奥さんの方術

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 繁華街にある大きな書店をじっくりひと巡りしたのち疲れてぼんやりした頭で電車に乗って帰宅、駅前のスーパーで牛乳やオレンジジュースや日本酒や塩など重量のあるものをこれでもかと買いまくり、ああ重いこんなの持っててくてく歩いて家に帰るのかね本屋で本3冊買ったうえにさらに重いもの買ってバカじゃねえのと自分で自分にうんざりしながら袋詰めしていると、「ステキね」と唐突に声がした。
 前後左右&天地をきょろきょろ見回すが他に誰もいない。怪訝な顔でふと正面を見ると見知らぬ奥さんが自分を見てニコニコしている。向こう三軒両隣どこにでもいるような、ごく一般的な品のいい中年の奥さんである。
 えっもしかすると自分のことですか、えええ奥さん正気ですかとじっと相手の目を見る。
「帽子とお洋服の色の組み合わせがとってもステキ」
 その日は紺色の帽子に紺色の麻シャツに真っ赤なパンツを履いていた。
 そうか、この奥さんは赤×紺のパッキリしたコンビネーションに目を奪われたのだなと気づき、あああありがとうございますこの帽子は自分にとって天パーのボサボサ頭をカムフラージュするためになくてはならない必須アイテムであり、これがないと私は巨大なモンチッチになるのでありますと説明する。
「そのお帽子とても似合うわ、ほほほじゃあねえ」
 長年生きているがスーパーで見知らぬ他人さまから褒められるのは生まれて初めての体験だ。そうかあ自分イケてるんかあとうれしくなり、マリオが空中ブロックをドカコンとどつくようにひゃっほうと天高くジャンプしてからスーパーを出た。

 地球を持ち上げるくらい重かった荷物がこんなに軽い、あの奥さんの方術すごい、いやあありがたいねえと感謝するうち「無財の七施」という言葉を思い出した。
 それは人に慈悲を施しましょうという仏教の教えで、1.眼施(がんせ)・・・やさしいまなざしを向ける 2.和顔施(わがんせ)・・・にこやかな顔で接する 3.言施(ごんせ)・・・温かい言葉をかける 4.身施(しんせ)・・・助ける 5.心施(しんせ)・・・思いやる 6.床座施(しょうざせ)・・・席を譲る 7.房舎施(ぼうしゃせ)・・・もてなす、の7項目がある。
 あの奥さんがぐったりしていた自分にしてくれたことは実に3番目の「言施」ではなかったかとハッとする。

 言った本人は「無財の七施」とか「慈悲の実践」など小難しいことはまったく考えていなかったと思う。たぶん目について感じたことを素直に口にしただけだろう。しかし不意討ちのように放たれた「ステキね」の言葉はずどんと私の心に深く突き刺さり、身体の隅々に重苦しく張り巡らされていた疲労感を粉々に打ち砕いた。恐るべし、言施の威力。

 金と徳は天下の回りものだ。だから私はあの奥さんから受け取ったプレゼントをいずれ誰かに手渡したいと思う。
 もしあなたがいつかどこかで帽子をかぶった変なやつから何かモニョモニョ言われることがあったら、ああ、あのブログの筆者だな仕方ねえなあと、どうかいやがらずに言施を受け取っていただきたいと切に願う。

寺あたり

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 ある晩秋に、仕事で寺巡りをすることになった。
「あなたこういうの好きでしょう、ふふふお任せしましたよ」とクライアントから言われたので喜んで引き受けたのだが、当時は1日に48 時間働いても足りないほど超多忙、引き受けたはいいけれどさていったいどうやって取材の時間を捻出すればいいのかと頭を抱えた。
 行き先をリストアップすると20 件あまりある。これ普通にちまちま回ってたら他の仕事に支障来すじゃん、ええい2日で何とかしてやれと腹をくくって1日10 件回ることにした。いまから思えばあんたそら無謀だろうと肩を揺すりたくなる無茶ぶりだが、当時はそれが当たり前、あの頃は自分を取り巻く時間のスピードが今の10倍速だった。 

 気力さえあれば身体は何とかついてくる。早朝から暗くなるまで有名無名の寺を気合いで巡り、坊さんの話をふんふんああそうですか、で結局神さま仏さまというのはいったいどのようなものでどこにおわしますのでしょうと尋ねるが、結局どこへ行っても回答は得られない。やはり形のないものは群盲象を評すで最終的には自分の感性でとらえ自分の脳内で像を結ぶしかないのだとそのときわかった。

 勢いに任せて1日目終了、帰宅後入浴中にこっくりこっくり湯船に顔を浸しては起き浸しては起き、いかん自分は水飲み鳥かとあわてて風呂場を飛び出しそのまま布団の上にバタンと倒れて爆睡した。

 2日目早朝、眠いよつらいよと駄々こねる身体を引きずりながら布団を離れ、前日と同じように寺から寺へとさまよい歩く。
 夕刻、バツ印で真っ黒になったスケジュール表をながめながらやればできるじゃん、じゃあ次はこのお寺だねと顔を上げると周辺に何となく白いもやが立ち込めている。あれ? 今の今まですっきり晴れてたはずなんだけどと首をひねりつつ広い境内に足を踏み入れ、恐山を思わせる人気のない丘をひとめぐり。あちこちに立つお地蔵さんの顔がやけに生々しいのは気のせいか。
 ふもとに降り、真っ黒い池のふちをたどって寺を目指す。家屋を兼ねた古い寺務所(じむしょ)の引き戸をがらりと開け、「あのう失礼します」と声をかけるとしばらくしてから「はあい」と小さな声がして、玄関からまっすぐ伸びた薄暗い廊下の奥から小柄な初老の女性が出てきた。
 いわゆる腺病質というのか、とてもやせている。全身から力が抜けたような、やる気のない感じ。この人、体調があまりよくないのかなと案じつつ「先日お電話差し上げた者ですが」と訪れた旨を話すと、「住職を呼んできますので少しお待ちください」と言い置いて再び廊下の奥に引っ込んだ。
 しーん。
 玄関から見て左側には廊下が、右側には階段がある。階段の途中に広めの踊り場があり、その上部に四角いガラス窓がはまっていて、そこから西日がぼんやり射している。薄暗い踊り場に黄色い光が細長く差し込み、光の筋と筋の間をほこりが静かに浮遊している。
 ただそれだけの風景が、こわくてこわくてたまらなかった。踊り場から誰かにじっと見られているような気がしたのである。何がいるのだろうと目を凝らしても、逆光でよく見えない。しかし気配だけは強く感じられる。
 いやだなああそこ絶対に何かいる、うっかりあの階段上っちゃったらどんなこわい目に遭うんだろう、どうして家族の人は平気なのかなとドキドキしていると「お待たせしました」と住職の声がした。
 背後に視線を感じつつ、階段と反対側の廊下を住職の後について本堂へ向かう。
 寺の由来を丁寧に語ってくれる住職はとても和やかな人で、なぜそういう人がそんなこわい家に住んでいるのか最後までわからなかった。

 2日目の取材も無事に終わり、やれやれと家に戻って資料を整理し始めたときのことである。何気なく腕をまくると、見慣れぬ赤い斑点が腕の内側一面に広がっていた。念のため反対側もまくるとまったく同じ。
 あれっ何このまだら模様、蛇女みたい、何か悪いものでも食べたっけ? とその日に食べたものを思い出してあれこれ推察するが胃も腸も別に何ともない、あ、そういえば頭痛がする、さては風邪でも引いたかねと熱を測ると38 度近くあった。しかし寒けものどの痛みもまったくない、にしてもこの気味の悪い斑点は何だと胸に手を当てて考えるうち、これは食あたりならぬ寺あたりであると気がついた。無防備に2日間で20カ所も回ったので、おみやげを持たされたのだと。
 いったいどこの寺でもらってきたのか、そういえばあの寺は薄暗くてじめっとしてヤバかった、いやあの寺も気味が悪かったぞ、あの寺では変な木に触っちゃったしなあなどと煩悶するが、結局原因は特定できなかった。
 ああどうしようこれどこから見ても奇病じゃん、自分はこのままやがて蛇かカエルに変態するのかと本気で不安になった。
 あっそういえば! とあわててカバンをひっくり返す。
 あった。仏さまの御影シート。
 親指の爪くらいの仏さまがずらりと印刷された切手シートのような紙を手に取り、あわてて1個切り離してコップ1杯の水でゴクンと飲み干した。ついでに「山伏も愛用!」と銘打たれた真っ黒い丸薬も取り出し、「胃もたれに」と書いてあったが寺あたりにも効くだろうと勝手に思い込んで数粒飲み込んだ。御影シートも丸薬も取材先で興味本位に買い求めたものだが、まさか本当に出番が来るとは思わなかった。
 翌朝、おそるおそる腕を見ると斑点がきれいに消えていた。
 ホッ。
 というわけで私は未だに人間をやっている。

 あのね、「パワースポット」と称されるところにむやみやたらに行かないほうがいいですよ、巣窟になってる可能性ありますから。昔の人はいいこと言いました、「仏ほっとけ、神かまうな」ってね。

2011.10.24

春のお彼岸のココちゃん

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 春のお彼岸に突入してからナマ傷が絶えなかった。
 まず初っぱなに親指を勢いよく壁にぶつけて爪が紫色のマニキュアを塗ったようになった。
 お彼岸だし部屋を清めとくかと初日の朝から張り切って雑巾を握り、あちこちの壁を拭いていたとき、まったく意図していないのに不意に右腕が野球のボールを投げるような動きをした。大きく振りかぶった先は壁である。もちろん自分の意思ではない、まるで誰かに腕を持ち上げられて力任せにぶつけられたような感じだった。
 自分はなぜ親指の爪を自ら壁に激突させるような真似をしたのかとショックのあまり呆然としていたら、間もなくじんじん痛み出し、熱を帯び、平たいはずの爪が亀の甲羅のようにぷっくりふくれあがった。
 その日の午後、今度は右足の親指を机の脇に置いてあるキャスター付きの引き出しの角に思いっきりぶつけた。もちろんぶつけたくてぶつけたわけではない、何かのはずみでぶつけてしまったのである。しかし何のはずみだったのかさっぱり思い出せない。
 手の爪も痛いが足の爪はもっと痛い。見ると、こちらも紫色に変色していた。

 翌日の夜、風呂に入るためパンツ(下着ではなくアウターのパンツ。ズボン。)を脱いだら、右脚のふくらはぎに20センチほどの真っ赤なみみず腫れができていた。ほぼ一直線で、ところどころうっすら血がにじんでいる。浴槽に浸かるとひりひり痛んだ。
 風呂から上がってからパンツを裏返して念入りに調べたが、とがった金具などは出ていないし針やトゲが生地に突き刺さっているわけでもない。もしやこのみみず腫れは何かの聖痕かと背筋がゾッとして身体が一気に冷えた。

 次の日、新品の靴をおろして外出した。「バカの大足」と揶揄されながら育った自分にはまるで夢みたいなゆとりのある安心サイズで、デザインも好みだったので喜び勇んで色違いを二足買ったうちの一足だ。
 しかし歩き始めて10分もたたないうちに右くるぶしの下が痛くて痛くてたまらなくなり、道ばたで靴を脱いで靴下をめくってみると皮膚がむけて出血していた。仕方ないので人混みの中で立ち止まり、カバンから応急絆創膏を取り出してくるぶしの下に貼り付けた。
 新品の靴だから革が固いのはやむを得ない、しかしEEEの幅広サイズなのになぜこうなる、と割り切れない思いだった。

 ああなんかお彼岸に入ってから満身創痍、「気を引きしめい」とご先祖が戒めているのか、あるいは娑婆帰りしている悪霊のいたずらか。
 お彼岸は昼夜の時間がほぼ同じ、また寒くもなければ暑くもない。こういう陰陽のバランスが取れたニュートラルな時期は、自分の生き方や運を顧みる絶好の機会と言われている。何ともないならそれでOKだが、どこかにトラブルが出たら運が落ちている証拠なので気をつけたほうがいいとされている。
 春分の日を中日としてその前後3日間を春のお彼岸と呼ぶが、その1週間に身体に何かしらのトラブルが出た場合、左半身なら先祖の警告、右半身なら自分のせいという説もある。
 それじゃ右半身ばかりケガしてる自分はおっちょこちょいなのか。臍下丹田に気を込めてもっとどっしり生きなくてはいけないのかなどとぼんやり考えながら、例年より10日ほど早く咲いた桜並木をとぼとぼ歩く。

 お彼岸の最終日。
 ちょっと遠出をしようと愛車で高速道路に入り、途中でSAに立ち寄った。土曜日の昼だけあって非常に混んでいる。犬連れも多い。
 売店でも覗いていこうと施設の入り口に向かうと、通路の途中にいたプードルがつぶらな瞳でじっとこちらを見つめている。
 プードルは人間の気持ちを理解するひときわ賢い犬種と聞く、ああプードルちゃんかわいいなあやっぱり犬には犬好きがわかるんだねえお利口ちゃんだぞうと笑顔でアイコンタクトを取り、その犬の脇を通り過ぎようとしたとき、「バウンッ!!」と敵意むき出し、犬歯もむき出しで威嚇された。
「だめよぉココちゃん」
 身体のラインに沿うワンピースを着たフェロモンたっぷりな飼い主が、長い髪をかき上げながら犬に向かってやさしく微笑む。
 だめよぉココちゃんの前に驚かしてすみませんとあやまるのがスジだろうかき上げ女、お前らまとめて浦見魔太郎におしおきしてもらおうかええっどうだぁと誰にも聞こえないようにつぶやきながらそのまま何もなかったふりをして施設内に入り、売店を物色する。桜の季節だが心の中には秋風が吹いている。
 SAの売店をひととおり見て回ると、とあるコーナーに地元で取れた農産物が並んでいた。
 あっこのぬか漬けおいしそう、よし買ってやる、ビニール袋で念入りに包装されてるからだいじょうぶだろうと2パックレジに持って行き、ついでにリンゴも6個ばかりかごに入れているうちバカプードルのことなどすっかり忘れ、ウキウキと駐車場に戻って車のトランクに買い物袋を放り投げてからぶうううんと再び高速に参入した。

 帰宅すると、すでに夜10時を回っていた。
 さあ遅めの夕食だ、おかずは何もないけどもう遅いからぬか漬けと温かいご飯で充分と鼻歌を歌いつつほどよくつかったキュウリとにんじんと大根を適当な大きさに切った。
「いただきます!」
 ぬか漬け久しぶり、うれしいなあ、今回のお彼岸はいろいろあったけれど最後は口福(こうふく)で締めてやれ、終わりよければすべてよしだ。
 パリッ。
 いい音がする。鼻孔をふんわり軽やかに腐敗臭が通り抜ける。
 心にそよりと秋風が吹いた。
 これ、傷んでるじゃん。
 ぬか漬けを容赦なく捨てると、心の中で暴風雨がどうどうと吹き荒れた。
 せめてもの口直しにとリンゴをむく。
 シャクッ。
 まったくの無味無臭、甘くも酸っぱくも何ともなかった。

 以上が春のお彼岸の顛末である。わが人生に幸あれと祈る。

2013.03.26

骨密度

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 3月中旬のある晴れた朝、散歩がてら骨密度を測定しに行く。
 道路沿いはマンションやビルの建設工事でわさわさとにぎやか、おまけにゴミの日なので収集車が集積所に来ては停まり、そのうえバスまであとからあとから来ては停まりするので全体的にアップテンポな春の大交響曲といったおもむきである。
 グリーンのフェルトのつば広帽に季節外れの毛皮のショートコートをまとった若い女性が精神病院の前にじっとたたずんでいる、これから行くのか出てきたのか。そこだけ時間が停止していたが、しばらくしてその女性が顔の向きをひょっと変えた瞬間にまた時間が流れ出した。
 そのようなばらばらの音符が飛び交う世界、印象としては淡いピンク色の陰と陽が交錯するうららかな2013年春の世界を、ひとり縫うように目的地へ向かった。

「おはようございます」を合図に検診が始まる。検診そのものは1分で済み、あとは椅子に腰掛けて結果と解説を待つだけだ。
 平日の午前中というのに次から次へと人がやって来る、男女比は3対7程度、年齢層はばらばら、たぶん職業もばらばら、それぞれの表情もばらばらである。
 ひまに任せていろいろな顔をながめるうち、幸せそうな顔をしている人とそうでない顔の人がいることに気づく。
 前者は背筋をスッと伸ばし顔色が明るく声のトーンが高くはつらつとしゃべり親しみやすい感じ、後者は猫背で顔色が沈み声のトーンが低くぼそぼそとぶっきらぼうな話し方で人を寄せつけない感じがする。これは着ている服や履いている靴や持っている物にはあまり関係ない。内面の光の質や輝き方が外側ににじみ出ているのだ。

「あなたは成人したときと骨密度がほぼ変わっていませんね。問題ないですよ」
 いやあよかったじゃん自分、じゃあこれからもがんばれるなと晴れ晴れした気持ちで建物の外に出ると太陽の光が道路に強く当たっている。風呂屋の煙突のように天高く伸びる真っ赤なクレーンを横目に見ながら、温かい道をウキウキと歩く。
 
 幸せな人もそうでない人も「人間である」というくくりではまったく同じ、何が違うかというと生きている環境と本人の心のあり方だけだ。100%言うことなしの素晴らしい環境に生きている人は皆無、むしろ人は何も考えずにほっとくと徐々によくないほうへ沈んでいくのが普通だから、幸せな人というのは重力に反して何かしらの努力をしていることになる。
 つらい、実につらいけどこのつらさをこのまま外にさらしたら周囲にもこのつらさが移ってしまうだろうとか、このまま堂々めぐりしてイヤなことを考え続けていてもちっともいいことなんかないからもうちょっと楽しいことを考えてみようとか、自分がされていやなことを人にするのはやめておこうとか、不安や心配で気持ちは下がってるけどせめて唇の両端だけは上げておこうとか、そういうちょっとした、しかしわりと力のいる作業ができるかできないかでその人の骨密度いや幸せ度は決まっていくのではないかと思う。
 
「骨密度は放っておくと自然に減っていきます、だからバランスの取れた食生活と適度な運動が大切なんですよ」
 過剰なダイエットがなぜ危険かというと、身を削るだけでなく骨も削るからだそうだ。骨が細くなると年を取ってから骨が折れやすくなる、寝たきりは実に骨が折れるので納豆や豆腐やめざしをたべて骨太をめざしましょうというわけだ。
 身も心も幸せになるためにはやはりカルシウムの意識的な摂取が必要だなと「骨まで愛して」を口ずさみながら再認識。
「やせなくちゃ」と無理にダイエットしなくても、年とりゃ食欲なくなってイヤでもやせますよお嬢さん。「痩せればモテる」「何とかなる」は女子の幻想、既製服の9号がすんなり入れば幸せになれるのかといったらそんなこと全然ないんだぜ。女の幸せは服のサイズでは決まらない、骨太かどうかで決まるのだ。

2013.03.12

チョコレート最終決戦

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 バレンタインデーを間近に控え、デパートの特設会場はどこも百花繚乱のチョコ祭り。一粒600円以上もする超高級トリュフ(一粒ですよ一粒)や色とりどりの美しい宝石のようなチョコ、フルーツのチョコがけ、ビーンズチョコ、動物モチーフのチョコ、和チョコなどが所狭しと並べられている様子は、まさに「チョコ万博」と言っても過言ではありません。
 チョコ好きの自分はすでに3カ所ほど回りましたが、どこへ行っても会場を訪れる客の99%が女子、1%が男子で、チョコレートとは女子の嗜好品であることがよくわかりました。たぶん購入されたチョコレートの約8割は、最終的に女子の胃袋に収まるのではないでしょうか。
 ということでバレンタインデーを狙って恋活をもくろむ人のためのゴールデンルール5つ。よろしければご参考に。

1 高すぎるチョコを渡さない
 ほとんど接点のない相手にいきなり1万円クラスのチョコを渡すとどうなるか。はい、気味悪がられます。「どんな野望や魂胆があるのか」と恐れられ、手編みのセーターを渡されたときのような顔でドン引きされるでしょう。相手に対する期待値を価格に置き換えてはいけないのですね。
「ああ高そうなチョコをありがとう、妻が好きなんだよね」と言われたとき殺意を覚えないためにも、2000円、せいぜい3000円クラスにとどめておくほうが無難です。そもそも1000円のチョコと3000円のチョコの味の違いがわかる男なんてほとんどいませんから、「そこそこの価格で見栄えのするもの」を選ぶのが得策です。余ったお金は将来のために貯金しておく、もしくは自分のために好きなチョコを買いましょう。

2 かといってカジュアルすぎるチョコでもダメ
 いくらおいしくても、本命の相手にキオスクやドラッグストアに並んでいるようなカジュアルなチョコを渡すのは避けたほうがいいでしょう。お徳用の袋入りもNGです。ひと目見た瞬間に「義理だな」「特売だな」「ついでに買ったな」とガッカリされます。

3 あっためない
 買ったチョコを暖房の当たる場所にずっと置いといたり、熱く高鳴る胸に抱きしめて寝たりすると溶けてしまいます。高級なチョコほど溶け率が高いです。開封したときに「なんじゃこりゃ」「いやがらせでは?」などとこちらの人格を疑われないためにも、ひんやりしたところに保管しておきましょう。

4 メッセージを添える
 バレンタインデーの本当の主役はチョコレートではなく、メッセージを書いたミニカードです。
 しかしこのカードにいきなり「すっごく好きです!」とか「去年の夏、社内運動会の障害物競争で網くぐりの網にからまってドン臭くもがいていたあなたをお見かけして以来、心の底から愛してしまいました」とか「ふふふ・・・・・・私は誰でしょう。ヒント:資材部の部屋の中心から見て東北方位の窓ぎわ、ちょうど鬼門ライン上のデスクに座ってまーす (^^)」などと書かれていたら、気の弱い男はそれを読んだとたん一目散に逃げ出すでしょう。
 メッセージカードには「好き」とか「愛してます」とか「つきあってください」とか力強く毛筆で書くんじゃなくて、「チョコレートの味はいかがですか? 感想はこちらまで→○○○○@○○○○.ne.jp」とボールペンで軽くメモするくらいがちょうどいいと思います。ただし相手の人となりがまだよくわからない場合は、いつでも捨てられる無料のフリーメールアドレスにしておきましょう。

5 見返りをすぐに期待しない
 人には人それぞれ抱えている事情があります。あなたがどんなに恋しくても、相手がすぐに返事を返してくれるとは限りません。
 その理由として「そもそもあなたのことが眼中にない」「女に興味がない」「すでに恋人もしくは妻子がいる」「体調が悪い」「仕事とかプライベートでトラブルを抱えていて今それどころじゃない」「チョコレートアレルギー」「根性がねじ曲がっている」などが考えられます。

「うまく運ばないことをゴリ押しすると、見舞われなくていい災厄に見舞われる」「最初からタイミングの合わない相手は、最後までタイミングが合わない」と運命学では申します。「チョコどうだった?」「メッセージの返事は?」などとこちらからカマをかけるのは控え、しばらく静観してみましょう。ホワイトデーを過ぎても無反応だった場合は「脈がない」「縁がない」「誠意がない」のどれかですから、すみやかに気持ちをリセットしましょう。
 どうしてもあきらめきれない場合は、ネクストプランとして相手の誕生日を狙います。この場合も、主役はプレゼントではなくメッセージカードです。「いつもありがとうございます、感謝の気持ちを込めて」とか「お誕生日おめでとう! 今度よろしければランチでもいかがですか?」あたりがいいでしょう。
 それでも無反応だった場合は、残念ですがその個体はあきらめて別の個体を探すほうがいいと思います。
 
 ・・・・・・はい、こんな感じです。あなたの恋がすんなり成就しますように。

2013.02.12

墓地に建つ家

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 ある朝起きると、窓の外からトンテンカンテンと建築音がする。どうも、どこかで家を建てているらしい。見ると、とある土地で新築工事を行っている。基礎工事が済み、木材が組み立てられているので、じきに棟上げというところだろう。
 ああおめでたい、新年早々家を新築するなんて、施主は今ごろさぞや希望に燃えていることだろうと想像したが、次の瞬間、あっと思った。
 その家は墓場に囲まれるように建っているのである。「墓場の敷地内に家を建てている」と言っても過言ではないくらい、間近も間近もいいところなのである。なにせ敷地を隔てる薄っぺらい塀のすぐ向こうに、地続きの墓地が広がっているのだから。
 しかし、大工たちは青空の下で意気揚々とトンテンカンテンやっている。ま、自分が住むわけじゃないからね。

 一般的には、墓地は住まいの周辺環境としては悪くないと言われている。高い建物がないので日当たり、風通しは申し分ないし、騒音の心配もない。ただし春と秋のお彼岸は人がざわざわ出入りしたり、線香の香りが家の中に漂ってくるといった欠点はある。しかしそれを差し引いても、閑静な環境を好む人にはうってつけの環境といえる。
 ただしそれは「道を一本はさんだ程度の距離」がある場合のことであって、家の窓からはたきを伸ばせば墓石に届くくらい間近だと、また話が違ってくるのではないか。

 太陽が水平線の下に沈んだ後、奴らは目を覚ます。どこかでオオカミが遠吠えを上げたのをきっかけに土の中からしわがれた手が次々に伸びて・・・・・・スリ、ラーッ! それマイケルじゃん、そうじゃなくて。
「お墓の下に私はいません」という歌があった。実際、墓の下に埋まっているのは幽霊でなくカルシウムである。だから恐れる必要などまったくありませんよと人は言う。「人は死んだら無になる。だから幽霊など存在しない」と言う人もいる。
 たぶんあの家にこれから住もうとする人は、霊だの魂だのをあまり気にしないたぐいの人ではないかと思う。それはそれでもちろんいいと思う。

 しかし「あーっ、今日もいい天気ねえ」と布団や洗濯物を干す目の前に墓、「今日はがんばるぞ!」とご飯をほおばる視線の先に墓、「あの人に思い切ってメール送ってみようかなあ」と座るトイレの真裏が墓、「いやあ極楽だなあ」と湯船に顔を埋める窓のすぐ向こうに墓、「今日は家族みんなでミッキーに会えて楽しかったねえ」とウキウキ帰宅する途中にも墓。見渡す限り墓、墓、墓。陰の気に満ちた墓に囲まれて、気持ち、萎えないか。「ゲッ、ゲッ、ゲゲゲのゲー」と鼻歌が出るうちはまだいいけども。
 元気なときならいいけれど、体調が悪いときや精神的な落ち込みが続いたとき、「墓に囲まれて暮らしているからこうなったのでは」とつい思い込みたくなるのが人間だ。
 そうなったが最後、「くしゃみが出たのは墓のせい」「夫の給料が少ないのは墓のたたり」「ダイエットが成功しないのは墓の呪い」など、何でも墓に結びつけて考えてしまう恐れがある。そうなると、住み続けるのが辛くなる。げに恐ろしきは、幽霊より「思い込み」だ。

 思い込みは生きている人間のみならず、死んだ人間にもあるだろう。
「死んだら墓場へ行くもの」と思い込んでいる人はたくさんいる。そういう人が亡くなったとき、そのまま行くところへスーッと行ければいいけれど、迷ってしまった場合はどうなるか。墓場を目指し、そこでうろうろする可能性が高くなる。
「あれ、やっぱりここじゃないような気が・・・・・・。あっ、あそこに光がある!」と走った先が、墓地に隣接する家の玄関や寝室だったらどうなるか。・・・・・・パキパキ家鳴りがしたり、電化製品がしょっちゅう壊れたり、あるいは敏感な住人なら、暗闇にまぎれる誰かの気配を感じるようになるだろう。

 お彼岸ともなれば、「イカ之助おじさんに好物のぼた餅持って行こう」と墓参りに行く人が増えると同時に、「サバ子が自分の墓を訪ねてくるからちょっくら顔出すか」と墓帰りする人も増える。墓地はあの世とこの世を結ぶランドマークだからである。
「ランドマークの近くにちょうどいい集会所できたじゃん、あそこでお茶しない?」「うんいいね、あそこ日当たりよくって居心地いいもんね」「じゃ、先月こっちに来たばかりのハモ美も誘おうか!」なんて勝手にどやどや入ってきて自宅の庭やリビングを利用された日にゃ、生きてる人間はたまらない。
 だからもしそこに暮らし続けようと思うなら、先住者の顔を立てて、多少のことには目をつぶって暮らすしかない。「ま、そういうこともあるだろう」と居直って共存するのである。
 ・・・・・・最後の切り札は引っ越しだ。そこを売るなり貸すなりして、別の家に移り住めばいい。問題は、「墓に囲まれた家に住みたい」と希望する人がはたしてすんなり見つかるかどうかである。

2013.01.13

ねずみ男

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 元日に氏神さまを参拝。
 年々長くなる行列の最後尾に並び、順番を待つ。
 急な階段を一段ずつ上った先には、茅の輪(ちのわ)がある。茅の輪とは、茅(かや)草で編んだ大きな輪っかのことである。参拝者はこの輪を八の字を描くように3回くぐって回り、1年のケガレを茅の輪に落としてから神前に向かう。
 1時間後、やっと茅の輪がくぐれるところまで来てふと振り返ると、自分の真後ろにいつのまにか背の低い男が立っている。
 あれっ後ろはたしかオレンジ色のダウンを着た長身の男だったはず、くたびれたねずみ色の上着に黒いズボンを履いていろいろなものが入った紙袋をぶら下げた年齢不詳のこの男はさっきまで絶対に存在していなかった、いったいいついかなる方法でここに入り込んできたのだろうと頭をひねるがわからない。無彩色の服を身にまとった男は背中を丸めたままじっと立っている。
 なんでこんなねずみ男みたいなのが自分の後ろにいるの、いったいどこから湧いてきたの、にしてもなぜオレンジ色の男は割り込みされても知らんぷりしているの、正月早々ことを荒立てるのもなにだからスルーしようと決めたのかといろいろ考えながら茅の輪をぐるぐる回る。
 神前で感謝と誓いを述べてからさあ御札買っておみくじ引いたろかと授与所へ向かうと、ねずみ男がぶつぶつ言いながら自分のそばをかすめ通り、行列の脇をスーッと歩いて行った。誰もその男に視線を移さない。
 けっこう周囲から浮いているのになぜ誰も見ないのかな不思議だなあと周囲を見渡して視線を戻すと、ねずみ男は煙のように消えていた。 
 あれは果たしてリアルだったのだろうかそれとも自分だけに見えていたのだろうかと首をかしげながら甘酒をもらい、ガーッと飲み干してからおみくじを開く。

 一番 大吉 
 朝日かげ たださす庭の松が枝(まつがえ)に 千代よぶ鶴のこえののどけさ
「天のお助けを受けてもろもろの災いが去り、大きな喜びがあるでしょう」

 ひやっほうと飛び跳ねながら、あのねずみ男はもしかすると福の神だったのかもしれないぞと思う。いやそんなわけはない、福の神が無彩色の服を着るはずないし、汚れた紙袋なんか持つわけないし、ぶつぶつ独り言なんかも言わないだろうと否定するがそういう定番はいったい誰が決めたのだという声が聞こえてきて混乱する。
 お盆やお彼岸や年末年始など節目どきにはこちらとあちらの境界線がゆるんで変なものが道ばたにごろごろ登場するのは知っていたが、まさか初詣にも来るとは知らなかった。まあいいやねずみ男、明けましておめでとう。

 みなさんも明けましておめでとうございます。
 2013年も明るく楽しく元気にいきましょう。いいことがたくさんありますように。

2013.01.04

見世物小屋

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「親の因果が子に報い、かわいそうなはこの子でござい」の口上に釣られて東京新宿は花園神社の見世物小屋へ。毎年酉の市に小屋が建つのは知っていたが、入るのは初めてだ。
 天井桟敷を彷彿させるアングラ演劇に大道芸とサーカスとお笑いをプラスしてお化け屋敷で割ったような淫靡な雰囲気に満ち満ちた小屋の中はまさに異界、声のかすれたおばちゃんの司会進行でさまざまな出し物が次々に繰り広げられていく。
 年季の入ったお姉さんの火炎放射や大蛇さんいらっしゃいやチェーンの鼻入れ口出しと「あなたの知らない世界」がてんこ盛り、若くて美しくてわけありのお嬢さんの蛇の躍り食いに至っては完全にデビッド・リンチの世界、紫色のカルトな世界に圧倒されつつほてった頭で小屋を後にした。
 その晩布団に入ってから見世物小屋のオールスターがのそのそと境界線を這い上がって登場、頭の周囲をぐるぐるまわりながら一晩中ラインダンスを踊ってくださりああもう勘弁してぇ〜になったことは言うまでもない。

2012.12.27

 

カリスマ

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 暮れも押し迫った12月のある夜のことだ。
 ああ今年も猛烈に早かった、年をとると時間の経過が早くなるのはなぜだろうと思いながら午後9時過ぎに市ヶ谷方面から靖国通りを車で走っていると、武道館から出てきた人々が九段下に向かって大行列をなしてぞろぞろ歩いている。
 これはかなり大規模なイベントが引けたに違いない、年末チャリティイベントか何かだろうかと信号待ちのときにふと見ると、黒い革ジャンや深紅のスーツに身を固めた男たちがところどころ混じっている。そして全員が何かに憑かれたように顔を上気させ、リズミカルに歩いている。
 芸人を集めたお笑いイベントでもあったのかなと一瞬思うが、そういうくだけた雰囲気ではない。みんな背筋をまっすぐに伸ばし、威風堂々と歩いている。
 純白のスーツの男が肩をいからせて車のわきを通り過ぎる。肩に細長いバスタオルを引っかけている。
 E.YAZAWA。
 ・・・・・・そうか、永ちゃんのコンサートだったのか。
 信号が青になる。車をゆっくり走らせる。
 長蛇の列をなして歩く人々の頭上から青白い光がまっすぐ立ち上り、それが空中で合体して美しいドレープのある緞帳(どんちょう)のようなオーロラを形成しているのが見えた。

 自分は矢沢永吉というアーティストに特に傾倒しているわけではないし、好きとかきらいとかいった思い入れもまったくない。しかしその光景を見て、これは武道館の中で実にものすごいことが起こっていたのではないかと想像した。この日の動員数がたとえば1万人とするならば、彼はたった1人で会場にいた観客1万人のハートをつかみ、「元気出そうぜ!」「自信持とうぜ!」「夢をあきらめるな!」と勇気づけ、実際に力を奮い立たせたに違いない。そうでなければ、あのように美しく力強いオーロラが空一面に広がるわけがない。
 おりしもその日は総選挙前で、選挙公示の掲示板にはたくさんの候補者のポスターが貼り出され、「明るく豊かな未来をつくります」「誰もが幸せになれる社会にします」「希望のある未来をお約束します」といった言葉が空っ風(からっかぜ)にさらされていた。しかしそういう上っ面(つら)の言葉が人の心を打つことはほとんどない。
 そんなものより今みんなが必要としているのは、裏も表もなくまっすぐ心に訴えかけ、萎えた心を揺さぶって生きる力を与えてくれるものだ。

 その夜、作り笑顔や策略や絵空事の約束が横行する世界の片隅で、永ちゃんのコンサートが開催された。それはともすれば夢や希望が黒く塗りつぶされてしまいがちな今の世の中において、実に貴重なイベントだったに違いない。
 嘘がつけない「音楽」という表現を通じて、「ノープロブレム、だいじょうぶ。俺たちはまだまだいける!」と周囲に明るい光を分け与えるこの人こそ、「カリスマ」の名にふさわしいのではないかと思う。

2012.12.18

リボンの騎士

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 ドライブの途中、空腹を感じたのでファミレスへ。
 ランチタイムをかなり過ぎた中途半端な時間なのにほぼ満員なのは休日のせいか。
「このランチセットにデザートをつけてどかんといきたいと思います、ああもちろん飲み物もつけたく思います」
 オーダーしてからサラダバーへ。レタスやらトマトやらキュウリやらがそれぞれのボールにてんこ盛り、マカロニやポテトサラダもたっぷり、ああどれにしようこんなんでお腹いっぱいにしたらメインの料理入らないぞとちょびっとずつちまちま取っていると背後にものすごく大きな人間がやってきた。1畳くらいある、もしや力士なのかとパッと見ると巨男である。
 うわあでかい、縦170センチ×横150センチ×奥行き100センチくらい、しかし妙に顔の造作がデリケートな男だなとよく見ると女であった。
「太め」とか「ぽっちゃり」とか「ふっくら」などというひかえめな形容詞をバズーカ砲で木っ端みじんに吹き飛ばし、かわりに「メガ」とか「超ド級(死語)」「ひと盛り3千万円」などと行書体でつづった旗を背中の鞘(さや)にクロス刺ししてどすんどすんと地響きを立てて歩いてくる一枚岩のようなイメージ、軽く見積もっても120、130キロはいっている。
 その一枚岩が自分の真横にずがんと停止して大皿に野菜やマカロニやポテトサラダを思いっきりわしづかみ、いやもちろん箸で、ごめんなさいこれ以上盛れませんと皿が悲鳴を上げるくらい盛りまくっている。
 脂肪のつきすぎたボディの上にちょこんと乗った顔は意外にも凛としていてリボンの騎士by手塚治虫に雰囲気が似ている。美しいアーチを描いた眉はキリッと濃く、大きな黒目はほんの少し愁(うれ)いをたたえている。20代後半と思われる。
 標準体重2倍越えの肥満体はたいていメンタルで何かしら問題を抱えている、お嬢さんあんた大きな不安か不満を抱えているね、その体重をせめて2分の1落とせば申し分のない美人になるし身も心も軽くなり人生が今より楽しくなるはず、いったい何があんたをそうさせたと心の中でよけいなお世話を焼く。

「お待たせしましたー」
 テーブルの上においしそうなハンバーグが運ばれてくる。ナイフで切れ目を入れると熱い肉汁がジュワッと飛び出す。すかさず口に運ぶ。
 んんん、んまい。
 巨体のリボンの騎士が両手に山盛りのサラダを携え、ゆっさゆっさと私のテーブルの脇を通り過ぎ、斜め前方の、白髪交じりの女性が座るテーブルに皿を置き、その対面にドカッと座った。そうか、母娘なのだな。
 母親は自分に背を向けているので顔は見えないが、寂しく折れ曲がった背中が「わたしはけっこう苦労してるンです」と無言で語っている。
 母親も娘も無言で黙々と料理を口に運んでいる。母親は食器に顔を向けっぱなし、娘は無表情で箸を上下するのみ。
 せっかくの休日の午後なのだから「今日は寒いねお母さん」「何言ってんだよお前、立冬過ぎたんだから当たり前だろ」くらいのフレンドリーな会話があってもいいのではないかと思ったがいやこの母娘はこの状態がデフォ(=デフォルト、「普通」とか「通常の状態」の意)なのだろうと思い直す。
 注文したハンバーグは予想外にボリューミーで食べても食べてもなくならない、まるで魔法のハンバーグだ。これ最後まで食べたら腹のふくれたカエルのようになる、もったいないがもうここでやめておこうと箸を置く。
 リボンの騎士がおもむろに立ち上がり、空の皿を携えてゆっさゆっさと自分の脇を通り過ぎていく。あの山のような野菜とマカロニとポテサラをもう平らげたのか。
 あそこに座っている母親は自分の娘があそこまでふくらんでしまったことをどう思っているのだろう? 
「たぶん何とも思っていない」という答えを直感的に得て暗い気持ちになる。

 娘の体重が標準枠を大幅に飛び越えて巨大化するもしくはガリガリにやせ細るのは母親の影響が大きい。過食や拒食は自分を支配する存在に対しての逃避や拒否を意味する。これは10代、20代に限らず母娘関係が改善しない限りいくつになっても続く。
 やさしくて繊細で小心なあまり「いやだ」と面と向かって言えない娘はやがてその気持ちが自分自身の身体に向かい、過剰に食べることもしくは極端に食べないことで現実逃避&現実拒否するようになる。
 日々の食事は生に直結しているので、それを放置するとやがて生命そのものが危険にさらされる。しかし母娘関係のゆがみが第三者に知られる機会はあまりないし、母親はもとより、当事者である娘本人もストレスの原因に気付いていないことが多い。

 ハンバーグの残った皿を下げてもらうと、ロールケーキが運ばれてきた。サラダバーに隣接するドリンクバーに行き、カプチーノをカップに注ぎ入れた。リボンの騎士が空の皿を引っさげてまたゆっさゆっさとこちらに向かってくる。 
 目を覚ませリボンの騎士、あんたはたぶんそれおいしいと思って食べてないしその行為にはきりがない、そんなものいくら食べても悩みは解決しないよ。
 湯気の立つカップにシナモンを振り入れる。
 逃げろ全速力で逃げろリボンの騎士、クモの巣が張り巡らされたその暗い城から一刻も早く逃げ出して、心から安心できる場所を見つけて本当の姿に戻れ。
 このカプチーノの香りが高い塔から垂らされたラプンツェルの長い髪となりますようにと願いながらテレパシーを送るがそんなもの通じるわけがない、リボンの騎士は重たい皿を両手に携えてゆっさゆっさとあきらめたような足取りで魔女の待つ城へ向かっていく。

2012.11.21