗剣殺、しかも裏鬼門の上に表鬼門が乗っている最悪の暗剣殺、自分勝手な「見立て」なんかクソの役にも立たないなあと痛感しながら遠い道のりを雨風に逆らってとぼとぼ歩く。
 あれっ、駅ってどこ? どこだっけ?
 頭の中でさっきからずっと研ナオコが「あきらめの夏」を唄っている。

2011.08.14

婆さん姉妹とマリアさま

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 あれっ1日が2時間くらいしかないじゃんどうしてこんなに早く過ぎていくの、ああそうか今忙しいんだな、それはそうと腹がすごく減ったので戦(いくさ)なんか全然できない、というわけで気分転換を兼ねてデパ地下へ夕飯を買いに出かけた。

 デパートに着いて時計を見ると午後8時10分前。
 やべえデパートがもうすぐ閉まっちまう迷っているヒマはねえ、そうだ中華だ中華にすべえ、閉店間際だからタイムセールやってるはずだ
中華総菜屋まで忍者走りで行くと自分と同じこと考えている客がすでにショウケースの前にわんさかたかっている。
「困っているときの中華頼み」と古来ささやかれるように、人は切羽詰まったときには中華を選択するものだ(注:筆者の勝手な決めつけ)。ボリュームあるし野菜と肉のバランスがいいしバカ高くないしそこそこハズレがないからである。
「200gが3パックで1000円! どれでもお好きなの3パックで1000円!」
 もはや投げ売りである。下手に残しても仕方ないからである。
 時計を見る。閉店まであと5分。
 ショウケース前の客の間に緊張感が走る。
 誰もお行儀よく並びやしない、ショウケースの前でブーイング寸前の神経戦を伴う陣取り合戦だ。
 婆さんが2人、強引に店員をつかまえた。どうやら姉妹のようである。
 50数年前はきっとお嬢さん姉妹でありそれからずっとかたくなに自称お嬢さん姉妹を通してきたと思われる、世間離れした世間知らずの雰囲気。
「ええっと・・・・・・あたしは青椒牛肉絲(チンジャオロースー)とね・・・・・・」
 婆さん姉妹の姉と思われるほうは声がやたらにデカい。
「あたしは・・・・・・」
 もう1人はおとなしい。妹だろう。
「○○ちゃんボケッとしてんじゃないわよ、あそこにあんたの好きな麻婆豆腐があるじゃないのよ」
「麻婆豆腐なら家にあるわよ」
「あらそう、じゃあ他のにしなさいよ。あたしあと2つ何にしようかしら・・・・・・」
 イライラしているのは店員だけではない。ショウケースの前は山のような人だかりである。「早くしなさいよ」「迷ってられると迷惑なのよ」「いい加減にしてよ」と声なき怒声が飛び交う。「閉店間際のタイムサービスで迷いは御法度」がデパ地下の暗黙の掟なのである。
 そんな中、タイミングよく自分の番が来たので鶏肉のカシューナッツ炒めと麻婆豆腐と酢豚を注文する。店員がすばやくショウケースから取り出してカウンターに積み上げる。
「あら、酢豚もおいしそうじゃない」
 向こうにいたはずの婆さん姉妹がいつの間にか自分の背後に忍び寄り、蜘蛛のように曲がった長い指でカウンター上の酢豚のパックをむんずとつかみ取る。
 私は怒った犬のようにうなり、奪い返してカウンターに置く。
「あら、あなたのだったの? ごめんなさーい」
 こいつらちょっと変だぞ、一般的な老人は人が買ったものに手を出さない。
 心の中で空襲警報が鳴った。
 婆さん姉妹はその後も店員を待たせてキャンキャン嬌声を上げながら白い顔であちこち移動して総菜を選んでいる。
 いったいどこから来たんだこの姉妹、お盆まで待てなくて出てきたのか。
 店員が気を効かせて別の酢豚のパックと取り替えて包んでくれた。
 やれやれ、どうにか夕飯をゲットできたわいと哀愁を帯びた蛍の光が流れ始めるなか、出口へ向かった。婆さん姉妹はふらふらショウケースのまわりを歩き回っている。まだ迷っているのだ。もしかすると一生迷い続けるのか。
 店員はとっくに彼女たちを放っといて他の客の相手をしている。
  
 家に帰るためバスに乗る。けっこう込んでいるが2人掛けの窓際に座れた。
 至近距離に立っているおっさんがさっきから何だか落ち着かない。
 変な人だなあ何でチラチラこっち見るのかな、やめてくれないかなあ疲れるから。
 声を出さずに抗議するが聞こえるわけがないので無視して仕方なく携帯をいじる。
 やがておっさんを含む乗客が真っ暗な停留所でバラバラ降り、今度は妊婦が私の隣に座った。手に持ったブランド服の大きな紙袋がぼかんと私の膝に当たる。
 妊婦はずっと携帯をいじっている。
 あーあ今日はこんなのばっかり勘弁してほしいなあ、やっぱりこれ全部自分の心が引き寄せてるのかね。
 少しうんざりしていると次は自分の降りる停留所。
 妊婦さん立たせるの悪いなあ、でも立ってくれないと自分が降りられないからなあと仕方なく「すみません」と会釈すると、ニコッと微笑んで「降りますのね」と大きなおなかを持ち上げて立ち上がった。
 あっすごい美人。
 すがすがしく清楚で品のある顔立ち、透明に光り輝くクリスタル色のオーラが全身を取り巻いている。
 うわああなたさまは確実に徳の高いお方、知性と理性とやさしさが三位一体となって周囲の人々の心を根底から癒やしてくださる本物の貴婦人。そのおなかに宿られた幸運な御子は男の子ですわ、将来はきっとあなたさまの自慢の息子に成長することでしょう。
 バスを降り、家に帰って酢豚と鶏のカシューナッツ炒めと麻婆豆腐を食べた後もしばらく陶酔が続いた。
 自分を取り巻く世界には婆さん姉妹もいるがマリアさまもいる、ま、それほど捨てたもんでもないかなあと満足し、その晩はぐっすり眠った。

2011.08.06

真夏の憂鬱

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 ものすごく日差しが強かったので、太陽が西の空に移動するのを待って散歩。
 夏真っ盛りだが吹く風にどことなく哀愁がある、気の早い秋がすでに吹いてきているのだなあと眠い目をこすりながら駅ビルに入ると、小学生くらいの女の子が「夕飯食べたくない! 絶対に食べたくない!」と母親に大声で怒鳴っている。
 暑いからね、その気持ちわかるわかる、実は私も食欲があまりないんだよお嬢ちゃんと心の中でテレパシーを送りつつ総菜売り場でおかずを買い、ついでに大好物のシュークリームとチョコレートも買って店を出る。本当に食欲ないのか。

 しおしおのパーになりかけながらとぼとぼ歩いていると、道ばたにキジトラのネコが寝そべってじっとこちらを見ている。若い、たぶん1歳未満だ。お前、遊んでほしいんだねネコだいすきーフリスキー♪と歌いながら手を出して小一時間ほど草むらでたわむれる。
 やがてネコはこちらをナメはじめ、手首に噛みついたり後ろ脚で腕を蹴ったりあげくの果ては狂気に満ちた目つきになり鋭い爪を立てて乱暴狼藉の数々で手をいたぶりまくる。案の定、皮膚が裂けて流血。今日はもうおしまいだよ子ネコちゃんと平静を保ちつつその場を離れ、帰宅。
 家に着いてから猛烈に腕や脚がかゆくなり、見るとぷっくり赤く腫れている。草むらにしゃがんでいるとき、蚊に刺されたのである。
 かゆい、かゆすぎると手足数カ所にかゆみ止めを塗るがいっこうに治まらない。
 いいもん、生クリームがうずまき状にこんもり盛り上がったシュークリームがあるもん、ふわっと盛り上がったシューの中に注入された黄色いカスタードクリームと白い生クリームをスプーンで微妙に調合してハーモニーを楽しむんだもんねと箱を開けると逆さにひっくり返って中のクリームが紙箱の内側に飛び散っていた。
 ええい土用だから仕方ない、自然界の気のバランスが乱れている時期だから何があってもおかしくないのだなどとわかったようなわからないような言いわけをむりやり自分にして、清水の舞台から飛び降りて購入した高価なひんやりマットにごろんと横たわって行き場のない怒りとかゆみを鎮めようと試みた。
 しかし何分たっても体はいっこうにひんやりせず、それどころか蓄熱してどんどんぬるくなってきた。なぜなのか。夏土用だからなのか。

2010.08.02

黄金虫

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 銀行に行った帰り道、アスファルトの地面を黄金虫がもそもそ歩いていたので拾って帰る。本来、虫は苦手なのだが、黄金色に光り輝く甲羅についつい魅せられ、人差し指に乗せて持ち帰ったのである。コガちゃんと名づける。
 蓋付きの小箱にきりで穴をぶすぶす開け、新聞紙を細かくちぎって敷き、小皿の上に輪切りのなすを乗せてやる。食べない。固いのか。じゃスイカの切れ端。パッと吸い付いた。
 スイカによじ登っている姿をよく見ると、黒い6本の脚それぞれにトゲトゲが生えている。これ、どこかで見たことあるなと不吉な気分になる。
 あ、ゴキブリじゃんと気づいてゾッとするが、「いいえこれはスカラベ、古代エジプトでは太陽神の化身とあがめられた聖なる虫」とどこかでエコーのかかった声が聞こえて気を取り直す。 

「暑いなあ、早く夏が終わらないかなあ」と思いながら本を読んでいると、頭上でバタバタバタバタといやあな音がする。ハッと見上げると大きな黒い物が天井をぶうううんとうなりながら飛び回っている。
 いやああああっ! 
 楳図かずおのマンガに出てくる女の子のような顔をして部屋を飛び出す。大きな黒いそれは窓ガラスにバン! と大きな音を立ててぶつかった。
 あああやっぱり虫はいや、大きらい、飛んでる姿なんかまんまゴキブリじゃんとうんざりしながらコガちゃん、どこいったのコガちゃんと呼ぶが返事なんかするわけがない。もしやと思って窓ガラスの下のさんを見ると細いすきまにはまってじっとしている。バカなやつ。指先で拾い上げてスイカに貼りつけてやる。

 翌日、友人宅で打ち上げ花火を鑑賞。ラスト5分は天空に大輪のラメの花が「どうでえこれでもかっ、ええいこれでもかあっ」と咲き乱れた。日本人の美意識と花火師の心意気を感じる。圧巻。
 友人が用意してくれたグリーンタイカレーやポテトサラダや生ハムメロンも圧巻。
 満員電車に揺られ少々ぐったりして帰宅、すぐにコガちゃん箱のふたを開けて中をのぞく。金色のコガちゃんは1人スイカ山に登ってじっとしている。どうすんのこれ、気持ち悪いけどかわいいけど気持ち悪いけどかわいいけどが頭の中で花火のようにバンバン打ち上がる。|

2010.08.01

カピバラ

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 車を走らせて郊外の動物園へ。そこは比較的自由度の高い動物園で、カピバラが放牧されているので気に入っている。やはり敷地が広いと園の器も広くなるのか。
 晴れたり曇ったり忙しい空の下、車は快調に目的地へひた走る。途中で真っ黒い雲が出てきて降るかなと懸念するが杞憂に終わる。

 到着してすぐ空腹に気づき、まっすぐ食堂に向かって焼きそばとウーロン茶を注文する。
 親子連れ、老人連れ、恋人連れが多い。いつもの習性で焼きそばのにおいをクンクン嗅いでからひとくち食べる。前世は犬だったかもしれない。まったく期待してなかったのに意外とうまい、でも量が少ないからけっこう物足りないぞとソフトクリームも買う。あっという間に食べ尽くす。
 コーヒーも飲みたいな、でも腹がパンパンになると園内の山歩きがきついかなとあきらめ、ひと息ついてから金網に囲われた犬舎へ駆け寄った。そこで生息するイヌたちに笑顔でモーションをかけるが、あっけなく無視される。
 1匹だけ、丸まって寝ていたところをモソモソ起き上がってこちらに来ようとする秋田犬がいた。けなげな姿にとグッと来る。だがそいつはあまりにも年を取りすぎて、足が思うように動かない。金網の向こうに立っている私のそばに来るには、地面から一段高くなったフロアにジャンプしなければならない。しかしそのジャンプがどうしてもできない。飛び上がろうとすると、足が震えるのだ。
 連日の猛暑でかなり弱っているのか、目やにがすごい。目やにの奥で人なつこそうな小さな眼が困ったようにきょときょと動いている。
 いいよいいよ、お前の気持ちはようくわかった、ありがとね、無理してこっちに来るなゆっくり休んでてくれ、いいからいいからと両手を広げて秋田犬を制し、そそくさと立ち去る。
 ああやっぱり動物園ってせつないなあ、来ると哀しい気持ちになってしまうのになぜ来てしまうのだろう。

 太ったお父さんくらいものすごく大きく成長したミニブタは暗くじめじめした檻の中でひたすら寝ている、よく見ると隣の檻にイノシシがいる。イノシシは皮膚の硬いブタだ、しかし瞳孔が縮小して闘争本能があからさまになっているところがブタと違う。 
 ふたこぶラクダの檻の前に出る。1頭はぽわーんと立っており、もう1頭はぼよんと座っている。のどかである。ラクダはおっとりして風情があるので好きだ。
 売店で買った動物用のバナナとにんじんを立ったほうに与えると、はむはむ・ポリポリおいしそうに食べる。
 座っているラクダが突然ごろりと横にころがった。白目をむいて舌をべろんと出したので死んだのかとあせる。と思ったらこぶを地面になすりつけ始めた。腹にたかっていたハエが一斉にぶわんと飛び立つ。かゆいのか、4本とも足だから不自由だよなあと気の毒になるがどうしようもない。ただ黙って見ているだけである。
 ラクダはやがて起き上がり、立ち上がって私の前に顔を突き出した。口の中はよだれだらけだ。ほら食べな、のど乾いてるんだろうとバナナとにんじんを口の中に入れてやる。
 はむはむ・ポリポリしている間もラクダの大きな眼はとろんと遠くを見ている。その奥に思慮分別だとか理性だとか包容力だとかは存在しない。ただビー玉のようにつやつやと真っ黒に輝いているだけだ。哀しい眼だなあ、本能だけで生きているとこういう眼になるのだなあと思う。  

「動物ショーが始まりますのでお集まりください」
園内にアナウンスが流れるが、無視してカピバラの池へ向かう。だって好きなんだもん。
 ふれあいゲートの扉を開ける。
 しーん。お客なんか誰もいない。みんなショーを見に行っているのだ。
 緑色の池の中にカピバラが3頭いる。よく見るとウンコがあちこちにぷかぷか浮いている。水辺に住むカピバラは、池の中で排泄する習性があるのだ。
 一番大きいカピバラが池から出てきてのそのそこちらに近づいてきた。もちろんバナナとにんじんが目当てだ。
 うわあかわいい、手に水かきがついててかっぱみたい、顔デカい、鼻の下が長くてぶわぶわしてるねえ、前歯が伸びてまるで不思議の国のアリスに出てくるきちがい帽子屋みたいじゃんとうっとりしながら抱きつくように両手で剛毛をなでていると、いきなりブルブルブルッ! と身体を震わせた。うわあ水切りしやがった、ウンコのついた水滴を一身に浴びてしまったぞとちょっぴり困るがやっぱり離れられない。どうやらカピバラから強い磁力が放たれているようである。

 目を遠くにやると、地平線に添って伸びるなだらかな丘を夕陽が金色に染めている。風が冷たくて心地いい。いつの間にかスズムシが鳴いている。
 大きな金色のカメがこちらに向かってゆっくり歩いてくる。にんじんをやるが、見向きもしないでただ通過していく。
 ふれあいコーナーを奥に進むと天井の高い檻がある。サル小屋だ。見ると、床に小さな小さなサルの赤ん坊が落ちている。じっと眼を懲らすがぴくりとも動かない。もう死んでいるのだ。
 生まれたばかりの赤ん坊を落としてしまったのか。かわいそうにと思うがすでに動かないそれはただの肉塊だ、いずれ係員に発見されて跡形もなく片付けられるだろう。
 死んだ子ザルの親を探すがさっぱりわからない。みんな同じ顔をして普通にたたずんでいる。
 しばらくベンチに座って夕陽をながめる。ああここは大自然がのんびりしている、ビルも工場もネオンサインも何もないのがいいなあと心から思う。どこかで5時のサイレンが鳴っている。
 さあてそろそろ帰るかあと立ち上がると、出口のゲートの手前に先ほどの一番大きいカピバラがどっかり座ってこちらを見ている。変な威厳がある。
「楽しかった? あんた」
 えっ?
「俺たち細かいこといちいち気にしてないから」
 ええっ?
「また来たらいいじゃん」
 えええっ?
 それだけ言うとよっこいしょと重そうにのそのそ立ち上がり、他のカピバラが顔を出している緑色の池の中にちゃぽんと入り、そのままゆっくり水の中に消えていった。

2011.08.01

靴の夢

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 私はもう出かけなければならない。けれど靴を履いていない。
 ここはどこだろう? 大きな屋敷のようだ。
 広間の中央に、靴が山のように積み上げられている。
 どれを履いて行こう?
 一足ずつ手に取ってみる。
 これは形がいびつだし、あれは何だか色あせているし、それはデザインが流行遅れで気に入らない。
 あれもだめ、これもだめ。
 靴を探しているうち、あ、そうかと気づく。
 ここにある靴、全部古いんだ。自分が今までさんざん履いてきた靴だから、もう二度と履く気になれないんだ。
 すると、上から声が響いてきた。
「ここにある靴はもうボロボロだから履けないよ。靴にお疲れさまと言ってやりなさい」
 そこで目が覚めた。 
 今までの人生が終了したのだなと思った。 

 私の足はかなり大きいので靴選びには毎回苦労するが、考えてみれば、今現在に至るまでかなりの量の靴を消費している。
 何年にも渡り長く愛用した靴もあれば、1回履いただけで放り投げてしまった靴もある。
 希望に燃えて履いた靴もあれば、失意のどん底で履いた靴もある。
 怒りに身を震わせながら履いた靴もあれば、心をときめかせて履いた靴もある。  靴の歴史をたどっていけば、私という人間がたどってきた道のりに重なる。靴は人生の乗り物なのだ。  

 夢の中で、私は素足だった。
「さあ、どうする? お前は次はどんな靴を履くのかね?」
 神さまの問いかけに、私はただ茫然と立ち尽くしていた。古い靴が目の前にどれだけたくさん積み上げられていようとも、もうそれを履けないことを知っていた。

2011.07.16

黒い下着の救世主

 今までレディ・ガガにあまり興味はなかったのだが、来日したときの記者会見を見て「おっ」と思った。まぶたに目を描き、会見中もずっと目を閉じているのである。ものすごく大きな目をした生きアニメ。日本ではこんなことをするアーティストはいない、芸人くらいだ。
 この人、いったいどういう人なのだろうと興味が湧いてYou TubeでMTV主催のチャリティイベント(2011年6月25日@幕張メッセ)のライブを見る。
 1曲目は初音ミク、2曲目はチュンリー(ストリートファイターに出てくる香港の女ファイター)によく似た出で立ち。さすが日本文化をよく研究していらっしゃる。豊かな声量と鍛えられたダンスであっという間に場を支配し、10分で幕張メッセに独自の世界を構築。 
 さらに過去のPV(プロモーションビデオ)を見てみた。
「これでもか」と攻めてくる下品&露悪&過剰なファッションセンスは別ベクトルのVOGUEの世界。手っ取り早く言えばゲイワールドだ。
 特に「Born This Way」のPVで繰り広げられるのはキッチュで悪趣味なドラァグクイーンの夢を体現した耽美なディズニーランド。「Born」と「Bone」をかけているのか後半で骸骨のカップルが登場してくる。
 生殖のないゲイの恋にはどうしても死の香りがつきまとう。骨まで愛してしゃぶりつくしたら後は土に還るだけ、だからこそ彼らが表現するアートは刹那的でドラマティックなのだ。
 本人が同性愛者かどうかの真偽はともかく、ゲイ文化に馬乗りしたガガは後先を考えないラジカルさを体現して観客を脅かす。「Born This Way」のジャケ写の顔なんて鬼婆じゃないですか。夜中にあの顔が空中に浮いてたら失神しますよ。
 その一方でピアノを弾きながら「私はいじめられっ子だった。でも夢をあきらめなかったおかげでここまで来られたの。だからあなたたちも夢を捨てないで」と涙ながらに語る。
 お、過激だけどやっぱり根はまともなんじゃんと観客は安心してガガに同期し、憧れて後を追う。こういうアメとムチの使い分けはスターの方法論としてとても正しい。

 ところでガガは3月28日生まれだそうだが、もしそれが本当ならバリバリの牡羊座である。牡羊座は鋭いインスピレーションと直感力、そして並外れた行動力を持ったチャレンジャーとされている。「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」の世界ですね(by 高村光太郎「道程」)。
 たぶん彼女の頭の中は常に沸騰したポットのごとく新しいアイデアが湧き続けているのだろう。そしてそれを具体的な形に出来るすぐれたスタッフ(たぶんゲイ)がついているのではないか。
 自分だけにしか表現し得ないオリジナルの個性をアピールして多くの人に認められることが小さい頃からの彼女の唯一の喜びであり、またそれが天職だと思っているに違いない。
「変わっている」と驚かれることはガガにとって何よりのほめ言葉だ。しかし素の彼女はたぶんそれほどセクシーでも攻撃的でもストレンジな人でもないだろう。素直で思いきりのいい努力家だ。

 銃とドラッグと貧困がどろどろに混じり合う黒い海であっぷあっぷとおぼれかけるアメリカの若者たちは、ガラスの摩天楼で微笑むガガに必死で手を伸ばす。
 ガガが好んで着る衣装はビスを打った黒い下着だ。それはセックスと暴力を意味する。
 ガガの前にはマドンナというよく似た姿の救世主がいた。残念ながらアメリカにもうキリストはいないのだ。
 はたして彼らは救われるだろうか?
「だいじょうぶよ。みんな愛しているわ」
 そういってガガが手をさしのべても、海面から摩天楼の最上階まではあまりにも距離がありすぎる。やがて白や黒や黄色など色とりどりの手は寒さに震えながら力尽きて沈んでいく。
 摩天楼の中でにっこり微笑むガガは、まるでピエール&ジルが描く美しい絵のようだ。それはまぶたに描いた目のようにはかなくてまったく実体がない。

2011.07.08

 

寅卯天中殺のみなさんへ その2

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 全国の寅卯天中殺のみなさんこんにちは。
 太陽が真っ赤に燃えさかる夏、いかがお過ごしか。ただでさえ天中殺なのに余震や原発事故までも加わって、「さすがのオレもそろそろきついぜ」とか「だいじょうぶなように見せてるけど、あたし正直疲れた」などとぐったりしておられる方も少なくないのではないか。
 天中殺の過ごし方はそれぞれの天中殺によって異なる。子丑天中殺なら1人で巣にこもってそれなりに静かにやりすごし、辰巳天中殺なら何もかも捨てて海外とか宇宙へ旅立って現実逃避し、午未天中殺なら「まあなるようになるでしょう」といつも通り淡々と過ごし、申酉天中殺なら「もうダメだよ! 誰か何とかしろよ!」と大騒ぎしてストレスを発散し、戌亥天中殺なら「この試練をありがとう」と1人で座禅に集中するけれど、寅卯天中殺は「天中殺なんかぶっ飛ばせ!」とパワフルにがんばっちゃうんですね。
 2010年、2011年くらいは天中殺なんだからおとなしくしとれちゅうとるのに自ら嵐に立ち向かっちゃう。で、人に弱みを見せたくないポーカーフェイスなもんだから、どんだけストレス抱えてても顔に出さず、まわりにも気づかれず、孤軍奮闘して疲れて寝込んじゃうわけですね。(パニック障害って実はこのグループに多いのではないか。)
 天中殺時にがんばるのは田んぼの中を全力疾走するようなもの。あまり無理せず、2012年2月3日の天中殺明けまで「アンニュイ上等」を合い言葉にしのがれたい。
 あ、ちなみに2012年2月4日からは辰巳天中殺のみなさんに順番が回ってきます。「荒野のサボテン」とも称されるアウトサイダーなみなさんにとって、とびきりスリリングな2年間になるはずですから乞うご期待。

 閑話休題。今回は天中殺真っ最中の寅卯天中殺のみなさんがこの時期に陥りやすい落とし穴について述べましょう。どなたさまも次のことに気をつけてください。

1 過去をほじくり返す
 今、妙に人恋しいでしょう。だって、誰も相手にしてくれないんだもん。「暗黒の宇宙空間に飛んでしばらく1人で修行してこいや」が天からの至上命令なのでそうならなければおかしいしもちろんそれでいいのだが、いかにタフな寅卯天中殺とて人の子、ずっとひとりぼっちじゃ寂しくもなれば心細くもなる。しかし職場や家庭や友達からは冷たくスルーされている。
 結果、過去に目が行ってしまうんですね。で、昔つきあっていたAさんだとか同じグループだったBさんだとかに連絡しちゃう。
「久しぶり!」
「変わってないね」
 最初のうちは盛り上がる。こんなに気の合う人とどうして疎遠になったのかと思う。焼けぼっくいに火がついてしまう男女もいよう。
 しかし長くは続かない。つきあっているうちに相手のアラが見えてきて、あーあな思いをする可能性が高い。なぜならその人間関係はとっくに終了しているからである。終わっているものを強引に再開させると、時間と金と労力の無駄づかいに終わる。
 特売品の残りものと過去の人間関係に福はない。あとでがっかりするだけだ。
 それと、寅卯天中殺の恋人や伴侶を持つ人は相手の浮気に要注意。適度にかまってあげないと、寂しさから浮気する恐れがある。天中殺時の浮気はこじれやすいから、芽を見つけたら早めに摘んでおく。自分の顔写真をパートナーの携帯の待ち受け画面に強制的にセットしておくとか、手作り弁当を持たせるなどの「マーキング」が有効だ。

2 努力で現状を打開しようとする
 無重力の宇宙空間に放り出されたとき、子丑天中殺や午未天中殺や戌亥天中殺はじたばたせずにふわふわと流れに身を任せ、落ち着いて2年間を過ごすことができる。だからそれほど体力を消耗しない。
 むだに大暴れするのは寅卯天中殺と辰巳天中殺と申酉天中殺だ。「輪っかの中で走り回るハツカネズミのようじゃのう」と神さまに苦笑されてもなお、「汗をかけば何とかなる!」と手足をバタバタさせるのがこの人たちの性(さが)。
 結果、体がくるくる回転して目が回る。で、船酔いする。

3 貯め込むばかりで使わない
「何かあったときのために」とお金を貯めるのはいいが、冠婚葬祭費や交際費をケチってまでがつがつ貯め込んではいけない。「儲かればいいのさ」としゃにむに荒稼ぎしたり、金目当てで人に近づいたり、そろばんずくで行動するのもダメ。
 天中殺の2年間は今まで溜めた厄を吐き出す毒出し期間だから、「かき込む」「貯め込む」などルールに反することをすると体内にどんどん厄がたまりまくって自家中毒を起こす。
 お金はうまく使えば福を買えるが、我欲に目がくらんで貯め込むと一転して厄になる。天中殺期間は「吸い込むより吐き出す」が基本。
 金融商品の預け替えを考えている人は、ハイリスクハイリターンより安全路線でいく。欲得から投機的なことに手を出すと後で泣きを見やすい。
 家や車のローンがある人は、貯金する余裕があるなら先に返済に充てる。今の金利じゃ貯めてもほとんど利息なんかつかないし、借金が減れば肩の荷が軽くなって心に余裕が生まれるからだ。
 安易に人から金を借りるのもやめたほうがいい。信頼を失う原因になる。
「貸して」と頼まれた場合は、「この金はもう返ってこない」と覚悟して貸す。それが無理なら貸してはいけない。

4 やけくそで転職する
「こんなクソ会社、やめてやる!」
 天中殺時は判断が狂って自暴自棄になりやすいから、即断即決は禁物。やめるのはいつでもできるが再就職は難しい。下手するとずっと就職できない、あるいはもしまぐれで就職できたとしても収入が現在の6〜7割に減る公算が大きい。人間関係もたぶん今より悪化する。どうしても転職したいというなら、せめて2012年2月3日まであせらずに待つ。

5 むやみに大勝負に出る
 寅卯天中殺はダイナミックで大胆な行動力の持ち主だが、裏を返せば「無謀」になりやすい。そのクセは特に人生に行き詰まったときに出る。
「ああ私ってどうしてこんなに不運続きなのかしら・・・・・・、そうだ、結婚よ! 結婚しちゃえば未来がバラ色に染まるかもしれないわ!」
「ここらで人生巻き返したいなあ・・・・・・、そろそろ出すかあ、店ッ!」
「ああ、このおんぼろアパートにいると気が滅入る。思い切って貯金はたいてあこがれの白いタイル貼りのマンション買ってこの生活から脱出しようかしら」
 あのう、何も今でなくても。天中殺時に下手にがんばると不運のスパイラルに巻き込まれやすいんですよね。
 あれこれ計画を立てるのはいいけれど、大きなイベントを実行に移すのは天中殺明けと心得たい。たぶんその時になればまた別のこと考えてるだろうし。

 どうですか、そんな感じですか。あまりがんばらんと、今できる範囲でそれなりに楽しくおもしろく暮らすのが賢者の道ということになりましょうか。
 それでは、引き続き快適な宇宙の旅をお楽しみください。

 2011.06.21

危険なサイト

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 質問。あなたが携帯やパソコンにブックマークしているのはどんなサイトだろうか? そのサイトに入ると、どんな気分になるだろう?
「楽しくておもしろい」「ワクワクする」「役に立つ」なら何の問題もないが、「読んでいる最中にちょっとひっかかる」「読後になんとなくもやもやする」「違和感を感じることがある」「中毒性があり、読まないと不安になる」などというなら、読むのをやめたほうがいい。そのまま読み続けても、何ひとついいことはないからだ。 

 私は以前、とある精神世界系のブログサイトにはまったことがある。
「うわあ、この人の知識量はすごいなあ」と感心して記事を読みまくっていたのだが、実は心のどこかで違和感を覚えていた。しかしあまりにも内容がおもしろいうえに納得できることも少なくなかったため、そのまま毎日のように読み続けていた。
 1カ月後。夢の中に小さな黒蛇の群れが出てきた。そいつらはぴょんぴょんはねながらこちらに近づいてきた。私はただそれをながめている。
 妙にイメージの鮮烈な夢だったなあとそのときは気に留めなかったが、しばらくしてからまた同じような蛇の夢を見た。蛇の夢を見るのは決まってそのサイトをチェックした後だった。 
「あのブログの書き手は、もしかするとヤバいのではないか」
 そう気づいてからしばらく近づかないようにしていたのだが、好奇心に勝てず、再びそのブログを読むようになってしまった。(我ながら懲りないやつ。)

 相変わらずすごいことを書いているな、この人いったい何者だろう? と思う反面、あれ? 言っていることがどこかおかしい、この人の本当の目的は・・・・・・とうすうす感じてもいた。
 また夢を見た。
 ものすごく大きな蛇の頭が真正面にある。それは感情のない目でじっと私を見ている。頭の赤いウロコがぎらりといやらしく光る。「この蛇、私を見に来たのだな」と私にはわかっている。
 ただそれだけの夢だったが、目が覚めてからゾッとした。「とうとう本体がやって来た」と直感したからである。
 今まで見ていた小さな黒蛇集団は取り巻き、もしくは監視用のアンテナであり、今回見た大きな蛇は御大(おんたい)だ。
 それ以来、そのブログサイトはブックマークからはずして永久封印とした。ふしぎなことに、そのころ悩まされていた原因不明の頭痛と肩こりと吐き気は、それ以後徐々に薄れた。 

 そのような経験をしたのはそれだけではない。それ以前にもとある別の精神世界ブログに夢中になり、どこかで「変だな」と思いながらも集中的に読んでいたとき、暗闇で舞い踊る白拍子(しらびょうし)の夢を見た。無心に踊るその人は、私を見るなり「何しに来た」と不快そうな顔をした。
 後にブログのプロフィール写真を見てみると、夢で見たのと同じ顔だった。
 その人のサイトにも、今は行っていない。一度配線がつながると、たやすく交流できる気がしたからだ。

 電気は気を媒介する。これはあくまで推測だが、ウェブサイト上で読み手が書き手と対峙するとき、画面から発生する磁気によって両者の霊的な距離が縮まり、目に見えないどこかで気が交流し合うのではないだろうか。
 それが起こる確率の高さは「読み手もしくは書き手の熱意」×「訪問頻度もしくは更新頻度」×「持っている気力の強さ」に比例するように思う。
 もし相手がネットを利用して何かよくないことをたくらんでいる強者(つわもの)なら、それに気づかず文面の心地よさに惹かれてひんぱんにそのサイトを訪れる者はスケープゴートになる可能性がある。
「何だかヤバそう、でもおもしろくてやめられない」と感じるサイトは危険なのである。

 ネットは基本的に相手の本性が見えない百鬼夜行の世界だ。違和感を感じるサイトに近づくとひどい目に遭う。

2011.06.04

くるくる頭

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 生まれつきの天パーで放置するとゴーゴンのように髪がうねってくるため、ここ数年、縮毛矯正(髪を強制的にまっすぐにするパーマ)をかけていた。
 これをすると、あこがれのサラサラ直毛が手に入る。入るけれども施術にけっこうな時間と費用がかかるうえ、1カ月もたたないうちに根もとの毛がうねうね伸びてくるので、わりとすぐに髪全体のまとまりが悪くなるのが難点である。
 で、耐えられなくなって3カ月後にまたかけ直す。
 ・・・・・・この繰り返しで私の髪はどんどん傷み、枝毛や切れ毛が増え、キューティクルが失われてツヤがなくなった。

 夢のサラサラ直毛は確かに捨てがたい、しかしこのままでは費用もバカにならないし髪も枯れていくしとジレンマに悩みながら、ある日「さてどうする? またかけ直すのか?」と自問自答して「もうやめよう」と結論を出した。
 金と時間と髪の健康が損なわれる懸念もあったが、実は最大の理由は「常に違和感がつきまとっていたから」である。痛いとかかゆいとかではない。
 意識の奥底で強制的に自分をねじ曲げている感じ。
 どこかから抑えつけられて、自分が自分でない感じ。
 私はたしかに私だけれども、この私は本当の私ではないという意識が絶えずつきまとい、まるで自我が薄いフィルムでラミネートパックされているような気分だったのである。 
 それで、矯正のかかっていた部分を思い切りバッサリ切った。傷んだ髪をリセットしたかったのと、自分の頭は放っておくといったいどんな形状になるのか再確認してみたかったのだ。
 耳が出るほどのツンツンのベリーショートからモンチッチへと少しずつ伸ばし、現在はやっと耳の下までのボブになったが、いやあ巻く巻く。鳴門(なると)のうずしおにも負けないほどくるくるうずを巻いて目が回りそうだ。
 だが面倒なブロウもカーラーもコテも一切無用、洗いっぱの髪に適当に手ぐしを入れるだけでボサボサではあっても何となくそれなりにまとまってくれるので便利である。
 湿気の多い日にはビッグバン現象が起きるが、それはそれでいい。かまわない。強制的に髪質を変えていたときより、はるかに自由で開放的な気分でいられるからだ。色々な意味で楽ちんだから、もうずっとこれでいくつもりだ。
 
 思うに、髪とは体内に湧き出る自我が物体化し、身体のてっぺんに噴出したものではないか。まっすぐな髪質の人は性格もまっすぐストレートであり、クセ毛の人は性格にもどこかクセがあり、我も強い。硬い髪の持ち主はどんなときも自分の考えをきちっと貫き、柔らかい髪の持ち主は周囲の情況を見ながら柔軟に立ちふるまう。
 髪を長く伸ばし続ける人は「自分を守りたい」「現状を維持したい」「積み重ねてきたものを壊したくない」、思い切って短く切る人は「脱皮したい」「チャレンジしたい」「目の前のことに集中したい」などの願望があるのではないか。
 パーマをかけたり、黒髪を染めるのは「違う自分になりたい」という変身願望であり、失恋した女性が髪をばっさり切るのは過去をスパッと切り離そうとする決意のあらわれだ。前髪で額を隠すのは自分をあからさまに出したくないからで、出すのは自分に自信があるから。
 かつらやウィッグではげを隠すのは人に弱みを見せたくないから、堂々とさらすのは「この自分でよし!」と自分を認めているから。
 ・・・・・・などなど、髪の毛ひとつとってもいろいろ分析できる。
   
 パーマに限らず最近ではジェルネイルなどのつけ爪やカラーコンタクト、まつげパーマ、アートメイク、プチ整形、ダイエットなどによって外見を変化させる人が少なくない。
 おしゃれにチャレンジするのはもちろんいいことだが、過剰な変身願望は危険である。それは時に自我を圧迫したり、場合によっては封印しようとする行為になりやすいからだ。自我は決して死なないから、不毛な闘いとなる。
 もしかするとマイケル・ジャクソンは表層の自分と深奥の自分が24時間闘い続け、片時も心の安まる暇がなかったのではないか。
 気の毒だが、スターの宿命か。
 スターでない人は、「自然でいること」が最もロスのない生き方ではないかと思う。

2011.05.12